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悪縁の顛末  作者: muniko
第三話
14/29

初めて交わす約束

◉この小説には韓国語のセリフが出てきます。登場人物達の臨場感のある場面を想像してもらいたくて敢えて表記するようにしました。日本語訳を添えておりますので、読みにくいかとは思いますが、予めご了承くださいますと幸いです。



夜が明け、病院の独特な空気が鼻先に染みる。


サクマは一晩かけた仕事を終え、さっそく整えた身なりで「ユン」になりすまし、一人静かに冬香のいる病棟へ向かっていた。

わざわざ来る理由なんてないはずなのに、仕事が終わるとなぜかこの場所が頭に浮かんだ。


「...살아있는지만 확인하면 돼.」

(…生きてるかどうか確認するだけだ。)


そう小さく自分に言い聞かせながらも、彼はもう既に病棟の入り口をくぐっていた。

心の奥で引っかかる違和感は消えていない。

彼女のことが気になって頭から離れない理由は、まだ自分でもよくわかっていなかった。


彼女の病室の前に着き、前と同じように開いた引き戸から中を覗き込んでみると、冬香が窓際の椅子に座って外に見える山を眺めていた。


(…なんだ?まだ自殺願望があるのか…?)


あまりにも呆けたように山の一点を見つめているので、サクマは訝し気に首を傾げる。


(まぁ…生きてるから良いか。)


鼻からため息を零し、ゆっくりと重たい踵を引きずりながら、冬香のすぐ後ろに近づいて行った。

その音に気付いて振り返った彼女は、一瞬で驚いた表情を見せる。

やや間抜けで面白い顔だが、血色は相変わらず良いとも悪いとも言えない。

でも前よりは、目の下のクマが薄くなっている気がした。


しばしこちらを見て固まった後、彼女はすぐそばに置いてあった手帳を手に取り、さっそく筆談を始める。

サクマもその綴られていく文字をじっと見つめていた。


“ほんとうに きてくれた

もう こないとおもった”


2行目の文字を見て、サクマは再び首を傾げた。


「…僕がもうこないと思った? どうしてですか?」


冬香は気まずそうに俯きながら、力なく筆を進める。


“きがむいたら くる っていって

きてくれた ひとは いままで だれも いなかった”


彼女の回答に、サクマは納得したように小さく頷いた。


(あぁ…、あれが社交辞令だと思ったのか。

そんなつもりなかったのに、面倒くさい文化のせいだな。)


サクマは不安げな表情でこちらを見ている冬香の瞳をしっかりと見つめて、無意識に少し冷たい口調で言い放つ。


「僕はそういう面倒なやりとりはしません。

本当に、気が向いたから来たんです。 その人たちとは違います。」


サクマの気を悪くしたと感じ取った冬香は、思わずメモ帳に顔を落とし、“ごめんなさい”と書きかけた。

しかし、その言葉を書き終える前に、サクマが再び口を開く。


「でも…不安に感じたなら…すみません。

もう二度と、そういう言い方はしないですから。」


まるで予想していなかった彼の言葉に、暗い顔で下を向いていた冬香が、手を止めてゆっくりと彼を見上げる。

サクマは無表情だったが、小さく咳払いをして、どこか照れくさそうに彼女から目線を逸らした。


それを見た冬香は、ようやく安心したように表情が綻び、“ごめんなさい”と書きかけたメモ帳に、もう一度ペンを走らせる。

カリカリとペンが紙を滑る心地よい音が鳴り、サクマは少しだけ目線を戻してその様子を見ていた。


“ごめんなさい、ありがとう”


そのふたつの単語には、たくさんの思いが込められていると感じた。

その文字を見せる彼女はどこか複雑そうではありながら、それでも嬉しそうに笑ってるように見えたから。


「…いえ……。」


そんな彼女に応えるように、サクマは少しの間だけ、ほんの小さな微笑みを見せた。

それを見た冬香も、不安を拭いさって穏やかで無邪気な笑顔に戻っている。


ふと、冬香はメモ帳を持ったまま立ち上がり、分厚い上着を手に取った。

ふわふわと髪を靡かせながらサクマの横を通り過ぎ、振り返って手招きをする彼女は、どうやら病室の外へ出ようとしているようだ。


「……?」


なんとなく誘われるがままに後をついて行くサクマ。

二人はそのままエレベーターで地上の階へ降りる。


“すこしだけ あさのおさんぽ”


エレベーターの中で見せてくれた文字は、どこか浮ついているような、女性らしく柔らかい印象が漂っていた。

朝っぱらから目的もなく歩くなんて、と一瞬面倒だと感じた彼もまた、自身の奥底で何とも言えない感情が主張するかのように飛び跳ねている。


誰かと一緒に散歩だなんて、いつぶりだろうか。

彼女と歩いている間は、きっと無難で平和な時が流れるんだろう。


ーーそんな時を、過ごしてみたい。


サクマは心のどこかで、求めていたのだ。

何も考えず、安らぎを与えてくれる場所を。

そして冬香もまた、同じようにそれを求めていた。


二人は自然に肩を並べて、同じ歩幅で歩き出した。

病院の敷地内にある、芝生が広がる中庭へ、ゆっくり、ゆっくりと。


「あらっ!山本さん!今日は顔色が良さそう!

ユンさんとお散歩? いいわね〜!今日は天気も一日晴れみたいよ!」


途中ですれ違いざまに声をかけてきた、あの声のでかい看護師に、冬香は戸惑いながらも会釈をする。

サクマもつられて、小さく頭を下げた。


「ユンさん、今日も来てくれたのね! ありがとう!

寒いから、二人とも風邪ひかないようにね! 温かくして!」


看護師は弾ける笑顔でそう言って、嵐のように素早く去って行った。

サクマはポカンとした目でそれを眺めながら、その姿が見えなくなると今度は冬香に視線を落とす。

彼女は何やらとても複雑な表情をしていて、それが明るいことばかり考えているわけではないことを表しているようだった。


「…どうしましたか?」


サクマの声に、我に返ったような反応を見せる冬香。

途端に苦笑いを見せて、メモ帳にサラサラと文字を書いて見せた。


“いいひとですよね、あのかんごしさん

なんだか、きもったまかあさん みたいで いつもげんき”


サクマがそれを読み終えたのを見届け、彼女は微妙に引きつった笑顔を見せながら再び前を歩き出した。


「……“きもったま…かあさん…”?」


あまり馴染みのない響きの言葉に、サクマは冬香の後ろを歩きながら疑問を抱く。

“きもったまかあさん”の意味は知らないが、彼女の表情を見るに、たった今書いた文章が全て良い意味で書いたとは言えないように感じていた。


(…あの看護師に何か不満があるのか? まぁ、確かに声も動きも煩いしな。)


サクマはそれほど気に留めることはないものの、冬香の表情や仕草から、彼女の反応が良いものか悪いものか少しずつ理解できるようになっていた。

彼女がどんなに表情を繕っていても、彼女の心情は非常に読み取りやすく、観察して推測することがやや楽しいとすら思えてくる。


(看護師にも心を開けないとなると、入院生活は息苦しいだろうな。)


あの看護師が悪い人間でないことは分かっていたが、サクマは冬香に少しの同情心が芽生えていた。

誰にでも心を赦せる人と、そうでない人がいるように、彼女と自分も心から自分を曝け出せる相手が居ないのだと、改めて気付かされたのだ。


「座りましょう、…そこのベンチに。」


サクマは立ち止まり、後ろから低い声で冬香を呼び止める。

振り返った彼女は少し驚いていたが、歩道のすぐ側にあるベンチを見て、ニコリと笑い頷いた。


二人はゆっくりと腰を並べて座り、ひんやりとした風を浴びながら澄んだ青空を見上げる。

サクマは気持ちよさげに風に浸る冬香を横目に遠くを見ながら、何気なく話しかけてみた。


「…リハビリは、どうですか。」


冬香はサクマの横顔に目をやり、少し考えながらメモ帳にペンを進めた。


“がんばってます けさも たいそうした

おひるから またりはびり

でも、こころの びょうきが げんいんかも しれないんだって

またちがう りはびりが はじまるのかも”


少し口を瞑ったような顔で肩を竦めて、冬香は小さくため息を吐く。

そんな彼女に、サクマは再び問いかけた。


「まだ、死にたいと思っていますか。」


彼の問いかけに、冬香は一瞬だけ瞳を揺らし迷いを見せる。

困った表情でしばらく俯いた後、ペンをぎゅっと握って文字を綴っていった。


“たまに そうおもってしまうことが ある ごめんなさい

でも、ユンさんに すくってもらった いのちだから ぜったい すてない”


一行目は予想していたが、二行目の言葉はサクマにとって、とても大きな意味を持っているものだった。


(…俺のおかげだから、絶対捨てないか。)


サクマは緩んでしまいそうな表情を見られないように、再び前を向いて遠くの空を眺めた。


「うん、捨てないでください。捨ててもまた、僕が拾います。」


冗談のつもりで言ったにもかかわらず、思わず彼から笑みが零れた。

きっと、彼女が本当に命を投げ出そうとしても、自分は何度でも彼女を助けるだろう。

今まで自分の世界に誰も入れてこなかった。

ーーでも、彼女は違う。


《大丈夫、私が助けてあげるからーー》


幼いころ、助けてくれたあの女性が教えてくれた、唯一の温かい感情。

結局、冬香を前にしてこの感情を抑えることはできないと、サクマは悟った。


「僕がもう、死にたいとは思わせない。約束します。」


もう後に引けないことは分かっている。

それでも、彼女を守らなければいけないーーいや、守っていきたい。

唯一、自分が人間らしくいられる大切な居場所だから。

サクマは自分の出した結論に呆れつつ、晴れた青空を見上げて笑っていた。


そんな言葉を平気で言いながら初めて優しく笑っている彼を見て、冬香は動揺を隠せない。

それと同時に、陽に当たって輝いている笑った彼の横顔が、とても美しく見えた。

彼との初めての約束、そして、初めての胸のときめきは、一層冬香の顔を熱くのぼせ上らせる。


「…冬香さん、でしたよね。」


突然こちらを振り返ったサクマに驚いて飛び上がり、冬香は赤い顔を隠しながら何度も小刻みに頷いた。

初めて彼に名前を呼ばれたことで、一気に緊張感が増していく。

まるでエコーがかかってるかのように、彼の低く落ち着いた声が脳内をぐるぐると駆け回っている。


「もう少し、ここに居ても良いですか? …一緒に。」


冬香は動揺に身を震わせながら、ゆっくりとぎこちなく首を縦に振った。


二人の距離が、少しずつ、縮まっていく。



◉この物語に登場する人物、組織団体、その他地域施設などは全てフィクションで架空のものです。

◉もし少しでも面白いと感じたらブックマーク・評価などよろしくお願い致します。励みになります。

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