表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/7

5

 十歳の僕は、中学生の兄と待ち合わせをしていた。中学校からの帰宅ルートにある公園で落ち合って、おやつを買いに行く予定だった。彼が時間通りに公園の入口にいたのが、同級生にも目撃されていた。

 優しい兄が待ってくれていたのに、僕は自分の帰り道に、友だちとお喋りにふけっていた。急いで家に帰ってランドセルを放り投げた頃には、どう頑張っても遅刻してしまう時間だった。

 なんて馬鹿なことをしたんだろう。僕は結局、兄に会えなかった。

 飲酒運転のトラックが公園に突っ込む事故に、彼は巻き込まれた。即死だったそうだ。

 僕が時間通りに約束を守っていれば、兄はその場にいなかった。以降六年間、僕は何度も同じ夢を見ている。

 背の高い草が生い茂る場所で、向こうに人影が見える夢。その背格好から、それが兄の佑一であることを僕はすぐに悟る。と同時に、恐ろしくなる。おまえも早くこっちにこい。そう言っているような気がして、逃げ出したいのに足は一歩も動かない。

 制服姿の彼の顔には、真っ黒な影が被さっていて、表情はわからない。どんな顔をしているのか、見えてしまうのが怖くて堪らないのに、凝視してしまう。

 そして兄の恨みごとを聞く前に、僕はなんとか悪夢から目を覚ます。


 あれは彼の亡霊だ。霊は僕を引き込みたくて、向こうの世界に誘っているんだ。僕はそう信じていた。

 もしかしたら、それは大きな間違いだったのかもしれない。

 翌朝、繰り返す二十五日の中で、僕は仏壇の前に座った。線香のにおいに鼻をくすぐられながら、遺影の中で笑っている兄をじっと見つめた。

 その日、僕と葉月はほぼ同じ時刻に到着した。お互いに手を振り合って、軽い挨拶をする。

「佑二、どこ行く?」

 問いかける葉月に、僕は近くの喫茶店の名前を出す。彼女は少しだけ目を見張って、「行こう」と笑った。

 僕は彼女との時間を大事に過ごした。下ろした黒髪の艶も、ほんのり赤く染まった頬も、透明なマニキュアを塗った爪の長さも、葉月のことなら子細に思い出せるよう目に焼き付けた。「そんな見ないでよ」照れくさそうな笑顔も、永遠に忘れない。

 僕の提案に、彼女は明確に驚いて僅かにたじろいだけれど、すぐに大きく頷いた。

 店を出てから、少し長い距離を歩く。懐かしい思い出を語りながらだと、いくらでも歩ける気がする。

 花屋で買った花束を抱いて、再び歩き出す葉月は嬉しそうだった。白いユリやピンクのスイートピーに顔を近づけて微笑む姿は、とても綺麗だった。

「……どうしたの、急に」

 そして、ゆっくりと問いかける。

「最後の日だから、ってこと?」

 僕もゆっくりと首を振る。

「昨日の葉月に言われたから」

 きょとんとする彼女は「なにそれ」と呟いて、「変なの」とくすくす笑った。


 僕は、あれから一度も、彼が亡くなった公園を訪れていなかった。僕を恨む兄が入口に立っているような、そんな気がして近寄れなかった。

 だけど、三月の日差しを浴びる公園に、亡霊の姿はどこにもなかった。

 公園に入り、敷地の内外を隔てる花壇の足元に、葉月が花束をそっと供える。ひさしぶり、と声に出さず呟いたのが、唇の動きで耳に届いた。

 並んでしゃがみ、手を合わせて目を閉じる。兄貴、ごめん。僕は今まで何度も繰り返した謝罪を心の中で改めて口にする。ごめん。だけど、どうするべきか、もうわかったよ。

 目を開けると、数秒後に葉月も瞼を開いた。じっと花束を見つめる彼女の瞳は、やがて僕の方を向いた。

「佑二、ずっと避けてたでしょ。この公園」

 どうかな、僕は呟いて立ち上がり、花壇の縁に浅く腰かける。

「避けてた。絶対」口を尖らせる彼女も、すぐ横に腰を下ろして微笑む。「でも、一緒に来られてよかった」

 しばらくの沈黙が下りた。でもその沈黙は気まずくなくて、むしろ爽やかに感じる心地良ささえあった。

「ゆう兄のお願いごと、知ってる?」

 知ってるけど、僕は知らないと言った。昨日の葉月が教えてくれていたけど、「ねがいごと?」ととぼけてみせる。

「……事故に遭う前の日ね、私、おつかいの途中でゆう兄に会って、一緒に話したの。一番星が見える頃で、もし流れ星が見えたら、何のお願いするって話になって」

 僕が黙って頷くと、彼女は僅かに顔を歪めた。それは、辛さや悲しみの感情に繋がっていた。

「私は、そのとき流行ってたおもちゃが欲しいとか、そんなことを言った気がする」

「兄貴は、なんて」

「……佑二とはーちゃんが、ずっと一緒にいられますようにって」

 それが、兄の願いだった。僕と葉月がこの先も仲良く隣にいられることを、彼は願ってくれていた。

 手の甲で目元を拭って、葉月は少し先の地面をじっと見つめる。僕も、何もない地面を見る。

「行こう」

 立ち上がった僕に、葉月も頷いた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ