エルザ、勇気を出す
シングルベッドと小さなチェスト、ドレッサー。二人掛け用の丸テーブルに椅子は一脚。
8ヶ月間暮らしていた、私に与えられた小さな部屋。
この部屋で、私は殺されたのだ。
あの時、ドレッサーの引き出しから出てきた小瓶は、全く身に覚えのないものだった。
あの医者に見覚えはないし、あれが本当に胎児を殺害するための毒薬だったのか、今では確かめようもない。
一つだけ確実なのは、私に濡れ衣を着せ、ジェラルドが私を殺すよう仕組んだ犯人がいるということだ。
恐らく、この屋敷の中に。
一番可能性が高いのはセーラだが、ジェラルドに斬りつけられ、薄れていく意識の中で最後に見たセーラは、心底驚いたように目を見開き、その顔は血の気を失い蒼白になっていた。
それに、私はジェラルドとセーラの邪魔をせずに、執務室で黙々と書類と向き合っていたのだ。セーラにとって私は脅威ではないし、むしろ私がいなくなって困るのはセーラの方だろう。
そして、それはジェラルドも同じだ。私がいなくなれば、仕事を押し付ける相手がいなくなるのだから。
衝動的に私を斬りつけることはあっても、計画的に私を排除しようとする可能性は極めて低い。
(それなら、一体誰が……)
犯人がわからない以上、この屋敷にいるのは危険だ。
小瓶を部屋に隠されないよう常に見張っていることなどできないし、そんなことをすれば、犯人は別の方法で私に濡れ衣を着せるだろう。
つまり、私にできることは一つだけ。
(うん。逃げよう)
こんな時は逃げるが勝ちだ。
実家は困窮していてメイドはいなかったから、身の回りのことは一人でできるし、市井で生きていくための最低限の知識はある。
だけど、今すぐハンバード邸から出ていくことはできない。
お金がないからだ。
悲しいかな、私は一文無しだったのだ。
今から1ヶ月もすれば、ジェラルドは自分がやるべきハンバード家の執務を私に押し付けるようになり、3ヶ月後にはその全てを丸投げしてくる。
それならば、その状況を利用してやればいい。
ジェラルドが仕事をしなくなれば、ハンバード家の資金の流れを把握しているのは私だけになるのだから。
そして、一度目の記憶がある私は、この先何が起きるかを知っている。
例えば、今年の冬の寒さは例年より厳しい。
その為、薪やろうそく、布団や厚手の衣服、冬の寒さを凌ぐのに欠かせない防寒具の値が高騰する。
夏の間に安く大量に買い入れ、価格が高騰してから高値で売ればかなりの儲けが出るだろう。
他にも、何の値が上がり何の値が下がるのかを私は知っている。その情報を使って得た資金で、冬支度の品物を買い集めればいいのだ。
(あの事件が起きたのは、年が明けて二週間ばかり過ぎた頃だった。年末までに防寒具を売り切って、その売上金を持ってここから逃げよう。リアムとエミリーは年末から年始まで休暇を取るし、ジェラルドとセーラはパーティー三昧で殆ど屋敷にいない。私がいなくなったことに誰も気づきはしないわ)
私はハンバード家の資金を横領したことになるのだろうが、私がこれから稼ぐ金は、一度目の情報を利用して得る、一度目では稼ぐことができなかった金だ。
つまり、本来ハンバード家が得るはずだった利益ではないということ。それを持ち出したところで、咎められる筋合いはないだろう。
それに、ずっと僅かな品位維持費だけで働いてきたのだ。実家への援助にしても、今思えばたいした金額ではない。
それを有難がって、巻き戻る前は馬車馬のように働いたのだ。一度目で働いた分とこれから働く分、その労働に対する対価だと思えば安いくらいだろう。
(決めたわ! 私、お金を稼いでここからトンズラしてやる!)
こうして、私の密かな計画は始まった。
それから一週間が過ぎた。
一度目と同じように、一日の大半を執務室で書類と向き合って過ごしていると、補佐役のリアムが大量の書類を抱えて部屋に入ってくる。
その山のような書類は、本来はジェラルドがやるべきハンバード家の当主の仕事。一度目では、これが運ばれてくるのはもう少し先のことだった。
私の仕事のペースが一度目より速いので、ジェラルドがこれ幸いと押しつけてきたのだろう。
仕事のペースが速いのは当然だ。一度目でやったことをなぞればいいだけなのだから。
(予定より早くジェラルドの仕事が回ってくれば、その分計画が早く進められる。私的には願ったり叶ったりだけど……)
机に積まれた書類を見ていたら、何だか無性に腹がたってきた。
当たり前のように仕事を押し付けてくるジェラルドにも、さも当然という態度で書類を運んでくるリアムにも。
広大な領地を有するハンバード家は、その地税で成り立っている。
領地にはそれぞれ領地管理人がおり、当主は上げられてくる書類を精査して適切な指示を出し、石高や修繕の記録をまとめて王室への報告書を作成する。
屋敷の使用人に関することや食材や備品の管理、その帳簿付けは女主人の仕事だが、雇っている騎士の待遇に関することや給与の支払い、馬と馬車の管理、ハンバード邸が建つ土地に関することは当主の仕事だ。
それから、夜会や茶会を開けばその掛かりを一つ一つ確認し、支払いをしなければならない。
その全てが、私のやるべき仕事になるのだ。
補佐役のリアムは、一度目でもただ黙々と書類を運んできた。
私から受け取った書類に不備がないか確認し、また新しい書類を運んでくる。それが彼の役割なのだ。
私達の間には事務的な会話しかなく、リアムはいつも、机越しに冷めた目で私を見下ろしていた。
この屋敷の主から相手にされない側室を、仕事をするしか能がないと見下していたのかもしれない。
闇のような黒髪と黒曜石のように光る瞳が、彼の冷たさを一層際立たせているように見えた。
そして、それは二度目の今も変わらない。
ふと、あの日のことを思い出した。
側室にはなりませんと宣言した日のことを。
(あの時は気分が良かったな。生まれて初めて、言いたいことをはっきり言えたんだから)
生家では、女が意見を持つなど生意気だと教えられていたし、ジェラルドは私の話をろくに聞こうとはしなかったので、私はいつも言いたいこと飲み込んでいたのだ。
(そうよ。これからは言いたいことを言おう。例え結果が変わらなくても、私の気持ちの有り様が全く違うもの。そうね、まずは……)
無表情で書類を並べているリアムに声をかける。
「これって、本来は旦那様がやるべき仕事よね? 私の仕事ではないんじゃないかしら?」
それが何だという顔をされて終いだろうが、結局は私がやることになるのだから、嫌味の一つくらい言っても許されるだろう。
ところが、驚いたように目を見開いたリアムは、
「確認してまいります」
と言うと、慌てた様子で部屋から出でいってしまった。
「ちょ、ちょっと待って!」
こちらも慌てて呼び止めたものの、時すでに遅し。
(どうしよう……。ちょっとした嫌味のつもりだったのに)
それから20分ほどして、息を切らしたリアムが帰ってくる。リアムは呼吸を整えた後、申し訳なさそうな顔をしてこう話した。
「旦那様にお伝えしたのですが……。自分は妊娠中の妻を労らなければならない。それくらい察して瑣末な書類仕事くらい引き受けろと……」
「そう。わかったわ」
努めて冷静に答えたものの、私の心臓は口から飛び出しそうな勢いでバクバクしていた。
(あっ、危なかったわ! 計画が丸潰れになるところだった!)
私の意見が通って、今後ハンバード家の執務を任せてもらえないなんてことになっていたら、計画がご破産になるところだったのだ。
(それにしても……。私の意見なんて一蹴されて終わりだと思っていたのに、まさかジェラルドに確認しに行ってくれるなんて。見下されている、冷めた目で見られているなんていうのは私の思い込みだったのかしら? それなら、もしかしてエミリーも……)
ストロベリーブロンドのふわふわの髪と栗色の瞳をした、可愛らしいメイドのエミリー。
リアムもエミリーも私とさほど歳が変わらないように見えたが、リアム同様、エミリーともこれまで事務的な会話以外交わしたことがなかった。
だけど……。
(エルザ、言いたいことを我慢しないと決めたばかりじゃない!)
思いきって、二人に声をかけてみる。
「あの……。休憩しようと思うのだけれど、一緒にお茶でもどうかしら?」
驚いたように顔を見合わせた二人は、こちらに向き直ると柔らかな笑みを零してこう答えた。
「はい!」
「そうしましょう。エルザ様」
この日から、私達はティータイムを共にするようになったのだった。