水野姉妹の思惑
夜の帳の中で、水野鳴海の運転する車は滑るように走り出した。後部座席で向かい合う舞子と栞は、先ほど明かされた衝撃の事実に、まだ心の整理がつかないでいた。
「叔母様…」
栞が小さく呟いた。その声には、驚きと戸惑いが入り混じっている。舞子もまた、信じられない思いで窓の外を眺めていた。これまで全く知らなかった親族の存在。それが今、目の前にいる二人の姉妹だという。
「ええ」
運転席の鳴海が、バックミラー越しに二人を見つめて言った。「詳しいことは、これからゆっくりとご説明します。ただ、あなたたちに会えたことを、本当に嬉しく思っているんです」
助手席の奈緒は、柔らかな微笑みを湛えている。その奥には、ごくわずかな陰りが潜んでいるが、舞子の鋭い知覚をもってしても、それを明確に捉えることはできなかった。奈緒は過去の重い出来事を誰にも語らず、その痛みをひっそりと抱え続けている。微弱ながら、未来を垣間見る力、そして人の心の機微を敏感に感じ取る力を持つ彼女は、他者の感情の奔流に時に深く共鳴し、苦しむこともあった。特に、あの貞子の、深く悲しい怨念の残滓には、どこか拭いきれない共感を覚えていた。しかし、その内奥の感情は巧妙に隠され、普段の穏やかな物腰からは微塵も感じさせない。それは、舞子の心を読もうとするかすかな探りのような視線すら、静かに受け流すほど洗練された術だった。
「私たちも、ずっとあなたたちのことを探していました。羽田の血を引く、特別な力を持つあなたたちを」
舞子は、奈緒の言葉にわずかに眉をひそめた。「特別な力、ですか?」
「ええ」
鳴海は頷いた。「あなたたちには、常人には見えないものが見え、感じられないものが感じられる力があるのでしょう?先ほど、サービスエリアで何かを感じ取られたのではありませんか?」
舞子の心臓が、一瞬跳ね上がった。まさか、あの抜け殻のことを知っているのか?
「それは…」
舞子が言葉を探していると、奈緒が静かに口を開いた。「私たちも、同じような力を持っているんです。そして、その力を持つ者として、あなたたちにどうしても伝えなければならないことがある」
車の速度が緩やかになり、やがて人気のない場所に停車した。エンジンが切られ、車内は静寂に包まれる。外の虫の声だけが、微かに聞こえてくる。
「実を言うと…」
鳴海は真剣な表情で、舞子と栞に向き直った。「私たちがあなたたちを探していたのは、あなたたちのその力が必要だからなんです」
栞は警戒するように身を乗り出した。「私たちの力が必要?一体何のために?」
「あなたも、先ほど感じたでしょう?」
奈緒は、舞子の方を見つめ、柔らかな声で問いかけた。その瞳の奥底には、かすかな憂いが宿っているようにも見えたが、すぐに穏やかな光に覆い隠された。「あの、悲しい記憶だけを残した抜け殻のような存在を」
舞子は息を呑んだ。やはり、あの存在を知っているのだ。
「あれは…貞子の抜け殻です」
鳴海の言葉に、舞子と栞は目を見開いた。あの忌まわしい呪いの根源。それが、抜け殻となってこの地に残っているというのか。奈緒は、その名を聞いた瞬間、胸の奥に微かな痛みを覚えた。あの抜け殻に残る、深く孤独な感情。それは、彼女自身の過去の痛みにどこか共鳴するものがあった。
「貞子の…抜け殻?」
栞の声が震えた。
「ええ」
奈緒は静かに頷いた。「彼女の強烈な怨念と、恐ろしい力の一部が、抜け殻となってこの世に留まっている。そして、その力は今もなお、この地に影響を与え続けているのです」
「そんなものが、まだ…」
舞子は信じられない思いで呟いた。あの悪夢のような出来事は、終わったはずではなかったのか。
「私たちは、その抜け殻の力を利用したいと考えています」
鳴海の言葉に、舞子と栞は愕然とした。「利用する、と?」
「ええ」
鳴海は真剣な眼差しで続けた。「あの抜け殻には、強大な力が宿っています。その力を制御し、利用することができれば、この地に蔓延る負の連鎖を断ち切ることができるかもしれない」
奈緒は、鳴海の言葉に静かに同意した。しかし、彼女の心の中には、別の思惑も渦巻いていた。貞子の力に触れることで、何か自身の過去と向き合い、解放されるきっかけになるのではないかという、微かな期待。それは、誰にも悟られることのない、彼女だけの秘密だった。
「でも…そんな危険なものを、どうやって…」
栞は不安げに声を上げた。貞子の呪いの恐ろしさは、語り継がれるほどに深く人々の心に刻まれている。その抜け殻を利用するなど、考えられないことだった。
「そこで、あなたたちの力が必要なのです」
奈緒は、舞子をまっすぐに見つめた。「あなたたちの羽田の血には、特別な力が宿っている。常人には感じられないものを感じ、見えないものを見る力。そして、おそらく…その抜け殻に干渉する力も」
舞子は、自分の中に流れる羽田の血について考えた。幼い頃から、時折感じる不思議な感覚。それは、この血脈によるものだったのか。
「私たちは、あなたたちのその力を使って、貞子の抜け殻を安全に制御し、その力を利用したいのです」
鳴海の言葉は、舞子と栞にとって、あまりにも突飛な提案だった。危険な呪いの残滓を利用する。そんなことが本当に可能なのだろうか。奈緒は、舞子の内心をそっと探ろうとしたが、その思考は完全に守られているように感じた。
「それが、あなたたちに会いたかった理由です」
奈緒は、姉妹の不安そうな表情を優しく見つめた。「もちろん、危険なことを強いるつもりはありません。全てを理解していただいた上で、私たちと共に力を貸してほしいのです」
沈黙が車内を支配する。舞子と栞は、互いに顔を見合わせた。予期せぬ親族の出現。そして、貞子の抜け殻を利用するという驚くべき計画。二人の心は、戸惑いと、そしてかすかな興味に揺れていた。奈緒は、二人の心の奥底にある感情を、じっと見つめていた。
「私たちに、何ができるというのですか?」
舞子は、意を決して問いかけた。彼女の瞳には、先ほどサービスエリアで感じた、あの悲しい記憶の残滓が焼き付いている。もし、自分たちの力が、その悲しみを終わらせることに繋がるのなら――。
水野姉妹は、舞子の問いに静かに頷いた。これから語られるであろう計画の詳細が、羽田姉妹の運命を大きく左右することになるだろう。それぞれの思惑が、誰にも知られることなく交錯する夜の中で、新たな物語が静かに幕を開けようとしていた。奈緒の抱える暗い過去と、貞子の力への共感が、この計画にどのような影を落とすのか、まだ誰も知る由はなかった。