第三話:プロローグ
夜の闇に、街のネオンがぼんやりと浮かび上がる。
ヒューっと音を立てながら、ビルの隙間を縫う風が通り過ぎていく。
目的地の近くで車を降りた俺は、黒いコートの襟を軽く引き締めながら、《rouge》と書かれたネオンの看板を横目に捉えた。
練習がてら、静かに名前を口にする。
「たにぞめ…けいた…。」
俺はこの夜、ジョンウさんに任された依頼を遂行するために動いていた。
キャバクラでボーイをしている谷染という若い男。
表向きは目立たない存在だが、裏では多川会の知り合いから手に入れたシャブを高額で売りさばいている。
今回の依頼はシンプルだった。
谷染に“ヤキ”を入れてブツを洗いざらい回収し、その流通ルートを潰す。
たったそれだけだ。
だが、俺はいつも通り殺しの仕事と同じくらい慎重だった。
特に、この依頼が誰から来ているのかを知っている以上、油断はできない。
どんな依頼内容であっても、1年前のような失敗は許されないからーー。
視線を店の奥へと注いだ。
薄暗い路地裏から店に通じる裏口を確認し、谷染が出てくるタイミングを静かに待つ。
壁に背をもたらせ、無駄に動かず、革手袋を装着した拳をポケットの中で温めながら、感情を一切排除させていく。
やがて、薄い扉が音もなく開いた。
吐き捨てるように煙草を地面に落とした男、谷染が姿を現す。
痩せた体と派手な髪型が、通りの明かりにぼんやり浮かび上がる。
俺はすかさず背後に距離を詰めた。
「…谷染恵太。」
雑居ビルの合間に声が低くこだまする。
驚いた谷染がこちらを振り返り後ずさるが、次の瞬間にはその腕が強くねじ上げられ、身動きの取れない無様な姿になっていた。
「いぃぃいっ…でぇ…っ!!
はな…はなしっ…て…いたいいたい…っ!!」
リスクある高額転売で稼いでるわりに、初めから警戒心が薄すぎる。
暴れようとするも、腕がこんなに後ろまで捻られてちゃ痛くて動けない。
こうなってしまっては、こいつの抵抗はもう無駄だ。
「ある人物から伝言です。
“お前が売ってるモノは、全部回収させてもらう。その男で懲りておけ“と。」
「ぐっ…た、…多川会の…っ!?」
「はい。そして…その男というのは、僕です。」
こういう時の手際には自信がある。
必要最低限の力しか使わない。
それでも谷染は力ごなしに抵抗を続ける。
仕方なく、腕を捻ったまま無理やり肩を組んで、ビルの裏を通って車の後部座席に詰め込んだ。
置いた瞬間脱兎のごとく抵抗してきたので、一発殴ったら大人しく頭を伏せた。
若い男は血の気が多い奴もいるが、この男はどちらかというと小心者のようだ。
俺はただひたすら任務を淡々と進めていく。
あちこち回って谷染が扱う在庫の薬物を回収し、山に連れ込んで仕入れルートを聞き出した。
ただ、仕入れ先に関してはなかなか骨が折れた。
聞き出した後に解放されるのは彼も分かっていて、俺から解放されれば今度は仕入先である組織の組員から痛い目に合わされるからだ。
喋っても地獄、喋らなくても地獄だ。
いや、俺は近頃優しいから、喋った方が地獄か。
何がともあれ、日が昇る前に吐いてくれて良かった。
俺は木々の枝に朝露が光るのを目にしながら、蜂の巣のような顔でぐったりしている谷染を車に載せ、山の麓にそっと落とした。
一晩かかったが、これで今回の依頼は終わった。
違法薬物で高額転売をする子供をしつけ、彼にそうさせてぬくぬくと利益を得ていた組織の裏切り者まであぶり出したのだから、これでもう充分だ。
だが、この依頼をジョンウさんを通して下した者の顔が一瞬頭をよぎる。
ーータカハシ、シゲノリ。
多川会上層幹部であり、ヨシダ会長の右腕的存在。
10年前、優秀な部下が欲しいとジョンウさんに頼んで俺を送り込ませ、《サクマ》という名を与えたのは、この男だ。
彼は俺の“1年前の失敗”を、未だに許していない。
だからこそ、こんなくだらない雑務ばかりが続いている。
本来の俺の仕事ではなく、組の人間がやるべき事なのに。
報酬も、割に合わない額だ。
しかし、高橋の思惑が何であれ、俺はただ目の前の任務をこなすしか道は無い。
信用を失った手前、そうすることしかできないからだ。
だが、今回も完璧に仕事をこなしたはずなのに、胸の奥に僅かに残る違和感が引っかかる。
ーーあの女はちゃんと、生きているだろうか。
それはやがて徐々に大きくなり、その存在を完全に無視することはできなくなっていった。
◉この物語に登場する人物、組織団体、その他地域施設などは全てフィクションで架空のものです。
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