第四話:エピローグ
半年前⎯⎯⎯
病室の白いカーテンが風に揺れる中、私はベッドの上で膝を抱えて静かに涙をこぼしていた。
主治医の田島先生が何気なく発した言葉が、心に深く突き刺さってしまっている。
《大丈夫だよ、これくらい。
“頑張れば”きっとすぐに治るから。》
それは慰めのつもりだったかもしれない、でも私にはそう感じられなかった。
(まだ…頑張ってないと思われてる…。)
痛くて、苦しくて、それでも続くリハビリ。
きっと私は頑張ってるはず。
それなのに、一向にまともな声が出ないし、言葉も出ない。
(もう…いつになったら…話せるようになるの…。)
自分の心と体が壊れていくことに、誰も本気で気付いていない。
この辛さを分かっているのは自分だけだから、仕方がないことくらい理解してる。
でも、先生の言葉は、まるで私が感じている痛みや苦しみが軽んじられているようで、孤独と無力感が一層胸を締め付けるんだ。
(こんな私…もう居なくなれば良いのに…消えたい…。)
その時、静かに足元側の間仕切りカーテンが揺れ動く。
気配を感じて顔を上げると、そこに立っていたのは同室の斜め前のベッドにいるおばあさんだった。
「あらまあ…そんなに泣いて、可哀想に。」
おばあさんの声は優しかった。
私は何も言わずに顔を伏せたけど、次の瞬間、手のひらにそっと何かが置かれた。
見ると、赤くて丸い飴玉が一つ。
透き通った包み紙が光を反射して、ほんのりと輝いていた。
「これが好きでねぇ。
口寂しい時によう舐めるとたい。」
私はじっとその飴を見つめた。
ああ、お年寄り特有のお節介か、と心の中で思ってしまった。
一瞬の優しさなんて信じられない。
自分を本当に理解してくれる人なんていないのだから、と。
そう、思い込んでいた。
でも、その後もおばあさんは何度も私のベッドに訪れ、飴玉を渡してくれた。
その度に私は同じ反応しかできなかったのに、次第におばあさんの存在が、心の中にじわじわと染み込んでいくのを感じていた。
そんな彼女の心遣いは、半年も続いた。
言葉をひとつも発せない私に、おばあさんは何も言わないで、いつも笑って飴玉をくれる。
「小さかばってん、しんどい時の味方になるけんが、これ持っときんしゃい。」
私がリハビリを終えたあとで、疲れた顔をしてベッドに座る時、そう言ってポケットに忍び込ませてきた日もあった。
なんだかまるで、飴玉を崇拝して布教してる人みたい。
少しおかしく思った私は、いつの間にか笑顔を見せられるようになっていった。
ある日、おばあさんはふと自分の身の上話を始める。
「私ね、夫が先に逝ってしもて、それからずっと一人なんよ。子供もおらんかったけんね。
こん歳になると、孤独にも慣れるもんよ。
そら寂しさは少しくらいあるばってんさ、もうなんちゃない。
そやけどね、こげんやって誰かと話すと、それだけでえらい元気が出るとよ。」
私は少し驚いた。
おばあさんも孤独なのだ、と初めて理解したから。
そのまま、おばあさんは笑って話し続ける。
「先生は脳に悪性の腫瘍があるち言んしゃったんやけど、全然実感ないわ。
まだまだ元気たいね、きっと大丈夫よ。」
おばあさんの言葉は軽やかだったけど、その背後にある現実は重い。
私はこの時、ようやく心が温かくなるのを感じた。
飴玉をくれたのはただのお節介ではなく、何かを共有しようとする気持ちからだったんだ。
そして、次は自分の話をしてみようか、と思い始めた。
きっとこの人なら、笑わずに自分の話を聞いてもらえるかもしれない、と。
けれど、その矢先、おばあさんが別の病室へ移されてしまった。
突然の出来事に私は何も言えず、再び孤独感が襲いかかってきた。
病室の中にただ一人残された私は、あの日おばあさんがくれた飴玉を静かに口に運び、じんわりとした甘さを感じながら涙をこぼした。
会いに行かなきゃ。
会いに行って、話をしなきゃ。
これまで優しくしてくれたお礼が、まだできてない。
今度は私の大好きなお菓子をあげるんだ。
色んな話をしてくれたあなたに、私のことを知って欲しいのに。
分かっているのに、足が重くて、動けなかった。
寂しくて、苦しくて。
どんな顔して会いに行けばいいのか分かんない。
ああ、こんなにも、おばあさんの存在って大きかったんだ。
私にも、支えてくれる人が居たんだなあって。
何も話せない、お礼の一言すら言葉にできない私を、おばあさんはどう思うだろう。
優しいから、きっと口には出さないだろうけど。
心の中で“ああ、あの子はそれまでの子だった”って、思われてるかもしれない。
こんなの、被害妄想だ。
分かってる。
だから私は、こんな自分が大嫌いなんだ。
いつもより強く感じる孤独感が、私の精神を蝕んでいく。
気づけば寒い山奥に入り、誰にも気づかれないように消えようとしていた。
こんな死に方したって、誰も喜ばないかもしれない。
それでも、もう、全てから逃げ出したかったからーー。
⎯⎯⎯そして現在。
ユンさんに命を助けられた私は、彼との時間を過ごしていくうちに、不安定だった心がだんだん安定するようになった。
彼といると、自分の気持ちに素直になれて、筆談だけど、ちゃんと正直な言葉を伝えることが出来るんだ。
今なら、おばあさんに会いに行けるかもしれない。
私は棚の引き出しに閉まっていた小さな寒天菓子を持って、病室を出ようとした。
その時、廊下から聞こえた看護師さんの会話が耳に入り、足が止まる。
「ええっ…!?」
「そう…突然急変したって。」
「昨晩まで普通にお話されてたのに…。」
「田島先生が緊急でオペしたそうだけど、残念ながら体がもたなかったらしいよ…。」
「そんな…。」
その会話に出てきた名前を聞いて、私の止まっていた足が震えて、膝から崩れ落ちた。
ぺたりと床に座り込んだ私は、地面の冷たさなんて気にもせず、ただ、お菓子を握りしめて、一人で声も出せずに泣いていた。




