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悪縁の顛末  作者: muniko
第五話
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冷面の焦燥



冬香からの緊迫したメールを読んだ瞬間、サクマは次の仕事のことを頭から追い出し、足早に彼女の元へ向かった。


焦りで”ユン”に変装する暇もなく、黒服に黒いコート、メガネもなしという完全に“サクマ”の姿のまま病棟に入っていく。

朝早い時間、廊下を歩いているのは看護師と医者だけ。

面会時間外ということもあり、彼は仕事の時と同じように忍び込むような足取りで冬香の病室へと急いだ。


病室の目の前までたどり着くと、ピシャリと閉められた引き戸の小窓から、まだ薄ら青い景色が見える。

静かに戸を開け中へ身を忍ばせた後、後ろ手に再び戸を閉めた。


朝の鳥のさえずりと静寂が広がる空間で、右奥のベッドに冬香の小さな体が布団の中で膨らんでいるのが見える。

しかし、顔は布団に埋もれていて見えない。


サクマはゆっくりとベッドに近づき、布団の膨らみが微かに震えているのに気が付いた。

そっとしゃがみ、おそらく肩の辺りであろう震える膨らみへ、慎重に手を添えて小さく声をかけた。


「…冬香さん。」


呼びかけた瞬間、布団の震えがピタリと止まり、冬香が恐る恐る布団に手をかけ顔を出す。

彼女の目に映ったのは、普段の格好とは違う、黒ずくめの”ユン”だった。

メガネをかけていないと、印象がかなり違う。

出会った時と同じ雰囲気の格好だ。


「僕です…大丈夫ですか?」


その姿に一瞬戸惑ったものの、彼のいつも通りの優しい声でそう問いかけられた途端、安心した冬香の目から涙がひとつポロッと零れた。

意図せずひとりでに出てきた涙に、彼女も呆然としている。


(可哀想に…よほど怖い思いをしたんだな。)


サクマはその一粒の涙を見て、そう感じ取った。

彼女の零れた涙を冷たい指でそっと拭い、心配そうな表情で声をかける。


「…田島先生に何をされましたか?

言いたくなければ何も書かなくて良いです。」


冬香は、傍に置いてあった筆談用のノートに一瞬手を伸ばしかけたが、誰でも簡単に盗み見ることが出来る手帳に書くのは危険だと判断し、代わりに携帯の画面に文字を打ち始めた。

サクマは彼女の意図を察し、そのまま文字を打つ彼女を見守っていた。


“かみに かくと もじが のこるから、

すまほで つたえるね”


彼女の賢明な判断に、サクマは少し感心しながら小さく頷く。

そして、冬香は次のように書き始めた。


“しゅじい を かえたことが きになったみたいで さっき わざわざ あやまりに きたんだけど”


その文を見た途端、サクマは疑念を抱き始めた。

主治医を変えたからと言って、わざわざ早朝に寝ているかもしれない患者の元を訪れるのは不自然だ。

通常、そんなことはまずありえない。

診察時間中に軽く挨拶するか、引き継ぎをするだけで十分だ。


しかし、彼女が続けて書いたその一文を見た瞬間、サクマの中である確信が生まれた。


“たじませんせい、

ユンさんのこと ばかり はなしてた”


ーーなるほど、これは罠だ。

そして、おそらく今自分が冬香の元へ駆けつけてここに来ていることも、田島は予測していただろう。

冬香に不安を与えれば、彼女が俺を呼ぶだろうと考えたんだな。

彼女の恐怖心を利用して、俺をここまで来させたんだ。


だが…何のために?

そこまでして、なぜ俺に会いたがる?

脅したいのだろうか。

冬香に何かあれば殺すと釘を刺したはずなのに。

先程から扉の外に妙な人影の気配を感じるーー。


サクマは敢えて気配の方へ目を向けることなく、ただ彼女が打ち続ける文章を見守っていた。

しかし、彼女の次の文章がどのような内容か、サクマには容易に想像がつく。


“ユンさんと れんらく とりあってるの?とか

しゅじいを かえたのも、

ユンさんに なにか いわれたから とか

ユンさんのことを しんよう するのは きけんだ とか”


まさしく、どれも田島が言いそうなことばかりだった。

だが、こんなに早く冬香に接触して、そんなことを言うなんて。

いとも簡単に脅しの道具として彼女を利用したという事実が、田島に対する不快感を膨張させる。


(あいつ…何を考えてるんだ。)


しかし、サクマが次に冬香が書いた一言を見たとき、妙に納得した。


“でも そんなことより、かおが すごくこわかった いってることも めちゃくちゃだったけど、ここに きてから でていくまで ずっと、わらってたの”


(あぁ…クスリの副作用もあったのか。)


その田島の異常な言動が、一昨日見た臓器摘出手術の時の様子と重なった。

薬物をキメた後の田島と同じだ。

冬香がこんな状態の田島に話しかけられたのなら、恐怖で当然だ。


彼女をそんな目に遭わせてしまったことに、サクマは深く申し訳なく感じ、小さな声で自責の言葉を口にしていた。


「僕が主治医を変えるように言ったせいで、怖い思いをさせてしまいました…すみません。」


冬香はブンブンと首を振り、体を起こしてサクマを見つめた。

彼女の眼差しから、「あなたのせいじゃない」という思いが伝わってくる。

彼女もまた、田島からの言動で主治医を変えたことが正しかったんだと改めて実感していたから。


「でも…田島先生の言動は異常です。

非常時にはすぐにナースコールを押して助けを求めてください。

今後も何かあればすぐに僕に連絡を、…良いですね?」


サクマの優しい言葉に含まれた怒りに、冬香は不安を感じた。

彼が危険なことをしに行ってしまうのではないか、そんな思いが胸をよぎる。

彼女は急いで文字を打ち込んだ。


“たじませんせいに あいにいくの?”


サクマは一瞬動きを止めたが、すぐに優しい笑みを浮かべて答えた。


「大丈夫、何も喧嘩するわけじゃない。

ただ、誤解を解きに行くだけです。」


そう言いながら、冬香をそっとベッドに寝かせた。

彼女はそのまま立ち去りそうなサクマの腕を掴み、不安げな顔と共に携帯の画面を見せる。


“きけんな ことは しないで”


文字を掲げた冬香のその表情には、心配の色が大きく滲んでいた。

サクマは誰かにこんな風に心配されるなんて初めてのことで、申し訳ないと思いつつ少し嬉しく感じてしまう自分がいた。

好きな人に気遣われるというのは、どこか心がくすぐられるようで、ありがたくて、素直にその言葉に従いたくなるような感覚だ。


けれど、サクマの目は一瞬病室の外に向かう。

おそらく田島がこの光景をどこかで盗み見ている気配を感じながらも、彼は何事もないように振る舞う。

自分の腕を掴んで離さない冬香の手を、そっと包み込んでから彼女の布団の中へと入れてやった。


「…ちゃんと暖かくして。

まだ朝早いですから、もう少し寝てください。

クマができてますよ。」


彼女の言葉から逃げるように、話をそらして寝不足顔の冬香を気遣う。

冬香は心配と不満が混ざったような、何とも言えない複雑な表情を浮かべていたが、されるがままにサクマの動作に従っている。

その姿が可愛く思えて、サクマは微笑みながら彼女の頭を軽く撫でた。

そして、名残惜しさに苛まれながら、重たい身を立ち上がらせる。


「…また夜に来ます。

田島先生のことはもう心配しなくて良い。

それじゃ…おやすみなさい。」


冬香が何かを書こうとする前に、サクマは後ろを振り返り病室を出て行った。

去っていく彼の黒くて広い背中を、冬香は心配そうに見つめながら、彼の姿が消えたあともずっとその場所から視線を動かさなかった。


しかし、一人になると、彼に頭を撫でられた感覚が蘇ってくる。

それはまるで魔法のように、彼女を安心感が優しく包み込んだ。


(きっと…大丈夫だよね…。)


瞼を閉じると、彼の優しく向けてくれた微笑みが浮かぶ。

冬香はそのまま、彼の温もりの余韻に身を委ねて、ようやく眠りについた。


⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯


サクマは病室を後にしてから、そのままエレベーターには乗らず、人気のない非常階段へと足を向けた。

薄暗い照明がついた階段のコンクリートに、彼の黒い靴音だけが響く。

彼は手すりに手をかけることもなく、一段一段確かな足取りで降りていった。


どこか冷たい、張り詰めた空気が漂っている。


数階下の踊り場に到着すると、そこに田島が待ち構えているのが目に入った。

あまりにも自然に立っているその姿に、彼は感情を表に出すこともなく、ただ静かに近づいた。


「…僕になにか用があるようですね、田島先生。」


サクマの声はいつも通り低く、どこか丁寧さを含んでいたが、その裏に潜む冷たい怒りは隠しきれなかった。

田島の顔がわずかに引きつるのが、蛍光灯の暗い明かりの中でもはっきりと見て取れる。

田島はいつもの笑顔を浮かべていたが、その笑顔にはどこか不自然な狂気が混じっていた。


「やっぱり来たんだ。

駆けつけるのが早いね、“ユンさん”。」


田島の声も軽やかだが、その軽薄さがさらにサクマの苛立ちを掻き立てる。

サクマは無言で近づき、田島の胸元に手を伸ばしたかと思うと、いきなり白衣の襟を掴んでぐっと引き寄せた。

田島は驚きに目を見開き、笑顔が一瞬で消える。


「言ったでしょう。

彼女は僕の仕事に必要な人材です。

あなたの遊びに使う玩具ではありません。」


サクマの声は、怒りを堪えた低い囁きのようだった。

しかし、その静かな言葉には、確実な脅威が含まれていた。

サクマの顔が田島に近づき、鋭い眼光が田島を貫く。

田島は動揺しながらも、笑みを取り戻そうと口元を歪ませたが、その震える声は嘘を隠しきれない。


「はっ…俺は何も…何もしてないじゃないか…!

ただ話しに行っただけだ、あまりにも突然主治医が変わって…。

一年だぞ…一年間ずっと彼女を診てきたんだ。

彼女の心を開くのに必死だった…。

もう少しだったのに、お前が来たせいで…!

お前が何か吹き込んだんだろ…!?」


支離滅裂な本音を吐露し始めた彼に、サクマはすかさず反論する。


「それで? 彼女の心を開いてどうするつもりだったんですか?

医者と患者の甘い恋でもしたかったんですか?

それとも、肝臓の一部や腎臓のひとつを奪いたかったのですか?」


嫌味のような質問に対し、田島は苦し紛れの表情の中で微かに笑顔を浮かべながら震える声で答えた。


「り…両方、かなぁ…。」


その言葉を聞いたサクマは、冷めた目つきで呆れたように深くため息を零す。


「だっ…だって、あの子…地味だけど美人だろ?

まだ若いから臓器も高い値打ちがつく…!

いぃ…、一石二鳥じゃないか…!

家族もいないんだし、彼女さえ俺に夢中になってくれれば…手術も、イイ事だって自由にできるんだよ!

あぁっ…クソ…、こんなことなら…口がきけない女なんかさっさと腹切っとくんだった…!」


身の危険を感じた焦りから、ベラベラと言い訳が止まらない田島。

その充血した目には、うっすらと情けない涙が滲んでいる。


「…本当に…正気じゃありませんね。

それでは仕事に支障が出るでしょう。

さっさとシラフになってくれないと困ります。」


サクマは冷たく言い放ち、もう片方の手で田島の首を強く握り締め、無表情のまま数歩進むと、


ダンーッ!


と、田島の背中が勢いよく壁にぶつかる音が、コンクリートの壁に響き渡る。


「かはっ……ぐ…っ…!」


苦しそうに顔を赤くして、額に血管を浮き上がらせた田島は、激しい衝撃で呻き声を漏らした。


「…少しは目が覚めましたか?

今から言うことを、ちゃんとしっかり覚えておいてください。」


サクマはそう言いながら、一切手の力を緩めずに語りかける。

田島もその手を振りほどこうと腕を掴むが、呼吸が思うようにできない苦しさから、なかなか手に力が入らない。


「彼女には僕がついています。

彼女の臓器も心も、渡すわけにはいきません。

…これが僕の仕事なので。

あなたのその穢れた願望は、早めに諦めた方が賢明です。」


その言葉は低く静かでありながら、圧倒的な支配力を持っていた。

首を絞めるサクマの握力が、徐々に強まっていく。

田島はじわじわと息を詰まらせ、必死に笑みを保とうとしたが、その笑顔は悔しさと恨めしさが混じってひどく歪んでいた。


サクマは突然パッと手を放し、田島を突き放すように壁から引き離した。

その反動で田島は地べたへ腰をつき、怯えたように喉を鳴らしながら、サクマの冷たい視線を避ける。


「これが最後の忠告です。

次また彼女が、何か怖い思いをしたら…その時は死ぬと思ってください。」


吐き捨てるようにそう言い終えたあと、サクマは立ち去ろうとするが、何かを思い出したように再び立ち止まった。


「ああ…もちろん、医師会でも有名なあなたのお父様にも、全てお話してから殺してあげますから、ご心配なく。」


そう言い残すと、サクマは一切振り返らず、階段を下っていった。


背中から漂う緊張感が、非常階段の冷たい空気に消えていく中、当たり前のように弱みを握られていた田島は、息を呑んだまま冷や汗をかいて、その場にへたり尽くしていた。



◉この物語に登場する人物、組織団体、その他地域施設などは全てフィクションで架空のものです。

◉もし少しでも面白いと感じたらブックマーク・評価などよろしくお願い致します。励みになります。

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