「貴方を愛するつもりはない」とあれだけきっぱり告げたのに、何故か殿下の寵愛は健在です
「お言葉ですけれど――」
それは二人の婚儀の日取りが決まった、とてもめでたい日のはずだった。
王城の一室、窓から覗く空は雲一つなく、まるで二人の未来を祝福しているように清々しい青をしていた。
けれど、議会で可決された婚儀に関する書類を前に、リリアーヌがは深く溜め息を落とした。
そして、一言。
「殿下、私に貴方を愛するつもりはありませんわ」
これからもこれまでと同様宜しく頼むと言った第一王子・エーベルハルトに、耳を疑うような冷たい宣告がなされる。
部屋に控えていた数名の重臣がざわめくが、リリアーヌはそれをまるで気にすることなく、不機嫌そうに引き結んだ口許を扇で隠した。
「リリアーヌ、君はこの婚姻に不満があると?」
心無い言葉を吐かれたエーベルハルトは、けれど怒りも動揺も見せず、柔和な笑顔を浮かべたままゆっくりとした口調で問う。
「……"妃"となることは幼い頃から定められていたこと。国のため、その役割は果たしましょう。それには当然、世継ぎを産むことも含まれております」
けれども、とリリアーヌはきっぱりと告げた。
「私の心は私のものです。それだけは差し上げられません」
「――――」
沈黙がその場を支配する。
その場にいる第三者全員の背にひやりと冷たい汗が流れる中、駄目押しのように、リリアーヌは言い募った。
「この先、何もかも私を好きにできるなど、そんな風には思わないでくださいませ」
◆◆◆
この国で、令嬢・リリアーヌ・ルグウェルのことを知らぬ者はまずいない。
美しいブロンドの髪、アイスブルーの理知的な眼差し、華やかなドレスはいつでもその美貌を引き立てるためのいち道具にしか過ぎず、どこにも隙一つない優雅な所作には周りが溜め息を落とすほど。
大国・スターニア王国の筆頭貴族の生まれという、貴族の中でも抜きんでた身分を持ち、第一王子・エーベルハルトの婚約者として名が挙がったのはわずか齢五つの時だった。
未来の国母となることが約束された、この国で最も華々しい女性。
それがリリアーヌ・ルグウェル。
もちろん、眩むような肩書きと引き替えに、所作、勉学、妃修行、ありとあらゆる努力を要求され、その肩に並々ならぬ重圧がのしかかっていたのも事実。
けれどそれらを全てこなし、社交界で非の打ち所なく優雅に微笑む彼女は、いつだって羨望の的だった。
二年ほど前までは、確かにそうだったのだ。
けれど、今は違う。
「あら、見て」
「……いらしたのね」
「腕なんて組んでらっしゃるけれど」
式典の執り行われる王城の大広間のそこここで、ひそひそと交わされる声。
彼ら彼女らの視線の先には、エーベルハルト第一王子と、彼と腕を組んだリリアーヌの姿があった。
「相変わらずお美しいわね」
「えぇ、それは本当に」
「お見事なものよ、あの澄まし顔」
鮮やかなブルーのドレスを纏い、結い上げられた金の髪には精緻なカットを施された宝石が数多散るティアラ。
装いに負けないだけの美しい笑みを浮かべたリリアーヌは、一見エーベルハルトと大層仲睦まじげに見える。寄り添う姿にも、どこにもぎこちなさはない。
けれど、この場の皆がもう知っていた。
「見事なものですわ、あの演技力」
「初めて噂を聞いた時はとても信じられませんでしたけれど……今までの振る舞いも全て偽りだったなんて」
「驚きですわよね。でも、私も実際この目で見ましたもの。リリアーヌ様が口汚く殿下を罵るところを!」
リリアーヌ・ルグウェルと言えば、誰もが憧れ、羨む存在だった。
非の打ち所のない完璧な女性だった。
エーベルハルトとの仲も、すこぶる良好だった。
彼女が、婚儀の決定と共にその本性を現すまでは。
「色々なところから聞くわよね」
「この間なんて、控えの間で殿下の手を扇で叩いたとか」
「まぁ……!」
「触らないでと拒絶する声が部屋の外まで聞こえていたらしくてよ」
彼女が第一王子に不敬にも"貴方を愛するつもりはない"と宣言した話は、あっという間に社交界に広がった。
けれど、最初は誰も信じなかった。
だってあまりにリリアーヌ・ルグウェル、その人にそぐわない話だ。リリアーヌが今まで築いてきた信用は厚く、噂話はどこでも一笑に付された。
実際に彼女が手酷くエーベルハルトを撥ねつける姿を、見るまでは。
「私は今でも信じられませんわ、あのリリアーヌ様が……何か事情があるのではと、そう思いたくなってしまいます」
「まぁ、一体どのような事情が? エーベルハルト殿下はあんなに紳士でいらっしゃるというのに」
「もう二年もあのような態度なのよ」
公の場に出てくる際、二人は一見変わりなく寄り添っているように見える。
けれど、エーベルハルトがリリアーヌに何かを語りかけると、いつでも彼女はその言葉を跳ね除けた。エーベルハルトの労りを踏み躙り、人目を憚らず不愉快だと言い、うんざりとした態度を隠さない。
「よく婚約が破棄にならないものだな」
「恋愛と結婚は違う。貴族はそういうものだろう」
「そうは言ってもなぁ、国の顔となるべき身で、あそこまで露骨な態度では先が思いやられる。本当に彼女は適格か?」
「それだけルグウェル家の力が大きいということだ。王家とて、あの家のもつ力を考えれば、簡単に切れる相手ではない」
二年もあれば、貴族社会だけではなく、市井にも彼女の悪評はすっかり蔓延していた。とんでもない悪女を妃に据えることになるのではと、誰もが不安になっている。まだ読み書きもできないような幼子でさえ彼女の悪行は知っている有り様だ。
「けれど、もう式は二ヶ月後なのでしょう?」
王族の、それも第一王子の婚姻となれば、準備にも膨大な時間がかかる。賓客のスケジュールの確保、当日の衣装、宝飾品の準備、王城のあらゆる設備を整え、完璧な警護の計画の立案。気の遠くなるような規模の行事を、一つの瑕疵もなく万事滞りなく済ませなければならないのだ。
その準備も、多くの人々の尽力のもと順調に大詰めを迎えていた。
そう、リリアーヌの婚約者として相応しくない振る舞いを覗いては、何一つ滞りなく。
貴族達の囁きなどまるで聞こえぬ素振りで、用意された壇上の席にエーベルハルトとリリアーヌが着席する。
エーベルハルトは隣に座るリリアーヌを見て、その深い緑色の瞳を和ませた。リリアーヌより少し色の濃い金髪が、彼が少し首を傾げた動作に合わせさらりと頬に流れる。
「リリアーヌ、やはりその首飾りは良く似合っているね」
リリアーヌの瞳と同じ色のアイスブルーの石が、その首元で煌めく。
ふふっと可憐な笑みがリリアーヌから零れた。
「まぁ、お世辞は結構ですわ、殿下。こちらも義理で身に着けているだけですし」
相反するように、薄桃色に染まった唇から発されたのは、冷え切った言葉だったが。
リリアーヌの声が届く距離にいた貴族達がぎょっと身体強張らせる。
だが、言われた当の本人であるエーベルハルトは、欠片も堪えていないと言いたげな涼し気な表情をしていた。
「そう、なんだかんだ言って、いつもリリアーヌはオレの贈ったものを律儀に身に着けてくれる。そういうところが愛らしい」
「……随分都合の良い解釈をするのがお上手だこと」
あまりに温度差の酷い会話。最近では、本人達より聞いている周りの方がキリキリと胃を痛くしている。
「あぁ、殿下、お気の毒だわ」
「あんなにお優しくて、聡明で、見目も麗しい殿下が、あのような仕打ちを受けておられるなんて」
「殿下に相応しい方なら他にもいるのでは。それこそハーランド家の……」
「しっ! 滅多なことを言うものじゃないわ」
この国に、リリアーヌ・ルグウェルを知らぬ者はいない。
城下の幼い子どもでもその名を聞けば、こう答える。
美しく、身分高い彼女は、傲慢で心のない悪女だと。
◆◆◆
「一体何がそんなに不満なんだ……!」
怒りというよりは、もうほとんど嘆きに近い。
父親の疲労と悲壮に満ちた声に、リリアーヌは何とも答えられずにいた。
式典が終わり、屋敷に帰り着いた途端始まった説教は、もう恒例行事と化していた。
この二年、リリアーヌがエーベルハルトと行動を共にする度に、こうした叱責が飛ぶ。
毎度毎度、人目も憚らずリリアーヌが酷い言葉と態度をエーベルハルトに投げつけるからだ。
「……大変申し訳なく思っております」
しおらしくリリアーヌは謝罪の言葉を述べたが、既にその言葉の価値は暴落していた。
「もう聞き飽きた。申し訳なく思っている人間は、何度も何度も何度も同じことを繰り返したりはしない」
深い溜め息が落とされる。
「……初めは何か精神的な病か、あるいはどこぞから呪いでも受けているのではないかと散々に医師にも術師にも見せたが、何も見つからなかった。他に何か原因があればどれほど良かったか」
その言葉の通り、リリアーヌがそれまでの性格からは予想もできない言動をし始めた当初、山のような医師と術師が派遣された。
この国では扱える人間が限られてはいるが、魔術により呪われた可能性も当然考えられた。家が家であるし、第一王子の婚約者という立場からも人から恨まれやすい身ではあったので、散々に調べ尽くしたのだが、しかしどの術師も口を揃えて、リリアーヌからはどんな術式の気配も感じない、と結論を下したのだった。
病の可能性も、呪いの可能性もない。
ただただ、リリアーヌが本人の意思でそうしているだけ。
どう言い訳のしようもない内容が、純然たる事実として残った。
「お父様……」
リリアーヌとしても決して父を苦悩させたい訳ではないので、少し考えてから口を開いく。
「ですから私、殿下と公式の場に出るのは控えたいのです。病だ何だと言っておけば、それも叶いましょう」
何度言い含めても娘が王子に不遜な態度を取ることを、父親も学習しているはずだ。となれば、二人を極力一緒にしないことが唯一取れる対処療法だとリリアーヌは主張する。
だが、父親は頭を抱えながらも、その意見には同意しない。
「駄目だ。社交界にパートナーは必須だ。殿下をお一人にする訳にはいかない」
「ミレーユ様に代役をお願いするなど方法はあるでしょう」
社交界はデビューしてしまえば、よほどのことがない限りパートナー同伴が必須だ。
ただ、例えば婚約者がどうしても出席できないとなれば、身内等から当たり障りのない代役を選ぶことは普通にある。引き合いに出したミレーユは、今年十六歳になるエーベルハルトの五つ年下の妹姫だ。まだ婚約者の定まっていない彼女は、いざという時の兄の代役としてはぴったりのはず。
しかしこの代役の提案にも、父親は首を横に振った。
「お前が社交の場に出なくなれば、あらぬ噂があっという間に立つぞ」
苦々しくそう言われる。
「……もう立っているではありませんか。いつ婚約破棄になってもおかしくないと」
「分かっているならどうして……」
「――――」
どうして、と言われても、答えようがないのでリリアーヌは沈黙するしかなかった。
自分の態度が褒められたものではないという自覚はある。
周りから何と言われているかも知っている。
今や自分の名声は地に落ち、それと一緒に家の品格まで落としているその認識だってきちんとあった。
けれど、どうしようもないのだ。エーベルハルトを前にすると、どうしても我慢が利かない。口を噤まなくてはとリリアーヌが思った時にはもう、いつだって大半の言葉を口にしてしまっている。
「リリアーヌ、お前は賢く優しい子だ。そうだろう? 親の贔屓目を差し引いても、それが間違った評価だとは思わない。現に今でも私達家族や、友人知人、屋敷の使用人にもお前は丁寧に接する。昔から変わらない、よく知るリリアーヌだ」
なのに、と苦悩の溜め息が部屋に大きく響いた。
「どうしてエーベルハルト殿下にだけあのような態度を取る。どれだけ言っても改めない。一体何が不満なのだ。殿下がお前に何か酷いことをしたのか?」
「――――」
リリアーヌ、と言い聞かせるように父親は続ける。
「いずれ国母となる未来は、確かに計り知れない重圧だとは思う。第一王子の婚約者という立場から、リリアーヌには幼少期から厳しくしてきた、その自覚もある。勉学も所作も、妃修行と称してありとあらゆることを誰よりも完璧に身に着けることを求められてきて、息苦しさを感じてきたことだろう。常に人目に晒され、他の令嬢と比べると圧倒的に自由が少なく、抑圧されてきた。お前に酷なことをしていると思ったことがない訳ではない」
確かに父親の言う通り、甘えの許されぬ日々だった。これまでの月日に苦しみがなかったと言えば嘘になる。けれど、必要なことなのだとも理解していた。
常に完璧を求められる。油断はならない。第一王子の婚約者、未来の国母として、人を惹き付ける存在である必要があった。
そんな環境の中でもやってこれたのは、裏で支え、時に甘やかし、愛情をくれる家族がいたからだ。婚約者たるエーベルハルトもまた、自分に寄り添ってくれる存在だった。そのことに間違いはない。
「妃になりたくないのか。だがそれを何故、殿下にだけ当たる形で示す」
「……私は別に、妃になることに不満がある訳ではありません」
今更、なりたくない等と騒ぎ出すほど子どもではない。それに妃にならなければ、これまで積み上げきた努力は何だったのだと、そういう話にもなる。
「殿下に特別恨みがあるのでもないのです」
自分が言っていることのおかしさは、理解していた。
「……とてもそうは思えないが」
父親の疲れ切った声に申し訳なさも覚える。
正直なところ、この二年、自分のエーベルハルトへの言動を上手く説明できたことが、リリアーヌには一度もない。
「……私の口から発された言葉は全て私の責任です。当たり前です。ですが、どうしようもないのです。殿下への暴言をやめられるものなら、とっくにしています」
長年の精神的負荷がそうさせるのか、リリアーヌはもう自分自身を制御できなくなっていた。意志の力でどれだけ抑え込もうとしても、エーベルハルトに毒を吐くことをやめられない。リリアーヌ自身も、そんな自分にはほとほと嫌気が差してはいた。
「来月にはミレーユ殿下の誕生祝賀会がある。婚儀の前、最後の大きな行事だ。ミレーユ様はこのような状況になっている今も、お前を信じ、大層慕ってくれているお方。欠席は許されない」
「……分かっております」
どれだけ悪評が立とうとも、婚約破棄されない限りリリアーヌは未来の王族だ。余程の事情がない限り欠席は許されない。
「いいか、頼むから余計なことは言わないでくれ。口を開けば憎まれ口にしかならないのなら、せめて何も喋ってくれるな。頼むから」
切実な念押しに、私だってできればそうしたいと、内心リリアーヌは盛大な溜め息を吐いたのだった。
◆◆◆
「あぁ、帰りたい……」
用意された控室で、思わずリリアーヌは本心を零してしまう。
鏡の中にはメイド達によって完璧に整えられた姿があった。
深紅のドレスは大胆にデコルテを露出するデザイン。首飾りと耳飾りは同じ深緑の石をあしらったものを選んだ。髪には大粒の真珠があしらわれた髪留めが艶光りしている。
絹の手袋を嵌め、百合の花があしらわれた扇を手に取る。
準備はもう万全に整えられていた。――リリアーヌの気持ち以外は、万全に。
あまりに憂鬱過ぎて、腰掛けた椅子から立ち上がる気にすらなれない。
「……ミレーユ様への贈り物は、滞りなくお届けできているのよね?」
「はい、問題なく」
「そう……」
第一王女たるミレーユには、その瞳の色と合わせたフルオーダーのブローチを贈り物として用意していた。喜んでくれるかしら、と思う気持ちと同時に、贈り物が届いているのならそれでこちらの気持ちが届いたことにならないかしら、とも考えてしまう。
「……無理な話よね」
祝賀会への出席は義務。出たい・出たくないの我儘が許されるものではない。
それでもギリギリまで会場へは移りたくないと考えていると、ノックの音が部屋に響いた。
「リリアーヌ」
エーベルハルトだ。
「準備はできたかな」
声を掛けられただけで、息が詰まる。
行きたくない。顔を合わせたくない。
拒絶の言葉が喉まで出かかる。
けれど、それは許されない。
「今、行きます」
どれだけ重い腰も、義務と言われれば上げるしかなくなる。
私はスターニア王国、エーベルハルト第一王子の婚約者。
言い聞かせるように心の中で繰り返し、リリアーヌは一歩一歩、重い脚を扉の前へと向けた。
メイドが重厚な造りの扉を開く。
「やぁ、リリアーヌ。今日も美しいね。深紅のドレスがよく似合っている」
その先にはにこやかな笑顔のエーベルハルトがいる。
リリアーヌは恐ろしい。
どれだけ酷い態度を取っても、全く怒りの片鱗すら見せない彼のことが。
リリアーヌのことなどどうでも良いから、気にしていないという態度でいられるのか。
政治上の都合でルグウェル家を切ることができないから、本当は腹の底から怒っているのに、それを理性で捩じ伏せているのか。
例えば許容の範囲があるとして、今、自分は彼の限界のどの辺りまで負荷を与えているのか。
笑顔の向こうを読むことはできない。
「殿下」
父の言葉が、頭の中に繰り返し響いていた。
余計なことは言ってくれるなと、散々念を押された。
「今日はミレーユ様の誕生祝賀会。非常にめでたい場です」
「あぁ、そうだな。ミレーユもリリアーヌが来るのを楽しみにしていたよ」
散々な悪評がそこら中に蔓延しているのに、未だリリアーヌを慕ってくれる愛らしい王女の顔が浮かぶ。
「そういった席を台無しにするのは、こちらとしても絶対に避けたいのです」
ですから、とリリアーヌは続けた。
「どうか私に極力話しかけないでくださいませ」
その声は冷たく冷たく王城の廊下に響き渡る。
けれどそれでもエーベルハルトは顔色を変えることなく、エスコートのためにリリアーヌに向けその手を差し出したのだった。
◆◆◆
父の言う通りだ、とリリアーヌは思う。
喋らなければいいのだ。口さえ開かなければ、きっとどうにかなる。
向こうが話し掛けてこなければ、こちらだって余計なことは言わずに済む。
祝賀会は和やかな雰囲気の中進んでいた。
事前の念押しが効いたのか、エーベルハルトは話しかけてくることがあっても、それは全て無難な話題だった。今のところ、嫌味で返すような場面は発生せず、リリアーヌも声を掛けてくる他の貴族の相手をすることで場を凌いでいた。
「リリアーヌ様、ミレーユ様が胸元にお付けになっているあれが?」
「えぇ、そうなの。お気を遣って今日、付けていらしてくださって」
「素敵なデザインですわね」
知り合いの令嬢がほうっと溜め息を落とす。彼女の言う通り、離れたところで談笑するミレーユの胸元には、リリアーヌが贈ったブローチが留められていた。
今日、会場に入ってすぐ、一番に見せにきてくれた姿を思い出す。社交辞令というよりは、本当に気に入ったのだろうなといった笑顔を見せてくれたので、リリアーヌとしてもホッとした。
ちらりと視線を滑らせると、エーベルハルトが友人達と談笑している姿が目に入る。お互い知り合いと会話しているうちに、少し距離が離れてしまっていた。
けれどこれくらいの方が丁度いいとこっそり息を吐いていると、耳が別の会話を拾う。
「あら、イリナ様だわ」
「聖女……」
会場を見渡すと、入り口の方に淡いブルーのドレスを身に纏った、白金の髪の令嬢が一人。
イリナ・ハーランド。
ルグウェル家と肩を並べる大きな貴族の家の令嬢だ。数年前、魔術の資質を見込まれてハーランド家に養子に迎えられた。魔術にもいくつか系譜があるのだが、その中でも浄化に特化した珍しい素養を持つ彼女は聖女と呼ばれ、庶民の出ながらもこの貴族界でも一目置かれている。
この二年、リリアーヌの評判が地に落ちるのと反比例するように、イリナの評判はうなぎ上りしているようだった。
今では、聖女様の方が第一王子の婚約者に相応しいと囁かれる始末。
「…………」
気にしても仕方がない、とリリアーヌはイリナから視線を逸らす。
ところがそんな時に限って、向こうから近付いてくるのだから人生はままならない。
「リリアーヌ様」
屈託のない笑みを向けられる。リリアーヌもそれににこりと微笑みを返した。
「イリナ様、ご無沙汰しております」
「こちらこそ。お話し中申し訳ありません、ご挨拶だけでもと思って」
イリナ・ハーランドとリリアーヌの間に、それほど深い親交はない。だが、彼女がこの貴族社会に現れたのが数年前のことなのだから、それも仕方のないことだった。庶民の出ということで苦労も多かっただろうが、彼女が必死にこの世界で要求されるマナーや教養を身に着けたことは、リリアーヌもその振る舞いを見て理解していた。
努力を知る人間だし、自分に知識が足りていないという場では素直に教えを乞える性格も好感が持てる。おまけに聖女と呼ばれるだけの才覚もある。
「リリアーヌ様、今日のドレスも素敵ですね」
「有難う。貴女のドレスも淡い色が貴女のイメージにぴったりでとてもよく似合っているわ」
親しくはなくとも、悪い人間ではないと認識している。
けれど、苦手ではあった。
自分とは何もかもが正反対の彼女が、エーベルハルトとお似合いだと囁かれていることにも心がざわついていた。
もちろん、身から出た錆だろうと言われてしまえば、リリアーヌは反論できないのだが。
「あの、リリアーヌさ、きゃっ!」
「イリナ様!?」
不意にイリナの身体がリリアーヌに向かって飛び出してきた。一拍遅れて、後ろを通りがかった男性がぶつかった、その弾みだと気付く。咄嗟にその身体を受け止めたリリアーヌだったが、ふんばりが利かずそのままイリナを抱き留める形で自分もバランスを崩してしまう。
身体がテーブルにぶつかり、甲高い音が会場に響き渡る。
「っ! リリアーヌ様、申し訳ありません……!」
イリナが真っ青な顔で胸元に取り縋るので、大丈夫だと示すようにリリアーヌは首を横に振った。
「それより、イリナ様、怪我などは……」
「庇ってくださいましたから、私はどこも。それよりリリアーヌ様こそ」
「私は大丈夫です」
少し身体を打ちはしたが、痛いと騒ぐほどでもなかった。怪我と呼ぶべきほどのものはないだろう。けれど、イリナの顔色は更に悪くなる。
「ですが、その、ドレスが……」
「あぁ……」
甲高い音はグラスが床に打ち付けられる音だったらしい。いくつかは割れており、その中身がリリアーヌのドレスを濡らしていた。
「問題ありません。私にも貴女にも怪我がなかったのだから、それで良いでしょう。そもそも貴女が故意にぶつかった訳でもないのだし」
ドレスが元々深紅で濃い色のため、汚れもそこまで目立ってはいない。
それに青い顔をしているイリナには悪いが、これは好都合だともリリアーヌは内心気分が軽くなっていた。
ドレスが汚れたことを理由に退出できる。これ以上エーベルハルトと一緒にいなくて済むと。
だが。
「リリアーヌ!」
騒ぎの中心にいるのがリリアーヌと気付いたエーベルハルトが飛んで来るのが目に映った瞬間、リリアーヌは一瞬でげんなりとした気分になった。
「リリアーヌ、怪我は」
「……ありません。大丈夫です」
「だが一応医師に診てもらった方がいい」
「大げさな」
エーベルハルトが助け起こそうと手を差し伸べて来る。イリナを抱きかかえている状態だったのでそちらが先では? と視線を送れば、エーベルハルトと共に駆けて来た近侍がスマートに彼女を助け起こしていた。
「……失礼します」
彼の手に自分の手を重ねる。
ドレスの色が濃いから目立たないと思っていたのに、白の手袋の指先が濡れていた。
赤ワインで染まった部分が、悪目立ちしている。
心配そうな視線がそこに注がれていることに気付き、リリアーヌは溜め息を吐きながら言った。
「ワインです。血ではありません」
「それなら良かった。でもグラスが割れているから、ガラス片には気を付けて。ドレスにも破片が付いているかもしれない」
「みっともない姿をお見せしてしまい、申し訳ありません。ドレスもこの通り汚れておりますし、本日はもう下がっても宜しいでしょうか」
「あぁ、そうだね」
エーベルハルトが首肯する。
そこでやめておいてくれたら、よしてくれたら良かったのに。
極力話しかけないでと、事前に念押ししておいたのに。
「着替えを用意させよう。でもみっともないなんて。ドレスが汚れたくらいで、リリアーヌの美しさは損なわれたりしないのに」
エーベルハルトに甘い言葉をかえられたその瞬間、反射で喉が開くのを止められなかった。
「いつもいつも飽きもせずに、よくもそんな思ってもいないことを」
やめたいのに。
やめてほしいのに。
「いつもいつも、思っていることだから自然と口に出る。リリアーヌ。君はオレの愛しい人だから」
一番言ってほしくないことを、エーベルハルトは口にする。
「っ、私は貴方を愛していないと、何度言わせたら気が済むのですか!」
ハッとして口を押えた時にはもう遅かった。
こんな公衆の面前で、取り返しのつかない発言だ。
そろりと見回した全ての人の目が、避難の色に満ちている。
「リリアーヌ様、さすがにそれはあんまりでは……」
傍にいたイリナと目が合うと、彼女も顔を強張らせ小さな声でそう零した。
自分の感情一つ抑えられないその不甲斐なさに愕然とする。
今日こそ、今日こそ絶対に見限られる。
手の内に握っていた扇がミシっと軋む。
「殿下」
静まり返った会場に不意に響いたのは、低い声。
リリアーヌが振り返ると、そこにはハーランド家当主がいた。聖女・イリナの養い親だ。
「さすがにこの状況、殿下のことを思うと看過できません。今までは様子を見守って参りましたが、いえ、そもそも私どもが口を出すような立場にないことは百も承知ですが、さすがに将来この国の国母となる方とそこまで不仲な様子を見せられると、殿下自身のお幸せはもちろん、臣下としても国の行く末が不安になるというもの」
ハーランド当主の声に、漣のように他の貴族達からも囁きが漏れる。聞き取れないほどの小声ばかりだが、何を言っているのかは想像に難くなかった。
妃になる資格が、エーベルハルトの妻としての資格がリリアーヌにはないと。
他に似合いの令嬢がいるはずだと。
聖女の方がよほど相応しい、国にも貢献していると。
「――そうだな」
ハーランド当主の発言を受け、エーベルハルトはしばらくの沈黙の内、ぽつりと内心を零すようにそう口にした。
「そろそろはっきりさせた方が良さそうだ」
「……っ」
はっきりさせる。
何を?
問うまでもない。散々な態度を繰り返してきたリリアーヌへの処遇をだ。
落ち着き払った瞳が、リリアーヌを捉える。
息が詰まる。自業自得だと分かってはいたが、焦燥で頭がいっぱいだった。
「リリアーヌ」
いつだって、リリアーヌが何を言ったって、エーベルハルトは怒りを露わにしなかった。
今日までは、一度だって。
けれど、どんな物事にも限度というものがある。
「君がどういう人間か、オレはよく知っている。いつだって傍でずっと見てきた」
ミシリ、まるでリリアーヌの心が軋むのを表すように、また扇が嫌な音を立てる。
「その上で改めて言おう」
婚約破棄。
ルグウェル家が持つ数々の称号の剥奪。
リリアーヌ自身への刑罰は幽閉か、国外追放か、それとも――
「リリアーヌ、オレは君を愛している」
けれど、エーベルハルトの口から告げられたのは、対極にあるかのような言葉だった。
「…………え?」
先ほどリリアーヌが手酷く撥ねつけた、否定した愛。
けれどそれをリリアーヌに対してまだ持っていると彼は言う。
あまりに驚いて、今度はそれに対して否定の言葉を口にする余裕もなかった。
呆然と、リリアーヌは婚約者を見返す。
「君だけを、間違いなく愛している」
おかしい。
彼の発言は何もかもおかしい。
どれだけの憎まれ口を叩いたか。心無い言葉を吐いたか。
到底許されるようなものではない。
リリアーヌを許容するエーベルハルトの姿を見て、寛容だ、忍耐強いと評する人間がいる一方、腰抜けだと陰口を叩く人間がいたことも知っている。
リリアーヌがエーベルハルトにやることなすこと全てが、彼にとって悪く働いていた。
こんな状況で、どうしたら未だにリリアーヌを愛しているなどと言えるのか。
「君がどういう人か知っているから、心の底から愛している」
あぁ。でも。
同じくらい知っている。
リリアーヌは確かに知っている。
「リリアーヌ」
彼がどういう人なのか。
だって同じように自分もずっと傍にいた。心の中身を全て見通すことはできなくても、向けられるものの真偽を見抜くことは難しいことではなかった。
ただ、こんな散々な状況を作り上げたのが自分自身だったから、リリアーヌ自身が彼の向けるものを正しく峻別できなくなってしまっていたのだ。
エーベルハルトがこの二年、リリアーヌに向けてきた柔らかい眼差しに、きっと偽りなど一つもなかった。それは怒りや諦め、屈辱を隠すための仕草ではなかった。
「リリ、信じてくれる?」
問われて、瞬時に信じられると思った。
偽りなどどこにもない。
今でも彼は、自分を変わらずに愛してくれていること。
「うっ」
だが、確信した瞬間、とてつもない不快感が胃からせり上がってくる。
「リリアーヌ様?」
とてもまともに立っていられなくて、リリアーヌは身体を折り曲げた。明らかに様子が変わったことに気付き、イリナがさすがに気づかわしげに声を掛けてくるが、とても応えられそうにない。
気持ち悪い。耐えられない。
何に?
エーベルハルトからの愛を確信しただけで、吐き気を催すほどまでに自分は生理的に彼を嫌悪しているのだろうか。
分からないが、本当に気分が悪くてリリアーヌはその場に蹲った。
「リリ!」
エーベルハルトがその身体を支え、背中を撫でる。
気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い。
けれど何に嫌悪感を覚えているのかも、もう分からない。
こんな公衆の面前で恥を晒す訳にはいかないのに、身体が示す反応を殺すことはできなかった。
「ゔっ、ぁ……!」
ついに食道をせり上がってきたものを、吐き出してしまう。
絶望感に包まれると同時に、皮肉なことに不快感は和らぐ。もうこの場から消えてなくなってしまいたいとリリアーヌは悲嘆に暮れたが、同時に違和感も覚えた。
確かにせり上がってきたものを吐き出したはずなのに、吐瀉物で汚れた気配がない。それに、喉を通り越した感覚は痛いほどに硬かった。
そして、カン! と床を打つような音。
「……?」
恐る恐る音を追うように顔を上げる。カン、カンッと小さ床を撥ねるように小さな球体が転がる。薄紫色のガラス玉のようなそれは、まさか自分の体内から出てきたものなのだろうか。俄かには信じがたいが状況的にはそうとしか言えないような気もして、リリアーヌは困惑した。
「リリアーヌ、もう大丈夫」
身体を支えていたエーベルハルトが、そっと耳元で囁く。
「?」
大丈夫とは、何がどう大丈夫なのか。
「眩暈やふらつきは?」
「ありません……って殿下!」
事態がまるで呑み込めずにいると、ちょっと待ってて、と言ってエーベルハルトは腰を浮かせた。一拍遅れて、彼が何をしようとしているか気付いてリリアーヌはぎょっとする。
「いけません! そんな得体の知れないものを素手で触っては……!」
彼はリリアーヌが恐らく口から吐き出した紫色の玉に手を伸ばし、忠告も気に留めず拾い上げてしまった。
「危ないではないですか!」
なんてことを、と叫ぶ。そうやって、叫んでからリリアーヌは気が付いた。
「……?」
自分がエーベルハルトを心配して、声を上げていることに。
「え」
驚いて、思わず自分の喉に手を当てる。
この二年、エーベルハルトを労わったり、心配したり、心優しい言葉を紡ぐことは一切なかった声帯が、今、素直に心のままの言葉を紡いだ。毒など一切含まない、ただただエーベルハルトを案じる言葉を。
「リリアーヌ」
振り返ったエーベルハルトの眼差しは慈愛に満ちている。
「諸悪の根源は取り除かれた」
その手に摘ままれた紫色の玉が光を受けて、煌めきを放つ。
静まり返った会場の隅々にまで通る声で、彼は言った。
「つまり、呪いを解く鍵は、真実の愛だったって訳だ」
◆◆◆
「の、呪い……?」
やはり何がどうなっているのかよく分からない。リリアーヌ本人だけでなく、周りで事の成り行きを見守っていた面々も、困惑の表情を隠しきれていなかった。
「君にかけられた呪いの話だ」
「まさか。数多の術師が私には何の呪いもかけられていないと、そう判断を下しました」
病気でも、呪いでもない。
医師も術師も一流の面々を国内外から呼び寄せたのだ。その診断結果を疑うことはできなかった。
「呪いだよ」
けれどエーベルハルトはそう断言する。
「リリアーヌ、今日まで辛い日々を過ごさせてしまったこと、本当にすまないと思う。けれど簡単に解ける類のものではなかったんだ。そもそも術式を特定するのにも、時間がかかってしまった」
「殿下、本当に……? 娘は呪いのせいであのような状態になっていたと?」
驚愕に目を見開き、そう声を漏らしたのはリリアーヌの父だった。
「あぁ、間違いない。けれどこれが何の呪いか、ルグウェル家でも特定できなかったのも仕方がないんだ。何せ、王家保管の禁書に綴られた禁術だからな」
「!」
どよめきが広がる。
エーベルハルトは周囲の動揺を横目に、何事かを呟いた。それに呼応して、手にした玉を中心に複雑な文字が描かれた円陣が浮かび上がる。
「これは古代術式を利用した呪い。使われている言語がそもそも禁止文字なこともあって、普通は術を読み解くどころか、それが術式であると読み取ることすらできない」
ぐるぐると内容を変化させていた円陣が、段々と収縮していく。そうしてやがて、玉に纏わりついたと思ったら、すっと消えていった。
「文献に辿り着き、それを読み解き、目ぼしき術を特定するのに随分手間取った」
「……殿下は、初めから」
一度も婚約者を疑わなかったというのか。
リリアーヌが悪いのではないと、そう信じていたのか。
「リリアーヌ、だって何もかもあり得ないことだっただろう? 仮に君が別の本性を隠し持っていたとして、それが発揮されるのがオレにだけというのもおかしな話だ。家族にも、友人にも、使用人にも。オレ以外の誰にも、君はあぁいった言動を見せなかった。普通は、どれだけ取り繕ってもふとした瞬間に滲み出るものがあると思うが、それはもう綺麗にきっぱりと線が引かれていた。君が心ない言葉や態度を向けるのは、不自然なまでにオレにだけ。外因がないと考える方が難しい。医師や術師が見つけられないというのなら、余程希少な症例か、あるいは未だ認知されていない新しい類のものか、そう考えるのが自然だろう」
「…………」
リリアーヌは驚きに言葉を失う。
リリアーヌ本人さえ、自分のことを信じられなくなっていたというのに、エーベルハルトは最初からもうずっとリリアーヌのことを信じていたと言うのだ。国中の人間が、リリアーヌを悪女だと評していても、変わらずに。
「これは逆しまの呪い」
呪いの中身が詳らかにされる。
「簡単に言うと、心の声と実際の声があべこべになる呪いだ」
それは、本心が誰にも伝わらないということ。
「え、じゃあ今までのリリアーヌ様の発言って……」
「裏返しということは、冷たければ冷たいほど、その反対に殿下を愛してらっしゃったということ?」
「けれど、そんな術が本当に?」
「今回の場合、特定の対象……つまりオレ自身に関することのみにこの呪いが適用されていた。呪いの影響で、その口から発せられる言葉は悉く意に反したものになる。では言わなければいいだけでは、口を噤めばいいと思うかもしれないが、そういった自制も利かない。繰り返されるうちに、本人ですら、他に原因がないのなら自分自身の深層心理が表に出て、言っていることなのかもしれないと思い出す。どうしてそんな言動を取ってしまうのか理論立てて説明ができないから、他者から理解される機会がなく、また本人もどんどんと自身を理解できなくなり、自分自身のことなのに匙を投げるしかなくなる」
その通りだった。
最初は、そんなつもりはないのに、こんなの本心ではないのにとリリアーヌも思った。分かってほしいと、周りに説明したかったし、理解を得たかった。けれど自身の言動はどんどんと悪化の一途を辿る。
どんな診断もつかないのならば、自分の口から出る言葉は全て自分の責任だとしか言いようがなかった。
受け入れ難くとも、酷い言葉を吐き出しているのは紛れもない事実なのである。言い訳のしようがない。
諦めがじわじわと湧いてくるのと同時に、自分の口から吐き出される言葉達は本心なのかもしれないと、そう思うしかなくなっていた。
「他者から理解は得られない。自己否定にも走りやすい。そんな状況の中、禁術だけあって解呪の条件もいやらしい」
そう言えば、先ほど呪いを解く鍵がどうこうとエーベルハルトは言っていたと、リリアーヌは思い出す。
彼は、確かこう言ったのだ。
「真実の愛」
「…………」
「呪いの存在を認知させることなく、ただただ真実の愛を以て、対象者に真心を捧げること。そして対象者がその真実の愛を心の底から信じられたその瞬間にのみ、呪いは解かれる」
この二年を思い出す。
エーベルハルトはどんなにリリアーヌが暴言を吐こうと、いつだって変わらず愛を囁いた。
装いを褒め、可愛いと囁き、君は大切な人なのだと繰り返し。
リリアーヌに真実の愛を差し出し続けた。
けれど、あまりに皮肉な条件だ。
だって、そうやって愛を差し出される度に、リリアーヌは呪いの影響で手酷い言葉をエーベルハルトに投げつけることになる。
それを見た周りに軽蔑され、孤立する。
エーベルハルトはそれでもめげずに、愛を囁く。
また心無い言葉をぶつける。
繰り返しているうちに、こんな酷いことをしているというのに、変わらず優しくしてくるエーベルハルトのことをリリアーヌは信じられなくなる。おかしい、立場があるから我慢しているだけ、結婚を反故にできないだけ、内心では怒っているに違いない、嫌われているに違いない、優しくするのはきっと演技だと、そうとしか思えなくなる。それが揺るぎのない愛だなんて、信じられなくなる。
そこに愛が残っているなんて、信じられない状況だけがどんどん補強されていく。
でも、真実愛なのだと信じなければ、呪いは一生解けない。
「……いつ」
喋るのが、怖いと思った。けれど、喋りたいとも思った。
リリアーヌは頭で考えたことがそのまま言葉に乗るという感覚を、久しぶりに取り戻していた。こうやって解放されるまで、自分が不自由に制限されていたという自覚すらなかったが、自由に言葉を使えるのだと自覚すれば伝えたいことが山ほどあることに気付かされる。
「いつ貴方に愛していないと言われるだろうかと、もうずっと怖くて怖くて仕方がなくて」
自分が自身のみでなく、家族を、家名を、王家を、国の行く先を。何より長年寄り添ってきたはずの相手を滅茶苦茶に破滅させるかもしれない状況は、怖かった。
自分とは反対に、彗星の如く現れたイリナが聖女として名を上げ、国に尽くし、その人望を高めていくのを肌で感じ、比べて自分に絶望した。
ひと昔前とは違う。エーベルハルトの隣に立つに相応しい人間は、他にもいる。ここまで押し上げられ、ハーランド家という後ろ盾もあれば、出自が平民とは言えイリナが王妃の座に就いてもおかしくはなかった。いつかきっと、彼女に立場を譲らねばならないと確信していた。
「でもいつ言われてもおかしくなくて、私はそれだけのことをしていて、だからもう付き合っていられないと言われるその日を覚悟はしていて」
今日こそが、その日だと思ったのだ。
「身から出た錆だと。私の心が弱くて、おかしくなってしまったのが悪いのだと。自分の本性を言い訳せず受け入れることが、せめてものできることだと思って」
呪いだと、エーベルハルトは言う。
けれど、それをリリアーヌは未だどこか信じられずにいる。
「本当に、私、今も殿下を真実愛しているのでしょうか……?」
この二年はそれほどまでに重苦しかった。自分の心の在り処が分からなくなるほどには。
「私はもう、私が信じられません。本当に、呪いのせいだったのでしょうか」
けれど、リリアーヌが見失ってしまっていたものを、エーベルハルトはすぐに見つけてしまうのだ。
「リリアーヌ、ままならない状況の中、君は懸命に示してくれていたと思う」
まさか自覚がなかった? と苦笑しながらエーベルハルトは言った。
「オレの好きな色、褒めた耳飾り、可愛いと言った髪型、言葉は思うようにもならなくても、リリが選ぶ物はいつでもオレの好ましいと言ったものばかり。そして、王家へ忠誠を誓う百合をあしらった紋様を、必ずどこかに忍ばせている」
今日だってほら、と固く握った扇を示される。確かにそこには百合の花が刺繍されていた。それは無意識下の行動ではあったけれど。
あぁ、そうか。
久方ぶりに、リリアーヌは自分の心を理解する。
「私……」
貴方のことを愛することはない。
散々にそう言った。
冷たい言葉を山のように浴びせた。
それら全てが逆しまの言葉。
つまり、ずっとずっとリリアーヌは叫んでいたのだ。
「ずっと殿下のことをお慕いしていたのですね」
愛していると。
貴方だけを愛していると。
「そうだよ、オレはそれを疑ったことがない」
傍まで戻ってきたエーベルハルトが手を差し伸べて来る。リリアーヌは迷わずその手に自分の手を重ねることができた。ぐっと引き上げられ、そのまま腕の中に閉じ込められる。
「リリにとって酷な状況だった。でもね、君がオレに冷たい言葉を向ける度に、オレは密かにその愛を嚙み締められた。だから心が揺らぐことなんて、全くなかった。解呪が遅くなって、本当にごめん」
「いいえ、そんな」
抱き留められても、どんなに優しい言葉を掛けられても、もう反発心は湧かない。喉が勝手に心ない言葉を吐き出したりはしない。
リリアーヌの心は、間違いなくリリアーヌの意思のもとに置かれていた。
とてつもない安堵感に包まれる。それと同時に、この二年どれほど孤独だったのかを改めて自覚した。
一つ間違っていれば、エーベルハルトの揺るぎない愛がなければ、きっととっくに破滅していた。
想像して怖くなる。けれどそんな悪い考えに冷たくなった指先を、温めるようにエーベルハルトは優しくゆっくりとさすってくれた。
じんわりと、熱が伝わってくる。
愛されているし、愛している。
「リリアーヌ、これからもオレと共に生きてくれる?」
だからそう問われて、リリアーヌはすぐさま答えることができた。
「もちろんです、殿下」
◆◆◆
「さて、ハーランド殿」
まだ周りの人間が事態を飲み込み切れていない中、エーベルハルトはにこりと笑みを浮かべ、群衆の中の一人に声を向ける。
先ほど、リリアーヌは不適ではないかと、そう進言した男だ。
ルグウェル家と肩を並べる大家・ハーランド家当主。聖女・イリナを抱え、その名声を一族の誉れとする人物。
「貴殿には、いや貴殿だけではないが、この二年随分と心配をかけた。事情は今説明した通りだが、国の将来にも陰を落としかねないことだと随分気を揉ませただろう。解呪の条件が条件だったとは言え、事態を長引かせたことは不甲斐なく思う」
リリアーヌはもはや妃として不適という声は、そこかしこから聞こえてきていた。
聖女・イリナこそ、その立場に相応しいのでは、国民の理解を得られるのではないかという声も、昨今は強かった。
その流れは、誰が作ったという訳ではなく、まぁ自然なものだっただろうとエーベルハルトも思ってはいる。
そしてリリアーヌが公の場で失言を繰り返せば、いつかは誰かがこうして口火を切るだろうことも、もちろん想定していた。
それがハーランド当主だったことも、不自然ではない。王家に意見をするのももちろんだが、ルグウェル家に対して口を出せる家となると片手の指が余るほどなのだから。
そう、何もかも、不自然ではない。
「問題は、誰がこんな悪辣な呪いを仕込んだかということだ」
エーベルハルトが言うと、その場にピりついた空気が流れた。
当たり前のことだが、事が仕組まれれば、そこには必ず犯人がいる。
リリアーヌを、ルグウェル家を陥れようと、あるいは代わりにそのポジションで甘い蜜を吸おうとした人間は必ず存在するのだ。
野放しにできるはずがない。
腕の中のリリアーヌが不安そうに身を竦ませたのに気付き、宥めるようにその腕を擦る。久方ぶりに触れることができた愛しい婚約者の身体。これ以上、彼女に辛く不安な想いは一切させたくなかった。
「だが心配しないでほしい」
エーベルハルトはリリアーヌの中にあった、呪いの核とも言える紫色の玉を皆に見えるように示す。元はリリアーヌの好意を反転させ、悪意に染め凝縮したものだが、今はもう何の力も持たないただの残骸だ。
「先ほど、この術式の残滓を固定した」
玉を拾い上げた直後の話だ。玉に纏わりつかせるように展開した円陣は、玉自身の中に残る呪いの術式が霧散しないようにするためのものだった。
「魔術には、術者の魔力が必ず残る」
見定めるように周囲の顔を眺める。
「――――」
最後に視線を留めたハーランド当主は、口を引き結び難しい顔をしていた。もちろんどこにも動揺の気配などはない。由々しき事態だと言いたげな、表情。
「この玉をよく調べれば、自ずと分かることもあるだろう」
決めつけは、もちろん良くない。リリアーヌを苦しめた黒幕がどこに繋がっているかは、分からない。
けれど、その黒幕をエーベルハルトが赦すことは決してないだろう。
◆◆◆
晴天の空に、色とりどりの花弁が舞う。カゴを花弁でいっぱいにした民衆が入れ替わり立ち替わりやって来るので、フラワーシャワーは止むことがない。
響き渡る楽の音に、止まない歓声。
第一王子・エーベルハルトとルグウェル家令嬢・リリアーヌの挙式は、当初の予定通り盛大に執り行われていた。
淡いブルーの花嫁衣装に身を包んだリリアーヌは、一等美しい。同じく正装に身を包んだエーベルハルトの隣で、幸せそうに微笑んでみせる。
「安心しました」
城下を巡るパレードが終わり、城の中へと戻る道すがらリリアーヌが小さくそう呟いた。
「何か問題が起きたらどうしようかと思っていたので……」
「そうだな、周りの手のひらを返したような態度に思うところがない訳じゃないが、リリアーヌが悲しむようなことが起きなくて良かった」
あの後。
希代の悪女とまで言われていたリリアーヌが、実は呪いの影響で心にない振る舞いをせざるを得なかったことは、瞬く間に世間に広まった。
その途端、やれ悲劇の令嬢だ、耐え忍んだリリアーヌ嬢はすごい、二人の愛の絆に感動した等々、今までの罵詈雑言はどこへやら、リリアーヌと彼女を真摯に愛し続けたエーベルハルトは、一気に持て囃されることになった。
「純愛物語だなんだと観劇や小説に仕立て上げられて、娯楽として消費されることに思うところはあるだろうけど……」
「ですが、そのおかげでこれだけ早く汚名を雪げたところもありますから」
リリアーヌの言う通りではあった。
リリアーヌをヒロインに仕立てた小説は飛ぶように売れ、劇場はいつ行っても満席、しかも多少のバリエーションの違いはあるとは言え、国立劇場から場末の小さな劇場まで、どこへ行っても同じ演目で占められている。
誰も真実は知らなかったのだ。仕方がないし、娯楽の題材として使われることが良い方面に作用しているのも事実。
挙式を迎えた今日も暴動などはなく、パレードの道中リリアーヌが心無い言葉や物を投げつけられることは一切なかった。どこもかしこも歓声に満ちていた。だが、調子が良すぎるという思いも当然過る。
巷でフィクションとして語られるリリアーヌをモデルにした物語は、呪いが解けたヒロインとヒーローが結ばれてハッピーエンドとなるのは当然お決まりだが、その中での悪役の描かれ方は様々だ。ヒーローに懸想していた女性が犯人だったり、別の貴族による陰謀だったり、ヒロインに横恋慕していた男がいれば、単に太古からの呪いに運悪くかかってしまったというパターンもある。現実の顛末を、ほとんどの民衆は知らない。
あの後、調査が進められた結果、犯人として浮上したのはハーランド家の分家筋に当たる家の人間だった。分家なので家自体はそこまで大した力は持たないが、ハーランドと縁戚なこともあり、王家の書庫の管理を任さていた時期があり、禁書に触れる機会があったと調査報告書にはあった。
捕らえられた分家の人間は、独断だったと主張した。
ルグウェルよりハーランド家の方が妃を輩出するに相応しい功績を残している。また、当代聖女を市井から見出したことが、どれほど国のためになったか。聖女の功績・振る舞いを見ても、イリナ嬢こそ国母に相応しい。だから、リリアーヌを引き摺り下ろすことにしたのだ、と。
ハーランド家はこの事態を重く受け止め、向こう三年の貴族院の報酬といくつかの役職を辞すことを表明した。ただし同時にこれは分家単体の企みで、ハーランド家としては関わりがないことを主張もした。
まず、実行犯が分家の人間だということに間違いはない。
だが、それを唆した人物は確かにいる。
エーベルハルトは別筋で、それがハーランド家当主の企みであるといういくつかの証拠を持っていた。
だが、実際のところ、ハーランド家は直接の罰を受けてはいない。
「…………」
国政はバランスが大切だ。大きな家をいきなり取り潰したりすると、均衡が一気に崩れる。下手をするとしばらく国が荒れる。それは引いては国民のためにはならない。
国王が下したその判断に、エーベルハルトも意は唱えられなかった。その通りだからだ。
だが。
「……つまりそれはいきなりでなければ、いいということ」
ハーランド家はこれから、徐々に力を削がれていく。
今後ハーランド家が妃を輩出することはまずないし、歴任していた役職は一つ、また一つと減るだろう。その代わりに、裏で汚れ役の仕事は回される。もちろん、耐え切れず告発しようにも、その前に封殺されるのがオチだ。
じわじわと、時間をかけて。
償いはきちんとしてもらわねばならない。
「エーベルハルト様?」
「いや、何でもない」
晴れの日に考えることではないな、と気を取り直し、エーベルハルトはリリアーヌをエスコートしながら、城内の階段を一段、また一段と昇って行った。
「そう言えば」
「うん?」
「イリナ様もご婚姻が決まったとか」
ハーランド家に拾われた、聖女だ。
リリアーヌの言う通り、彼女は先日、とある貴族の嫡男の元へ嫁入りが決まった。嫁ぎ先は現在のハーランド家よりは格下の家ではあるが、貴族社会の中では十分にその地位を築いている、安泰した家だ。
「お相手の方は、騎士団で役職に就いている方で、大層イリナ様に惚れ込んでいると聞きました」
「どうもそうらしいな。元々彼女は人気が高かったが」
「そうですね。ですから今回のこと、本当に安心致しました」
リリアーヌがたおやかに微笑む。
「――――」
今回のことに、イリナ嬢は直接絡んではいない。彼女は利用されたと言ってもいい立場だ。それに、聖女として国に貢献していることも事実。ハーランド家の企みの責任を負わせるにはあまりに不憫だ。嫁ぎ先に関しては、良い家と話がまとまるよう王家としてもいくつか候補を見繕った。
そのことをリリアーヌに話した覚えはなかったが、彼女はどこまで見通しているのやら。
ある程度のことは筒抜けだと思っておいた方が良さそうだな、とは思うが、エーベルハルトは正面切ってその辺りを突いたりはしない。リリアーヌも、必要上には匂わせない。それはお互い政治を知っているからだし、お互いを信用しているからでもある。
「リリアーヌ」
「はい」
階段を上り切ると、部屋の突き当り、大きな窓は全て開け放たれていた。
バルコニーの向こうから、二人の姿をまだかまだかと待つ民衆の声が上がってくる。
「出会ったその日から、ずっと愛している」
「存分に実感しております」
言えば、リリアーヌはにっこりと笑んでエーベルハルトの言葉を受け取った。
二人揃って、バルコニーへと出る。室内から一転、直接的な太陽の日差しにエーベルハルトは目を眇めた。
わっと上がる歓声。祝福の言葉だけで、世界は満ちている。
「エーベルハルト様」
観衆に二人手を振って応えていると、リリアーヌが耳元に唇を寄せてきた。
そうしてこっそりと囁く。
「私、貴方を心の底から愛しています」
その言葉を受けたエーベルハルトは途端に観衆に応える公務を放り出し、振ることに専念していたその手で華奢な身体を抱き寄せ、リリアーヌの薄桃色の唇に深く口付けた。