静かな感謝の言葉
冬香は強ばった顔つきで緊張に胸を震わせる。
目の前には、例の小さな廃屋。
今回は昼間に来たことで、あの時の不気味な雰囲気とは違い、青空の下では一見ただの廃れた山小屋に見える。
窓は裏表にひとつずつ、出入口は表にひとつしかないようだ。
(本当に…ここに、いるのかな…。
玄関チャイムすらないし…どうやって…。
はぁぁ…やっぱりノック…?)
もう何度も何度も、黒く薄汚れたドアを叩こうか叩くまいか、ひたすら手を泳がせていた。
かれこれ、ここに立って体感5分以上が経過している。
外の風が冷たくていい加減寒くなってきた。
(お礼を言って…サッと帰るだけ…!
もしかしたらお留守かもだし…!
かっ…覚悟を決めるしかない…!)
思い切って握りこぶしを振り上げ、ドアを叩こうとしたその時ーー、
ガチャッ。
「っ!?」
唐突にドアが開き、目の前に男が現れた。
冷たい眼差し、青白い肌。服装も黒くて前と同じ系統。
間違いなく、あの時自分を救ってくれた人だ。
「ぁ……ぅ……。」
思っていたよりも背の高い彼は、無表情で腕を組み、慌てふためく冬香をじっと見下ろしている。
その様子を見るに、自分があの時ここで倒れていた女だと認識しているようだった。
(ど、どうしよう、ほ…本当にいるなんて…!
こここ言葉が余計出ない…!)
慌てて何かを話そうとしている冬香の姿を見て、彼は静かに口を開いた。
「……震えてますよ。」
そう言われて、冬香は自分の手がプルプルと震えていることに気付き、隠すように手を後ろにやった。
(どう…何から言ったらいい…?)
冬香が困ったような素振りで目線を落としていると、彼はドアを少し大きく開けて、彼女を部屋の中に誘導する。
「…入って。」
冬香は戸惑いながらも、ぎこちなく会釈をして、小さな歩幅で恐る恐る小屋の中へ入っていく。
完全に部屋へ入り切った途端、彼がパタン!と勢いよくドアを閉めた。
思わず、冬香の肩がビクッと竦み上がる。
(こ…こわ…、てか入っちゃった……ここも結構寒い…。)
立ちすくむ冬香に、彼はそのまま顔を向けず、部屋の奥にあるソファーベッドへ腰かけ、一定の距離を保って冬香の様子を伺った。
「…ずっと家の前に居ましたね。
なんでまたここに居るんですか?」
彼の問いかけを聞いて、冬香は震える手で筆談用のメモ帳とペンを取りだす。
男はそれを見て小さく眉をひそめた。
(やっぱり…話せないのか。)
やがて、冬香は文字を書いて彼にメモ帳を向ける。
“ここは あなたの いえ ですか?”
男はその文字を読んで、少しだけ面倒くさそうに息を吐いた。
「…はい。」
冬香はカリカリとペンを進め続け、書き終えると不安そうにこちらへ見せる。
“ふほう しんにゅう ?”
彼は目を細めてその字を読んだ。
「不法侵入……?」
冬香がこくこくと頷き、彼の答えを待っている。
彼は力の抜けたように、背もたれへゆっくり上半身を預けた。
「…そんなことを聞きに来たんですか?
これでもちゃんと家賃払ってます。」
その言葉に冬香は驚き、辺りをキョロキョロと見回す。
(確かに…外見はあれだけど…、中はかなり綺麗…。これが…この人の家…。)
「…“だれにも はなさないで”ください。」
そんな冬香に、彼はもう一度警告した。
「ここに人が住んでることが知られたら、こんな風に変な誤解されて面倒です。…それと、」
冬香は申し訳なさそうに口を噤み、彼の言葉を待った。
「もう、ここには来ないでください。」
その人は淡々と、表情も変えず冬香の顔を見つめて、そう言い放った。
「……この山は危ないので。」
彼は立ち上がり、冬香の横を通り過ぎて再びドアの方へ踵を引きずって歩く。
「もう、いいですね。」とドアノブに手をかけた時、冬香は躊躇いながらもメモ帳にペンを走らせた。
「……。」
彼は、まだ彼女は言いたいことがあるのだと察して静かにその様子を見守り、待っていた。
部屋にペンが紙を滑る音がこだまする。
(…長いな。)
これまでと違い、長文を書き綴っている様子の彼女。
その顔は、口出ししようとは思えないほど真剣で、彼はただひたすら黙って見ていた。
冬香は何度も、ペン先が止まりかける。
心の中でいくつも反省と罪悪感の気持ちが湧き上がってくるからだ。
言葉を声にできないのが不便だと、これまで以上に強く感じる。
こうしてここに来てしまっただけでも、彼にとっては迷惑だっただろうし、ものすごく失礼な勘違いまで…。
きっとこの文字を書いてる時間も、待っていてくれている彼にとっては苦痛でしかないだろう。
でも、これがきっと最後だからーー。
文字を綴るたびに、冬香の気持ちが少しずつ整理されていく。
正直に、分かりやすく、彼にちゃんと伝わるように。
その綴られていく言葉は、冬香の心から溢れ出てきた純粋な思いだった。
冷たい空気の中で、心だけが少し温かくなっていくような感覚を覚える。
最後に、冬香はもう一度ペンを止め、しばらく文字を見つめた。
(……終わったか。)
その間、ただ静かに待っていた彼。
一体どんな長文なんだと少し身構えていると、冬香はメモ帳の1ページをまるごと破り取り、その紙を彼に向かって差し出した。
少し緊張しながら、彼女は少し驚いた面持ちの彼の顔をチラリと見上げる。
(受け取って…くれるかな…。)
男はしばらくその手紙を見つめた後、何も言わずにそれを受け取り、その場に立ち尽くしていた。
冬香はもう一度、深々とお辞儀をし、少しだけ彼に笑みを向けてドアノブを引いた。
そのまま静かに廃屋の外に出て、彼女は足早に歩き去った。
背中は少し震えていたが、心の中には不思議と清々しい感情が広がっていた。
男は山を下っていくその小柄な後ろ姿をしばらく見守る。
彼女の小さな手紙を、ただじっと手に握りしめながら。
◉この物語に登場する人物、組織団体、その他地域施設などは全てフィクションで架空のものです。
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