11話 魔物
「むぐ……けっこう近そうだね。方角は西かな」
「ああもう、こんなときに……!」
ヴィルトリエは苛立った声を上げ、ヌイに突き出していた剣を収める。
「セレン、マナミをお願い」
「分かった。ボクが着くまで無理しないでね」
「誰に言っているの? わたくしは“騎士姫”よ」
不敵に笑い、ヴィルトリエが走り出す。身体強化魔法をかけながら走っているのか、その後ろ姿はすぐに小さくなっていった。
「ボクたちも行くよ。マナミ、鞄持って」
「え、あ、鹿肉は」
「終わったら食べるよ。誰かに盗まれてなければだけどね!」
大斧を背負い、ヴィルトリエの荷物をまとめるセレンに、マナミも慌てて自分の鞄を抱える。それから、立ったまま微動だにしないヌイにちらりと目を向けた。
「えっと、その……」
「ウチも行く」
「へ?」
問いかけるより前に返された答えに、マナミは戸惑う。
「もしかして、ボクたちと一緒に向かうってことかな?」
「だめ?」
「いや、構わないよ。人手は多い方がいいし」
快諾するセレンに、マナミはおそるおそる尋ねる。
「あ、あの、セレン、いいの? トリエが……」
「緊急事態だから、トリエも分かってくれるよ。結界の話から、手練れであることは間違いなさそうだし。あ、でも」
そこまで言って、セレンはヌイに笑いかけた。
「ヌイ、だっけ。もしキミが二人に危害を加えたら叩き斬るから、そのつもりで」
「分かった。問題ない」
二人の会話に、マナミは思わず固まる。にこやかな表情で物騒なことを告げるセレンも、それに一切動揺せず返答するヌイも、マナミにその警戒心のなさを突きつけているようだった。
「じゃ、急ごうか。マナミ、落ちないでね」
「へ?」
落ちるとは、と聞く間もなく、セレンが目の前でマナミの腕を取る。え、と思ったときには体が荷物ごと宙に浮き、セレンの左肩に担がれていた。
「あ、え、あのっ!?」
「ごめんね、これが一番早そうだったから」
逆の肩に自分とヴィルトリエの荷物を掛け、セレンは早速走り出す。マナミは抗議を諦め、ただ彼女の体にしがみついた。すぐ横にある斧が当たらないか怖かったし、進行方向が見えないことが不安だったが、これが最善であろうことくらいはマナミにも分かる。
景色が飛ぶように過ぎ、あっという間に街道へ出る。北への道も通り過ぎ、みるみるうちに見えなくなった。荷物もマナミも抱えているはずなのに、マナミが走るよりもずっと速い。さすが推薦されるほどの傭兵、と思うと同時に、抱えられるしかない自分が嫌になる。今一緒に助け笛の元へ向かっているのだって、唯一魔王を倒せるとされるマナミを一人きりにするのは危険だからだ。マナミ自身は、何の助けにもなれない。そんなこと、自分が誰より分かっている。
「聞こえてきたね」
セレンの呟きに、マナミは身を固くする。ガキン、と何かがぶつかったような音が、かろうじてマナミの耳にも届いていた。
「あの、その、何か見える……?」
「いや、まだ遠くて分からないかな。街道に何かあるようにも見えるけど、動きはないから、森で戦ってるかも」
「森で……」
数年前、暴れ縞鹿と戦っていた父の背中が、マナミの頭をよぎる。あのとき父は一人で難なく倒していたけれど、今、ヴィルトリエが立ち向かっているのは、それよりずっと強い、正体不明の何かだ。
「大丈夫だよ。噂通りの“騎士姫”様なら」
「……うん」
“騎士姫”。王国随一の剣士。南部地方の反乱を鎮めた王女。“血染めの剣姫”。
マナミが知っているのは噂ばかりで、心配ばかりが募っていく。思えば、まだ彼女が戦っている姿を見たことはなかった。でも、魔王と戦い、討伐することが、マナミたちの使命だ。これからきっと、何度も何度も、ヴィルトリエやみんなが戦う背中を見ることになる。
一人だけ、何も出来ないまま。
「それに、ヌイも頼りになりそうだし」
「えっ?」
思わず、知らず俯いていた顔を上げる。そういえば、ヌイはどこにいるのだろう。マナミの視界にヌイの姿はないけれど、セレンより先に走っていた覚えはない。
「マナミ、左――じゃないか、右見て」
促されるまま、顔を右に向ける。街道の横に広がる木々の間に、見覚えのある黒髪が見えた。
「……ヌイ?」
マナミの呟きに応えるように、紫の瞳がちらりとこちらを見た。その姿勢は少しもぶれることなく、枝から枝に飛び移り、セレンと併走している。ほとんど音を立てないその身のこなしに、マナミはぽかんと瞬きをした。
「すごい……」
「ボクも初めて見たよ。……あ、やっぱり森だ。木が揺れ……あ、倒れた」
セレンがそう言ってすぐ、大地がぐらつくような音が響き、マナミは身をすくめた。
「それに、街道のは馬車かな」
「ってことは、助け笛の……?」
「だと思う。救援だとしたら、戦ってる場所が近すぎる。森と言っても、ほぼ街道沿いだからね」
段々と、戦いの音が近づいてくる。マナミはごくり、と唾を飲み込んだ。魔物かどうかは分からない。けれど、もし魔物だとしたら。マナミは、結論の出なかった推測を思い出す。もし、勇者の子孫であるマナミを狙い、襲ってきているのだとしたら。そのたび、みんなが戦わなければならないとしたら。旅の先で、魔王が最優先で、マナミを狙ったとしたら――。
「マナミ、ひとまず馬車のそばに――って、ごめん!」
「わっ!?」
突然、地面に下ろされる。うまく着地できず尻餅をついたマナミの耳に、鈍い打撃音が届いた。慌ててその方向を見て、マナミは目を見開く。
そこにいたのは、見たことのない生き物だった。夜の始まりのような昏い青色の毛で全身が覆われ、皮膚や目、口らしきものは一切見えない。その毛束は鋭く、まるで刃物のような部分もあれば、どろどろに溶け、液体のような部分もあった。縞鹿より一回りほど大きく、縞鹿に似た角を二本生やしている。その一方で、体のつくりは狼や獅子のものに近く、その四つ脚には鋭利な爪が揃い、狂ったように振り回されていた。
これが、魔物だろうか。
マナミは呆然と魔物を見上げながら、不思議な感覚に囚われる。
こんなに強大で、不可思議で、驚くべき生物なのに。
どうしてこんなに、儚く消えてしまいそうなのだろうか。
ぼんやりと魔物を見つめていたマナミは、ようやく魔物に対峙している二人に気付く。
「助かったわ。いきなり向きを変えるものだから、対応が遅れて」
「気にしないで。それにしても狙いは……まあ、考えるのは後にしようか。援護するよ」
「あら、いいの? 一応、可能か確かめてくれる?」
ヴィルトリエが、魔物に見せつけるように剣を掲げる。その剣に、マナミの視線が一瞬で吸い込まれた。
燃え盛る炎を纏い、煌々と輝く剣。
「魔法剣……」
剣に魔法を纏わせ、戦う手法。それが魔法剣というらしい。マナミも父の話で聞いたことがあるくらいで、実際に見るのは初めてだ。魔力が少ないから自分にはできないんだ、と父は残念そうに言っていた。それも頷けるほど、ヴィルトリエの魔法剣は勢いよく燃え続けており、マナミに魔力量の差をひしひしと突きつけた。
ヴィルトリエが、剣を掲げながら数歩後ろに下がる。それを追うように振り下ろされた魔物の前脚を、セレンは大斧で受け止めた。
「うん、さっきは急だったから確信できなかったけど、これならボク一人で抑えられそう。こっちは任せて」
「なら、仕留めるのはわたくしの仕事ね」
セレンが牽制しているのを横目に、ヴィルトリエが魔物の右側に回る。そしてその胴体に向けて剣を振り上げ、炎ごと斬りつけた。ジュッ、と焼ける音とともに毛が切り落とされ、空いた隙間から、ドロッと毛と同じ色の液体があふれていく。魔物が悲鳴を上げるようにその身体を震わせ、脚や頭をむちゃくちゃに暴れ回す。その爪や角を、ヴィルトリエは素早く避け、セレンは怯むことなく防ぎきった。
「トリエ、行けそう?」
「ええ。頭や脚は角と爪に阻まれて駄目だったけれど、胴体なら攻撃が通りそう。苦しんでいるようだし、このまま攻撃を続ければ倒せるんじゃないかしら。まあ、魔物特有の倒し方がなければ、だけれど」
「あはは。もしそうだったら、言い伝えに載せなかった昔の人に文句を言おう」
セレンは明るく返して、体当たりしてきた魔物を大斧で食い止めた。その隙に、ヴィルトリエが躊躇いなく一撃を与える。
二人の戦いに、マナミは思わず見入っていた。セレンが魔物の攻撃を止め、ヴィルトリエが魔物に攻撃する。一緒に戦うのは初めてのはずなのに、二人は迷うことなくそれぞれの役割に徹し、淀みない連携を見せていた。マナミの実力では、ひっくり返っても手出しができない次元。これが“騎士姫”で、“怪力の女傭兵”の姿なのだ。魔物の動きもだいぶ鈍ってきている。このまま行けば、問題なく倒せるだろう。
そう、安心した矢先。どろりと、魔物の胴から新しい脚が生えた。