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翌日、既に朝の九時を過ぎた頃にやっと目を覚ました。
寝転がったままぼんやりと部屋の天井を見上げて、身体の中に空っぽが広がっているのを感じる。虚無感が全身を支配していて、起き上がる気になれない。気持ちは深く深く沈んでいて、このまま永遠に浮上しないような気さえする。
再び目を瞑ると、枕元のスマホが音を立てた。
重い腕を伸ばして、手に取って画面を見る。新着メッセージ1件の文字を、何も考えずタップした。
どこにいるの?
葉月からのメッセージに、思わず跳ね起きて目を見張った。彼女から二度と連絡はこないはずだった。胸の奥で少しだけ期待が頭をもたげる。もしかしたら、彼女はまだ繋がっていてくれるのかもしれない。
同時に、その言葉の意味に首をひねった。返す言葉を考える目の前で、新しいメッセージが届く。
駅前なんだけど、もしかして遅れてる?
「駅前……」思わず僕は呟いた。僕らの中で駅といえば、市内で一番大きな駅をさす。昨日待ち合わせをしていた場所だ。だけど、今頃彼女は新しい場所に向かっているはずで、いつもの駅前に現れることはない。見送りはいらないと言われたし、引っ越し先への交通手段も、今日何時の出発かも教えてもらっていない。
迷いながら、電話をかけた。二コールで、すぐに彼女は電話に出た。
「祐二?」聞き慣れた葉月の声が鼓膜を打つ。「どしたの、遅刻?」
「葉月……」
声の掠れが寝起きのせいだということに、彼女は気が付いた。
「もしかして寝てたの?」
「そうだよ」
「信じらんない! 今日約束してたじゃん!」
やくそく、と口に出したけど僕にはまったく心当たりがない。慌ててスケジュール帳を開いたけど、やっぱり予定は一つも書きこまれていない。
「ごめん、約束って、何かしてた?」
「ちょっと嘘でしょ。明日引っ越すから、今日一緒に出かけようって約束したじゃん!」
嘘、とはこっちが言いたい台詞だ。だけど葉月に頭が上がらない僕は、取り合えず駅に向かうことにして電話を切った。
シャツにジーンズ、昨日と同じフリースジャケットに袖を通して家を飛び出し、電車に乗った。空いている席に座って改めてスマホを確認して気がつく。三月二十五日の土曜日。画面は昨日と同じ日付と曜日を示していた。
頭が混乱する。ネットの検索ページで「今日の日付」と入力してみたけど、結果は三月二十五日だった。SNSやネットニュース、ゲームアプリを開いてみても、全て三月二十五日の日付。どういうことだ。確かに僕は昨日の三月二十五日土曜日に、葉月とデートをしたはずなのに。
電車を降りて改札を抜けて、駅前の広場に小走りで向かう。昨日と同じ時計台下のベンチには、薄桃色のダウンジャケットを着た葉月の姿があった。
「ほんとに寝てたの?」
怒り半分呆れ半分の顔で、葉月は僕を責める。咄嗟に「ごめん……」と謝ってしまう。
「でも、今日って二十六日だよね、日曜日」
「何言ってんの。今日土曜でしょ」
「いや、昨日デートしたじゃん。ここで待ち合わせして、本屋とか行って……葉月、昨日もそのダウン着てて」
ぽかんとした顔で僕の言い分を聞いていた彼女は、今度は困った顔をした。まるきり理解されていない雰囲気に、僕はスマホを取り出す。そういえば昨日、葉月から連絡を貰っていたはずだ。
だけど、彼女とのやり取りに、昨日のメッセージは含まれていなかった。あと五分という彼女からの連絡は、綺麗さっぱり消えている。削除の形跡すらなく、今朝の「どこにいるの?」を遡ると、二十四日のやり取りが表れる。
「どうなってんだ……」
「それはこっちの台詞だよ。佑二、大丈夫? 夢見たんじゃないの」
次に心配そうな顔つきで僕の様子をうかがうのに、「でも」と僕は更に食い下がろうとした。だけど、何と言えばいいのかわからない。僕の頭の中にしかない昨日の記憶は、相手を納得させる証拠にはならない。
「疲れてるなら、今日はやめとく?」
葉月の言葉に、僕は咄嗟に首を横に振った。
もしかしたら、僕は長い夢を見ていたのかもしれない。今日が本当の三月二十五日で、単に僕が寝坊して遅刻をした、それだけのことなんだろう。
「……夢だったのかな。ほんとごめん、葉月」
「しょーがないなあ」
彼女と一緒にいられるタイムリミットはあと僅かなのに、一時間も無駄にしてしまった。それを悔いる僕に、葉月は笑って手を差し出す。その手がすっかり冷えているのに申し訳なく思いながら、僕は握り返す手に力を込めた。
今日は駅の近くの喫茶店に長居した。話が弾んで、そのままそこでお昼を食べて、やっと店を出てから街を歩く。服屋のマネキンがすっかり春服を着ているのを見て、寂しくなる。お気に入りのカーディガンを羽織る葉月と歩くことは、二度とできないから。
道に出ているキッチンカーでクレープを買った。僕はチョコバナナ、葉月は苺に蜜柑、マンゴーの詰まったスペシャルなやつ。それを食んで幸せそうに「おいしい!」と笑う彼女と一口ずつ交換した。僕の口の端についた生クリームを指先ですくってぺろりと舐めて、葉月は照れくさそうにはにかんだ。涙が出そうなほど愛おしかった。
そして、僕は今日も涙を止められなかった。
「さよなら」
暗くなってきた駅前に戻った時、彼女は瞳を潤ませてそう言った。
「さよなら」
僕の頬も、涙が一筋伝って落ちた。