第五話:プロローグ
◉この小説には韓国語のセリフが出てきます。登場人物達の臨場感のある場面を想像してもらいたくて敢えて表記するようにしました。日本語訳を添えておりますので、読みにくいかとは思いますが、予めご了承くださいますと幸いです。
雑居ビルの薄暗い廊下を、サクマは音もなく進んでいた。
背後に誰かがいる気配すらない。
彼はこの日、“仕事”のためにここに来ていた。
目的のものはすぐ先の部屋にある。
とある中国人組織が構えている小さな事務所だ。
任務を遂行する冷静さを保ちながらも、心のどこかでその一瞬先の”別の約束”に思いを馳せていた。
イヤホンマイクから聞こえてくるジョンウの低い声が耳元で響く。
《12월 25일에 휴가를 내고 싶다고?
뭐야, 너 여자라도 생긴 거냐?
너무 빠지지 말라고 했잖아.》
(12月25日に休暇が欲しいだぁ?
なんだお前、やっぱり女でもできたのか?
入れ込みすぎんなって言ったろ。)
サクマはその言葉に苦笑を浮かべながら、前方の扉を鋭く蹴り破った。
扉が激しい音を立てて開かれると同時に、彼の体は無駄のない動きで室内へと滑り込む。
手にしたサプレッサー付きの銃が静かに、だが正確に火を吹き、短く鋭い「プシュッ」という音が鳴り響いた。
男たちは声を上げる間もなく次々と倒れていく。
一人の男が驚いて拳銃を構えようとするが、その前にサクマは足を一歩踏み出し、冷静に一発を見舞う。
弾は男の肩に深々とめり込み、彼は崩れるように地面へ倒れ込んだ。
周囲は一瞬にして静まり返る。
事務所内は狭く、目の前の中国人たちは訓練された相手ではなかった。
抵抗らしい抵抗もないまま、まるで風のようにサクマは動き、わずか数秒でその場を完全に制圧してしまった。
その後で、何とか苦し紛れの言葉を並べ立てる。
「아니 그건… 그런 게 아닙니다.
중요한 일이 있어서… 중요한 공부나…, 어쨌든 꼭 그날이 아니면 안 되는 일이 있습니다.」
(いやその…、そういうことじゃないです。
重要な用事があって…大事な勉強とか…、とにかくどうしても、その日じゃなきゃダメなんです。)
サクマは必死だった。
ジョンウが訝しむのも無理はないが、何を言ってもまともな理由には聞こえない。
日頃こうして戦いながらも、心の中ではその日が近づくたびに高鳴る期待を抑えきれない。
《크리스마스에 중요한 일이 있다고? 네가?
그 날에 도대체 뭘 공부한다는 거냐? 응?
아까부터 변명이 심하잖아, 사쿠마 ‘군’.》
(クリスマスに重要な用事?お前が?
その日に一体何を勉強するって言うんだ?ん?
さっきから言い訳がひどいぞ、サクマ“くん”。)
ジョンウは電話越しに苦笑する声を漏らす。
サクマはその声に眉をひそめ、口元に微かな苛立ちを浮かべた。
返事をする前に、背後から近づいてくる男の気配を察知する。
(どいつもこいつも…。)
サクマは心の中で悪態をつく。
その瞬間、男が襲いかかると同時にサクマは身を翻し、鋭く相手の手首を掴んで捻り上げた。
男が短い呻き声を漏らした瞬間、サクマは素早く膝を上げ、彼の腹に重い一撃を叩き込む。
反撃の隙を与えずに、サクマは無表情で男の喉元に正確な手刀を落とし、そのまま床に倒れ込ませた。
無言で男の姿を見下ろした後、サクマは軽く息を整え、ジョンウの声に再び集中する。
わずかに息を詰め、ためらいながらも切実な声を絞り出すように言った。
「…이미 약속했단 말입니다. 절대 깨트릴 수 없습니다.
하루만 시간을 주십시오. 그 후에는 마음대로 부려도 좋아… 제발 부탁해… 형…」
(…もう約束してるんです、絶対に破る訳にはいかない。
一日だけで良いから俺に時間をください、その後は好きに扱き使って良いから…頼むよ……“兄貴”。)
サクマは言ってしまった。
その言葉に、自分でも驚く。
「형(ヒョン):“兄貴”」――それは韓国で、親しい年上の男性に対して使う言葉だ。
これまで一度もジョンウをそう呼んだことはなかったが、口から自然にその言葉が漏れていた。
サクマの心の中にある本当の感情が、切なる思いにつられ、今になって表に出てしまったのだろうか。
ジョンウは一瞬黙りこんで、イヤホン越しの静寂が二人の間に流れる。
数秒の沈黙が、まるで長い時間のように感じられた。
サクマは口にした言葉の重さを感じ、急に胸が締めつけられるような気がした。
ジョンウがどう反応するか、全く予想がつかない。
静かな空気の中で、サクマは顔を歪めるように息を飲み込んだ。
まさか自分がこんな言葉を口にするとは。だが、彼は決して引き下がれなかった。
ジョンウが口を開こうと息を吸う音に、咄嗟に身構える。
《네가 그렇게 뭘 원하는 건 처음이네… 뭐, 좋아. 아직 확정된 건 아니지만, 생각해보마.》
(お前がそんなに何かを望むのは初めてだな……まぁいい、まだ決まったわけじゃないが、考えてやる。)
ジョンウがそう言い終わると同時に、通話が切れた。
サクマは思わずガッツポーズを決め、顔に浮かんだ喜びの笑みを隠せなかった。
彼は確信していた。
ジョンウがなんと言おうと、もうこの休暇は彼のものだ。
冬香との約束を果たせる。
倒れている中国人たちを見下ろし、サクマはふとしゃがみ込んだ。
誰も彼の言葉を聞く者はいなかったが、それでも乱雑に一人の男の髪を掴み、頭を無理矢理引き寄せながら、満足げに口を開く。
「이런 나한테도 데이트 약속이 있다고, 짜증나냐?」
(こんな俺にもデートの約束があるんだ、ムカつくか?)
誰も彼の問いに答えないものの、それでもサクマは満足げにその男の頭を床に放置して、立ち上がった。
気絶している相手を前に、サクマは小さく笑い、落ち着いた手つきで目的の書類を取り出した。
その動きは、まるで一切の緊張感がないかのように滑らかで、まるでデートに向かう青年のようだ。
書類を軽く手に取ると、サクマはそのまま歩き出し、足取りは軽やかでまるで隙がない。
倒れた男たちをちらりと一瞥した後、珍しく小さな鼻歌を響かせながら、まるで何事もなかったかのようにその場を後にした。
◉この物語に登場する人物、組織団体、その他地域施設などは全てフィクションで架空のものです。
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