非常階段の二人
冬香の病室を後にしたサクマは、人通りの少ない廊下へ抜け、重い鉄の戸を開く。
その先にある非常階段をひとつ降り、薄暗い踊り場で背を預けながら、冷たい手をポケットに入れて静かに立っていた。
(…そろそろか。)
周囲の気配に神経を尖らせていると、どこかでギィーっと戸が開き、誰かの足音が階段に鳴り響く。
下の階から声がしたのはその直後だった。
「思ったよりも美形なんだね、殺し屋なんてのも。」
軽い調子で話しかけてきたのは、田島だ。
サクマは彼に目を配ることなく、冷淡な態度でその言葉を無視した。
「ふふ、背も高いなぁ、185はあるでしょ。
俺も負けてないと思ってたけど、近くで見るとさすが韓国人、年齢不詳だね。」
構わずに話し続ける田島は、わずかに口角を上げる。
サクマの冷淡な反応は予想通りだが、職業に反したその美しい容姿と鋭い目つきが一層、彼を面白がらせた。
「どうも、お世話になりますね、“ユンさん”。
でもそんなに目立つと、正体がバレないように此処へ忍び込み続けるのは大変じゃない?」
そう言いながら、田島は未だに笑顔を保っている。
この薄気味悪い場所でその奇妙な笑顔を見せるのは、この男と変態くらいしかいないだろう。
「…仕事なので。
僕はあなたの行動を上に報告出来ればそれで良い。」
冷たい声が踊り場に響く。
サクマの表情は、いつものように硬く、感情を見せない。
「へーぇ、ちゃんと日本語ペラペラじゃん。
偽りの姿で監視役ってのも大変なんですね。
サクマくん、だっけ?
キミは多川会でも優秀な“クマ”だと聞いたよ。
上の命令に忠実で、殺人まで完璧にこなすんだってね。」
その言葉に、一瞬だけ眉を動かす。
(俺のいない間に誰かから聞き出したな…。)
田島の小賢しさが癇に障ったサクマは、鼻から小さくため息をつきながら、気だるそうに瞬きをした。
そんな彼に近づこうと、田島はゆっくりと一段ずつ階段を登ってくる。
「そんなキミが監視役だなんて…、俺はよっぽど信頼されてないってことなのかな。」
言葉とは裏腹に、田島は笑いながらサクマの横に立った。
彼は監視されている立場にもかかわらず、まるでそれを楽しむかのように振る舞う。
「でもさ、俺、キミの目を逃れようなんて思ってないよ。
だってほら、俺は清廉潔白な男ですから、ね。」
田島の軽口には、どこか試すような響きがあった。しかしサクマは動じず、視線を床に落としたまま低く応じる。
「…“清廉潔白”、その言葉が一番信頼に欠けます。
僕はあなたを信じるつもりも、見逃すつもりもありません。」
「ははっ、怖い怖い。
そんな風に監視されてたら凄くプレッシャーを感じるよ。」
「それが仕事なので。」
「そっかそっか、俺がちゃんと仕事するのを見届けなきゃいけないもんね。
ちゃんとやるから安心してよ。」
爽やかに笑いながらそう言い放った田島は、一歩前に出てサクマの方を振り返った。
「でも…そのクールな顔、いつまで続けられるだろうね。」
彼はゆっくりと、口を閉ざしているサクマの顔を覗き込むように近づいていく。
「…サクマくんて、“山本冬香”さんのことどう思ってるの?」
その名前に、一瞬サクマの目が冷たく光る。
しかし、彼はすぐに無表情に戻り、再び遠くの地面に目線を向けて答えた。
「別に何も。僕は仕事でここに来てるので。」
「本当に? うーん。
俺には、もっと違う“感情”が見えるけどねぇ…。」
田島はそのまま笑みを浮かべつつ、再び壁に背を預けた。
挑発的なのは明白だったが、サクマはそれに応じるつもりはない。
そんな彼を見て、田島は諦めたようにため息を吐く。
「…まぁいいや、どうでもいいし。
それより、少しで良いから俺に協力してくれない?」
田島はふと真顔になり、低い声でささやいた。
ようやく愛想が果てた彼の態度に、サクマは反応せずにただ黙って聞いていた。
「だって、そっちは簡単そうに言ってくるけど、実際結構ハードなんだよ?
身寄りのない新鮮な遺体が、この近辺にどれだけあると思ってんだかね。
でもキミなら、うまく調達できるでしょ。」
それを聞いてサクマは即答で言い放つ。
「正式な依頼なら多川会を通してください。」
その反応に、思わず田島は笑い返した。
「やだよそんなの、お金かかるじゃん。
別に、ちょっとだけでいいんだって。」
「…………。」
黙りこくったサクマの、相変わらず感情のない顔を見た田島が、今度はわざとらしく一言呟いた。
「あ…確か山本さんも身寄りのない患者だったなぁ。」
その言葉を聞いた瞬間、サクマは初めて田島の方へ目線をやった。
その冷たい瞳に、微かに鋭い光が宿る。
「…はい?」
「いや、あの子は確か身寄りが無かったよな〜と思ってね。
若くて新鮮な臓器は客に喜ばれるし、彼女をターゲットにするのも良いかもしれないな。」
田島の口元には薄い笑みが浮かんでいた。
彼はじわじわとサクマを追い詰めるように話を進めていくが、サクマは一切の表情を崩さない。
「……脅しているつもりのようですが、彼女は別の依頼に関係しているので、残念ながら手を出すことは許されません。」
「えっ、」
「それでも彼女の臓器が欲しいと言うのなら好きにして構いませんが、それはこちらの指示に背く行為だと見なし、上に報告して僕が合法的にあなたを嬲り殺します。
そちらの方が楽しそうですね、ぜひそうしましょうか。」
先程まで強気だった田島は、みるみると血相を変えて後退りを始める。
「はっ…はは、やだな、冗談ですよ。
こんなの本気にしちゃって、サクマくん真面目すぎだよ、もう。
あっ、だからさっき俺が彼女の病室に居たときあんなに睨んでたんだ、そっかそっか、はは。」
焦って乾いたような笑い声を絞り出しながら、わざとらしく言い訳を並べ立てる田島。
当然、サクマが咄嗟についた嘘だったが、幸いにも田島にとっては効果があったようだ。
(今までの余裕は見かけだけか。
こいつはどこかでトチりそうだな。)
そのとき、サクマのポケットの中で携帯が震えた。
画面を一瞥すると、彼は再び無言で立ち上がる。
「…………仕事が入りました。」
短くそう告げると、サクマは振り返りもせずに階段を降り始めた。
「……良かったですね、新鮮な遺体を今夜中にひとつ調達できそうです。」
そう言って去って行くその背中に向かって、田島の軽薄な声が響く。
「き、急に今夜中って…、今夜は既に一人先約が…!あ、ちょっと!」
サクマはその声に答えることなく、階段の下の暗闇へと消えていった。
◉この物語に登場する人物、組織団体、その他地域施設などは全てフィクションで架空のものです。
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