その後の出来事
次の朝、私はハンバード邸を後にした。
辞表を出したリアムとエミリーも一緒だ。
一度目と同じように今年の冬の寒さは厳しく、夏の間に買い集めておいた薪やろうそく、厚手の衣服や布団は高値で売れ、私はその代金で住居付きの小さな店舗を購入した。
そして半年後、その店は開店した。
販売するのは、ロバートの植物店で仕入れた材料を使って私が作った、美容や健康に特化した商品。
配ったサンプルを使って効果を実感したという人が来店してくれたり、友達を大勢引き連れてきたシンシアが宣伝してくれたおかげで、開店してから半年経った今も経営は順調だ。
エミリーは売り子として、リアムは経理を担当して店を支えてくれている。おかげで私は、商品の生産に専念できているのだ。
リアムが集めた情報によれば、ハンバード家の内情は火の車だそうだ。
それもそのはずだ。
最後の数ヶ月は、ジェラルドとセーラが買い漁る贅沢品や、二人が夜会や茶会を開くために使った掛かりのすべてをツケにしておいたのだ。
それに加えて、その期間に領地から上がってきた地税とそれまでの蓄えを、それぞれの領地の領地管理人に振り分けておいた。ハンバード領から出ていくことを望む領民に支度金として渡すようにと。
つまり、ハンバード侯爵家は一文無し。それどころか借金を抱えることになったのだ。
借金はたいした額ではないが、人に仕事を押しつけて遊び暮らしていたジェラルドに返済は難しいだろう。
そして、領地から出ていく領民が増えれば収入は減る。
ハンバード家が立ち行かなくなるのは時間の問題だ。
晩餐会の日ハンバード家で起きた醜聞は、エミリーが噂を流してくれたおかげで王都中に広まった。
以前は一部の令嬢や夫人しか知らなかったセーラの三股は、今では貴族どころか、商店街のパン屋のおかみさんや下働きの少年ですら知っている。
リッカルドは家の恥だと廃嫡になり、歴史ある由緒正しき家門という看板を失ったセルギーヌ家には借金だけが残った。
そして、三股騒動と一緒に経営不振であることが知れ渡ったベネット商会は、取引先から次々にそっぽを向かれ、いよいよ首が回らなくなったようだ。
それから……。
ジェラルドと離縁したセーラは、事の顛末を知った両親から勘当され、修道院で子供を産んだ。
その子供は、少しクセのある金色の髪にアメジストのような紫眼を持った、世にも愛らしい男の子だったそうだ。
セーラが余計な小細工などしなければ、今頃その愛らしい子は、ハンバード家の嫡男としてその誕生を祝福されていただろう。
私がハンバード邸を出て三年が経った頃、ある事件が王都中を騒がせた。
ジェラルドが殺傷事件を起こしたのだ。
ハンバード家の借金を返済するために他から借金をし、またその借金を返すために別のところから借金をする。
そんなことを繰り返し借金の額が膨れ上がったジェラルドは、とうとう闇金から金を借り、金貸しの男と返済について揉めた末、カッとなって男が脅しのために所持していた短剣で男を斬りつけたのだ。
不幸にもその金貸しは亡くなり、ジェラルドは裁判の末牢屋行きになった。
その裁判を通じて、ジェラルドの浅慮で短気な性格は露見し、見目麗しい社交界の紳士の名は地に落ちたのだった。
そして、国王はハンバード侯爵家の取り潰しを決め、その名前は貴族名鑑から永久に消えることになった。
心を入れ替えたジェラルドが地道に借金を返し、領地管理人と協力し領地民のために尽くす。
ハンバード家は再び盛り返し、ジェラルドは修道院で生まれた我が子を迎えに行く。
そんな未来が来ることに僅かばかりの期待を寄せていた私は、ジェラルドの殺傷事件の一報を聞いた時、それが未来永劫叶わない夢なのだと知った。
そして、ある決意を固めたのだ。
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「ただいま、お母さん!」
少しクセのある金色の髪を揺らし、宝石のような紫眼を瞬かせながら、小さな男の子がドアを開ける。
それは四年前に開店した、美容や健康に効果のある品物を売る人気店だ。
店主は背の高いスラッとした女性で、化粧っ気はないが、艷やかな髪と透き通るような肌が美しいと近所では評判だった。
「おかえりなさい、マシュー」
店主が男の子を抱きとめる。
4歳の男の子の体は、店主の腕の中にすっぽりと包まれた。
男の子は店主をお母さんと呼ぶが、二人の間に血の繋がりはない。
店主が孤児院から男の子を引き取ったのは、男の子が3歳になったばかりの寒い冬のことだった。
そして、まだ幼かった男の子はそのことを覚えていない。
店主の顔をじっと見つめた男の子が、無邪気で可愛らしい声を上げる。
「お母さん、僕ね、思い出したの」
「何を思い出したのかしら?」
「僕ね、暗いところにいたの。それでお母さんの声を聞いたんだ。その時に思ったの。僕、お母さんの子供になりたいって。だから、神様にお願いしたんだ。お母さんを、僕のお母さんを助けてって」
驚いたように目を見開いた店主は、男の子の柔らかそうな薔薇色の頬を両手で包んだ。
「あの時聞いた声! あの声は、マシュー、あなたの声だったの?」
「そうだよ。お母さん!」
「あなただったのね! 私の救世主は……!」
店主の若草色の瞳から涙がこぼれ落ち、男の子がその涙を拭う。
それから店主は、男の子を優しく抱きしめた。
この世界で最上の、宝物のように。