沈黙の影
病室の窓辺に差し込む朝の光が、冬香の顔を淡く照らす。
(まぶし…。)
いつの間にか晴れ渡った明るさに、冬香は目をぎゅっとすぼめながら覚ました。
――あの壮絶な事故から、もうすぐ1年。
耳が壊れそうなほど激しい車の衝突音を、今もまだ鮮明に覚えている。
事故から意識を取り戻した時、冬香は言葉を話せなくなっていた。
“脳の損傷が原因です。
リハビリを続ければ、いずれ言葉は戻るでしょう。“
突然始まった不安だらけの入院生活の中で、医師の言葉は唯一の希望のように響いた。
しかし、それは次第に裏切られることとなる。
毎日続ける訓練、鏡の前で形作る口元。
声を出そうとするたびに喉の奥が苦しくなる。
言葉を話しているつもりでも、聞き手は誰しも聞き取れず、いつも困ったように首を捻った。
自分で自分の声を聞いていても、呂律が回っておらずまともに喋れていない。
やがて、紙に書き記すことだけが、彼女のコミュニケーションの手段になった。
言いたいことさえ、何一つ自分の口で言えない。
それはまるで、心の一部を切り取られたかのような感覚だったーー。
コンコン…。
「…山本さん。」
看護師とともに、男性の担当医師が病室に入ってくる。
「お目覚めですね、具合はどうですか?
昨日は倒れているところを通りすがりの男性にここまで運んでもらったそうで…。」
冬香が俯いていると、看護師は彼女の肩にそっとストールをかけた。
「ダメですよ、あんな薄着で外出なんて。
看護師みんな心配したんですから。」
冬香はその言葉を、素直に聞き入れることが出来ないでいた。
看護師は何も悪くないのは分かっている。
でも、自分のためにかけてくれる言葉が、どこか裏があるような、どれも胡散臭く感じてしまうのだ。
冬香が黙って小さく頭を下げると、医師が慎重に口を開く。
「…それで、言葉はまだひとつも出てこないですか?」
医師の言葉に、冬香は申し訳なさそうに首を振る。
「いえ、いいんです。
しかしこれだけの期間、治療とリハビリを続けて言葉が出ないとなると、やはり物理的な脳の損傷だけでは無いのかもしれませんね。」
冬香にとって、それはまた新たな壁に感じた。
終わりが見えない。
医師は“心が言葉を拒絶している――いわゆる心因性失語症である可能性が高い“と言う。
実際、脳の損傷を含む事故の怪我などは殆ど治癒されていて、あとは言語障害のみだった。
ーー原因は数えきれないほどある。
仕事、母の死、そして1年前の事故による失語症がもたらす孤独感と絶望が、ますます彼女を追い詰めていった。
日常の全てが色を失い、いつしか彼女は、自分の存在が空っぽになっていくように感じていた。
(心因性……。)
その日、彼女は自らの命を絶とうと、近くにあるあの山へと向かった。
誰にも気づかれずに、静かに終わりたかった。
あの山は自殺の名所として知られている場所。
ここで最後を迎えれば、自分は誰の迷惑にもならないと思っていた。
だが、そこで彼に出会ったのだ。
一心不乱に山を登り続ける冬香に、声をかけてきた男。
彼の冷たい目、無表情で青白い顔を見て、最初は彼が幽霊なのかと錯覚した。
彼に「自殺しに来たのか?」と問われ、筆談メモに「あなたは?」と書いた冬香に返された答えは「もうずっとここにいる」というものだった。
その言葉を聞いた瞬間、冬香は完全に彼を亡霊だと信じ込んだ。
あの山で亡くなった者たちの魂が、こうしてここをさまよい続けているのだろうと。
彼もまた、自分と同じように何かを抱え、ここに取り残されているのだと感じた。
自分も、死んだらあのようになるのか。
彼のように、ぼうっとずっと、この場所をさまようことになるのだろうか。
しかし、そんなことを考えているうちに、彼は歩いて去っていた。
どこに行くのかと興味を抱いた冬香は、思わず彼の後を追う。
暗闇の森の中で月明かりを頼りに、彼の背中を見失わないよう、慎重に音を立てず歩を進めた。
やがて彼が辿り着いた先は、古くて小さな廃屋だった。
そこで冬香は驚いた。
彼は亡霊などではなく、生きている人間だったのだ。
廃屋の中でソファーに横たわる彼の姿を見たとき、冬香はホッと胸をなでおろした。
自分が想像していたような、悲しい亡霊は存在しなかったのだから。
彼は生きている――それだけで救われるような気持ちになったのは初めてだった。
“ゆうれいだとおもった、ひとでよかった。“
筆談メモにそう書き記しながら、冬香は自分の心にこの日のことをしっかりと胸に刻んでいた。
そのまま、冬香は疲労と寒さに力尽きて、倒れてしまうーー。
あれから丸一日が経った今。
医師の説明を受けながら、冬香はぼんやりと廃屋の中の景色と、彼に抱き抱えられた時の感触を思い返す。
じんわりと暖かい手のひらが、優しく肩や足を支えてくれた。
あの夜、彼がいなければ、自分はきっと今ここにはいないだろう。
言葉を失ってから…いや、母を失ってからずっと、一人だと思っていた。
誰も自分の存在に気づかず、理解してくれる人などいないと。
しかし彼は、冬香の心の奥に潜む何かを見抜いたかのように声をかけてくれた。
彼に出会えたことで、冬香は「生きていること」の意味をもう一度考えるようになった。
(もう少し…生きてみようかな…。)
ーー医師と看護師は一通り説明を終え、今後の方針を検討するといって病室を去っていった。
ふと、冬香は枕元に置いていた筆談用のメモ帳を読み返す。
山の中で倒れていたので少し土を被っていたが、自分が書き記した文字はそのままそこにあった。
すると、新しいページの裏側に身に覚えのない文字がうっすらと見える。
捲って見てみると、そこにはーー。
“だれにも はなさないで”
(…………?)
おそらく、彼が書いたのだろう。
不慣れな平仮名がそこにあった。
(話すなって…、何を…?
あの小屋のこと…? まさか…不法侵入…?)
冬香は焦りだした。
(黙っているのは得意けど…、
あの人…そういうの知らずにあそこにいたら…いつか捕まっちゃうんじゃ…。)
冬香はいてもたってもいられず、ベッドを抜け出した。
いや、本当はもう一度会いたかったのかもしれない。
助けてもらったお礼も言っていない。
そのくらい、きちんと伝えたい。
声にならなくても、たとえ文字でも。
自分を救ってくれたあの人に、どうしても会いたいんだ。
彼女は今度こそ上着を羽織り、メモ帳とペンをしっかりと握りしめて、再び廃屋のある山へと入っていった。
◉この物語に登場する人物、組織団体、その他地域施設などは全てフィクションで架空のものです。
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