10話 全力疾走
『濁った青色で、腕の生えた大きい猪』。そこにいたのは、まさしくその通りの魔物だった。その姿形は間違いなく猪で、背はマナミと同じくらい高い。しかし前回の魔物同様、目も口も鼻先も、分厚い毛で覆われ全く見えなかった。もしかしたら、そもそもないのかもしれない。のっぺりとした顔面は、ひどく不気味だった。
気味が悪いのは、側面から生えた腕も同じだ。明らかに人間の腕で、ぱっと見ただけでは隆々とした筋肉を持っているように見える。だが、その腕もびっしりと夜色の毛で覆われており、顔と同じく、姿形だけ似せた印象を受けた。いや、魔力のようなもので作られているのなら、それで合っているのだろう。少なくとも、実際に鍛えていたわけではないはずだ。
そして、全身を覆う昏い青色の毛は、前回同様、刃物のような鋭さを持つ部分と液体のような粘り気を持つ部分、両方がばらばらにひしめき合っていた。どろどろと毛が溶け落ち、その隙間から鋭利な毛束が刃を向ける。改めて見ても不可解で、奇妙な光景だった。
「とりあえず、あの毛は魔物共通である可能性が出てきたわね」
「気配、前と同じ。やはり魔力に類似」
まだ離れているためか、気付かれていないようだ。だから今のうちに、と小声で意見を交わし合う。
「見た目は聞いた通りだね。それに大きい猪って表現、おかしいと思ってたけど、確かに大猪じゃないなぁ」
「……ええっと、大猪よりは小さいってこと?」
森へ来る前に聞いた話を思い出し、マナミは尋ねる。覚えている限りだと、大きい猪が大猪、と言っていたはずなのだが。
「ああ、違う違う。大猪って、背中にキノコや香草を生やしてるんだよね。だからいくら大猪と同じくらい大きくても、あれはただの猪なんだ」
「あ、なるほど。木陰亀みたいな……」
「待って、ボクそっち知らないかも」
木陰亀は甲羅から木を生やしている亀だ。木が生えるわけなので、それなりに大きい。マナミの住んでいた村近くの森で、よくのそのそと歩いていた。
それはともかく、納得したマナミは魔物に視線を戻す。その背中には何もない。つまり、あの魔物はあくまで猪を模しているか、あるいはキノコや植物を再現できなかったか、そのどちらかなのだろう。
でも、どちらにしても、猪を真似ているのなら、突進してくるだろうな……。
マナミは内心頭を抱え、視線を揺らす。そうして、びくりと固まった。
また、目が合った。見えない、あるかも分からない、魔物の目と。
「――うわっ!」
途端、轟音が響き、マナミは思わず目を瞑る。地面が揺れ、転ぶように尻餅をついた。
「セレン、無事!?」
「一応は……あ、やば」
「問題あるなら報告して。それとマナミは避難!」
「は、はいぃ!」
名指しで命令され、マナミは慌てて目を開ける。そこにはセレンの背中と、その斧に激突し、思いっきり刺さりながら、今も頭突きし続けている魔物の姿があった。側面の腕の片方にはヴィルトリエが剣を向け、もう片方には、後方からナイフが飛んできている。ちょうど闇を纏ったナイフもやってきて、ふらふらと魔力の核を探していた。
「あ、あんな遠くにいたのに……」
動揺しつつも、なんとか立ち上がり、離れた木の上に立っているヌイのもとへと下がる。ヌイはマナミが辿り着いたのを横目で見つつ、ナイフを投げながら、小さく魔法を唱えていた。
「――つまり、斧の柄が壊れそうってことでいいかしら?」
「合ってる! いやあ、ボクの怪力なら止めるのは問題ないと思うんだけど、直接魔物に触るのは危ないよね?」
「できればやめてほしいわね。……あら?」
ヌイの詠唱が終わるとともに、セレンの斧の柄が闇で覆われる。察したセレンが、笑って声を上げた。
「ヌイ、ありがとう! これ、どれくらい保つ?」
「戦闘終了まで。どんな衝撃でも、ウチが維持する」
「最高! 今度なんか奢るねっ!」
セレンが笑みを浮かべながら、魔物を押しとどめる。だが斧が刺さっているせいか、魔物は引く様子もなく、変わらず前進し続けていた。その視線が自分に向けられているように思えて、マナミは身をすくめる。
「セレン、まだ抑えられそう?」
「うーん、微妙。だんだん強くなってきてるから、そのうち押されかねないね」
「なら、頃合いを見て離脱しましょう。吹き飛ばされるのはあまりよくないわ。まあ、また突進してくるでしょうけれど」
ヴィルトリエが、ちらりとマナミに目を向ける。
「マナミ、今回は四番目の作戦だから、頑張りなさい」
「ひえっ」
下された指示に、マナミはおろおろと視線を泳がせる。が、ヴィルトリエからじっとりとした視線が飛んできたので、弾かれたように返事をした。
魔物との戦いに備え、マナミは事前に動き方を指示されていた。戦い慣れている他三人と違い、ろくに逃げられもしないのだから当然だろう。その動きは、大まかに分けて四つある。
一つ目。結界の中で待機。仲間一人も隣で護衛。
二つ目。結界の中で待機。仲間は全員前線に参戦。
三つ目。結界は使わず、仲間一人と一緒に行動。
四つ目。結界は使わず、目の届く範囲で一人行動。
簡単に言えば、結界の有無、一緒にいる仲間の有無による組み合わせだ。そのときの状況次第で変わるとはいえ、戦いでの動きを知らないマナミからしたら、分かりやすい行動指標になっている。それに、マナミが優先するべきなのは自分の安全だと耳に痛いほど叩き込まれたので、どの作戦だとしても、マナミがやるべきことはまず安全確保だ。
そう。それは、分かっているけれども。
「……いきなり、一人行動かぁ……」
そろそろと、魔物を警戒しながらマナミは移動する。いくらマナミでも、突進してくる魔物の直線上にいるのが危ないということくらいは分かる。
「わわっ……マナミ、移動してる?」
「え? そうだけど……」
セレンの声に目を向け、マナミは顔を引きつらせた。魔物の進む方向が、明らかにマナミのいる方へ変わってきている。セレンが抑えているからまだこちらに真っ直ぐ向いているわけではないが、少なくとも、魔物の狙いがマナミであることだけは理解できた。
「やっぱり勇者の血筋を狙っているのかしら……。ヌイ、さすがに核の位置はもう少しかかるわよね?」
「かかる。まだ例が少ない、最適化できない」
「分かったわ。なら、やることはひとつね」
ヴィルトリエがマナミを見て、にっこりと微笑んだ。
「マナミ、わたくしの合図があったら、左方向に走りなさい。全力で」
「……え?」
嫌な予感がする。マナミは指示について考えながら、耳を傾けた。
「セレンは魔物の進路を右方向に曲げながら離脱して。わたくしも協力するわ」
「分かった! ってことは、その後はまた止めればいいんだよね?」
「ええ。間違いなく、あの魔物はマナミを追うでしょうから」
「……トリエ、その、合図って、もしかして一回じゃなくて……」
「合図のたびに、と伝えた方がよかったかしら?」
微笑んだままのヴィルトリエが、魔物の腕を剣で弾く。
「というわけで、マナミ囮作戦で時間稼ぎをしましょう」
「おー!」
「ま、待って待ってぇ!」
マナミは涙目で抗議した。だって無理だ。そんなの、追いつかれる気しかしない。
「泣き言言わないの。ほら、さーんにーいち、今!」
「ぴえぇぇ!!」
容赦のない合図に顔を青ざめながら、マナミは指示通り全力疾走する。森が揺れ、後ろから迫る轟音に、こぼれそうになる悲鳴をかみ殺した。
「あだっ」
とはいえ、木々の合間を縫って走るには経験が足りない。木の根元に引っかかり、マナミは盛大に転ぶ。が、顔を上げた先に見えた背中に、ほっと息を吐いた。
「うわー、よかった。ここまで方向を変えるとなると、勢いは引き継げないみたいだね」
セレンが先ほどと同じように、魔物を斧で押しとどめている。マナミは土を払い、ゆっくりと立ち上がった。
「ありがとう、セレン」
「感謝するにはまだ早いかな。あと怪我してない?」
「うん、たぶん」
多少すりむいてはいるが、幸い走れないほどの傷はできていないようだ。安堵するマナミに、ヴィルトリエの声が届く。
「マナミ、油断しない! それに、今度は転ばないよう注意なさい!」
「は、はーい……」
正直、転ぶ自信しかなかったが、マナミはおとなしく返し、周囲を見回す。見たところ、動物の姿はないし、急な斜面などもないようだ。魔物の背後に視線を向けると、なぎ倒されている木々が目に入る。マナミは見なかったことにして、息を整えながら、次の合図に備えた。
そうして、マナミが何度も走り、何度も転び、本気で泣きかけた頃。ヌイの魔法が、魔物の核を捉えた。
「『どうかこの剣に力を。陽のような輝かしい炎で、皆を守り、敵を打ち砕く強さを』!」
ヴィルトリエが魔法剣を発動し、それを一閃する。パリン、と音が鳴り響いた。
「……魔物には核があって、破壊すると塵になる。これも共通点になりそうね」
「同意。壊れる音も、全く同じ」
「言い伝えでも、最後には塵になってたもんね」
魔物が倒され、早速情報を整理する三人の姿が、果てしなく遠く見える。地面に倒れ込んだまま、マナミは深く息を吐いた。




