人はそれを初恋と呼ぶ
その二通の手紙を受け取ったのは、一年にも及ぶ最前線での演習を終えて駐屯地に帰還した時のことだった。
差出人はどちらもハンバード家の弁護士で、一通は兄のジェラルドが殺傷事件を起こしたという報せ、もう一通は、兄の裁判が終わり、ハンバード家のお取り潰しが決まったという報せだった。
(何でこんなことに……)
取り急ぎ長期休暇を申請した俺は、王都にあるハンバード邸に向かった。
ハンバード邸はガランとしていて、使用人の姿はない。
装飾品や家財道具は全て借金の形になり、使用人は出ていったのだろう。
真っ直ぐに執務室に向かうと、中にいたのは手紙の差出人である弁護士、ロバート・スチュアートだった。
「スチュアートさん、大変申し訳ないことをした」
それは、ハンバード邸に戻るのが今になってしまったことへの謝罪だった。
本来なら、兄が事件を起こした時点で帰ってくるべきだったのに、前線にいたために報せを受け取るのが遅れてしまったのだ。
スチュアートは椅子に座るよう促すと、小さな溜め息をつく。
「アストリド様は、この国の全ての民のために国境を守っておられるのです。どうして責められましょうか」
それは彼流の嫌味だったが、聞き流すことにした。
スチュアートの姿を見るのは数年ぶりだが、随分とやつれて見える。没落した家門の後処理を一人で行っていたのだ。嫌みの一つくらい言いたくなるだろう。
そう。俺が戻ってきたのは、取り潰しになったハンバード家の後処理のため。要は敗戦処理だ。憂鬱でしかない。
「それにしても、何で借金なんか……」
スチュアートが手渡してきた書類に、その借金についての詳細が書かれていた。
借金を返すために別の所から借金をする。それを繰り返したために借金は膨れ上がっていったが、元を辿れば、兄とその妻が購入した贅沢品と、夜会や茶会を開いた掛りの数ヶ月分のツケだったのだ。
安くはないが、ハンバード家の資産があれば支払えない額ではないし、例え資産から返済できなくても、真面目に領地経営をしていれば数ヶ月で返せる額だ。
それを兄のジェラルドは、安易に借金を繰り返して自転車操業状態に陥り、あげくに借金取りを斬りつけて殺してしまったのだ。
スチュアートの手紙でそれを知った時、俺には驚きはなかった。紳士の皮を被りながらも、カッとなれば理性を失くして平気で人を傷つける。父のその気質を誰より受け継いでいたのが、兄のジェラルドだったから。
子供の頃から、何度命の危機に晒されたかわからない。
そんな父と兄から逃れるために、騎士団に入れる年齢になるのを待って家を飛び出したのだ。
「家財道具と馬や馬車、この屋敷と土地を売った額で、借金を返済し使用人たちに給与を支払いましょう」
「それがいいですね。その辺はスチュアートさんに任せますよ」
あっさり了承する俺に、スチュアートが複雑な表情をしてみせる。
「あなたがもう少し早く王都へ戻ってきていれば、ハンバード家は取り潰しを免れたかもしれません」
その言葉を聞いても、心は凪のように動かない。
この家が嫌で、父と兄から逃れたくて、ここから逃げ出したのだ。今さらハンバード家の名前に未練などない。
「いや、しかし……」
スチュアートは、自分の言葉を自分で否定するように呟いた。
「ハンバード家の名前は地に落ちてしまいましたから、これで良かったのかもしれませんね」
「それは、兄の事件の影響で?」
兄のことだ。裁判で碌でもない姿を晒したに違いない。
「それもありますし、三股騒動のこともありますからね」
「さっ、三股騒動?」
素っ頓狂な声を上げる俺に、スチュアートは流石に気まずいという顔をしながらも、王都を賑わせたという三股騒動の話を教えてくれた。
兄の結婚した相手が、長らく婚約者だったエルザ・ヴィリオンではなく、セーラ・ブルーノという三股女だったことを、俺はその時初めて知ったのだ。
(そういえば、結婚式の招待状が届いていたな。新婦の名前は、確かにエルザ・ヴィリオンだったはずだが……)
招待状はすぐに破り捨てたので、今となっては確認のしようもない。
(それに……。考えてみれば、エルザ・ヴィリオンが装飾品をツケで買い漁るような真似をするはずがない)
つまり、兄は三股するような女を正室にし、その正室と贅沢に遊び暮らし、借金を作り、その借金のせいで人を殺めたのだ。
潔いほどの自業自得。笑うしかない。
居た堪れなくなったのか、スチュアートがこんなことを言う。
「もうこの話はやめにしましょう。それより領地の件ですが、隣接する領地を持つザルツ伯爵に引き受けて貰うのが妥当ではないかと」
「ああ、それはいい考えですね。ザルツ伯爵は人格者だと聞いていますから。ただ……。急に領主が代わるとなれば、民は不安になるでしょう。ハンバード家の至らなさのせいで、領民には申し訳ないことをしてしまいました」
「それは心配いりません。多くの領民が、当主が代わることを喜んでいるそうですから」
「はっ?」
「何しろジェラルド様は、全く領地を顧みず、本来領地に還元されるべき地税で遊び暮らしていましたからね。そんなハンバード家を見限り、領地から出て行った小作人も多いのです」
「そんな! 代々受け継いだ土地を捨てて領地を出ていけば、小作人の暮らしは立ち行かないではないか!」
「それは、十分な支度金を支払っていますから問題はないかと」
「支度金? 兄がそんなことを?」
「いいえ、エルザ様です」
「エルザ様? なぜエルザ・ヴィリオンの名前が出てくるのだ?」
「それは、側室になったエルザ様が、ハンバード家の執務の一切を担っていたからです」
「側室? 執務の一切を担っていた?」
「はい。エルザ様は非常に優秀で、当主の執務を難なくこなしていたそうですよ」
(それでは兄は、三股女と結婚した上に、長らく婚約者だったエルザ・ヴィリオンを側室にして、全ての執務を押し付け遊び暮らしていたというのか……)
流石に頭が痛くなってくる。
「それで、そのエルザ・ヴィリオンはどこにいるんです?」
「ああ。三股騒動が起きた頃、ハンバード邸を出ていきました。今どこで暮らしているのかはわかりません。離縁状も提出していますから、もうハンバード家とは一切無関係ですよ」
「よく、あの兄が大人しく離縁状を書いたものだ」
「離縁など絶対にしないと喚いていましたから、借金問題で混乱している間にどさくさに紛れてサインをさせ、私がこっそり提出しておきました。長引かせてもいいことはありませんからね」
「そうだったのか……」
頭を抱える俺を見て、スチュアートが「お茶でも飲みましょう」と言い紅茶を淹れてくれる。
混乱した頭の中が落ち着くと、スチュアートに聞かなければならないことがあったのを思い出した。
「それで……、兄の子供のことなんですが……」
「ジェラルド様の子供とは限りません。確率は三分の一です。何しろ三股でしたから」
「確かにそうだが……」
「子供がどうしたんです?」
「今、どこにいるのか調べてほしいんです」
スチュアートが、あからさまにわけがわからないという表情をする。
「調べてどうするつもりですか?」
「引き取って育てます。正直兄のことは嫌いでしたが、子供に罪はありませんから」
「あなたと血の繋がりがないかもしれないのですよ」
「それでも、ハンバード家に生まれるはずだった子供です。知らぬふりはできません」
「未婚で国境沿いの駐屯地にいながら、一体どうやって育てるつもりなのですか?」
「駐屯地の近くに宿場町があるんです。家を借りて人を雇い、そこで育てられないかと……」
今度はスチュアートが頭を抱えて、大きな溜め息をついた。
「今後あなたが結婚する時、障害になるのではないですか?」
「結婚? いえ、結婚するつもりはありませんから」
呆れたような表情をしたスチュアートが、「もったいないことを……」と呟く。
結婚する気はない。
それは本心だ。
理由は女が嫌いだから。
甘ったるい声や絡みつくような視線。化粧の匂いや香水の匂い。何もかもが吐き気がするほど嫌だった。
(そういえば、スチュアートと同じ台詞を、同僚のトムにも言われたことがあったな)
トム曰く、運命の相手は、出会った瞬間にそれとわかるらしい。
だけど、自分にそんなことが起きるとは思えなかった。
(思い返してみれば……。これまで生きてきた中で、嫌悪感を感じなかった女は一人だけだったな)
エルザ・ヴィリオン。
数人いた他の婚約者候補が、兄に気に入られようと過剰に着飾り兄に纏わりつく中、たった一人質素なドレスに身を包み、兄たちを遠巻きに眺めながら、背筋を伸ばし凛と佇んでいた少女。
その姿が眩しくて、幼い俺は目を離すことができなかったのだ。
将来妻に迎えるならば、ああいう女性がいい。
ふと心の奥底に生まれた感情。
けれどエルザ・ヴィリオンは、晴れて兄の婚約者になった。
年を重ねても化粧をすることも着飾ることもなく、兄に地味な女だと罵声を浴びせられながらも、決して自分のスタンスを変えなかったエルザ。
俺はただ、そんな彼女を遠くから見つめていた。
俺の中に芽生えた感情が何なのか、その名前を知ることはなかったし、それは今もわからない。
その後騎士団に入団し各地を転々としたが、彼女のような女性と出会うことはなかった。
(エルザ・ヴィリオン。兄と離縁しハンバード邸を出て、今どうしているのだろうか)
数日後、スチュアートが、兄の子供……正確には、兄の正室だった女が生んだ子供がいる施設の場所を教えてくれた。
スチュアートの話によれば、その子供は、少し癖のある金色の髪に、アメジストを埋め込んだような紫眼をしていたらしい。
早速施設を訪ねたが、兄の元正室、セーラ・ブルーノが生んだ子供は、すでに別の人間に引き取られた後だった。
引き取られたのは10ヶ月前で、引き取った人物の名前や身分はわからないが、職業婦人と思われる若い女性だったそうだ。
(職業婦人……。王都の街を探せば見つけられるだろうか。兄の子供がご婦人に引き取られ幸せにしているなら、せめて金銭的な援助をさせてもらえないだろうか)
翌日から、スチュアートとハンバード家の後処理をする傍ら、王都の街を歩き金髪に紫眼を持った子供を探した。
金髪は貴族には珍しくないが平民にはそうそういないし、紫眼は貴族でも珍しい。
そうして数ヶ月が過ぎた頃、商店街通りで、金色の髪をした小さな男の子の後ろ姿を見つけた。
ストロベリーブロンドの髪を揺らした女性に手を引かれながら、はしゃいだように歩く男の子。その後ろ姿を見失わないよう必死で追いかけると、二人は三角屋根の小さな店の中に入っていった。
(美容と健康の店?)
店の中に入ると、「お母さん!」と声を上げ、女性に抱きつく男の子の後ろ姿が目に入る。
ドアベルの音に気づいた女性がこちらを見ると、透き通るような若草色の瞳と視線が混じり合った。
背が高くすらっとしていて、化粧っ気はないが透き通るように白い肌と、一つに束ねられた栗色の髪は艷やかに輝いている。
そうしてその佇まいは、凛として美しかった。
そう、眩しいほどに。
あの日聞いた、トムの言葉が頭の中で蘇る。
『運命の相手は、出会った瞬間にそれとわかるものさ』
震える声を誤魔化しながら、彼女に尋ねる。
「君の名前を、教えてはもらえないだろうか?」




