50.Half-Blood Contract
「――どうしたよ。顔色悪いぜ、ビナー」
「貴女も……ですよ。インヘル様……?」
「はっ……ははッ」
「ふふふッ……」
増援の到着まで残り30分を切った。
ビナーは細菌を撒き散らし、インヘルがそれに耐える。側から見れば状況はまるで変わっていないかのように思えるが、実際はそうではない。
ビナーはインヘルの再生速度が急激に向上したことに併せて、放つ細菌の種類を変えていた……というより、自身の細菌を進化させていた。
「耐性菌」――本来であれば突然変異で誕生するそれを、ビナーは人為的に、しかも明確な殺意をもって強制的に生み出していた。
そしてインヘルの身体を侵食している今も、現在進行形で進化を繰り返している。彼女の再生能力と免疫組成が常に適応の方向へ進み続ける限り、ビナーも強引に細菌をより強力にしていかなければならない。
仮にこの空間に第三者が割り込んだとしたら、そいつは部屋に入った直後、コンマ数秒もしないうちに、風で飛ばされてしまうほど細かい肉片に姿を変えるだろう。
「(キッツ……気を抜いたら、すぐに意識が飛びそうだ……とんでもねェバケモンだな……私が干からびちまうのも時間の問題か……)」
「(一体、いつ底を尽きるんですかこの方は……確かに果てしない再生能力だと、思っていたのですが……)」
場にカードを出し切った。瑕疵を抉り合うのはここからだ。
戦いは既に戦いとしての形を成していなかった。対面し、ギリギリと互いの喉元に指を食い込ませるような、ただの原始的なリソースの削り合い。
方や全身が燃え尽きてしまいそうな激痛を噛み殺し、方や限界を超えた魔力の行使を無理やりにでも継続する。
グズグズに蝕まれた身体のせいで。
極限の集中に挑まなくてはならない没頭のせいで。
2人の間には、僅かな緩みも、微動も、許されないほどの緊張感で満たされていた。
「(これ以上、何も出来ないのはお互い様……)」
「(テメェのその馬鹿げた底無しの力……)」
「「(いつまで続くかな……!)」」
退路はとうに断たれている。余力が、そして信念が……逃げることすら許さない。
2人はもはや「敵」とは戦っていない。
ここから先は、自分の中にある譲れないモノとの闘争。
先に枯れてしまった方が死ぬ。
自分が優勢なのか劣勢なのかも分からない状況。とことん負けず嫌いな彼女たちは、それでもまだ笑っていた。
コイツにだけは、絶対に苦しい顔なんざしてやらねェ。そう吼えるように。
覗かせた犬歯は自ら噛み砕いてしまいそうなほどに固く食いしばられ、開かれた瞳孔は滝のような汗が入ろうが尚も相手を睨み続ける。
「(折れろ……)」
「(尽きろ……)」
「(折れろよ……!)」
「(尽きなさい……! さっさと……!)」
「(諦めて折れちまえッ!!)」
「(尽きて死ねッ!!)」
――その瞬間、極限まで鋭敏になっていたインヘルの頭の中に、微弱な電気のような刺激が走った。
それはハートショットからの通信魔法だった。
『先輩……やっと……繋がりましたね……返事は……まあ、無理ですよね……私でも……このザマですし……』
周囲を満たしていたビナーの魔力が急激に弱まったことで、ようやく回線が繋がったのだ。
ハートショットは息も絶え絶えといった様子だった。離れていても細菌の侵食は進み続けたらしい。
通話口からは、今にも消え入りそうなラストラリーの息遣いも聞こえて来る。やはり多少距離を取るだけで細菌を無効化するのは不可能だったようだ。
『こっちは……クーパーさんの、所に……駆け込みましたが……やはり、治療は出来てません……』
「(くッ……あのダメージで……街の外までは無理だったか……)」
その状況は少し奇妙だった。
ハートショットはこの時、体表の4割を細菌に侵されていた。しかし、それほどの侵食速度であればラストラリーは既に死んでいるはず。
まるでハートショットだけ、細菌の侵食が異様に早いようだった。
『ですがラストラリーちゃんは……もう少し保たせられます……それでもやはり……時間は限られてますが……』
「(保たせ、られる……?)」
『ラストラリーちゃんの体を侵食していた黒いモノ……その一部を、私に移してます……私なら、皮膚を削られるだけなので、ラストラリーちゃんよりも、耐えられると、思いますし……』
「……!」
ハートショットは細菌の一部を肩代わりすることで、少しでもラストラリーを延命させようと試みていたようだ。
『それで、ここからが本題です……! 実は撤退の時……お屋敷に、スクロールを一つ仕掛けました……遠隔で起動できるヤツです……! 私たちが十分に距離を置いたところで合図するつもりだったのですが、どういう訳か、今まで通信魔法が繋がらず……』
要するに、通信が繋がったいま、スクロールを起動するという事だ。
それが何のスクロールなのかという疑問を抱いている暇はない。ラストラリーの為に命を張ってくれたハートショットに、インヘルが疑いを向けるようなことは無かった。
『今から起動します……準備して下さいッ……!』
ハートショットの合図と共に、彼女の仕掛けたその「時限爆弾」が作動した。屋敷が淡い光に包まれる。
◇ ◇ ◇
「――ん? スクロール?」
「はい! レイジィ先輩の魔法、とっても便利そうですから!」
「無属性魔法でスクロールを作るのって、手間もコストも結構かかるんだよねぇ。面倒くさいな〜……ぼかぁ今、調べたい事がいっぱいあるんだ」
「そこを何とか! 可愛い後輩の頼みだと思って!」
「はー……分かった分かった。ボクも頭を下げてもらっておきながら頼み事を断るほど狭量じゃあない。スクロール一枚につき一回、ボクの頼みを聞いてくれるなら良いよ」
「た、頼みですか? それは……どんな無茶を言われるんでしょうか?」
「怖がる必要はないさ。暗殺依頼とかじゃない」
「……!」
「あははっ! 君は顔に出やすいね? ま、言いふらさないから安心したまえ」
「絶対ロクな頼み事じゃないですよね……?」
「それはその時のお楽しみってやつさ」
「うう……分かりました。こっちから頼んでおいて『やっぱやめる』とは言いづらいです――って……最初からこれが狙いだったっていうのは考えすぎですか?」
「どうだろうね〜。で、何枚?」
「やっぱり怖いから一枚で!」
「うんうん。ボクもその方が楽だから、それが良いよ」
◇ ◇ ◇
レイジィの無属性魔法――召喚魔法。
接触したことのある対象を、行ったことのある場所や握手をしたことのある人物の元に任意で転送することができる魔法である。
ただ、無属性魔法をスクロールにするのは少し手間がかかる。
本来、無属性魔法の魔法陣とは非常に複雑で、一定以上はコンパクトに書き込むことが出来ない。そこで、効力をある程度まで削ぎ落とした魔法陣に変換するという作業が必要なのだ。
今回レイジィがスクロールを製作する際に削ぎ落としたのは射程距離だった。「転送したい対象に接触する」「自分が行ったことのある場所に限る」という時点で既に発動条件が厳しいため、ここに更に制限をかけると著しく利便性を損なってしまうためであった。
対象者は「範囲内の接触したことのある生物」
そして転送先は、短くなった射程内で、最も人が密集しておらず、街から離れており、二次被害が小さく済みそうな場所――アーテローヤルとウエストエンドを繋ぐ道中だ。
「な……!」
「(はッ……アイツ、考えたじゃねェか……この時間にここを通る奴なんてまず居ねェ……ラストラリーたちと距離も取れる……! そして――)」
2人は転送先の地面に、倒れ込むように着地した。
場所を変えたことにより、細菌が全方位充満していたあの部屋から抜け出せた。これで一時的に侵食は緩やかになる。そして「細菌フィールド」とでも呼ぶべきビナーの防御性能も、一時的に失われる。
決定的な隙。
その隙を突いてインヘルが免疫組成と再生力を集中させると、彼女の右腕は瞬時に完治した。
再生能力を緻密に制御できるようになったインヘルだが、それでも治癒に集中しているときは「合金」と「爆雷」の魔法が使えない。
故に、勝負は治癒を止めた一瞬。
構築、展開、発動……クラメル並の初速で魔法を放たなければならない場面。
インヘル上体を起こすと、極限まで高めていたその集中力で、初速の壁を突破した――かに思えた。
この時、誰にも想像できないような「偶然」が、奇跡的に二つ重なった。
一つ目は、スクロールが正常に動作しなかったこと。
ハートショットはインヘルたちの居た部屋だけを対象にする為に部屋の外壁にスクロールを設置した。しかし、しばらくビナーの異質で膨大な魔力に曝されたからか、スクロールの状態が変質し、その効果範囲が拡大されてしまったのだ。
本来であれば2人だけを転送する手筈だったが、そんな誤作動により、彼女たちの他にもう1人、転送されてしまった人物が居た。
それが、領主邸の敷地のすぐ外……ラウラの亡骸の側でずっと蹲っていたアーデルトラウト。
彼女もまた、インヘルたちから少し離れた場所に、唐突に転送されていた。
そして――
「……お母さん?」
ウエストエンドとアーテローヤルを繋ぐ道中。この時間、この場所は、誰も通る訳がないと思われていた。
二つ目の偶然は、その例外となったのが、あろうことがヘットだったこと。
この日、気弱な少女は初めて自分の為に嘘をつき、一時的にメトゥンの家から抜け出して、アーテローヤルに居る母親に会いに行こうとしてしまったのだ。
いつものヘットは誰かの言いつけを破るような性格ではない。
これがザインであれば、メトゥンたちはすぐに彼が抜け出したことに気付き、ウエストエンドを出て行く前に連れ変えられていたのだろう。
しかし気まぐれか、預かり先のシナンボザの勝気な様子に勇気を与えられたのか、はたまた嫌な予感がどうしても拭えなかったのか……その理由はヘット自身しか知り得ないのだろうが、いずれにせよ事実なのは、閉じ込められていた彼女が、最悪のタイミングで、その籠の中から飛び出してしまったということ。
2人は霞んだ視界と過度な集中による盲目のせいで、接近していたヘットの気配に気付くことが出来なかった。
ヘットの声が真横から聞こえた瞬間、決着の瞬間を迎えようとしていた彼女たちは、刹那にして時間が止まったかのように硬直する。
これが「悲劇」でなければ、何だというのだろう。
ビナーは異形の瞳を、その声の方に向けた。
口は裂け、腰元からは直翅目を思わせる脚が6本生え、本来白目である部分が空洞のように暗く染まり、その中に合計8つの赤い瞳孔が蠢き、全身から瘴気のように殺人バクテリアをばら撒く、紛うことなき化け物を……少女はいま確かに、「お母さん」と呼んだ。
「……嘘、だろ?」
「ヘット……」
「お母さん、だよ、ね……?」
誰もが思考停止に陥った状況で、ただ1人だけ冷静だったのは、少し離れた場所で全てを聞いていたアーデルトラウト。
否、彼女は冷静ではあったが、同時に正気では無かった。
今しがた通りがかった少女は、ビナーのこと「お母さん」と呼んでいた。
心の底から憎らしい怪物の娘――アーデルトラウトの頭の中で、そんな等式が成立する。
エライザを殺された。テミスを殺された。ラウラを殺された。
彼女たちのことを、アーデルトラウトは家族のように想っていた。
それを奪った奴に……家族が居た。
「どう……して……どう、して……どうして、どうしてどうしてどうしてッ……どうしてッッッ!!」
そんな事が許されて良いはずがない。
「お前らがッ……!! 地獄に堕ちればよかったんだァァァッッ!!!」
憎悪に支配されたアーデルトラウトの凶行は一瞬の出来事だった。
アーデルトラウトの手元に、紅蓮に燃え滾るような赤い魔法陣が浮かび上がった。矛先はビナーではなくヘットだった。
2人がそんな絶叫の方に振り返った時、既に炎の矢は限界まで引き絞られていた。
「お前も家族を失う絶望を味わってから死ね」……放たれた凶弾はそう語る。
ヘットは悲鳴も上げられないまま、矢の放つ禍々しい明るさに、その目をぎゅっと閉じた。
細菌フィールドでの防御は使えない。
インヘルとの戦闘で殺傷力の極限を突き詰め過ぎたせいで、魔力に緻密なコントロールが利かなくなっている。
そんな状態でヘットに力を向けてしまえば、バクテリアは半ば暴走状態のまま一瞬で少女を食い尽くしてしまうだろう。
――ラストラリーに攻撃を向けられたときのインヘルがそうしたように、今この瞬間、無意識に身体を動かすことが出来たのは、ヘットの母親であるビナーだけだった。
彼女は「細菌」の魔力を無効化し、その身一つでヘットの眼前に飛び込む。
唯一インヘルと違ったのは、それが間に合ったというところだった。




