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悪縁の顛末  作者: muniko
第四話
25/29

忘れられない飴玉



病棟の廊下に差し込む朝の光が、冷たく、どこか重たく感じられた。


サクマは、静かな足音で病室の引き戸を開ける。

朝早く、誰もいない病室に入ると、右奥のベッドに座る冬香が見えた。

彼女は窓の外をじっと見つめ、目の下には泣いた跡が残っている。

心なしかいつもよりも元気がない様子だ。


何か声をかけようとしたが、その一言がなぜか喉の奥で詰まる。

代わりに、彼女の名前をそっと呼んだ。


「…冬香さん、」


彼女はゆっくり振り返り、サクマに気づいた。

筆談用のメモ帳を手に取りながら、小さな微笑みを見せようとするが、その表情や動きには力がない。


サクマはベッドのそばに近づき、静かに尋ねた。


「何か…あったんですか?」


少しの間、彼女は沈黙を保っていた。

やがて、涙が彼女の目に浮かび、ぽたりぽたりとメモ帳の上に落ちる。

その震える手でペンを握り、冬香は一言一言を書き込んだ。


“あさから かなしい はなし きいちゃって”


サクマは彼女の痛みを少しでも理解したくて、隣に腰掛けて静かに問いかける。


「…どんな話?」


冬香はしばらくサクマの目を見た後、大きく息を整え、呼吸を止めながら一文字一文字書きはじめた。


“さっき かんごしさんが ろうかで はなしてた

まえ おなじ へやにいた おばあさん

とつぜん なくなっちゃったんだって”


彼女はメモ帳をサクマに向けて、涙をこらえられずにそのまま大粒の涙を流し始めた。


(そんな…面識があったのか…。)


サクマの胸は強く締めつけられる。

冬香が話している「おばあさん」というのは、昨晩、目の前で田島に無惨に命を奪われた女性患者のことだろう。

臓器を無理やり摘出され命を奪われた、あの高齢の女性。

その光景が再び脳裏に浮かび、彼の心はひどく傷んだ。


“おばあさん、とても やさしい ひとだった

わたしが つらくて ないてるときも

なにもいわずに いつも やさしく わらって

おいしい あめだまを くれる すてきな ひと”


紡がれていくその言葉から伝わるのは、冬香にとって、その人はこの病院で唯一信頼できる存在だったということ。

温かい微笑みと、何度もくれた甘い飴玉。

彼女がこの病院で一人、精神的に追い詰められていた時、その存在は彼女にとって大きな支えだったに違いない。


《小さかばってん、しんどい時の味方になるけんが、これ持っときんしゃい。》


冬香の心に刻まれている、おばあさんの言葉。

それを思い出すと、また視界が涙で滲んでいく。

彼女が先日サクマに渡した飴玉も、そのおばあさんからの贈り物の一つだった。


冬香は、数日前に別の病室へ移っていったおばあさんに、近いうち好物のお菓子を持って会いに行こうと考えていた。

しかし、一人で心細い病室にいると特に感じる、死への逃げ道。

その矢先に出た自殺願望、そして自殺未遂。

うつ状態に苛まれた冬香は、結局おばあさんの元へ会いに行くことができなかった。


これまで、どれだけおばあさんの存在が大きかったのか、冬香はやっと知ることとなる。


サクマは目の前で泣く冬香を見つめながら、彼女の大切な人を奪った事実が胸に重くのしかかる。

おばあさんを救えなかったこと、そしておばあさんや冬香を巻き込んでしまったこと。

その罪悪感が彼の心を抉る。

しかし、真実を告げることはできない。

自分も田島も、正体が知られれば全てが崩壊してしまう。


(何も言えなくて…ごめん…。

何もかも全部、俺らが悪いんだ…。)


その言葉を飲み込むように、サクマはただ冬香に寄り添い、涙を拭う手でそっと彼女の肩を抱いた。

彼女が体を預けるようにしてサクマの胸に顔を埋めると、声は出せないが、彼女は嗚咽を堪えられずに震えていた。


(ちゃんと顔を見てお礼を言いたかった…。

私も大好きなお菓子をあげて、まだまだたくさん話したかったのに…。)


冬香の後悔の念はとめどなく涙となり、サクマの胸に落ちていった。


彼女の熱い涙を通じて想いが伝わってくる。

サクマはその痛みに耐えながらも、ただ彼女の泣き声を静かに受け止めた。


しばらくして、冬香の震えが少しずつ収まり、涙が止まり始めた頃、サクマは優しく声をかけた。


「大丈夫ですか…?」


冬香はゆっくりと手帳を取り、涙で曇った目で文字を書き始めた。


“きゅうに ないてしまって ごめんなさい

ふく よごしちゃった”


「…僕のことは気にしないで。」


彼女は表情と会釈でお礼を伝えたあと、まるで心に決めたように、今度は迷いなくペンを進めていく。


“わたし、おばあさんのこと ずっとわすれない

あめだま みたときは かならず

おばあさんを おもいだして かんしゃするよ”


彼女の表情に、一筋の涙が光りながらも、かすかに笑みが浮かんでいた。

その姿は、サクマにとって驚きだった。

こんなにも強く、優しい心を持った人間が、彼の目の前にいる。

自分が巻き込んでしまったその悲しみにも、彼女はそれを乗り越えようとしている。


(どうして…こんなにも強くいられるんだ。)


サクマは心の中でそう呟いた。

彼女の強さ、温かさ、そしてその無垢さに惹かれ、ますます彼女への想いが募る。

その一方で、彼自身の罪深さがさらに彼の心を押しつぶそうとする。

冬香のような人間になりたい、そんな思いが頭をよぎるたびに、彼は自分がどれほど冬香から遠い存在であるかを感じずにはいられなかった。


ーーそうだ、彼女を守るためには。


冬香が涙を拭って少し落ち着きを取り戻したあと、サクマは頭の中でずっと引っかかっていたことを思い出した。


「冬香さん、実は…ちょっと提案があるんですけど…。」


と、ためらいがちに声をかける。


冬香が不思議そうにサクマを見つめると、サクマはなるべく冷静な表情を保ちながら続けた。


「主治医を…変えてみませんか。」


冬香は驚いたように目を見開いた。

首をかしげ、ペンを手に取ってメモ帳にすぐに書き込む。


“どうして?”


その問いに、サクマは一瞬、言葉を詰まらせた。

本当の理由を話すことはできない。

それがどれほど危険か、彼女に理解させるわけにはいかない。

しかし、田島が彼女の主治医でいること自体、サクマにとっては耐え難いことだった。


「…ただ、なんとなく気になるんです。

昨日のセクハラのこともあるし、冬香さんの反応を見るに、やっぱりあの医師とはすぐ離れるべきだと思います。」


サクマは慎重に言葉を選びながら話した。


「病院にはいろいろな医師がいるし…主治医を変えることも、よくあることですから。」


曖昧な説明をしながらも、サクマはその理由に冬香が納得してくれるかどうか、不安な気持ちがあった。


冬香はしばらく考えるように、ペン先を見つめていたが、やがてゆっくりとメモに書き始めた。


“たしかに、、、かえたほうが いいかな

そこまで わるい ひとには みえないけど”


その言葉にサクマの胸が重くなった。

彼女の目には、田島はただの距離感が近い一医師にしか映っていないのだろう。

もちろん、表面上はそう振る舞っているはずだ。

しかし、サクマの知る田島の真の姿とは大きく異なっていた。


「確かにそう見えるかもしれません。

でも…少し違和感を持ってる医者よりも、より良い医者に見てもらう方が安心だと思うんです。」


サクマは優しい口調で説得するように言った。

冬香は少しの間迷っていたようだが、最終的に小さく頷いた。


“うん、そうだね

もし ほかに いいせんせいが いたら

おもいきって かえても いいかも”


その瞬間、サクマは少しほっとした。

田島の手の届かないところに冬香を置くための、第一歩を踏み出した気がした。

しかし、同時に罪悪感も押し寄せてきた。

彼女には何も伝えられず、彼女の周りに危険が迫っていることを知っていながら、何もできない無力さに苛まれていた。


「ありがとうございます。

どの先生が信頼できるか、僕も少し調べてみますから。」


サクマは彼女に微笑んで見せたが、その笑みの裏側には複雑な感情が渦巻いていた。

それをどうにか払拭させるために、サクマは頭を回転させながら次の適切な話題を探し始める。


そこで、サクマはふと、彼女に何かしてあげられることはないかと考え、静かに問いかけた。


「何かやりたいことはありますか?

僕にできることなら、叶えましょう。」


冬香は少し考え込んだ後、顔を赤くしながらペンを走らせた。

そして、そのメモをサクマに見せる。


“いちにち だけで いいから デートが したい”


その予想外の言葉に、サクマは思わず目を見開いた。


(で…、デート………?)


自分には経験のないことだし、そんなことを冬香が望むとは思わなかった。

しかし、驚きが次第に喜びに変わっていく。

彼女となら、自分もしてみたい。

そう思う自分がいた。


「…デート、ですか。そうだな…。」


少し考え込むが、これから増えていく一方の仕事で一日まるまる休めるかはわからない。

けれども、彼女の願いを無下にはできなかった。


「うん…じゃあ…、美味しい店でも調べておく。」


サクマがそう言うと、冬香の顔がぱっと明るくなった。

その表情を見て、サクマも思わず微笑んでしまう。


クリスマスが近づくこの時期、二人は初めて連絡先を交換した。

初雪が降るかもしれないデートの日を、心待ちにしながら。




◉この物語に登場する人物、組織団体、その他地域施設などは全てフィクションで架空のものです。

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