9話 暴れ縞鹿
どうっ、と音を立てて倒された暴れ縞鹿に、マナミはほっと息を吐く。
「いやートリエ、誘導ありがとう! おかげでうまくいったよ!」
「大したことはしてないわよ。というか、わたくしが引きつけていたとはいえ、まさか角を掴んで引き倒せるなんて。何度見ても信じられないわね」
顔を引きつらせながら、ヴィルトリエはセレンが押さえている暴れ縞鹿の周囲に鎮めの薬香水を撒いた。しばらくじたばたと抵抗を続けていた暴れ縞鹿は、だんだんと落ち着いていく。
「私、その薬香水の効き目の早さの方が信じられないけど……」
「マナミ、わたくしを誰だと思って? 最高級の薬香水をいくつも用意することくらい簡単だわ」
「さ、さすが王女様……」
何も言えなくなったマナミに構わず、ヴィルトリエは薬香水の瓶を鞄に仕舞う。かつらを被っていないヴィルトリエの髪は、今日も陽光を浴びて煌めいていた。
交易都市アフュサスを出発してから、三日が経った。王都周辺は一面の平原が広がっていたが、西に進むにつれだんだんと木々が増え、今では街道の左右どちらも、青々とした森に面している。町を二つ経由したマナミたちは、もうすぐ、北に伸びる道へと差し掛かろうとしていた。
「この子、そろそろ放していいかな?」
「そうね。いつも通り、来たのとは逆方向……南東で。今のところ、これでまた暴れ縞鹿になって戻ってきたことはないもの」
「そうだね。ほら、あっちに行きな」
セレンが縞鹿の体を起こし、黒い縞模様の背を軽く押す。縞鹿は戸惑ったように首を回し、ゆっくりとマナミたちから離れ、森の中へと去っていった。
「でも本当に、こんなに暴れ縞鹿が出てくるとは思わなかったね……」
「そうね。シュナが言っていたから警戒はしていたけれど、一方向からこんなに現れるのには驚いたわ」
「原因がまだいる、ってことだもんね。しかもこの先にさ」
セレンの言葉に、三人は顔を見合わせる。暴れ縞鹿は、町を一つ越えたあたりからやって来るようになった。方角としてはみな、やや北寄りの西から駆けてきている。これだけ一致していれば、原因がそちらのほうにいることは明白だ。
「難しいわね。旅の目的を考えたら、やっぱり一刻も早く進むべきだと思うのだけど……」
「でも、もし原因が魔物だったら、一回戦ってみてもいいと思う。ボク達の実力が果たして魔物、それから魔王に通じるかどうか。今の状態じゃ、何も分からないからね」
それは、昨日から話し合われてきたことだった。先に進むか、原因を探りに行くか。自分たちの旅は、復活した可能性のある魔王を倒すこと。でもその道中で、魔物がいる可能性があったら対処に向かうべきかどうかは、まだ結論が出ていなかった。
「マナミはどう? やっぱり不安?」
セレンの問いかけに、マナミは目を伏せる。
「……うん。だって暴れ縞鹿は、仲間を守るために暴れているはずだよね。なのに、その暴れ縞鹿が逃げてるみたいで……」
「それほど脅威なのでしょうね。この状況だから、中央や西部の都市から騎士か傭兵が派遣されると思っていたけど、少なくとも中央からは来ていないし」
「中央で一番近いアフュサスは傭兵が減ってるから、その分騎士も派遣に割けないんじゃないかな。西部の方も、昨日、町で聞いた感じだと、最寄りの都市は同じような状況みたいだね」
「元々、西部は中央寄りの騒動は様子を見ることが多いし、動きが消極的でもおかしくないわ。……いえ、これはどの地方も同じだけれど」
頭が痛い、とヴィルトリエがため息をつく。
「目撃証言から、魔物が出るとしても北部に入ってからだと思っていたけれど、そうでもなかったのかしら。あるいは……」
一瞬、自分に向けられた視線に、マナミは思わず呟く。
「私が、いるから……?」
勇者の子孫。魔王を倒せるという唯一の存在。それを潰すために、魔王が差し向けたのだとしたら。
「うーん、それはまだ分からないんじゃない? ボク達が知らないだけで、中央にも魔物が出始めているのかもしれないし、そもそも魔物じゃないかもしれない。考えても仕方がないよ」
「そうね。想定外なんていくらでも起きるわ。わたくしの魔王討伐計画だって、とっくに一から練り直しになってるもの」
「ご、ごめんなさい……」
「謝る必要はないわ。今思うと、身体強化魔法で最短距離を突っ切るのは無茶だったし」
「うん、さすがにそれは無謀だよ……」
しみじみ頷くセレンに、ヴィルトリエが唇を尖らせる。
「別にいいでしょう、実行しなかったんだから。それより今後の行動を考えるべきよ。もうすぐ北への道に辿り着くのだから、そろそろ指針を決める必要があるわ。異論はある?」
「異論はないけど意見はあるよ」
セレンが手を上げて、にこやかに続けた。
「ご飯、食べてからにしない?」
「……セレン、貴方……」
ヴィルトリエが、呆れた目をセレンに向ける。
「いやいや、ちゃんと食べてからの方がいい考えが浮かぶっていう経験則だから。確かにお腹は空いてるけど、これはよりよい結論を出すための正当な意見だから!」
「まあ、そろそろお昼ご飯にはいい時間だし……」
セレンの訴えに、マナミも控えめに賛同する。ヴィルトリエは息を吐いて、鞄を背負い直した。
「分かったわよ。ご飯を食べてからにしましょう。ただし、それまでにきちんと考えをまとめておくこと」
「やったー! はーい!」
「う、うん」
二人の返事に、ヴィルトリエは頷いて返す。
「さて、休めそうなところはこの先だったかしら?」
「そうだよ、北への道の手前に湧き水があってね。人気だから普段なら混み合ってるけど、騒動で行き来も少ないし、ゆったりできるんじゃないかな」
「ゆったりはしない方がいいんじゃ……」
「甘いよマナミ。急ぎの旅でも、焦りは禁物。気持ちは気楽に、だよ」
「へ、あ、うん、分かった」
緩やかに言葉を交わし合いながら、マナミたちは歩みを再開した。
街道を少し外れ、湧き水のもとに辿り着いたマナミたちは、てきぱきと昼食の準備を始める。
とは言っても、とマナミは食材を取り出しながらため息をつく。
「あらマナミ、どうかしたのかしら?」
「……トリエとセレンに料理出すの、まだ緊張して……」
獣除けの薬香水を撒いていたヴィルトリエが、じとりとマナミを見る。
「貴方、いつまで卑屈でいるつもり? セレンじゃないけれど、そんなに重く考える必要はないわよ。騎士として過ごしているときは他の騎士と同じものを食べていたし、南部の戦いの時は保存食ばっかりだったわ」
「でも、美味しいもの、たくさん食べてきたでしょ?」
マナミはアフュサスで食べた都会風白シチューを思い返す。一口食べただけで、マナミの人並みの料理では太刀打ちできないことを理解した。王城の料理も、緊張しすぎて味がしなかったが、彩りにあふれた美しい料理だった。ヴィルトリエもセレンも、王城や都市で、そういった美味しいものを食べてきたのだ。そんな人たちに、悪くはない程度の料理を差し出すのは、どうしても胃が痛い。
「言っておくけれど、マナミの料理、普通に美味しいわよ」
「え、あの」
「そうだよマナミ、胸を張って!」
「ぴえっ!」
薪を集めてきたセレンが、背後から大声を上げる。
「それに、そもそも料理できること自体がすごいことだからね。この中で唯一作れるんだから、もっと自信持っていいんだからね!」
「わたくし、貴方が料理できないと知ったとき、本当に驚いたわ」
「あはは。作ってると、食べたくなっちゃうからね……」
セレンが、持ってきた薪を並べていく。ヴィルトリエも薬香水を撒き終え、念のためにと敵対者を弾く結界を張っている。マナミは慌てて食材に目を戻した。
「ちなみにマナミ、今日のご飯は鹿肉?」
「昨日、貴方が鹿肉食べたいって言ったんだから鹿肉でしょう」
「やっぱり? でも確認したくて」
照れたように笑うセレンに、大丈夫だよ、と町で買った鹿肉を見せる。セレンは目に見えて胸を弾ませていた。
「だけど、初日と似たような感じになるよ。お昼だから時間かけられないし……」
「大丈夫! 焼いた鹿肉は最高だよね」
にこにことするセレンに、まあいいか、とマナミは鹿肉に向き合った。正直なところ、下味を付けて焼くだけだし、下味も香草や塩、胡椒くらいなので、そこまで大したことはしていない。していないのに、初日はセレンに絶賛され、ヴィルトリエに及第点をもらった。それが逆に怖い。
怯えながらもマナミは食材の準備を終え、セレンが用意してくれた薪に向かう。