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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
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ショートショート

叶わなくてよかった恋の話

作者: 美輪ゆう夏

新しい恋を始めると「これは人生において特筆すべき初恋に違いない」と思い込むフシがある。そんなわたしが「間違いなく、人生において特筆すべき初恋 」をしたのは、高校2年生の5月のことだ。


2010年春。わたしはスポーツ強豪校のサッカー部に所属していた。

肌は一年中浅黒く日焼けし、髪は巷の男子生徒より短く、スカートから覗くふくらはぎは、まるでダチョウのタマゴをつけたかのように筋肉隆々。そんな可愛げのない女子高生だった。


5時限目の授業が終りが、一日の始まり。

教師の声を子守唄に、机を簡易式ベッドに、呆れるほど寝てスッキリした身体で部活動へ向かう。埃っぽい土グラウンドを駆け回り、泥だらけになりながらボールを追いかける。

陽が長くなる5月は、17時から19時までが部活動の時間。部員達は19時過ぎに泥まみれのアスリートから“JK”に変身し、帰路についていた。


世間の妄想する所謂“JK”など夢物語なもので、女子高とは真実、汚いものである。

部室にはいつでも汗臭いタオルや誰のものか分からなくなった制汗剤、飲みかけのまま放置されたポカリやら、先週の試合のスコア表やらが散乱していた。


潔癖症なわたしはそんなゴミ屋敷で着替えることに耐えられず、図書室のある棟(西棟、と呼ばれていた)の、誰が作ったのか誰も知らない『サモトラケのニケ』のレプリカが置かれた大理石のエントランスで着替えをしていた。わたしが「間違いなく、人生において特筆すべき初恋 」に落ちた、その日も。


「ここ、6時過ぎは学生進入禁止なんだけど。」


やばい、見つかった。

内申点に響いたら、マズい。

どうしよう。


怠惰なわたしは指定校推薦での大学進学を狙っていた。いかなる理由があろうと内申点のマイナスは許されず、常日頃から「勉強はそれほどでもないが、部活を頑張る真面目な学生」に擬態していた。その擬態がついに破られるやも。溢れ出る冷や汗を握りながら、恐る恐る振り返る。


振り返った先に在った光景は、今でも鮮明に記憶している。


振り返ったそこには、ゆるやかにカールしたボブカットが小さい顎によく似合う、身長170㎝を超えるスラリとした美しい人が、腕を組んで立っていた。切れ長の大きい二重の目が、わたしを真っ直ぐ見下ろしていた。


「ここで何してんの。あなた、名前と学年は?」

――2年の、ユウカです。

「サッカー部だよね。顧問には黙っててあげるから、早く帰りな。」


夕陽の陰に溶けそうな、ふわりと巻いた黒髪。なぜかそこから目が離せなせなかった。


後日、先生はその年の4月に赴任してきた司書だということ、身長は171cmということ、体を表す美しい名前であることを知って、わたしはすっかり先生に夢中になってしまった。


しかし、図書館司書と不勉強な学生である。

学校内での接点など当然なく、私ができたことと言えば『サモトラケのニケ』(のニセモノ)が鎮座する西棟の向かいの東棟、図書館の真向かいにある英語科教室に「自習」を言い訳に入り浸り、時々窓から見える先生の横顔に惚れ惚れとするくらいであった。


そんなわたしを見た同級生たちは、私が英語科教師に恋をしたと好き勝手噂し、噂は瞬く間に広まった。

そのあまりの下らなさに呆れた。呆れたが、万が一、図書館にまで噂が届いたらどうしよう!と勝手に危惧し、 当時学生達の間で韓流スターばりの人気を誇っていた生物科教師のファンのフリをした。

いつか、もし、職員室ですれ違えたら、「生物の先生のファンなの?」なんて話しかけてもらえるんじゃないかと、ほんのりと期待しながら。

そんな期待も空しく、先生とはまともに話す機会もないまま、季節は冬になってしまった。


そして2011年の3月。災害が故郷を襲った。

その瞬間わたしは学校にいて、生まれ育った故郷が泥の波に呑まれていく様を職員室のテレビで見ていた。


安全な都会の安全な職員室で。

空から映される地獄を見ていた。

まるで、下界を眺める神にでもなったかのような気分だったことを、よく覚えすぎている。


その日は都心も交通網が完全に停止してしまい、学校に残っていた学生の半数以上が自宅に帰れなかった。


取り残された誰しもが、わたしを優しく扱った。

「きっとご家族は大丈夫だよ」だとか、「お前が落ち込んでもどうしようもないだろう」だとか、そんなことを私に言って聞かせた。恐らくあの時わたしには『取扱注意』の看板でも下げられていたのだろう。

学校宿泊に沸き立ち、初めて見るカンパンと自撮りするバカどもを傍目に、わたしは一晩中、ただ椅子に座っていた。

ただ椅子に座っている間も「きっとご家族は大丈夫だよ」だとか、「お前が落ち込んでもどうしようもないだろう」だとか、そんなことを言って聞かせるバカは耐えなかった。そんなバカどもに疲れ果て、いよいよ涙が溢れてきた頃、先生がやって来た。「あの時のサッカー部の子だよね。寒くない?」そう言って、薄い紫色の毛布を手渡してくれた。


その日について覚えているのは、これがすべてである。そしてこれが、制服を着ている間に先生と交わした最後の言葉であった。


受験という大イベントを経て月日は目まぐるしく過ぎ去り、わたしはあっという間に卒業生になってしまった。先生に想いを伝えようとすらできないまま、制服を脱ぐ日がやってきてしまったのだ。


卒業式後のパーティー会場では、制服を脱ぎドレスに着替えた“OG”達が、制服を着ていた間は頑なに隠そうとしてきた――教員の前で表に出すことは、すなわち死を意味するといっても過言ではなかった――携帯電話で写真を撮ったり、連絡先を交換したりしていた。

これを逃したら、もう二度と先生とは会えないかもしれない。そう思い、先生の連絡先を聞くことを決意し立ち上がる。職員室ですれ違えても挨拶すらできなかったけれど、「最後に一緒に写真でも」という理由さえあれば、会話ができる気がした。

多すぎる参加者の渦から先生を見つけるのは簡単だった。高い身長によく似合う、緑色の着物を着ていたから。


わたしは手に汗を握りながら、先生に向かって正面から近付く。先生はそんなわたしに気づいて、優しく微笑んでくれた。


「サッカー部の、ユウカさんだよね。卒業おめでとう。大学はどこに決まったの?」

――ありがとうございます、大学は、


フェリス女学院大学です、と言おうした瞬間、先生の左手の薬指に、それまでにはなかった光る銀色を見つけた。


――先生、ご結婚なさったんですか。

「あ!気付いた?実はそうなの!」


おめでとうございます、の一言がどうしても言えなくて、記念写真も撮れないまま、わたしの高校生活は終わってしまった。


明らかな失恋を経験しても涙は流れなかった。先生の結婚相手があの生物科教師と知った時も、不思議と悲しくはなかった。二度と会うことはない。そう確信していたからだ。


しかし、運命とは不思議なもので、それから4年後、わたしと先生は再会した。


初夏の昼下がり。喪服のような漆黒のスーツにくるまれて、横浜駅京浜東北線のホームで下り列車「通勤快速・大船行き」を待っていた時のことである。不意に背後から声をかけられた。


「あの、すみません、」


制服を纏っていた頃、聞きたくて聞きたくて仕方がなかった声が聞こえたのだ。振り返ったそこには、ゆるやかにカールしたボブカットが小さい顎によく似合う、身長170㎝を超えるお腹の大きな女性が、やさしい笑顔で佇んでいた。切れ長の大きい二重の目が、真っ直ぐわたしを見ていた。左手の薬指には、やっぱり銀色の指輪が嵌めてあった。


――先生。お久しぶりです。びっくりしました。

「こっちこそびっくりだよ!こんなところで会えるなんて。就活中なの?」

――そうなんです。先生は相変わらずお綺麗ですね。

「あはは、ありがと。…ユウカちゃん、髪の毛伸びたねえ。ロングもとっても可愛いよ。」

――ありがとうございます。先生、いつご出産ですか?

「9月の予定なんだ。」

――あら!もうすぐですね。おめでとうございます。


制服を着ていた最後の日、どうしても言えなかった一言が、あまりにもあっさり口から飛び出したことに驚いた。


「また会えてよかったよ。こんなところで会えるとは。元気でがんばるんだよ。」

――はい。先生も。

「うん、またね。」

――はい。

さようなら。


先生は、上り列車「各駅停車・蒲田行き」電車に乗って行った。先生の後姿を見送ったわたしは、遅れて到着した下り列車に乗り込んで、制服を着ながら通ったのと同じ道を眺めていた。


きっと、先生とは、 頑張っても、どう頑張っても、同じ電車には乗れなかっただろう。それでよかったのだ。きっと。きっと。


窓の外の、変わらない景色。

トンネルに入ったガラスに映る、大人になった顔。

叶わなくてよかった初恋を想い、少し泣いた。

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