5
十歳の僕は、中学生の兄と待ち合わせをしていた。中学校からの帰宅ルートにある公園で落ち合って、おやつを買いに行く予定だった。彼が時間通りに公園の入口にいたのが、同級生にも目撃されていた。
優しい兄が待ってくれていたのに、僕は自分の帰り道に、友だちとお喋りにふけっていた。急いで家に帰ってランドセルを放り投げた頃には、どう頑張っても遅刻してしまう時間だった。
なんて馬鹿なことをしたんだろう。僕は結局、兄に会えなかった。
飲酒運転のトラックが公園に突っ込む事故に、彼は巻き込まれた。即死だったそうだ。
僕が時間通りに約束を守っていれば、兄はその場にいなかった。以降六年間、僕は何度も同じ夢を見ている。
背の高い草が生い茂る場所で、向こうに人影が見える夢。その背格好から、それが兄の佑一であることを僕はすぐに悟る。と同時に、恐ろしくなる。おまえも早くこっちにこい。そう言っているような気がして、逃げ出したいのに足は一歩も動かない。
制服姿の彼の顔には、真っ黒な影が被さっていて、表情はわからない。どんな顔をしているのか、見えてしまうのが怖くて堪らないのに、凝視してしまう。
そして兄の恨みごとを聞く前に、僕はなんとか悪夢から目を覚ます。
あれは彼の亡霊だ。霊は僕を引き込みたくて、向こうの世界に誘っているんだ。僕はそう信じていた。
もしかしたら、それは大きな間違いだったのかもしれない。
翌朝、繰り返す二十五日の中で、僕は仏壇の前に座った。線香のにおいに鼻をくすぐられながら、遺影の中で笑っている兄をじっと見つめた。
その日、僕と葉月はほぼ同じ時刻に到着した。お互いに手を振り合って、軽い挨拶をする。
「佑二、どこ行く?」
問いかける葉月に、僕は近くの喫茶店の名前を出す。彼女は少しだけ目を見張って、「行こう」と笑った。
僕は彼女との時間を大事に過ごした。下ろした黒髪の艶も、ほんのり赤く染まった頬も、透明なマニキュアを塗った爪の長さも、葉月のことなら子細に思い出せるよう目に焼き付けた。「そんな見ないでよ」照れくさそうな笑顔も、永遠に忘れない。
僕の提案に、彼女は明確に驚いて僅かにたじろいだけれど、すぐに大きく頷いた。
店を出てから、少し長い距離を歩く。懐かしい思い出を語りながらだと、いくらでも歩ける気がする。
花屋で買った花束を抱いて、再び歩き出す葉月は嬉しそうだった。白いユリやピンクのスイートピーに顔を近づけて微笑む姿は、とても綺麗だった。
「……どうしたの、急に」
そして、ゆっくりと問いかける。
「最後の日だから、ってこと?」
僕もゆっくりと首を振る。
「昨日の葉月に言われたから」
きょとんとする彼女は「なにそれ」と呟いて、「変なの」とくすくす笑った。
僕は、あれから一度も、彼が亡くなった公園を訪れていなかった。僕を恨む兄が入口に立っているような、そんな気がして近寄れなかった。
だけど、三月の日差しを浴びる公園に、亡霊の姿はどこにもなかった。
公園に入り、敷地の内外を隔てる花壇の足元に、葉月が花束をそっと供える。ひさしぶり、と声に出さず呟いたのが、唇の動きで耳に届いた。
並んでしゃがみ、手を合わせて目を閉じる。兄貴、ごめん。僕は今まで何度も繰り返した謝罪を心の中で改めて口にする。ごめん。だけど、どうするべきか、もうわかったよ。
目を開けると、数秒後に葉月も瞼を開いた。じっと花束を見つめる彼女の瞳は、やがて僕の方を向いた。
「佑二、ずっと避けてたでしょ。この公園」
どうかな、僕は呟いて立ち上がり、花壇の縁に浅く腰かける。
「避けてた。絶対」口を尖らせる彼女も、すぐ横に腰を下ろして微笑む。「でも、一緒に来られてよかった」
しばらくの沈黙が下りた。でもその沈黙は気まずくなくて、むしろ爽やかに感じる心地良ささえあった。
「ゆう兄のお願いごと、知ってる?」
知ってるけど、僕は知らないと言った。昨日の葉月が教えてくれていたけど、「ねがいごと?」ととぼけてみせる。
「……事故に遭う前の日ね、私、おつかいの途中でゆう兄に会って、一緒に話したの。一番星が見える頃で、もし流れ星が見えたら、何のお願いするって話になって」
僕が黙って頷くと、彼女は僅かに顔を歪めた。それは、辛さや悲しみの感情に繋がっていた。
「私は、そのとき流行ってたおもちゃが欲しいとか、そんなことを言った気がする」
「兄貴は、なんて」
「……佑二とはーちゃんが、ずっと一緒にいられますようにって」
それが、兄の願いだった。僕と葉月がこの先も仲良く隣にいられることを、彼は願ってくれていた。
手の甲で目元を拭って、葉月は少し先の地面をじっと見つめる。僕も、何もない地面を見る。
「行こう」
立ち上がった僕に、葉月も頷いた。