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悪縁の顛末  作者: muniko
第二話
11/29

真の顔、真の名前

◉この小説には韓国語のセリフが出てきます。登場人物達の臨場感のある場面を想像してもらいたくて敢えて表記するようにしました。日本語訳を添えておりますので、読みにくいかとは思いますが、予めご了承くださいますと幸いです。



サクマは病院を後にし、冷たい風が頬に当たるのを感じながら歩き出す。

調子よく昼の調査をこなし終えて、足音が静かに響く夜道、彼は今朝の病室でのことを思い返していた。


“もしよければ、

なまえを おしえて くれませんか?

わたしは、やまもと ふゆか といいます”


彼女はあっさりと自分の名前を名乗り、そしてサクマにも聞いてきた。

不用心なのか何なのか分からないが、まだ3回しか会っていないのに、彼に対してかなり信頼を寄せているようだ。


そんな冬香に、サクマは一瞬言葉に詰まってしまった。

彼を信じて名乗った彼女に対して、サクマ自身は何もかも偽ることしかできない。


『……ユン…。』


いつもプライベートで使っている適当な名前を名乗ったものの、何故か少し、胸に違和感を抱く。

今までなら、名前を偽ることなど当たり前だったはずなのに、今回は違った。

自分を隠すことに、初めて軽い罪悪感を覚えていた。


“ユンさん、また きてくれますか?”


彼女の嬉しそうな笑顔が何度も頭をよぎる。

あの穏やかで優しい表情に、自分でも気づかないうちに気を許してしまっているような気がした。


「気が向いたら…」と言いながら、ほんの少しでも彼女の期待に応えたいという思いが生まれた自分に、サクマは衝撃を受けた。


「아… 정말, 왜 그런 말을 해버렸지… 괜히 기대만 하게 만들었잖아…」

(あー…もう、何であんなこと言ったんだよ…ただ期待させるだけだろ…。)


彼女と一緒にいると、後先を考えることが出来ない自分に苛立ちを感じる。

少し考えれば、もう会わない方が良いことくらい分かるはずなのに、なぜそれが出来なくなってしまったんだと。


廃屋が見えてきたころ、彼はふと足を止め、背後の来た道を振り返る。

もう一度彼女に会う理由が何もないはずなのに、なぜだか心の中には、小さな火種が燻っていた。

それが情なのか、単なる好奇心なのか、彼にはまだわからない。


冷たい夜風に身を包まれながら、彼は腹の底に封じてきたはずの許されない感情が、少しずつ表面に出始めていることを感じた。

闇の社会で生きてきた彼にとって、このような温かさや人間的な感情はあってはならないものだったはずだ。

しかし、今はその感情を拒絶する力さえも、どこかで薄れている気がしていた。


「하… 정말 한심해…」

(はぁ…本当にくだらない…。)


自分に言い聞かせながら、彼は再び歩き出した。


いつものように防犯スイッチを切り、廃屋の扉を開けた瞬間、部屋の暗闇の中に人影が見えた。


そこには、雇い主であり叔父であるジョンウが椅子に腰掛けていた。

それを見た瞬間、彼の表情は先程とは違い、いつもの冷徹な「サクマ」の顔へと変わる。


「…………형님.」

(……ジョンウさん。)


ジョンウの表情は穏やかだが、どこか重苦しい空気を漂わせている。

サクマが無言で扉を閉めると、ジョンウが不敵な笑顔で口を開いた。


「おかえり、サクマ」


と、いつも通りの冷静な日本語を披露する。

しかし、その声はやや低く、この静寂の中では張り詰める緊張感をもたらした。


「…………。」


サクマはコートを脱ぎ、彼から少し離れた向かいにある椅子にゆっくりと腰掛ける。


「완벽한 변장이군… 마치 배우 같아. 누군가를 만난 거야?」

(完璧な変装だなぁ、まるで俳優みたいだ。

誰かに会ったりでもしたのか?)


ジョンウの皮肉混じりの探りに、素早く「いいえ。」と、短く答えるサクマ。

彼の表情は感情を一切見せない。

冬香との温かい瞬間は、すでに彼の中で消し去られたかのようだった。


そんなサクマを一旦見逃し、ジョンウは淡々と携帯電話を取り出して、見知らぬ男の写真を見せる。


「일이야. 서구 하야카와 역 근처 《rouge》라는 가게에서 타니조메라는 보이가 마약을 퍼뜨리고 있다고 해.」

(仕事だ。西区の早川駅近くにある《rouge》って店で、谷染というボーイがヤクをばら撒いてるらしい。)


その写真を目の前でサクマに送信し、彼もポケットの中で携帯が震えたのを確認して、「네.(はい。)」と一言返事をした。


「…민간인만은 조심해라.」

(…民間人にだけは、気をつけろよ。)


こちらの機嫌を損なわないよう気を使っているジョンウの声に、サクマは内心腹が立った。


「…………네.」

(………はい。)


ジョンウはサクマの目をじっと見つめ、言葉を選ぶようにして口を開く。


「너, 요즘 상태가 안 좋다.」

(お前、最近調子が悪いな。)


その声にはあまり感情はなく、まるでついでのように言ったような言葉だったが、サクマにはその裏に潜む心配の色が感じられた。

しかし、ジョンウは決してそれを口にしようとはしない。


「괜찮습니다.」

(大丈夫です。)


サクマは無理に顔を引き締めて言うが、その声は少しかすれていた。


ジョンウは短くため息をつき、本音を易しく噛み砕いたつもりで話す。


「무리하지 말라고 말하는 거다. 네가 피곤한 건 다 알고 있다. 하지만 그걸 다른 사람에게 보이지 마.」

(無理してないか、と聞いてるんだ。

お前が疲れているのは分かってる。

だが、それを他人に見せるな。)


サクマはそれに反応して、一瞬だけ視線をそらす。

ジョンウの言葉の裏にある優しさを理解しているつもりだったが、それが自分には不要だと感じた。

いつも通り、無慈悲なジョンウのままでいてほしいという思いが、どうしても強くなる。


「알겠습니다.」

(分かってます。)


サクマは無表情を保ちながら、ひどく低い声で答えた。

ジョンウはさらに言葉を続ける。


「그럼 네 일에 대해서 입을 대지 말고, 뭐든지 나에게 보고해라.」

(なら、お前のことに口を出す必要はない。

ただ俺が言いたいのは、何かあったら黙って俺に報告しろってことだ。)


その口調は、どこか諭すようでもあり、ただの説教ではないように聞こえた。


サクマは頷いたが、心の中では複雑な感情が渦巻く。

ジョンウの優しさを感じ取ることはできる。

だが、それを受け入れることができない自分がいる。

この男の優しさが、どれだけ無意味で無力なものであるかを、サクマは知っていたのだ。


素直に頷いたと思ったジョンウは、本題に入るように重苦しく声を絞り出す。


「카마타 일 이후로 1년이 지났는데…」

(カマタの一件から1年が経つが…、)


その言葉に、サクマの眉がわずかに動いたが、すぐに元の無表情に戻った。


「…이미 끝난 일이에요. 더 이상, 난 어떻게 해야 합니까?」

(…もう、終わったことです。

これ以上、俺はどうすれば良いのですか?)


サクマの声には冷たさが滲んでいる。

ジョンウが何かを言おうとしているのは分かるが、彼にとってそれはもう忘れ去りたい出来事であり、少しでも思い出せば、激しい罪悪感と自己嫌悪に襲われてしまう。


しかし、ジョンウは視線を落とし、ため息をついた。


「도현아…」

(ドヒョン…、)


ジョンウが静かに名前を呼んだその瞬間、部屋の空気が変わる。


「그만해.」

(やめろ。)


声を低く抑えたサクマの目が鋭く光る。


今は「ドヒョン」と呼ばれただけで、彼の心の中が乱されてしまう。

一瞬、幼い頃の記憶、まだ無垢だった頃の彼の姿を呼び起こすほどに。


だが、今の彼は「サクマ」――冷徹であり、感情を捨て去った人間だ。


1年前からずっと、彼は悪夢を見ている。

子供の頃の自分が、誰かに恐ろしい声で《サクマ!》と怒鳴られる悪夢を。

あの時、無関係の民間人に危害を加えたことによって、彼の唯一人間であった部分ーー“ドヒョン”が深く傷ついたことが原因だった。

その瞬間に、彼は自分の中に封じ込めていた人間“ドヒョン”の存在を、思い出してしまったのだ。


彼、“ドヒョン”は誰も傷つけたくない。

しかし、“サクマ”である以上、必ず誰かを傷つけながら生きていかなくてはいけない。


その矛盾の渦に溺れもがく彼は、既に心が崩壊しそうになっていた。


そしてまた、ジョンウによって呼ばれた名前が《サクマ》の心を大きく乱し、次第に強い頭痛が起こり始め、小さな耳鳴りのような音が突き刺すように響きだした。


ジョンウは、痛みに頭を抱えるサクマをしばらく見つめ続けた後、少し動揺しながら再び口を開く。


「…그런 상태로 네가 언제까지 ‘사쿠마’로 있을 수 있겠냐, 도현아…!」

(…そんな状態で、お前はいつまで“サクマ”でいられるんだ、ドヒョン…!)


その問いに、サクマは胸の奥が再びざわめいたが、彼はそれを無理やり抑え込みながら悲痛に叫んだ。


「그만 둬! 난 죽을 때까지 ‘사쿠마’야… 그 외의 이름은 필요 없어!」

(やめろ! 俺は死ぬまでサクマだ…!

それ以外の名前は必要ない!)


切なる訴えが、部屋中に轟く。

まるで強い恨みを込めるように、彼は続けて低く掠れた声で言い放った。


「너희들이… 그렇게 말했잖아….」

(あんたらが…そう言ったんだろ…。)


その声を聞いて、ジョンウの顔には微かに悲しみが滲む。

彼の中で、《サクマ》と《ドヒョン》がせめぎ合っているのは明白だった。

ジョンウは彼の声に、ただ耳を傾けることしか出来ない。


しかし、サクマはそれ以上言葉を紡ぐことなく立ち上がり、再びコートを手に取って力なくゆっくりと部屋を出て行った。


ジョンウは一人、彼がいつも暮らしているこの暗闇の中に残り、静かに重たい息を吐く。

互いに大きな亀裂が入っていることを感じながらも、それでも尚、仕事を与え続けなければいけない自分の非道さを恨んだ。


「그래… 내가 그렇게 만든 거야…」

(そうだ…俺がそうさせてしまったんだ…。)


誰にも届かないその呟きには、後悔の念だけが詰まっている。

ジョンウもまた、1年前のあの件から変わってしまった“ドヒョン”に対して、子供の時からこれまで自分が育ててきたことを、深い罪悪感として抱いていたのだ。


助けたい、でも、助けられない。

自分があの子を、こうさせたのだからーー。


廃屋の外では、サクマが感情的に抗う呼吸を整えるように白い息を吐いていた。

寒さに身を竦ませ、コートを羽織り、携帯電話を手にすると、先程の通知が薄暗く光っている。


冷たい空気を深く吸って吐き、真っ暗な空を見上げた。

殺しか、脅しか、拉致か。

どんな依頼でも引き受けるしか手は無い。


覚悟を決めて、顰めていた眉を元に戻し、いつもの気だるげな面持ちで携帯の画面を見つめた。


《対象:西区 早川駅前 繁華街 キャバクラrouge スタッフ 谷染恵太。目的:回収、ヤキ。》


(何で俺がこんなことを…。)


見るからに若い男の情報と、くだらない依頼内容を把握し、無言で山を下って歩いていく虚ろな彼。

何が起きてもなりふり構わず、ただひたすら、次から次に課される仕事へと向かう。


こうして、彼は再び「サクマ」に戻るのだ。



◉この物語に登場する人物、組織団体、その他地域施設などは全てフィクションで架空のものです。

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