邪魔者の影と交錯する二人
◉この小説には韓国語のセリフが出てきます。登場人物達の臨場感のある場面を想像してもらいたくて敢えて表記するようにしました。日本語訳を添えておりますので、読みにくいかとは思いますが、予めご了承くださいますと幸いです。
サクマと冬香は、ただ二人の時を過ごしていた。
木のぬくもりが広がるベンチで、冷えた空気にじんわりと滲む陽の暖かさを感じながら、静かで穏やかなひと時に身を委ねる。
「…寒くないですか。」
サクマの落ち着いた低い声が、冬香の耳に心地よく響いた。
こくりと頷いた彼女は、今もまだ胸の高鳴りが治まらない。
《捨ててもまた、僕が拾います。》
《僕がもう、死にたいと思わせません。》
《約束します。》
彼の言葉が、ずっと心に突き刺さっている。
(…どういう…意味だったんだろ…。)
こんなことを言われたのは当然初めてで、冬香は未だ混乱の渦に溺れていた。
冬香を纏う雰囲気や様子が少し変わったことに、サクマはすぐに気がついて、俯きがちな彼女の顔をそっと覗き込む。
冬香の瞳には、艶やかな色白の肌をした、切れ長で大きな黒目を持つ彼の顔が映りこんだ。
今まで特に意識したことのなかった彼が、突然光り輝いて見えている。
「っ……!」
そんな彼のさほど近くない顔から、冬香は思わず不自然に身体を仰け反ってしまった。
膝の上で手の指をキュッと結びながら顔を逸らす彼女に、サクマは一瞬驚きと戸惑いが胸をよぎる。
(……?)
しかし、冬香の頬が先程よりも赤みを帯びているのにすぐ気づいた彼は、思わず口元が緩んでしまった。
(…露骨だな…。全部顔に書いてある…。)
縮こまって目を合わせない彼女だが、不思議と悪い気がしない。
むしろ、初めて見る彼女のそんな一面に、どんどん興味をそそられていった。
寒さでなのか恥ずかしさからなのか、垂れている髪の隙間からもっと赤く染った耳が覗いている。
サクマは無意識に、その垂れた髪の毛に手を伸ばしかけた。
可愛らしい彼女の耳と仕草を、もっとよく見たいと思ったから。
しかし、細く揺れる髪の毛に指先が軽く触れた瞬間ーー。
「こんにちは〜。」
後ろの方から聞き覚えのない男の声がした。
サクマは彼女に伸ばしかけた手を、咄嗟に膝へ下ろす。
冬香が声の聞こえた方へ振り返ってみると、薄手のダウンジャケットの中にスーツを着こなしている若そうな男性が、爽やかな笑顔でこちらに歩み寄ってきていた。
「突然すみません、私こういうものです。」
二人の目の前で立ち止まった男は、胸ポケットから黒い手帳を縦に広げる。
(警察…。)
冬香は思わず緊張して口を噤ませてしまうが、サクマは特に動揺もせず、「ユン」らしくニコリと軽く愛想を振りまいた。
しかしその笑顔の裏では、彼女との二人の時間を割かなくてはいけない状況に、腹の底で苛立ちを感じている。
(ったく…、こんな時に…。)
そんな事とはつゆ知らず、その男は手帳をしまいながら、呑気にふたりへ軽く会釈をしていた。
「刑事の小山田です。
昨晩、この近くで若い男性が酷い暴行を受けた事件がありまして…少しお話を伺えますか?」
小山田というその男は、寒さに両手を擦り合わせながら、嫌味のない人あたりの良さそうな笑顔で二人を交互に見た。
冬香は不安げな顔で、サクマに視線を向ける。
彼はその視線にすぐ気付き、彼女を安心させるように少しだけ目を合わせ、再び平然と小山田を見上げた。
「…ハイ、少しでしたラ。」
不慣れなイントネーションを装い、短い言葉で返すサクマ。
そんな彼に、小山田は思わず控えめに驚いて反応する。
「あれ、日本人の方ではない…?」
「…ハイ…。」
冬香も驚いた表情で、突然ぎこちなく日本語を話すサクマを見ていた。
「なるほど…。あ…じゃあ、そちらの女性は…?」
小山田に手を差し向けられ、冬香は一瞬戸惑いながら慌てて手帳を手に取りペンを握った。
しかし、彼女が文字を書き始める前に、サクマが声色ひとつ変えず先に口を開く。
「彼女は日本人、ここに入院していマス。声が出まセン。」
冬香は、自分の代わりにそう答えたサクマの方に目を配らせる。
彼の口調に疑問を持ちつつ、自分が話せないことを不安に思っていた彼女は、内心助かったと安堵していた。
小山田は冬香の表情と彼女の手元にある手帳を見て、それが事実であることを察し、何事もなかったかのように柔らかな顔に戻る。
「そうなんですね、失礼しました。
では早速ですが、昨晩から今朝にかけて…何か気になることなどはありませんでしたか?
犯行はこの近くの山のふもと付近で行われています。
近頃このような事件が相次いでいますので、何か些細なことでもお聞きできればと思いまして…。」
何も知らない冬香は、眉を寄せて困ったような表情で首を振る。
しかし、サクマには当然心当たりがあった。
(あいつ…、パクられるの覚悟で自ら通報したか。)
昨晩、酷い暴行を受けた若い男というのは、つまり今朝終えたばかりの依頼対象である、染谷のことで間違いなかった。
しかし、こんな立場の低そうな刑事が聞き込み調査をしたところで、残念ながら多川会組織にはたどり着けない。
なぜなら、彼の勤める風南警察署にも多川会に恩恵を受けている役員がいるからだ。
いつものように、この捜査はいずれ打ち切りになるだろう。
所詮、ただの暴行事件だ。
殺人未遂とは訳が違う。
サクマは穏やかな態度を崩さず、ただ、今この場に邪魔でしかない小山田に対し、相変わらず平然と言ってのける。
「さあ…、さっきここ来たばかりデ…特にナニも…。」
(だからさっさと帰れ…。)
さらりと答えたサクマに、小山田は真面目な顔で頷きつつも、何やら小さな手帳にメモを取り始めた。
すると彼は、そのままサクマを見てもう一度訪ねる。
「…すみませんが、お名前をお伺いしてもよろしいでしょうか?」
(あー…もう…。)
サクマは一瞬目線だけ下ろし、うんざりとした表情を必死で隠した。
それでも怪しまれないよう、小山田の目を見てなるべく即座に名前を答える。
「ユンです。」
小山田はすぐその名前を手帳に書き記す。
「ユンさん、どこの国から来られたんですか?」
「…韓国デス。」
「なるほど…、韓国ね。日本へは旅行で?それとも留学?」
「ゴガク留学…、まだうまく話せまセン。」
本格的に尋問に変わりつつあるこの会話に、冬香の顔つきが段々とこわばっていく。
語学留学生だという彼の意外な情報を初めて耳にし、彼女はにわかに信じがたく思っていた。
「いえいえ…、日本語の勉強がんばってるのが伝わりますよ。
もしよろしければ、身分証を見せてもらえますか?
在留カードか、もしくはパスポートを今お持ちでしたら…。」
「あー…、ミブンショ…。」
この小山田という刑事が、サクマのことを怪しんでいるのは明白だった。
サクマもまた、そのことに気付きながらも、あえて堂々と後ろポケットに手を入れて、財布を取り出す。
「そちらの女性の方も、お名前だけお伺いしてよろしいですか?」
冬香はこくりと頷いて、メモ帳にカリカリとペンを動かした。
「山本…冬香さんですね…はい、ご協力ありがとうございます。
何か気になることとか思い出したりしたら、いつでもこちらにご連絡ください。」
サクマが偽装の在留カードを探している間、小山田は《風南警察署》と書かれた自分の名刺を冬香に差し出し、彼女もそれをおずおずとお辞儀をして受け取った。
そんな時、サクマの携帯電話が、コートの中で光り震え始める。
ヴーッ、ヴーッ…。
のどかな中庭でその音が小さく響き渡り、冬香と小山田もサクマの方へと顔を向けていた。
連続する面倒事にサクマは溜息をつきながら、立ち上がって二人に軽く頭を下げる。
「…スミマセン。ちょっと、電話が…。」
「あぁ、どうぞ、お気になさらず。」
サクマはそのままベンチを離れ、声の届かない範囲まで遠ざかり、彼らに背中を向けて携帯電話を手に取った。
「………네. (はい。)」
《일이다.》
(仕事だ。)
電話越しに、気まずさを感じさせない冷静なジョンウの声が流れる。
昨晩の言い争いなど、もう全て忘れているかのような平凡な口調で、いつも通り淡々と仕事の依頼内容を説明していった。
《다니소메가 경찰서에서 다른 밀매업자가 있다는 걸 자백했다. 잡히기 전에 물건을 회수해라.》
(谷染が警察署で他にも売人がいることを吐いた。捕まる前にブツを回収しろ。)
「…네.」
(…はい。)
《혹시 모르니까 그 근처에 다른 밀매업자가 있는지 조사해둬라. 자세한 내용은 보내주겠다.》
(念のためそいつの近辺で他に売人が居ないか調査しておけ。詳細は送っておく。)
「…알겠습니다.」
(…分かりました。)
サクマの返事を聞くなり、ジョンウはためらうことなくブツリと通話を切った。
こちら側の状況も知らずに、再び谷染に関する依頼を投げつけてくるジョンウに、やり場のない不満を抱くサクマ。
息をつく暇もなく、通話が切れた携帯電話の画面には、依頼内容の詳細が次々と送られてくる。
その調査量の多さに、思わず目を瞑りたくなった。
(こんなに回るのかよ…、暇人と思ってこき使いやがって…。)
一通り軽く目を通した後、サクマは端末をポケットにしまい、冬香と小山田の方へ振り返った。
すると、今まで自分が座っていた場所に腰かけている小山田と、その隣にいる冬香が笑いながら見つめあっている様子が目に映る。
冬香はこちらの気配に気づくと、手元のメモ帳を閉じて嬉しそうに手を振った。
(なんだ…二人で何話してたんだ…?)
サクマは不審に思いながら、二人のいるベンチへと駆け寄っていく。
自分以外の人間に笑いかけてる冬香を見て、なんとなく、二人きりにさせたことを後悔してしまった。
「…スミマセン、ミブンショ…でしたネ。」
そう小山田に声をかけながら、サクマは再び財布を取り出す。
すると、小山田は立ち上がって彼に軽く頭を下げた。
「いえいえ、もう結構ですよ。
冬香さんから大体の話は伺いました。」
「……?」
小山田の言葉にサクマは一瞬止まり、思わず冬香を見る。
彼女は少し恥ずかしそうにこちらを見上げて、少しだけ笑顔を見せた。
「…彼女が危険だったところを助けてくださったそうで。」
「ああ…、ハイ…すこしだけ…。」
どうやら、冬香がサクマのことを話したことで、そこまで悪い人間では無いと判断されたようだった。
ようやく終わりそうな小山田の尋問に、サクマは心の中でホッと一息つく。
「ご協力、ありがとうございました。
ユンさんも、何かあればいつでもご連絡ください。」
「ハイ。」
(…お前に連絡するくらいなら自首してやる。)
「では…失礼します。」
サクマは脳内で皮肉をたれながら、遠のいて消えていく小山田の姿をしばらく眺めていた。
彼の後ろ姿が完全に見えなくなった頃、コートの肘当たりを弱い力でクンクンと引っ張られる。
見下ろした先には、すぐ傍で袖を控えめに摘まむ冬香がこちらを見上げていた。
「………ん?」
上目遣いの彼女に、一瞬胸が震えてたじろぐサクマだったが、触れられたその袖を振り払うことなく、そのまま冬香の瞳を見つめ返した。
彼女はメモ帳を捲って、先程書いたのであろう文字をサクマに見せる。
“にほんご すごく じょうずなのに
どうして へたに みせてるの?”
素朴だが当然の疑問だ。
彼女は、サクマにそうする理由なんて無いはずだと感じているだろう。
冬香の眼差しは真っ直ぐだ。
出来ることなら、訳を隠すことなどしたくはない。
しかし、「ユン」を偽るには必要なことで……。
ーーなぜ、彼女には初めから「ユン」を偽れなかったんだ。
ふつふつと湧き上がる罪悪感を押し殺し、サクマは都合の良い言い訳を答えていた。
「……日本語が弱いと相手が知れば、きっと面倒になって会話も短く済むから…。」
冬香はそれを聞いて、納得のいったような腑に落ちないような、微妙な顔で仕方なく頷く。
確かに、理由としては成り立つかもしれないけれど、彼の冷静な瞳の奥に、どこか違和感が漂っているように感じてしまう。
しかし、サクマは続けて言った。
「あと逆に、日本語を頑張ってる外国人に、優しくしてくれる人もいます。冬香さんみたいに。」
冗談交じりに付け加えたその言葉には、しっかりと本心がある。
本人にとっては言い訳のひとつのつもりだったが、冬香から感じた優しさは、確かにサクマの偏った思考を狂わせていた。
彼はそれを、良い事だとさえ思い始めている。
彼女と同じように、こんな自分にも優しさが存在していると知ったのだからーー。
冬香の微かな違和感は、彼の言葉で一瞬和らいだ。
《優しくしてくれる人もいます。》
《冬香さんみたいに。》
サクマの口元に浮かんだ僅かな笑み。
冬香はそれを見て、思わず小さく息を吸い込む。
心臓が少しだけ早く鼓動するのを感じていた。
(なんでそんなこと…平気で言えるの…?)
彼につられて、冬香も静かに笑顔を見せる。
サクマは何かを隠している、でも、彼のその言葉は真剣だ。
彼の言い訳めいた言葉と、さりげなく漏らした言葉の間には、何か重いものが横たわっている気がしてならなかった。
ーーもっと、彼のことが知りたい。
冬香の頭に思わぬ欲が過ぎる。
それを振り切るように、メモ帳へと目線を落とし、ペンを進ませていった。
“さっきの でんわ だいじょうぶ?”
聞いて良いものかどうか分からなかったが、冬香はまず少しでも、彼の世界へ踏み込もうと恐る恐る綴った文字を見せた。
サクマは表情を変えずに少しだけ考えて、ポツリとそれに応えながら頷く。
「うん…、仕事の電話でした。
悪いけど、すぐに行かないといけない…。」
どこか寂しさを感じさせる彼の声に、冬香も思わず俯いてしまう。
悲しみを滲ませる彼女の顔を見て、サクマは小さな棘で胸を刺されたような痛みを覚えた。
こんな顔をしている彼女に、もう《気が向いたら》なんて適当なことは言えない。
彼は冬香の小さな肩へ、そっと優しく手を添える。
その温かな手のひらの感触に、彼女は少し驚いた顔で、ふとサクマの方を見上げた。
「仕事が終わったら…必ずまた会いに来ます。」
真剣な眼差しで冬香を見つめるサクマに、彼女は大きく心が揺さぶられていく。
彼の言葉全てを、信じて鵜呑みにしてしまいそうだった。
(本当に…来てくれる…?)
疑いの眼が潤む彼女の表情を、しっかり読み取っていたサクマは、つい無意識にほんの少し鼻で笑って、ゆっくりと頷いた。
「明日か…遅くても明後日。
ちゃんと来ますから、…約束です。」
まるで彼女の心を見透かしたように、今度こそ固く約束を交わしたサクマ。
冬香は嬉しさから、さっきまで抱えていた不安を払拭し、僅かに瞳の輝きを取り戻す。
深く安堵した彼女が、あの優しく温かい柔らかな笑顔をサクマに見せた後、彼はその姿を一瞬だけ見つめ、小さく笑みを零し「じゃあ、また…。」と別れを告げた。
脳裏に彼女の姿を焼き付けたまま、サクマはその場を去って行く。
そして彼が立ち去った後も、冬香は彼が歩いて行った方向をしばらくじっと見つめていた。
触れられていた肩がまだ温かい。
心の中で何かが叫んでいる。
彼に惹かれても、良いのかな。
いや、本当は、もうーー。
命のやり取りをした二人の間には、確かに新たな感情が芽生えていた。
◉この物語に登場する人物、組織団体、その他地域施設などは全てフィクションで架空のものです。
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