1.呪われ王子と婚約者の私
「おい見ろ」
「あの方が呪われた第一王子……」
「国の為にも、早くお相手を……」
王城の中、遠くでヒソヒソと囁かれている声をつい拾ってしまい、私は微かに顔をしかめた。
今まさに私の手を取りエスコートしてくれている人物を揶揄するようなそれに不快感を覚える。
当の本人、隣を歩く彼をそっと見やれば、私より頭一つ身長の高い彼の肩越し、作り物じみて美しいその横顔からは何の感情もうかがい知れなかった。
彼を責めるようなそれらの声も、彼にとっては些事らしい。
中性的にも見えそうな気品のある立ち姿。
すっと前を見据えて歩みを進めるその背は線を一本引いたように真っ直ぐ伸びており、その歩く動作一つ取っても優雅で美しい。
しかし、美しすぎるせいだろうか、彼の持つ雰囲気はどこか人に冷たい印象を与えた。
感情の伺えない表情、口数は少なくいつだって冷静だ。
王城の廊下、国の中枢の者のみが立ち入ることを許されたこの場において、十七歳になったばかりの彼からは迫力のようなものすら感じられた。
歩みに合わせ、輝くような金の髪が流れるように揺れる。
前を見据える静かな瞳は深い碧色をしていた。
稀代の芸術家が仕上げたような美しい容貌、そして彼がこの国の王家に連なる者であることを示す色彩。
その時ふと、彼の金髪に覆われた額が一瞬風を受けて露わになった。
形の良い額の隅、そこには複雑な模様を編んだような大きな痣があり、黒々としたその痣だけが美しい湖面に落とした墨のように彼の美貌に影を落としていた。
第一王子、アーネスト・リトープス。
それが私、リーゼロッテの婚約者の名だ。
優秀で美しい完璧な王子様。
私が五歳の頃、私はそんな王子様の婚約者となった。
それも、同じく五歳だったアーネスト王子その人に望まれて。
婚約者に決まる前、私たちが幼かった頃の王城では慣習に則り、第一王子のご友人候補や婚約者候補として彼と年の近い子どもたちを集めた茶会が度々行われていた。
貴族の茶会とはいえ五歳やそこらの子どもたちを集めているのだ、私や他の子どもたちは大人の思惑など知らずに身分や男女の垣根を越えて一緒にお菓子を食べ、ワイワイと楽しく遊んでいたのを覚えている。
私の家は伯爵家の中でも弱小で第一王子の婚約者としては物足りない家格であったが、王子と同じ年の生まれだったこともあって茶会には度々招待されていた。
私の両親は私が物心つく前に事故で亡くなっており、親代わりとして一緒に暮らしていた祖父母も領地で忙しくしていた私は学園入学前に友達が出来る王城の茶会が嬉しく毎回のように参加していた。
当時はまだ五歳だ。
王子の婚約者候補だとかライバルだとか、そんなことは知ったことじゃないとばかりに私は互いの名前も知らないような子たちとたくさん仲良くなった。
美味しいお菓子を見つけては他の子に教えて共に食べ、玩具を取り合って揉めていれば祖父母仕込みの即席のおもちゃを作ってその場を収め、泣いている子がいれば一緒に泣いた。
そんな私の一体何が王子の琴線に触れたのかは分からない。
そもそも茶会でよく一緒に遊んだ彼が王子その人だと認識したのも婚約者に決まった後だったくらいだったのだ。
しかし私は王子に選ばれ婚約者となり、こうして十七歳になった今も王子妃教育を受けに王城へ上がり、そしてアーネスト王子の隣を歩いている。
幼い日の茶会自体が実は建前だけのものであったことも、王子の婚約者やご友人については国の上層部で既に内定が出ていたらしいことも、ある程度大きくなってから知った。
もちろん、婚約者に内定していたのは私ではない。
王子の相手に予定されていたのは私と王子より一歳下の侯爵家のご令嬢で、隣国の姫を祖母に持つご令嬢はなるほど今になって見ても王子にお似合いのお姫様だと思えた。
王城の中、王族が暮らす王宮に繋がる長い廊下をアーネスト王子に手を引かれ歩く。
経緯はどうあれ、今日も王子妃教育を終えた私は第一王子の婚約者として彼と短い時間を過ごすために王宮へと足を踏み入れる。
彼のエスコートは完璧で、彼の隣を歩くならばと必死に身につけてきた作法や所作に則って姿勢を正して歩いた。
彼の婚約者となって今まで、少しでも彼に見合う女性になりたいと、そればかり考えてきた。
それは学園に入ってからも、高等科に進んで私を取り巻く世界が広がっても変わらなかった。
幼いあの日、王城のお茶会で私が彼に選ばれた日のことを思う。
仲良くなった女の子とお話をしていた私の元へ、離れた場所に居たはずの彼は突然やってきた。
女性と何か話していたと思ったのに、何か言ったと思った途端にくるりと方向を変えて私へと真っ直ぐやって来た。
その彼、アーネスト王子は私の元へ辿り着くと、驚く私の頬を両手でふわりと包み込み、そして私の頬に、頬に……。
「っ……」
カッと、顔中に熱が集まった。
何度も思い出してきたはずの光景は今でもなお色褪せず、いつだって私の心臓を無茶苦茶にしてしまう。
忘れられない、頬に添えられた小さく温かな両の手。
私を覗き込む碧い瞳が美しくて思わず見惚れた。
その瞳から視線が逸らせないまま、徐々に近づいてきたその目が嬉しそうに細められる。
天使というのはきっとこういう姿をしているのだろうと、そう思ったことを覚えている。
美しく愛らしいその顔が近づき、やがて影になるほど迫ってきたことで硬直した私を余所に、緩く微笑み私を見つめ返した彼の目が伏せられたその一瞬、頬に柔らかな感触が落ちた。
『ちゅっ』
耳元で聞こえた小さなリップ音を遠く聞きながら、私は得も言われぬ感覚が体を駆け抜けるのを感じた。
それは恥ずかしさに似ていて、震えに似ていて、甘く温かなココアに似ていた。
美しい天使に突如もたらされた祝福に、幼い私は衝撃に耐えきれずくらくらと眩暈を起こしてその場にペタンと座りこむ。
生まれてから一番心臓の音がうるさくて。
結局その日は上手く寝付けず、その後も寝ても覚めても間近で見た彼の微笑みが目に焼き付いて離れなかった。
私の初恋だった。
次のお茶会も、その次のお茶会も、私は祖父母に頼んでお休みした。
もう一度彼に会えばどうにかなってしまいそうで、どうしていいか分からなかった。
そうしてさらに次のお茶会の日、その日も行けないと祖父母に告げようとしていたところで城からの使者が来て、私の今後の人生は決まったのだ。
城の使者と話を終えた祖父母は私に言った。
私が第一王子アーネスト・リトープスの婚約者に決まったこと。
それから。
アーネスト王子が、魔女に呪われてしまったこと。