霜夜、幻を見る
それはなんの前触れもなくやってきた。
まるで忘れ物を思い出したかのように。
さっきぶりとでも言いたげな微笑みと共に。
冬の夜は静かで、暗くて、哀しい。誰かが声をあげても、目に見えない何かに吸収されて、なかったことにされるような気がする。自分が音を立てるのも怖いし、誰かの物音がすることにも、びくりと身を竦ませる。自分が身体を動かした時の風を切る感覚すら寒くて、見えない鎖に縛られているような心地がする。
そんなことを冬になると動きが鈍ることの言い訳として語っていた小夜は、その日も温かな毛布にくるまれて小さな明かりだけを頼りに本を読んでいた。
小夜の家は大きな武家屋敷とでも呼ぶのが相応しい造りになっている。その武家屋敷の中にある小夜の部屋は、玄関からは離れ、縁側に面しているこじんまりとした部屋だった。桐箪笥と、障子と、布団と文机。簡素な部屋は射干玉の髪と白磁の肌を持つ小夜に妙につり合いが取れていた。切れ長の目を本に向けながら部屋に閉じこもる小夜の近辺に存在する生命は、縁側から見える寒牡丹くらいだろう。庭師が丁寧に管理している小夜の家の木々は四季折々の景色を常に正しく見せてくるが、それを当たり前の光景をして認識している小夜は、朝部屋から出る度に存在感を放つ寒牡丹を美しいと思う心は持っても、着花率が低いと言われている寒牡丹を確実に着花させる庭師への経緯を払うほどの想像力は持っていなかった。
しんしんと降り積もる寒気と静寂。それを破るように小さく固い音が響いた。
さく、さく。
何がが地面を踏みしめる音が耳朶を打った時、小夜は本から目を離さないまま眉を顰めた。
さく、さく。
それはゆっくりと、だが確かな足取りで小夜の元へ歩いていく。明らかに人間の足音が自分に向かって歩いてくることを認識した小夜は小さくため息を吐くと手にしていた本を粗雑に放りだし、布団からゆっくりと身体を起こす。
「誰?」
高く、囀るような声で小夜は問いかける。
「分かってる癖に」
答えたのは若い男の声だった。甘く、女性をとろけさせるようなその声を聞いた瞬間小夜は音を立てて障子を開けた。
「久しぶり」
小夜の目に自らが映ったことを確認したスーツの男は、優しい笑みを小夜に向ける。
「蓮にいさん」
呆然といった体で小夜が呟くと蓮と呼ばれたあの男は小夜に背を向ける。蓮の視線の先には小夜の部屋に一心に視線を向けている寒牡丹があった。寒牡丹に無骨な指先を向ける蓮に一歩、近づくために小夜は縁側から庭に降り、草履に指をかける。小夜が一歩歩くたびに霜が降りた地面からはさく、さくと小気味いい音が響く。
「蓮にいさんが、どうしてここに?桜お兄様はここにはいませんよ?」
「だから、来たんだよ。桜には、会いたくなかったからね」
蓮の言葉に、小夜は眉根を寄せる。この男は一体、何を言っているのだろう。コミュニケーションが上手く取れない、未知の生物に出会った時に小夜がよく向ける表情だ。初対面の筈がないその男を、小夜は無遠慮にじとりと睨む。
「蓮にいさんが桜お兄様ではなく私に用?一体なんですか?」
「・・・3年経ったね。俺が、君と桜の元を去ってから3年が経った。昨日の朝、食パンにブルーベリージャムを塗った瞬間に思い出したんだ。ああ、小夜ちゃんは、元気にしてるかなって」
「はあ?」
不快感と怪訝さを隠さない小夜は、それでも瞳の奥で数年前を追っている。桜と蓮と一緒に過ごした春と、夏と、秋と、冬を。自分の心に激情のように沸き起こった郷愁に気づかれないように、小夜はそっと蓮から目を逸らした。
まるで雪山でひっそりと咲いている花のようだと思った。咲く時期を間違えて、ぽつりとそこにいる桜の木。
気高さと、清廉さの同居。黒いジャケットから除く指は白くしなやかで、それでも骨ばった節々が、彼が男性であることを示していた。
こんなに美しい男を初めて見た。
そんな言葉が思わず漏れるほどに、その男は美しかった。儚げな瞳が、伏し目がちに絨毯に目を落としている。
生まれて初めて上流階級のパーティーというものに参加した。もちろん。ゲストとしてではなくバイトとしてだが。割のいいバイトを紹介してくれた先輩には感謝しかないが、聊か自分が浮いているようにい見える気がしてならない。
そんな中で同い年くらいの男の子を見つけてほっとしたらその男はミラこともないくらいに綺麗な男だった。
明らかに自分側ではない、ゲスト側の男がため息を吐くと会場の中心部にぼんやりと目を移した。
「あの・・・ご気分で優れないのでは?」
合っているかいないのかも分からない敬語で話しかけたのは、目の前の男が何故だかしんどそうに見えて放っておけなかったからだ。
「ああ?」
ところがその儚い美人系男子は、ドスの効いた声で自分を睨みつけた。
その時に初めて「見た目の美しさと中身の美しさは比例しないことを身をもって学んだ。
そんな話を、カラカラと笑いながら話す蓮に対して、桜は仏頂面だ。藤色の着物を着た小夜は、大人びた行動をとるいつもと反し、キラキラと目を輝かせながら蓮に続きをねだる。
「それで?桜お兄様と蓮にいさんはそこからどうやって仲良くなったの?」
「どうしたもこうしたもねえよ」
桜が柄の悪い言葉遣いで会話に乱入する。
「こいつ、パーティーのスタッフのくせして俺に急に変なこと聞いてきたんだぜ?礼儀がなっていないだろ?優しい俺が懇切丁寧に金持ち世界のルールってのをおしえてやったんだよ」
桜の言葉に小夜はきょとんと首を傾げる。確か兄は金持ちだから偉そうに命令する人間も、そういう人間の集まりであるパーティーも毛嫌いしていたはずだが。
「桜はそういうけど、結局誰かにいちゃもんつけたいだけだからね。何かに怒るのが得意な奴だから」
蓮の言葉に小夜はなるほどと納得する。そういう兄は、すごく想像がついた。蓮の言葉に桜はふんと鼻を鳴らす。
「こいつめちゃくちゃ生意気だったからな。俺に理詰めで責めてきた」
「責めたわけじゃないよ?心配して声をかけただけなのに邪険に扱われたから庶民の常識ってのを教えただけだろ?」
「よく言うよ」
喧嘩腰な会話を繰り広げながらも、二人の顔をちらりと覗き込むと二人とも楽しそうに笑みを浮かべていた。このぴりぴりとしたやり取りが二人の距離感であり、二人がこういうコミュニケーションのとり方を楽しんでいることが伝わってくる表情だった。
「ご歓談中失礼します」
二人の会話を裂くように聞こえた声に、小夜はぴくりと反応し、声の主を把握すると笑顔で問いかけた。
「あら、どうしたの?都」
自分の唯一の従者の名前を呼んだ小夜はどうして話しかけられたのかを理解していたし、これから言われる言葉が嫌なので逃げてやろうという魂胆だ透けて見えていた。
「小夜お嬢様は、これからお琴のお時間ですので失礼したく。桜様と蓮様につかれましては、ご用件があるようでしたらお伺いします」
事務的な口調で告げると、桜と蓮は小夜に請われるがままに雑談を繰り広げており、肝心の小夜の所にやってきた理由を述べていないことに気づいたようだった。
「小夜、お前習い事から逃げるだしに俺たちを使っただろう?」
「誤解ですわ、桜お兄様。私はただ久しぶりにお二人に会えたので少しでも長くお喋りしたかっただけですもの」
あからさまに目を逸らしながら告げる小夜と、じとりと小夜を睨む桜を可笑しそうに眺めながら蓮が間に入る。
「まあまあ、ごめんね小夜ちゃん。忙しいのに長いしちゃって。桜が小夜ちゃんに渡したいものがあるから寄っただけだったんだ」
「渡したいもの?私にですか?」
言っている意味が理解出来ないと、思わず無表情になった小夜に、桜は無造作に小さくて固い何かを投げつける。
「・・・キーホルダー?」
猫の絵が描かれたアクリルキーホルダーは、小夜が持っている持ち物の中では最も安っぽくて、どこにでもありそうなデザインだった。その意匠を、愛しそうに人差し指で撫でながら小夜は桜に問いかける。
「これ、どうされたんですか?」
「蓮とゲーセン行ってたんだよ。それ、クレーンゲームで取れたけど俺たちはいらないから小夜にやる」
なんてことないような口調でいった桜と対照的に、小夜はぎゅっとキーホルダーを両手で包み込むと、
「ありがとうございます。一生、大切にします」
と呟いた。その時、そういえば小夜は家族からプレゼントというものをもらったことがなかったのではないかと思い出した。
そんなことにすら興味がない桜は、いらないものを手ごろなところで処分したつもりなのだろう。小夜の心に明確に傷をつけたにもかかわらず、自覚ないまま小夜に「こんなもんでそんなに喜ぶなよ」と若干引いていた。
桜と小夜は金持ちの家の子供らしく、中学までは家庭教師に授業を受けており、学校というか集団の中に入ったことがなかったらしい。調理実習や遠足はフィクションの中の出来事で、黒塗りの車の窓から、ぼんやりと見かけるくらいでしか同年代の子と会う機会はなかった。由緒正しい二人のお家柄では誘拐事件が昔頻発していたため、子どもたちを自衛が出来る年齢になるまでは集団の中に入れない、そういう教育方針だったらしい。
小夜はともかく、荒くれもので腕白な桜にはその生活は苦痛でしかなかった。桜は、蓮と出会って意気投合した次の日には家族を説得して蓮が通っている公立高校への編入手続きうぃ済ませ、高校に通うために一人暮らしを始めた。
初めて出来た気の合う友達にのぼせ上った桜が家に帰ってくることはほとんどない。
久々に兄に会えると、ブラコン気味の小夜は(こんな自己中男の何がいいのか皆目見当もつかないが)、嬉しそうに話しかけていた。
「桜お兄様、婚約者が決まったって本当ですか?」
小夜が桜にそう話しかけたのは、桜が蓮を追って家を出て行ってから1年経ったか経たないかという頃だった。
久しぶりに、しかも蓮を連れずに実家に戻っていた桜は小夜の問いかけに珍しく、はにかみながら頷いた。名家の長男という立場を考えると、桜に婚約者が決まったのは遅いくらいだが、荒くれものの桜を乗りこなせるような名家のお嬢さんが早々見つかるはずもない。家の面々もよく頑張ったといったところだし、ほっと胸を撫でおろしているところだろう。
「どんな方なんですか?」
好奇心100パーセントといった表情で聞く小夜にも当然婚約者は存在する。小夜が10歳の時から付き合いがある、6つ年上の男だった。子ども同然の小夜に常に優しく、レディとして扱う様は気障にも見えるが、小夜を大切にしているという一点については疑いようもなかった。
「悪くなかったよ。見た目も可愛いし、何よりも胸がでかい」
こんな下世話な評価基準で婚約者を判断する桜とは雲泥の差だ。でも、それが桜なりの照れ隠しで、見た目以外の要素でも婚約者のことを評価していることは、桜を長年見ている人からしたら当たり前のように理解出来る。だからこそ、小夜はくすくすと笑いながら「また、桜お兄様はそんなこと言って」と桜を茶化した。
「桜お兄様」
「ん?」
元々実家に置いていた荷物を取りに来たかっただけらしく、いそいそと唯一の友達のものへ帰ろうとする桜に小夜は声をかけた。いつもより、幾分優しい声で桜は小夜の方を見る。
「婚約者が決まったこと、蓮にいさんは・・・」
「まだ言ってないけど?これから言う。蓮もそんなこと気にしないだろ」
不思議そうな顔でそう語る桜に対して、小夜はどこか思案気だ。
「小夜、何か心配なことでも?」
だから、桜が帰った後小夜に聞いてみると、小夜は一生懸命言葉を選びながらたどたどしく喋った。
「多分、二人の友人関係で重いのは、蓮にいさんの方だから」
「そうか?」
どちらかと言うと、初めて出来た友達に舞い上がっている桜の方が蓮に執着している印象だが。
「桜お兄様と当然蓮にいさんのことは大好きだと思うけど・・・。蓮にいさんの桜お兄様への気持ちはもっと毛色が違うというか・・・信仰に近い気がする」
信仰?あんな粗暴な男を?不満が顔に出ていたのか、小夜が微かに笑った。
「初めて蓮にいさんが桜お兄様に会ったときから、蓮にいさんは、ずっとこんな美しい男はいないと思っている。他にも要因は色々あるのだろうけど・・・。なんというか、多分、一目ぼれに近いもので、どこか桜お兄様に夢を見ているのが蓮にいさんな気がする」
「ああ・・・」
美しい男。それは理解出来る。桜は見た目に全振りしているような男だから。
「少し、止めてください」
小夜が蓮と会ったのは、桜が婚約者が決まったことを小夜に茶化されてから数カ月が経った頃だった。基本引きこもり気味の小夜が珍しく、外に出た日だった。と言っても、普段から小夜がお世話になっているヴァイオリンの先生がコンサートを開くというので客としてコンサートを見に行っただけなのでそこまで息抜きという実感は小夜の中にはなかったかもしれない。
コンサートの帰りの車の中、身体を車の窓に預ける姿勢で漫然と外を眺めていた小夜は、雑踏の中に見慣れた人影を見つけ、運転手に鋭い声を投げかけた。
運転手は小夜の声に一瞬目を見開くと、すぐに車を路肩に止めた。
「すみません。・・・すぐ戻ります」
小夜は心ここにあらずと言った表情でそう言うと、吸い寄せられるように雑踏の中に走っていった。
「蓮にいさん!」
小夜の声に、名前を呼ばれた男はゆっくりと振り返る。緩慢なその動作すらじれったく、小夜は思わず蓮に腕を掴む。
「小夜ちゃん・・・」
「どうして・・・今までどこにいたんですか!?」
桜の唯一の友人だった男は、小夜の言葉に小さく笑った。
「どこって・・・逃げも隠れもしてなかったよ」
「嘘・・・嘘!」
「どうしたの・・・可愛いお顔が台無しだ」
小夜の頬をつたう涙を人差し指で拭うと、蓮は困った顔をしてあたりを見回した。
「そうだね・・・確かに桜からはちょっと逃げてたかな。・・・見つかったら殺されそうな気がしたから」
「当たり前です!どうしてあんなことをしたんですか?・・・桜お兄様の婚約者と、その・・・」
顔を赤らめながら言葉を濁した小夜は、それでも非難の目をしっかりと蓮に向けていた。
ここ数カ月の蓮の行動は、桜に婚約者が決まった時に小夜が抱いた懸念どおりで、それでもここまでの事態は想定していなかったのか、小夜は蓮のことを理解出来ないといった顔をしていた。
桜に婚約者が決まってから、蓮の顔を初めて見た。反対に、桜の顔はここ数カ月で飽きるほど見てきた。望ましくない形で。
恐らく、小夜に婚約者のことを茶化された日に、桜は蓮に自らの婚約者のことを報告した。それを聞いた蓮が最初どんな印象を抱いたのか、どんな反応をしたのかは不明だが、最終的に蓮がどういった行動をとったかはここ数カ月の桜からよくよく聞いている。
蓮は、桜の恋人を寝取ったのだ。
その事実を桜が知ってから、桜は蓮のことを拒絶し、実家に帰ってくるようになった。そうして、何の罪もない小夜に八つ当たりをして帰っていくのだ。先日、小夜は雑なおもちゃでも扱うような手つきで突き飛ばされたばかりだった。小夜は、蓮をしっかりと見つめながらも、先日桜に突き飛ばされた肩を小さくさすっている。
「蓮にいさんが、どうして桜お兄様にばれるようにあんな愚かな行動をしたのか、私全く分からないんです」
「愚か?」
蓮は、小夜の言葉意味が分からないといった表情でこてんと小首を傾げた。
「だって・・・わざわざ桜お兄様にばれるようにあんなことしたんでしょう?」
蓮の目が見開かれる。
「・・・どうしてそう思うの?」
「蓮にいさんが聡い人なことくらい、私だってわかっています。桜お兄様に婚約者さんを紹介された時点で、婚約者さんのことを素敵な方だと思っていたら、多分蓮にいさんは、桜お兄様にばれないように婚約者さんに話しかけますよね?蓮にいさんはそれが出来る人だから。・・・そうしなかったということは、桜お兄様の婚約者さんに近づくこと、それ自体は目的ではなかったということ」
答え合わせをするように静かに蓮を見ると、蓮は愉快そうに笑った。
「小夜ちゃんは、賢いねえ。賢くて、鋭くて、あの愚鈍な桜とは何もかも違う」
蓮の口から初めて出てきた桜を貶めるような言葉に、小夜は思わず目を見開く。蓮が、桜を悪く言うのを、小夜は初めて聞いた。聞きたくない言葉を聞きたくない人物から聞いた小夜は痛みを堪えるかのように目を伏せてから、もう一度しっかりと蓮を睨んだ。
蓮は、小夜以上に自分の言葉に傷ついているように見えた。
「どうして・・・あんなことしたんですか・・・?」
人の声が、ガヤガヤと五月蠅い。普段大きな屋敷と静寂の中に身を置いている小夜は熱気くらくらと眩暈を起こすもすんでのところで踏みとどまる。今、蓮に真意を聞かないまま別れてしまったら一生蓮に会えない気がしたから。
「その肩、怪我してるの?」
何度かさすっていた右肩を、蓮が心配そうに見つめる。嬉しいのに、普段なら自分の些細な変化に気づいていくれて、心配してくれるという事実がどうしようもなく嬉しいはずななのに、今の小夜には誰のせいでこんなことになったと思っているんだという怒りがふつふつと湧いてきた。
「ごめんね、俺のせいだよね」
それでも小夜がその不満を口に出すことはなく、蓮が小夜の心を見透かしたように呟いた。
「・・・分かっているなら、早く桜お兄様と仲直りしてください。あの人、友達蓮にいさんしかいないんですから」
「そうだね。俺がそう仕向けたから」
「え・・・?」
「小夜ちゃんは、学校に通ったことないんだっけ?」
「ええ」
「普段、人混みに放り込まれることもないんだ」
「普段どころか、今日が初めてかもです。・・・蓮にいさんを見かけたから、運転手さんを置いて走ってきちゃった。心配してるかも」
「そう・・・。あのね、桜は傍若無人というか、自己中なところは確かにあるけど、華のある男だし、明るくてよく喋る。桜が自分で相手を拒絶しているならまだしも、いつまでも友達が俺しか出来ないのははっきり言って異常なんだよ」
「異常・・・」
小夜は、蓮の言葉を舌先で転がしてみた。何故だかその言葉は、世間から隔絶されている自分たちにしっくりくるように感じた。
「俺が、桜が孤立するように仕向けたんだ」
「桜お兄様を独り占めしたかった・・・?」
「・・・そうだね、そうかも」
「あからさまな行動をしているくせに、気持ちははっきり分からないんですか?」
「痛いこと言うね。無意識だったんだ、ずっと。桜に婚約者が出来て自覚した」
小夜はじっと蓮を見ながら蓮の言葉を待つ。蓮は、出来の悪い生徒に教えるようにゆっくりとした口調で語る。
「俺はね、桜のことを真っ白なキャンバスみたいに思ってたんだ。自分色に染め上げて、誰にも見せずにしまっておきたかった。・・・でも、俺が色を付けて、線を引いたあの作品を、婚約者は婚約者というだけで自分の所有物に出来るんだ」
「桜お兄様は誰かの所有物になるような殊勝な性格ではありませんよ?」
「知ってるよ。それでも俺は思ったんだよ。誰かの唯一になるくらいなら、消えない傷でもつけておこうかって」
「蓮にいさんは、桜お兄様が好きなんですか?」
蓮はきょとんとした後、破顔した。
「小夜ちゃんが好きな少女漫画的展開じゃないよ。ただ、友人というよりも重く執着していたかもしれないってだけさ」
「・・・過去形なんですね」
小夜の呟きに、蓮が淋しそうな顔を見せる。
「うん。もう桜には会わないよ」
「桜お兄様は蓮にいさんに甘いですから、今土下座したらきっと許してくれますよ」
「知ってる。でも、今土下座してその他大勢の友人に収まり続けるよりも、一生消えない傷を桜に残す方がいいんだ」
「にいさ・・・」
人の波に飲まれて、蓮を見失う。小夜が再び蓮がさっきまで立っていたところみ見た時にはもう蓮はいなかった。一瞬で消えてしまった蓮に、小夜は喪失感すら抱けない。
時間にしたらほんの数秒、目を閉じていた小夜は、ゆっくりと瞳を開くとまっすぐに蓮を見た。その眼には、冷静さと慈愛が灯っている。
「蓮にいさんは、私が今何をしているかが気になって、こんな時間にこんなところまで突然来たんですか?」
「うん、急に来て迷惑だったよね?ごめんね?」
全く悪いとも思ってなさそうな困った笑顔で蓮は告げる。小夜は小さく首を横に振ると、蓮に向かって今日初めて微笑んだ。
「・・・本当に、私ですか?」
「え?」
「蓮にいさんが今日会いたかったのは、本当に私ですか?今が気になっているのは、本当に、私?」
「さっきから言ってるだろう?桜は関係ない。俺は、桜とはあんなことになってしまったけど。それでも小夜ちゃんのことは本当に妹みたいに大切に思っていたし、思っているんだからね」
桜と自らの不和は、自分以外の何かが原因で自分はあくまで被害者である。そんな気持ちを言外に漂わせながら蓮は語る。小夜はそれを責めなかった。たとえ蓮がいなくなったあとの桜がどれだけ傷心していたか見て、知っていたとしても。
「・・・そうですね。確かに蓮にいさんは私にいつだって優しかった。私は、私に優しい蓮にいさんが、とても、とても好きでした」
結局のところ人間は、自分本位にしか生きられない。それは蓮もそうだし、桜もそうで、小夜も当然そうだ。完全な客観というものは存在しない。自分の瞳を介して世界を覗いている以上そこには常に主観が介在する。主観は他者を結果として傷つけることになるかもしれないが、自分を守るものでもある。
小夜はそれを自分が持っていることを恥じている一方で、人がそれを振りかざすことを決して否定しない。
それでも今日、小夜は自分勝手な蓮と決別するために真意を迫る。今まで小夜が自らを、蓮を甘やかして目を逸らしていた事実を蓮と自分の間に提示する。
「小夜ちゃん?」
小夜の中の自分が今から終わることに全く気が付いていない目の前の男は、怪訝な顔をしたまま小夜の頬に触れようとする。小夜は、ふいと蓮の指先から逃げると、蓮の目を見て問いかける。
「蓮にいさんが私に優しいのは、私と桜お兄様が似ているからですか?」
「・・・は?」
全てに諦めていたとしても、一縷の望みは持っていたのかもしれない。蓮が、桜ではなく自分を見ていた未来。
何を聞かれたのか分からず、全ての表情が抜け落ちた蓮を見て、小夜は静かに表情を殺す。小夜の瞳には、もう少しも光も宿っていない。
「ちょ、ちょっと待って。小夜ちゃんは、昔から俺のことをそんな風に思っていたの?」
心底心外だとでも言いたげに、蓮が問いかける。
だが、小夜はあくまで冷静だ。
「はい、蓮にいさんはいつだって私に優しいと思っていましたが、違いますよね?」
「違う?」
「蓮にいさんは、私に笑ってほしいんじゃなくて、私に泣かないでいてほしいだけです」
「それは・・・何が違うの?」
「蓮にいさんは、私にいうほど興味ないですよね?」
「そんな、ことは・・・」
畳みかけるように語る小夜とは対照的に、蓮の声は尻すぼみになっていく。
「じゃあ、蓮にいさんは私に泣かないでほしいですか?」
「そりゃ、もちろん」
「どうして?」
「どうしてって・・・」
蓮が言葉を探すのを、小夜は静かに待つ。その静寂と微笑みが、何故か責め立てられているように感じて怖かった。
「小夜ちゃんが泣くと、すごく、不安になる」
小夜の目が、すうっと細められる。それでも小夜は蓮の話を遮ることなく黙って続きを促した。
「小夜ちゃんの泣き顔は、桜に泣かれているみたいで苦手だった」
「私も、桜お兄様も泣きませんよ?」
「そうかな?」
「桜お兄様が泣いているところ、想像出来ます?」
「出来ない」
間髪入れずに蓮が返すと、小夜と蓮は顔を見合わせてくすくすと笑った。確かに桜は、一人でさめざめと泣くよりは、相手を殴りに行く方を選ぶだろう。二人の静かな笑い声が、冬の夜の闇に溶けていく。
「でも、君は泣くだろう?」
「そう、ですか?」
「そうだよ。小夜ちゃんがこんなに小さかった頃も、よく一人で泣いていた」
蓮が自分の腰のあたりに手を当てる。
「いつの話をしているんですか。いつの」
「つい最近じゃない?」
「耄碌しましたか?時の流れが異常に早く感じるようになったら、それは年をとった合図ですよ」
「まだ若いつもりなんだけどなあ・・・」
「おじさんになりましたね、蓮にいさんも。・・・今の私はもう泣きませんよ。そんなことは時間の無駄ですし、私を泣かせるような相手を殴りに行った方がはるかに生産的です」
蓮が、眩しそうに小夜を見つめる。真夜中の寒牡丹が咲き乱れる庭には、明かりなどないのに。そんな蓮を、小夜はきっと庭む。
「こういうところが、桜お兄様に似ていますか?」
「そんなこと・・・いや、そうだね。ごめん」
罪を自白させられた死刑囚は、心なしかさっぱりとした顔で小夜を見た。
「俺は多分、桜に会いたかったんだ」
「桜お兄様は、蓮にいさんのことを殴ると思いますよ」
「殴るだけですんだらましな方じゃない?」
「ひょっとしたらもう既に呪われているかも」
「呪われて、いたらいいよね」
「呪われたいんですか?」
「呪われたいね。桜が俺のことを、いつまでも忘れないでいてくれる合図なら」
「蓮にいさんは、桜お兄様のことをただの友人だと思っているんですか?」
「まさか」
「じゃあ・・・」
「大事な友人だよ。すごく」
「蓮にいさんは、友人に呪われたい人」
寒くなったのか、会話に飽きてきたのか、先ほどまでと比べて少し舌っ足らずな顔で小夜が甘く問いかける。その声は、この空間では遅効性の毒のように甘美に響く。
蓮は、悟ったような顔で小夜からの沙汰を待つ。
「普通の友人は、呪ってほしいほどに好きな相手を望んで傷つけたりしませんよ」
「別に俺も望んで桜を傷つけたわけじゃないよ。・・・仕方なかったんだ」
「仕方ない・・・」
小夜は、蓮が発した言葉を舌先で転がしてみる。だが、やっぱり蓮の思いを完全に理解することは難しそうだった。
「蓮にいさんは、自分のエゴでしか動けない人」
「ひどいな」
蓮は、カラカラと笑うがそれでいて小夜の言葉を否定しない。
「だから、大切であるはずの桜お兄様を簡単に切り捨てられるし、私を桜お兄様の代替品に出来る」
最初に小夜が蓮に問いかけたことと同じように感じるが、もう蓮はそれを否定しなかった。
「私を二人の邪恋の仲介にしないでください、気持ち悪い」
氷点下の声。心の底から蓮を軽蔑しているその小夜の声に、ただでさえ身を竦ませるような寒気が、さらに5度は下がったように感じた。
蓮は、表情を変えないまま小夜を見る。
「私は、蓮にいさんと桜お兄様の逢引場所ではないですよ。そんなくだらないことを言いに来ただけなら、今日はもうお帰りください。・・・桜お兄様には黙っておいて差し上げます。今日の私は、何も見なかったし、聞かなかった」
「ひどいな」
「私の恩情です。せめて、桜お兄様の中で美しい思い出の一つくらいは残しておいて差し上げたらいかがですか?」
じっと小夜を見つめる蓮の視線から逃げるように、小夜はくるりと蓮に背を向けた。
「小夜ちゃん」
「・・・何ですか?」
地を這うような声で小夜が問いかける。その声は、蓮との時間を惜しんでいるようにも聞こえたし、これ以上蓮と一緒にいると苦しいと訴えているようにも聞こえた。
蓮は、小夜が泣くのを堪えていることに気が付いたのか、口をもごもごと動かしてから、小さく微笑んで「いや、なんでもない」と呟いた。
「小夜ちゃん、さよなら」
そう蓮が話しかけたのと、「蓮にいさ・・・!」と思わず小夜が振り返ったのは、同時だった。小夜が勢いよく寒牡丹が咲く庭を振り返った時、蓮はもういなかった。小夜は、所在なげに右手を宙に彷徨わせた後、諦めたように嘆息し、草履を乱雑に脱ぐと縁側に足をかけた。
「何、してるの?」
愉悦と非難の混じった声で小夜は俺に問いかける。俺が、しまったという顔をしてみると、小夜は「盗み聞きなんていけないんだ」と呟きくすりと笑った。
「小夜、塩でもまくか?」
「あら、どうして?」
「こんな時間にアポなしでやってきては小夜に失礼なことをいう輩がもう来ないようにするためだけど?」
冗談めかして提案すると、小夜はすっとぼけた顔で、
「そんな人、いた?」
と笑った。
「さっきまで小夜は、誰と話してたんだよ」
「誰とも話してないわ。夜中に少し、庭が見たくなって、一人で外に出ただけ」
「寒いのを苦手な小夜が?」
「私だってたまにはそんな日もあるわ」
「話し声も聞こえたのに?あれも全部独り言だったと?」
「あらあら。寝ぼけているんじゃない?幻聴が聞こえるだなんて、今日はもう寝た方がいいわ」
小夜が静かに笑うと、人差し指を俺の唇にそっとあてた。これ以上もう触れてくれるなということだ。
「夜の寒牡丹は綺麗だけど、あんまり花の数が多いと圧迫感があるわね。昼間見ている時はそう感じなかったのだけれど。後で、寒牡丹の数を少し間引くように伝えておいてくれるかしら?」
「分かりました」
強引に話題を変えた小夜に、俺は渋々返事をする。小夜は俺のご主人様なので、もうやめてくれと言っている小夜を問い詰めることは、小夜を傷つける悪手なので話題を変えた小夜にのっかった方がいいことを、小夜の優秀な従者であるところの俺はよくよく理解している。
「小夜」
部屋に入ろうとする小夜に呼びかけると、小夜は上半身だけを俺を方に向けて、きょとんと小首を傾げた。
「おやすみ」
「・・・おやすみ」
俺の挨拶に、小夜は泣き笑いを浮かべながら返事をして、今度こそ襖を閉めて部屋に引っ込んだ。
小夜が失恋する時は、俺の失恋する時でもある。
桜に誰よりも執着している蓮のことを、小夜が好いているのは、もう何年も前から知っていた。地球が自転していることよりも、夜が明けたら朝が来ることよりも、当たり前のこと。近所の優しいお兄ちゃんを結婚したいというような、淡い淡い初恋。小夜は自覚がないままに蓮への思いを募らせていた。
蓮がいなくなった時に、完全に終わらせることのできなかった小夜の初恋は成就することはないのに、失恋に昇華することの出来ないまま宙に浮いてしまっていた。
小夜は、初めて会った8年前から優しい子だった。優しくて、自分本位で、傲慢だった。
当時水商売をしていた母親と二人で暮らしていた俺は、母親の葬式で小夜に出会う。俺の母はさして売れているわけでもないただのキャバ嬢だったが、何故かプライドだけは異常に高かった。そして、俺の母親になることよりも、恋愛をすることを優先するただのどうしようもない女だった。だから、客として何度か母を指名した男を簡単に好きになり、男に妻子があると分かったら荒れ、妻子から男を引きはがせないことに怒り狂って、自分で自分の感情を制御できなくなり、最後には自宅で首を吊ってあっけなく死んだ。
俺は学校から帰ってきた時に、母の肢体と無感情に向き合った。
「貴方、名前は?」
母の葬式は、母が唯一親しくしていた友人が最後の義務とばかりに開いてくれた。俺はそれをぼんやりと眺めていた。母を死を悼む人なんて誰もいないと思っていたのに片手で数える程度には涙を流してくれていたのに驚いた。
母の友人以外は全員帰り、俺をどうするべきなのか面倒くさそうな顔をしながら思案している母の友人を俺が火葬場で黙り込んでいた時に、その少女は現れた。
黒い喪服を身にまとっている少女は、簡素ないで立ちから隠しきれない品の好さと美貌を纏わせて俺に微笑みかけた。当時中学生だった小夜は、母の友人の存在を無視したまま俺の目を見ると少し申し訳なさそうな顔をした。
「この度は、お悔み申し上げます」
少女だった小夜は、ガキだった俺にまるで大人が使うような言葉遣いで気遣った。
「別に、悔やむようなことじゃない」
俺が投げ捨てた言葉に、小夜は小首を傾げる。
「俺の母親は、そこそこ屑だって話だ」
「・・・親に対してそのような物言いをすべきではない、なんて説法は必要ですか?」
「色んな人に散々言われたから、いい。あいつが母親失格なのは誰も責めないのに、俺が母親を嫌いだっていうと親不孝だって責め立てる奴らばっかりだったんだ俺の周りは」
葬儀を開いてくれた母の友人は、我関せずとばかりにスマホをいじり始めた。
「お前、俺の名前を聞いたな。俺は、都っていうんだ」
「男の子の名前っぽくないですね」
「ああ。あの女の名前だからな」
「お母さまと同じ名前ってこと?」
再度小首を傾げた小夜に、俺は母親が水商売をしていたことを話すべきか、一瞬躊躇する。目の前のお嬢さんは、俺より年上だろうがどう見てもいいところのご令嬢だ。夜職がなんたるかも恐らく分かっていないだろう。それでも、母親が死んだことというよりよく知らない母の友人と、見ず知らずの少女に囲まれているこの状況に嫌気がさした俺は、自暴自棄に小夜に告げた。
「俺の母親の源氏名、仕事で使う名前が都だったんだ。つまり、あの女が恋愛する相手が知っているあの女の名前は都だってことなんだが・・・」
「うん」
「あの女がどうして自分の源氏名を俺に名付けたのか分かるか?」
「・・・自分とお揃いにしたかったから?」
少し考えて、釈然としない顔のまま小夜が告げる。
「自分が惚れた男に傷をつけたかったからだよ。私のこと、忘れないで。貴方が傷つけた私の子どもを見る度に思い出して。それだけで、俺は都なんて名前をつけられたんだ」
女みたいな名前で学校ではさんざん揶揄われた。まあ、殴り返したけど。そんな名前に、母親がなんの祈りも込めていなかったと知った時はそれなりにショックだったが、でもあの女らしいとも思った。
「都、君本当に小学生?」
「何?思ったよりも大人びていて、惚れた?」
生意気に眉を上げて小夜に問いかけると、小夜は呆れた顔で嘆息した。
「いいえ?私から見たら、子どもが片意地張っているだけに見えるけれど」
「自分だってそう変わらない癖に、よく言う」
「あら、私自分の年齢話したかしら?」
「聞いてないけど、想像くらいつくよ」
「そう・・・。まあ、そんな話をしに来たわけではないのよ」
さっきまでの俺の母親へのお悔みがまるでただの雑談だったかのように小夜は俺の顔を意味手から告げる。
「貴方、うちにきなさいな」
「は?断る」
即答。だって絶対ろくなことにならない。俺の本能がそう告げていた。俺の返事を聞いているのかいないのか、小夜は一方的に語り始める。
小夜の長い長い話を要約するとこうだった。
どうやら、あの女が最後に惚れて、自分のものにならずに絶望し自殺した男。それが小夜の血縁者だったらしい。いとこの父親にあたるとか。
分家筋であるその男の不始末は、本家であるところの小夜の家が始末をつけるのが道理だと。その男にしかるべき処罰を与えたうえで、小夜はひとり残された俺の保護に出向いたらしい。
「迎えに来るのが遅くなってごめんなさい」
まるで俺が小夜のことを心待ちにしていたかのように小夜は告げる。それを聞いてなお、俺の心が揺れることはなかった。傲慢に、俺が小夜についてくると思い込んでいる彼女に、どうしようもなく腹がたった。だれかに庇護されないと生活を維持できない自分にも腹が立った。それでも俺は、その苛立ちに地団太をふんで叫ぶことでしか対処出来ない程度には子どもだった。
「俺はあんたに面倒みてもらう義理なんてない。あんたたちが俺に罪悪感と責任感を感じているのならそれはお門違いもいいところだから、帰ってくれ」
大きく目を見開いた小夜が言葉を返す前に、口を挟んだのは、さっきまでスマホをいじっていた母の友人だった。
「ちょっと待ってよ。そしたら都の世は誰がするわけ?」
馴れ馴れしくもい俺を呼び捨てにする女性は捲し立てる。
「私だって忙しい中葬式まで開いてやったのに、都の世話まで任されるなんてごめんだよ。都、頼むからその子の家に行って」
そういうと。さっきまで暇そうにスマホをいじっていたのが嘘のように派手な爪で器用にかばんに荷物をつめ、スタスタと火葬場を去ってしまった。
あとに残された俺を小夜。気まずい空気に耐え切れずにちらりと小夜を見ると、小夜は俺に対してにこりと微笑んだ。
かくして、俺は小夜の家に転がり込むようになる。小夜の使用人として。
俺は小夜の傲慢なところが嫌いだった。俺がついていくと全く疑っていないところが。
俺は小夜の苦労なんて知らなそうなところが嫌いだった。多分彼女は飢えなんて知らない。俺と育ってきた環境があまりにも違うから。
俺は小夜の自分本位なところが嫌いだった。いつだって、俺の意見を無視するところが。
俺は小夜の声が嫌いだった。まるで女であることを象徴しているかのような高くて甘い声が。
それでも、俺の人生で一番俺に優しくしてくれたのは小夜だ。
俺は小夜のことを憎めない。
情がある。
執着すらしている。
小夜の側にいるようになってから数年、俺の時間は全て小夜に尽くしてきた。俺が尽くしてきた分だけ、小夜に必要だと言ってほしい。
愛して分だけ愛されたい。
見返りのない愛なんて知らない。ちゃんと、報われたい。
その為には小夜が泣いてもいいとすら思っている。自分本位なんだ。きっと。
俺に自分の源氏名をつけた血縁上の母親と同じくらい。自分の欲を満たすために桜を裏切った蓮と同じくらい。自分の初恋を終わらせないために桜と蓮を会わせなった小夜と同じくらい。
それでも、俺は小夜を見捨てられないからここにいる。馬鹿みたいに小夜に尻尾を振って。それで幸せになれる日なんか、くるはずもないのに。
俺は小夜がさっきまで立っていた庭に目をやる。小夜に多すぎると判断された寒牡丹は、一輪一輪が気高く咲いている。多分庭師に話したところで庭師は寒牡丹のひとつも間引かないだろう。人間じゃなくて、花に忠誠を誓っている爺なのだ。
自分勝手だ。
俺も。
みんなも。