触れ合う心の鼓動
◉この小説には韓国語のセリフが出てきます。登場人物達の臨場感のある場面を想像してもらいたくて敢えて表記するようにしました。日本語訳を添えておりますので、読みにくいかとは思いますが、予めご了承くださいますと幸いです。
翌日ーー。
日が沈み、紫がかった冷たい青空が少しずつ暗くなってきた頃。
サクマはようやく最後の調査を終え、疲れきった足で近くに停めた車の元へと歩いていく。
仮眠も食事もあまり取れておらず、既に満身創痍な状態だった。
10年前来日したばかりの頃は寝なくても動けていたし、自分でもかなりタフな方だと思っていたが、近頃はそうもいかない。
毎晩のように悪夢に魘されるせいで、ろくに心身ともに休まらず、明らかに体力が落ちていた。
(はぁ……歳はとりたくない…。)
深くため息をついて、サクマは車に乗り込んだ。
しかし、彼は静かな車内でしばらく動きを止め、遠くの一点を見つめる。
そこに浮かんで見えるのは、あの病院の中庭で見た彼女ーー冬香の笑顔だ。
また会いに来ると約束した時の、彼女の顔。
あの時の表情が、再び脳裏を過ぎっていく。
仕事中、何度も彼女のことを考えていた。
何をどう考えていたのか、自分でもよく分からない。
ただ、また悲しい顔をしてるんじゃないか、また死にたいと思ってるんじゃないか。
そんなことが気になって、仕方がない。
(…まだ間に合うか。)
サクマは車内時計を見て、すぐにエンジンをかけた。
面会時間終了まで、まだ少し時間がある。
自分が会いに行って、彼女がほんの少しでも笑顔になれるなら、今すぐに駆けつけたい。
無意識にアクセルを踏む力がじわじわと強くなっていく。
さっきまで疲れていて力なんて湧かなかったのに、今から会えると思っただけで、不思議なほどその疲れが吹き飛んでいった。
彼女の何が、彼をそうさせるのか。
何故こんなにも、会いたいと思うのか。
何となく分かってはいるものの、まだその感情を受け入れることが出来ずにいる。
(まだ出会って数日なのに…ありえない。)
それでも、彼女を死から守りたいという気持ちは一層強くなっていく。
それがどんな理由であれ、彼はそうすると誓い、約束まで交わしたのだ。
もうすっかり空には星が光り、太陽の明かりが完全に消え失せてきた頃、ようやく彼女のいる病院が見えてきた。
思わず、胸がドクンと小さく跳ねる。
ーーもうすぐだ。
今日はどんなことを話そう。
もう少し彼女のことを知りたい。
ちゃんと飯は食ったのだろうか。
時間が許すまで、一緒にいたい。
彼女と一緒にいると、何だか落ち着くからーー。
サクマは不本意に高揚していた。
自分の考えていることが、まるで彼女に好意を寄せているようだったから。
(ありえない…はず…。)
徐々に、その否定していた心も自信を失っていく。
まさか自分は本当にーー…。
ーーサクマは病院の駐車場へと車を停めて、煌々と明かりが灯る病棟へと足を踏み入れた。
革手袋をポケットにしまっては化粧室で手を洗い、エレベーターに乗りこんだあと、小さな鏡越しにボサっと風で乱れた前髪を整える。
メガネをしっかりかけていることを確認して、辿り着いた階へと降りていった。
夜の入院病棟は、朝よりも人通りが少ない。
電話を片手に急いで病室を出るサラリーマンや、病室の前で医師に何度も礼を言っている中年夫婦。
それぞれ色々な事情があって、この時間にここへ来ているのだろう。
そんな中で、別の病室に入っていく女性の見舞い客にふと目が止まった。
手には果物の入った大きめの籠を持っている。
その籠には大きなリボンが付いてることから、どうやら患者へと贈るもののようだ。
(あ……ああいうの…した方が良い、のか。)
何も用意してなかった自分、いや、そんな事すら分からなかった自分が憎い。
贈り物なんて経験のない彼には、ハードルが高いように感じていたが、それでも彼女が喜ぶならと、今手持ちのものをバックパックから探り始める。
スパナ、バール、ハンマー、ナイフ、変な薬物がたくさん…。
どれも物騒なものばかりで、自分でも引いてしまった。
今から何かを買いに行こうにも、せっかくここまで来たならすぐにでも会いたい。
面会時間が終わるまで、あまり長くはないのだ
から。
(しょうがない…次は何か買ってこよう。)
果物の籠を手渡している女性と、それを嬉しそうに受け取る患者を見て、サクマはそう心に決めた。
しばらく廊下を進み、いつもの病室の前で足を止めた。
中は明かりがついていて、右奥のベッドの傍に人の気配がある。
(……起きてるな。)
ゆっくりと中へ入り、左右のベッドを通り過ぎて、窓際突き当たりにある右奥のベッドへと足を進めた。
彼の踵を引きずる足音に、ベッドへ腰かけていた彼女が立ち上がる。
「……!」
すぐそばで佇んでいる彼を見て、冬香はハッと息を呑んだ。
彼女はリンゴのプリントがされた可愛らしいトレーナーに身を包み、セミロングの髪の毛はふんわりと後ろで丸くまとめられている。
初めて見る彼女の雰囲気に、サクマは一瞬目を奪われるも、努めて冷静に声をかけた。
「……こんばんは。」
相変わらず表情はあまりないが、僅かに綻んでいる口元とその優しい声色に、冬香もまた、嬉しそうに微笑んだ。
いつものように、テーブルへ置いていた筆談用のメモ帳とペンを手に取る。
ペン先を滑らかに動かす彼女は、とても良い表情をしていた。
“ほんとに やくそく まもってくれた”
その文字を書いて笑みを零す冬香。
それを見たサクマは、言葉にならないような安堵感に包まれた。
ここに来てよかったーーそう思える今の時間が愛おしくて、離れたくない。
「早く来れるように、仕事頑張りました。」
まるで冬香のためにと言わんばかりのセリフで、彼女は嬉しさのあまり飛び跳ねそうになるのを必死で堪えていた。
“ありがとう”
今まで見た文字の中で、一番丸くて愛らしい印象を受けたサクマは、フッと少し笑って冬香に視線を向けた。
今日の彼女はどこか違う。
だが、その違和感の理由はすぐに分かった。
チラリと覗く頬は少し赤く、まだ若干濡れている髪の毛からは微かに石鹸のような甘い香りが漂っている。
それだけでなく、彼女自身から湯気のような暖かい温もりが伝わってきていた。
「…湯上りは身体が冷えます、これ着て。」
サクマはベッドの脇に掛けられていたストールを取り、冬香の肩へと羽織らせた。
(……肩も背も小さいな、子供みたいだ。)
彼の真下には冬香の控えめで小ぶりな頭が、大人しくちょんと収まっていた。
その姿があまりにも可愛くて、思わず口元が緩んでしまう。
どこか無防備なその姿に、彼はまた不意に胸が締め付けられるような感情が湧き上がってくるーー。
(な、なに? いまの……。)
彼の言動があまりにも自然で優しすぎて、冬香は動けなくなっていた。
何気ないそのさらりとした優しさに、胸が痛いほどに高鳴っていく。
(ずるいなぁ…、平気でこんなことできるなんて…。)
掛けてもらったストールの端をキュッと握って、鼓動を落ち着かせるように浅く長く息をするがーー、
(しかもお風呂上がりなのバレた…。)
恥ずかしさが全身を駆け巡り、彼女は不意に顔の下半分をメモ帳で隠してしまった。
目だけをひょこっと出し、彼に会釈してお礼を伝えるが、キョトンとしている目線を避けるように、片手で彼を隣の椅子へと促す。
「あ、あぁ……はい…。」
どこか気まずさを感じながらも、サクマは誘導されるまま椅子へ座り、冬香の左頬をじっと見つめている。
(髪が……。)
湿った後れ毛が彼女の頬に張り付いているのが気になって仕方がない。
「……。」
冬香が目の前で再びベッドへ座ったところで、サクマは彼女のつるんとした頬に手を伸ばした。
その瞬間、冬香の瞳には彼の動作の全てがゆっくりと映し出される。
突如伸びてきた手とともに、自然と近づく彼の顔。
メガネ越しに、自分の左頬へと僅かに視線をずらしている彼の大きな瞳から、目を離すことが出来ない。
(えっ、えっ…。)
緊張で、ドクンドクンと心臓が大きく揺れている。
彼の指はとても冷たく、風呂上がりで熱く火照った頬に、ひんやりとした心地良さをもたらした。
「っ…………。」
冬香はひゅっと小さく息を止めて、瞼を強く閉じる。
優しく触れた彼の指が、ツーっと撫でるように耳の上の方へと移動していった。
こそばゆさの余韻を感じている中、気付けばその手は既に離れていたようで、冬香は恐る恐る片目ずつ開けてみる。
サクマはちょうど腕を引っ込めたところで、視線を冬香の左頬から、開いた瞳へと移した。
バッチリと目が合った二人は、そのまま何度か瞬きをして、我に返ったように突然仰け反り顔の距離を離す。
「あ…すみません…、髪がくっついてたから…気になって…。」
その言葉を聞いて、冬香はさらに羞恥を感じ、顔をどんどん赤くしながら焦りだす。
(もう…!びっくりした…!恥ずかし…。)
火照りを吹き飛ばすように、メモ帳でパタパタと顔を仰ぎながら、触れられた頬を抑えて俯いていた。
サクマは彼女の様子を見て、一瞬戸惑ってしまう。
困らせた、あるいは不適切な行動だったかもしれないと。
(余計なことをしたか……?)
それでも心のどこかで、彼女の反応は悪いものでは無かったような気がしていた。
頬に触れたとき感じた、彼女の熱い視線。
彼女の肌から指に伝わる小さな鼓動。
ーーだけど、それが全て勘違いだったら…?
冬香に嫌な思いはさせたくない。
サクマは素直に、未だ頬を赤らめている彼女へ口を切った。
「本当に、すみません…。
手は、ちゃんと洗ってますので…。」
何とか詫びる気持ちを伝えようと、申し訳なさそうに手を低く挙げて弁明し始める彼。
冬香はそんな彼に、思わずクスッと笑っていた。
(…そこ??)
彼女の意外な表情に、サクマはまたしても疑問を抱くが、彼女が次に綴った言葉を見て、小さく安堵のため息をついた。
“そんなの きにしない ただ
こういうの なれてなくて はずかしかっただけ”
照れたように笑う彼女からは、嫌がっているような表情は見えない。
彼も一緒に、小さく笑みを浮かべる。
(良かった…。)
冬香には嫌われたくない。
サクマはそう、はっきりと自覚していた。
静かに笑っている彼女を見ながら、その感情が何なのか、ようやく理解できた気がする。
「冬香さんて……綺麗ですね。」
何気なく放たれた彼の一言が、二人の間に響き渡った。
冬香は彼の顔を見上げて、ずっとこちらを見下ろしている瞳と目を合わせる。
彼の思わず出たような口ぶりと真剣な表情から察するに、とても冗談で言ったとは思えない。
当然、サクマは本気だった。
「正直…あなたのことが気になります。
僕が余計なことをして、嫌われたくない。」
低い声で淡々と、でもどこか躊躇いを感じさせる口調で、冬香に心情を吐露していく。
彼女はそれを黙って聞いていた。
「僕が…、嫌ではないですか?」
冷静でありながら、少し不安の滲んだ目で問いかける彼は、冬香自身の存在を切実に求めているようにも見える。
彼女は長い間、誰かに求められたことなどなかった。
そして彼もまた、自分と同じ気持ちであったことに、何よりも安心感を覚えていた。
彼が求めてくれることが、ようやく自分を必要とされていることだと実感できたから。
冬香は目をそっと伏せ、少しだけ唇の端を持ち上げる。
そのままメモ帳に、ペンの先を置いた。
サクマも一緒に、そのペン先へと視線を落とす。
“きれいなんて はじめていわれた ありがとう
あなたを いやだった ことなんて いちども ない” ーー
そこまで書いた彼女は、一度ペン先が震えて文字の上で留まった。
何かを躊躇うように、口を噤みながらじっと文字を見つめている。
サクマはもうそこまでの言葉で納得し、既に満足していたが、冬香の様子を見て、ただ静かに待っていた。
(ちゃんと言ってくれたんだから…、私も伝えなきゃ。)
意を決し、冬香は勇気を振り絞るように震える手でペンを滑らせた。
“わたしも あなたが きになっているから”
ようやく、互いが意識しあっていることを理解したサクマは、少し目を見開いて彼女の顔へと視線を戻す。
頬から耳までを赤色に染めながら、困ったように眉を下げている冬香。
彼女はまるで気持ちを隠すことを諦めたように、彼を見つめ続けていた。
「지금 그 표정에 위아래로 쳐다보면 안 되지…」
(今その顔で上目遣いはダメだろ…。)
表情が固まったまま、思わず彼の口から声が出落ちる。
それを聞き逃さなかった冬香は、言葉の意味が理解出来ず首を傾げ、“なんていったの?”と書いて見せた。
(……伝わらなくて良かった。)
ふと我に返り、サクマは小さく首を振って「いえ、何も。」と無表情を貫いた。
彼女がやや不服そうに目で訴えかけてくる中、サクマのポケットで携帯電話が震えだす。
ヴーッ、ヴーッ……
ジョンウからで間違いないが、彼は病室にいることからすぐには出られないと判断し、一度端末を取り出して震えている着信をプツリと切った。
(さっき仕事終えたばかりなのに…ちゃんと報告しただろ。)
たった今まで忘れかけていた酷い疲労感を思い出し、サクマは深いため息を零す。
その一部始終を見ていた冬香が、彼のパーカーの裾にそっと触れた。
控えめすぎて触れられたことに気付かなかったが、頑張って視界に入ろうとする彼女の動きにのせられて、サクマはしっかり彼女の方へ向いていた。
“でんわ してくる?”
何も聞かず、ただこちらのことばかり気遣う彼女に、サクマは申し訳なく思いながら癒されるという、矛盾した複雑な気持ちに苛まれる。
「でも、…今は、」
ヴヴーーッ……
言い終わる前に、再び彼の端末が震えた。
今度はメッセージのようだ。
「………すみません、少し待ってください。」
冬香はこくりと頷いて、気だるそうに携帯の画面を開く彼を不安そうに見つめていた。
その途端、サクマは眉間を顰める。
それまで穏やかだった彼の顔色が、一気に冷たくなっていった。
サクマが見たのは、ジョンウからのメッセージ。
《本部で緊急集会だ。
油売ってないでさっさと来い。
高橋幹部が待ってる。》
ーー高橋。
彼に会うのは、一年前、自分が犯した失敗の時以来だ。
あの時から顔を合わせることなく、ただジョンウを介して奴の依頼する仕事を請け負ってきた。
その彼が緊急集会を開き、それに自分を招いたということは、おそらく只事では無い。
何か膨大な企みがあるのだろう。
すぐに行かなくては、ジョンウ率いるこちらの立場が危ういものとなるーー。
サクマは携帯をポケットへしまい、冬香の方へ向いた。
先程よりも感情がなく、冷めたような目つきをした彼に、冬香は少し動揺してしまう。
「………行かないと。」
彼の低く掠れた声色から、深刻な様子であることは明白だった。
彼女は咄嗟に、ベッド横の引き出しから小さな包み紙を取り出す。
サクマの手を握って、手のひらにそれを乗せた。
「……これは…?」
冬香は急ぐように、走り書きで文字を書いていく。
やがて、ぱっと手帳を見せて、にこりと小さく笑顔を見せた。
“おしごと おつかれさま
あまいもの きらいじゃなければ たべて”
読み終えると、彼女はこちらに相変わらず温かい笑みを向けて、控えめに手を振った。
冬香は疲れている様子の彼を案じ、少しでも何か出来ればと、ささやかながら出来ることを考えたのだ。
その出来ることというのは、たった一粒の飴玉をあげることでしかなかったが。
しかし、サクマはその飴玉を見て、一瞬穏やかな面持ちで彼女に言った。
「…今度は、僕が渡します。
それまで待っててください。」
彼の言葉に、冬香は安心して何度も頷き、彼が駆け足で病室から出ていくのを見守った。
(大変そうなのに…また来てくれるんだ。)
彼の優しさが、肩に掛けられたストールの中でじんわりと伝わってくる。
まだ僅かではあるが、彼の好意を確かに感じた冬香は、彼に触れられた頬に手を当てて、嬉しそうにその余韻に浸っていた。
サクマは、もらった飴玉を口に放り込みながら、病棟を出て車に乗り込む。
これまで病室であった一連の出来事に、今更心臓がうるさいほどに騒ぎ出した。
ーー彼女に触れてしまった。
手を握られてしまった。
気持ちを、伝えてしまったーー。
口の中に彼女から貰った甘すぎるほどの刺激が拡がっている。
それは徐々に、彼の冷酷な心を溶かしていくようだった。
“わたしも あなたが きになっているから”
「착각이라고 생각했는데…」
(勘違いだと思ってたのに…。)
あの時の、冬香のこちらを見上げる顔が、今もずっと頭から離れない。
ーーなぜ彼女は、こんな自分を意識してくれるのか。
こんな人間を、何故あそこまで信じて、純粋な目で見ていられるんだ。
こんな人、初めてだーー。
気付けば頭を抱えて、病棟の冬香がいる病室の辺りに目を向けている。
「벌써 보고 싶다니… 내가 미쳤나 봐…」
(もう会いたいなんて…、どうかしてる…。)
サクマは惚けた顔を無理に引きしめ、そのまま車を走らせた。
ーーしかし、多川会本部の巨大な門をくぐる頃には、浮ついていた足元が一気に重くなり、地に引き寄せられるような感覚が彼を襲う。
「久しぶりやなぁ、サクマぁ。」
何十人もの組員に囲まれた中央で、こちらをじっと見つめる高橋の不気味な笑顔が、彼の胸に冷たい嫌悪を呼び起こした。
◉この物語に登場する人物、組織団体、その他地域施設などは全てフィクションで架空のものです。
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