エルザ、側室になる
「セーラが俺の子を身籠った。俺はお前ではなくセーラを正室にする!」
婚約者のジェラルドにそう告げられたのは、結婚式の三日前のことだった。
「ごめんねぇ、エルザ様。そういうことなの」
勝ち誇った顔をした金髪碧眼の女性、男爵令嬢であるセーラ・ブルーノが、ジェラルドにピタリとくっつきながら私を見下ろしている。
「えっ? それじゃあ、私は……」
「お前は側室だ!」
「はっ?」
「お前は側室として、妊娠しているセーラに負担がいかないよう、セーラに代わり家政を取り仕切るのだ!」
「そんな……」
「口答えをするんじゃない! 地味で面白みのないお前を側室として迎えてやるのだ。ありがたく思うがいい!」
こうして、私、エルザ・ヴィリオンは、ジェラルド・ハンバード侯爵の側室になった。
三日後。
私が着るはずだった純白のドレスに身を包んだセーラと、私の隣に立つはずだったジェラルドの結婚式が盛大に執り行われる中、私は側室として、ひっそりとハンバード邸に足を踏み入れた。
生家のヴィリオン伯爵家は困窮しており、侯爵家からの援助が受けられるなら正室でも側室でも構わないと、両親は嬉々として私を送り出した。
持ち物は小さなトランク数個だけ。
そんな私を出迎えたのは、補佐役のリアム・スコットとメイドのエミリーの二人きりだった。
私の側室としての生活は、そうして始まったのだ。
側室の私に与えられたのは、屋敷の別館にある小さな私室と執務室。
私は、一日の大半の時間をその執務室で過ごした。
妊娠中のセーラの代わりに家政を取り仕切り、気がつけば、本来ジェラルドがやるべきハンバード家の執務までもが私の仕事になっていた。
けれど、私はそれを難なくこなした。
実家のヴィリオン家でも、同じように父がやるべき仕事を代わりにやらされていたから。
私が順調に仕事をこなすと、執務室に運ばれる書類は増えていった。
けれど、ジェラルドは一度も私の元へ足を運ばなかった。
結婚式の三日前に側室になることを告げられて以降、顔すら見ていない。
夫を癒すことも側室の仕事の一つ。
だけど、私にそんな役目は果たせない。
それならば、私のやるべきことは与えられた仕事をすることのみ。
幸い、質素なものだが一日に三度の食事は運ばれてくるし、僅かだが品位維持費も貰えている。それに、実家への援助のこともある。
侯爵夫人として社交活動をするより、執務室に籠もり書類と向き合う方が性に合っていたし、何より、私はジェラルドのことが苦手だった。
政略結婚の相手である私が余程気に食わないのか、顔が辛気臭い、一緒にいると気が滅入ると事あるごとに文句をつけてきたジェラルド。
私を見下し、私の話に耳を傾けない夫との結婚生活が、本当は憂鬱で仕方なかったのだ。
(そう考えると、こうなって良かったのかもしれないわね)
そんな風にして時間は過ぎ去り、私が側室になってから 8ヶ月が経った。
そして、その日は突然やって来た。
夜、自室で寝支度をしていると、轟音と共にドアが開き、ハンバード家の騎士が押し入ってくる。
一言も発さずに、ドレッサーやチェストの扉を乱暴に開ける騎士達。
突然のことに戸惑っていると、見知った人物の存在に気づく。ジェラルドとセーラが、ドアの前に立ちその様子を眺めていたのだ。
二人の姿を見るのは、側室になるよう言われたあの日以来だった。セーラのお腹はすっかり大きくなっていて、そんなセーラをジェラルドが支えている。
(そんなことより、これは一体どういう状況なのかしら?)
「ジェラルド様、これは一体……」
ジェラルドに尋ねようとした時だった。
一人の騎士が、硝子の小瓶を握りしめた手を高々に掲げた。
「ありました!」
次に、セーラが悲鳴にも似た甲高い声を上げる。
「それよ! 間違いないわ! お腹にいる赤子を殺す毒薬よ!」
(毒薬? 一体、セーラは何を……)
騎士が、ジェラルドとセーラの後ろに立つ老紳士に小瓶を手渡す。
持っている鞄の形から医者だと推測されるその老紳士は、小瓶の蓋を開けて匂いを嗅ぐと、少し躊躇いがちに口を開いた。
「間違いありません。これは、胎児を殺害するための毒薬です」
その瞬間、その場にいる全員が、罪人を見るかのような視線を私に向けた。
「そんな……! なっ、何を言っているのですか? 私はそんなものは知りません!」
「黙れ! 正室になったセーラに嫉妬し、このような悪行を企むとは!」
私に近づいてくるジェラルドが、近くにいた騎士から剣を奪う。
「ジェ、ジェラルド様! 話を聞いて下さい!」
「お前の部屋から毒薬が出てきたことが、何よりの証拠だ! 侯爵家の血を受け継いだ子を亡き者にしようとするとは……! 死をもって償うがいい!」
ジェラルドが振り上げた剣が、私めがけて振り下ろされる。
その瞬間、引き裂かれるような激しい痛みが全身を貫いた。
薄れゆく視界、遠ざかる意識。
やがて暗闇がやってきた時、こんな声を聞いた。
「……を……たす…けて………たすけて……!」
次の瞬間。
「セーラが俺の子を身籠った。俺はお前ではなくセーラと結婚する!」
目の前には、あの日と同じ言葉を発するジェラルドと、あの日と同じようにジェラルドに寄り添うセーラの姿があった。
(これは……、走馬灯ってやつなのかしら?)
これは確かにあの日だ。
ジェラルドの服装も髪型も、勝ち誇ったようなセーラの顔もあの時と同じ。
(それにしても、走馬灯ってこんなに一つの場面が長いのかしら?)
そんなことを考えていると、ジェラルドのアメジストのように煌めく紫眼が私を睨む。
「エルザ、聞いているのか!」
(ジェラルド様に話しかけられたわ! ということは、これは走馬灯ではないのかしら? それなら夢?)
確かに、目の前で寄り添う二人は夢のように美しい。
私より3つ年上のジェラルドは男らしい体躯を持った美男子だし、私と同じ18歳のセーラは妖精のように儚げで愛らしかった。
(だけど違う。これは夢なんかじゃないわ)
ジェラルドの少しクセのある金色の髪の揺れ具合や息遣い、セーラの陽の光を目一杯浴びて輝く水面のような碧眼の眩しさ。
私の目に鮮明に映る全てが、これが現実だと私に教えてくれていた。
そして、引き裂かれるような激しい痛みは、まるで刻印のように体に刻まれている。
(私……。もしかして、あの日をもう一度やり直してるの?)
「エルザ!」
苛立ちを隠そうともせず、声を荒げるジェラルド。
私の言い分に耳を貸さずに、私を斬りつけ私を殺した男が目の前にいる。
だけど、不思議と怒りも恐怖も感じなかった。
きっと私が、この男に対して何もかもを諦めていたからだろう。
ジェラルドは私を睨んでいたが、ジェラルドの怒りなどどうでもよかった。
(何故なのかはわからないけど、時間が巻き戻っている。それなら答えは一つよ)
「私、側室にはなりません!」
側室になれば、濡れ衣を着せられて殺されるのだ。
そんな未来が来ることを知っているのに、側室になるなんてまっぴらごめんに決まっている。
けれど、私の答えを聞いたジェラルドは、心底驚い顔をした。
「なぜだ? お前は俺を愛しているのではないのか?」
「愛? 私、一度でも言いましたっけ? あなたを愛していると」
「なっ、何だと!」
ジェラルドの大柄な体が、ワナワナと震え始める。
だけど、私はただただ不思議だった。
(何でそんなことを聞くのかしら? ジェラルド様の方こそ私を愛していないのに)
私を側室にするのも、仕事を押しつけるためだと今の私は知っている。
「お前は正気か?」
「私は至って正気です、ジェラルド様。私はあなたの側室にはなりません!」
なんてかっこよく宣言したものの、結局私の運命は変わらなかった。
ハンバード家からの援助が欲しい両親が、ジェラルドの提案を二つ返事で受け入れたからだ。
そして、一介の令嬢に両親の決定に抗う術などない。
一度目と同じ華やかな結婚式の裏側で、たった二人の使用人に迎え入れられた私は、再びジェラルド・ハンバードの側室になったのだった。