13話 少女の声
馬車に近づくと、いくつもの不安そうな顔がこちらに向けられた。見たところ、マナミと同じくらいの若者から幼い子供までで、大人はいないようだ。馬車には幌がついており、繋がれている赤茶毛のロバが、落ち着かない様子で宥められている。
「あ、あの、結界って聞こえたんだけど……」
「ねえ、さっきの魔法ってさ――」
「しーっ、ちょっと黙って」
焦げ茶の髪の少女が、そばにいた少年を窘めながら問いかけた。ヌイはこくりと頷く。
「今から張る。じっとしてて」
ヌイがマナミの手を離し、背を向ける。いや、魔物に向き合った、と言う方が正しいだろうか。今も戦い続けるヴィルトリエとセレンが見え、マナミは祈るように、ぎゅっと両手を握りしめた。
ヌイが左の手のひらを後ろに向け、詠唱する。
「『闇よ、益あるものを通し、害あるものを通さぬ結界となれ』」
手のひらを起点に、夜のような暗闇が、馬車とその周辺にいるマナミたちを覆う。その暗闇に、目の前にいるはずのヌイの姿すら見えなくなる。しかしそれは一瞬のことで、すぐにマナミの視界は光を取り戻した。
「えっ、ヌイ、結界は……?」
「光を通しているだけ。声もそう。敵や、敵の攻撃だけ弾くようにした」
「な、なるほど」
納得はしたけれど、それはわりと難しい魔法なんじゃないだろうか。マナミは内心恐れおののきながら、あるはずの結界を見つめた。
属性魔法は普通の人が使う魔法と違い、明確に属性を指定して詠唱している。だから発動した魔法には必ずその属性の要素が――例えば火魔法なら火が、水魔法なら水が現れ、その持っている性質から離れることはない、と思っていた。でもヌイの言葉が本当なら、これは光を通す闇だ。正直なところ、マナミにはわけが分からない。
属性魔法使いって、想像していた以上にとんでもないのかもしれない……。
マナミはごくりと唾を飲み込んだ。
「結界、きえちゃった……?」
「いや、見えないけどあるみたいだぜ」
「ほんとー? 失敗したんじゃない?」
「や、やっぱり逃げようよぉ……」
口々に、不安がる声が上がる。ヌイがこちらを一瞥した。
「気になるなら、馬車の後ろにでも隠れて」
突き放した声音に、マナミは思わず彼らの様子をうかがう。けれど、マナミの心配に反し、そのざわめきから憂いの声は減っていった。
「馬車を盾になんて、するわけないじゃん!」
「俺たちの宝物だもんな」
「あんな大金、もう払いたくないし……」
「他はいいけど、楽器は守りてぇよなー」
楽器。きょとんとしたマナミの耳に、シャンシャン、と音が届く。小さい女の子が、周囲に同意しながら、抱えている楽器を鳴らしていた。あれは確か、タンバリンだっただろうか。村に来た行商人が説明してくれたことがある。そういえば、そのとき一緒に教えてくれた。世界中を旅しながら、音楽を奏で、物語を語り継ぐ存在。一人旅の場合は吟遊詩人。集団の場合は、演奏旅団。
もしかして、彼らは演奏旅団なのだろうか。
「マナミ」
「ひゃいっ」
気を取られていたマナミは、慌ててヌイに顔を向けた。
「忘れてた。魔法、どれくらい使える?」
「え、あ、その、全然というか、役に立たないくらいというか……」
答えながら、申し訳なさに知らず縮こまる。魔物との戦いなのに、勇者の子孫である自分は全くの無力だ。
「分かった。ウチがやるから問題ない」
マナミの返答に落胆することもなく、ヌイはあっさりと魔物に向き直る。そして漆黒のナイフを取り出し、ピン、と指で弾いた。
「『闇よ、其れは魔の力。其れは何処より深く暗い底。光無きに集うが闇ならば、示せ、魔の力の深淵を』」
詠唱に伴い、ヌイの周囲からふつふつと闇が湧き出る。そして空中に投げ出されたナイフを取り囲み、魔物へと飛んでいった。だがそのまま激突することはなく、魔物の上空で止まり、ふらふらと漂い始めた。
「わっ、びっくりした。ヌイの魔法かー」
「それで済ますようなものではないと思うのだけれど? ヌイ、これは何の魔法なのかしら!」
ヴィルトリエの大声に、ヌイがぼそりと詠唱する。
「『闇よ、我が声を、彼の者たちの声を、何処からともなく響かせ合え』。……魔力が一番集まってる場所を探してる。見つかったら、そこに刺さるから、斬って」
「ちょっと、今逆方向から声が……いえ、まあいいわ。それより、そこが弱点ということ?」
「普通の生き物は、突然脚が生えたりしない」
足下から聞こえたヴィルトリエの声に対し、ヌイが、淡々と告げた。
「魔物は、たぶん魔力でできてる。だから核を潰せば霧散する」
「――なるほどね、分かった!」
セレンが、魔物の攻撃を受け止めながら笑った。
「よく分からないけど、ヌイの魔法が示した先が心臓ってことだね?」
「理解しているのかしていないのかはっきりしなさい」
ヴィルトリエが呆れながら、魔物の攻撃を回避する。
「でも、納得したわ。そもそも生き物じゃなかったとは思ってもみなかったけれど」
「あー、そういうこと。ボクも、新種の生き物だとばかり思っていたよ。でも、魔力ってこんな実体になるの?」
「聞いたことはない。ウチも初めて見た」
「あら、じゃあやっぱり、魔王が復活して魔物をまた生み出した、という可能性が高そうね。より楽しみになってきたわ」
魔物を斧で牽制するセレン。思いきり魔法剣を叩きつけるヴィルトリエ。そして、結界や音声伝達の魔法を維持しながら、魔物の核を探すヌイ。会話しながらもそれぞれの立場で戦い続ける仲間達に、マナミは会話に加わることも出来ず、ただ見守り続けていた。じわじわと、いかに自分が足手まといで役立たずなのか、見せつけられていく。これから先、魔王との戦いでもきっとこうなるであろうという現実に、マナミはただ誤魔化すように息を吐き出した。
どうしてここにいるのが、父ではなく自分なのか。
王城に呼ばれてから幾度もよぎった疑問が、ぐるぐると頭の中を駆け巡る。父に剣を教わっても全く使い物にならなかった自分が、魔力がほとんどなく、ささやかにしか魔法を使えない自分が、どうしてよりによって、魔王を倒す旅に加わっているのだろう。最後にとどめを与えるためだけの、道中ろくに戦えない、ただの村娘。それがマナミだ。ただ一人残った勇者の子孫で、魔王に対する切り札のはずなのに、仲間に守られなければ辿り着くことさえできない。戦う仲間達を前に、マナミはその事実を、改めて突きつけられた。目の前にあるはずの見えない結界が、まるで、三人とマナミを隔てているようだった。
魔物の脚は、気付けばまた一本、二本と増えている。腕のような触手も生えていた。ヴィルトリエとセレンもさすがに疲弊しているようで、険しい表情になっている。
「ヌイ、あとどれくらいかかる?」
「もう少し。見当はついてきた。待ってて」
「あはは、あともう一踏ん張りだって! 頑張ろう、トリエ!」
ヌイが、肩で息をしながら魔物を睨みつけた。セレンが空元気で声を上げ、それに応えるように、ヴィルトリエが魔法剣を構え直す。マナミはかける言葉もなく、ただ仲間達を見つめた。戦い始めてから、もうずいぶん経っている。
大丈夫だろうか。じわり、マナミの心に不安が滲み出てくる。
そしてそれは、マナミだけではなかった。
「ね、ねえ、大丈夫かな……」
心配そうな少年の声を皮切りに、結界の中に、憂いの声が広がっていく。
「あのお姉さんたちは強そうだけど、相手が……」
「魔物、って言ってたよね……」
「えっ、魔物って、言い伝えに出てくる?」
「あし、いっぱいでこわい……」
「助け笛で来てくれたときは、助かったと思ったんだけど」
「どどど、どうしよう。僕達死んじゃうのかなぁ!?」
背後から聞こえる彼らの言葉で、マナミはまた自分の無力に打ちのめされる。もし父がここにいたならば、魔物を倒す、まではいかなくても、もっとみんなの助けになったはずだ。彼らがこんなに不安に思うことだって、なかったに違いない。それだけ、父の剣技はマナミにとっての安心だった。でも、マナミはみんなの安心にはなれない。それこそ、魔王を倒し人々を安心させた祖先のようには、なれるわけもない。初めから分かっていたことなのに、マナミはどうしても自分が情けなかった。
俯きかけたマナミの耳に、凜とした声が届く。
「大丈夫だよ」
一瞬、息の仕方を忘れた。
「心配することないよ。ほら見て、あの髪。陽光に輝く黄金の髪。きっとあれが噂の“騎士姫”様だよ。みんなも知ってるでしょう? 南部の反乱を鎮めてくれた、この国一番の剣の使い手!」
軽やかに、弾むように、その少女の声が結界内に響く。
「隣で戦っている人も見てよ。あんなに大きな斧、持ってるだけでも大変なのに、それでどんな攻撃も受け止めてるんだよ? すごくない? 私たちが知らないだけで、きっと有名な傭兵さんなんだよ!」
朗らかなその声が、一陣の風のように、彼らの不安を吹き飛ばしていく。
「それに加えて、結界を張ってくれた魔法使いさんもいるんだよ。みんなは消えちゃった、って言ってたけど、あの化け物にもなんかすごい魔法を使ってるくらいなんだから、見えなくなっただけであるはずだよ。闇の魔法なのはちょっと怖いかもだけど、助けてくれてるから味方! 問題なし!」
そう言い切った少女に、マナミは泣きそうになった。でも、嬉しいからじゃない。悲しいからでも、ない。
「だから、大丈夫。私たちは助かるし、“騎士姫”様たちも無事! ね、コリス!」
「いや急に振るなよ姉貴!? あー、でも、うん、おれもそう思うぜ。見てるだけで、おれたちよりずっとずっと強いって分かるし……」
話を振られた青年はそう言って、そうだ、と続けた。
「なあそこの、えっと、魔法使いと一緒に来たあんた!」
「ぴゃっ!?」
声をかけられるとは思っていなかった。素っ頓狂な声を発してしまい、顔を真っ赤にしながらマナミは振り返る。結界内にいる人たちがみな、マナミに視線を向けていた。そのうちの一人、焦げ茶色の髪の青年が、マナミに尋ねる。
「あの人たちって強いんだよな? 魔物がどうこうとか聞こえたけど、絶対勝てるよな?」
「――っ、うん!」
咄嗟に言葉が出なくて、マナミはこくこく、と何度も頷いた。それを見て、青年はほっとしたように笑う。
「ほら、仲間の人が言ってるんだから、心配することはねーよ」
「そうそう、大丈夫!」
青年と同じ、焦げ茶色の髪の少女も笑って賛同する。一番始めに声を上げた、あの凜とした声の持ち主だ。他の人たちも、程度の差はあれど、安堵したような表情を浮かべていた。マナミはそれ以上見ていられなくて、仲間たちの方へ向き直る。けれど本当は、穴にでも入って閉じこもりたい気分だった。