49. Fallibilism
インヘルの頭の中で、聞き慣れた声が響く。
『先輩……聞こえますかッ! 通信魔法です! いま騎士団と連盟に連絡を入れましたッ! 最短1時間! 援軍だけなら転移魔法が使える魔法使いが居ればもっと短くなりますが……カテゴリーB以上が5人揃うまではそのくらいかと!』
怪物との邂逅から10分にも満たないその間で、ハートショットは「自分のやるべきこと」を見事に遂行してみせた。これが彼女に出来る精一杯だった。
『それと、出て……とき……を……部屋……設……て……』
しかし、そんな会話も束の間。突然、音声が途切れ途切れになったかと思えば、通信魔法がプツリと途切れてしまった。
通信魔法をジャミングする方法がある。
一つが抗魔法。木属性の身体強化魔法の応用で、自らの思考を拡張するという魔法があるのだが、その逆。通信魔法によって刺激される一部の思考機能を閉鎖する【強制閉心領域】を展開することだ。
ただし、【強制閉心領域】は魔法の中でも「結界術」にあたる。それに熟達しているのが騎士団だ。今この場に、結界術を扱える者は1人もいない。
そこで考えられるのが、もう一つの方法。
通信魔法の使い手の魔力量……その数十倍の魔力濃度でもって周辺を満たすことにより、一部の結界術のような効果を得ることが出来る。
しかしこれは現実的とは言えない。いかに魔力量に差のある魔法使い同士だろうが、それほどの濃度で魔力を放出し続けることは難しく、その効果は保って1分程度。
それでも、通信魔法が妨害されたというのは……ビナーの放っている魔力が、余りにも膨大であることの証拠であった。
「(1時間……1時間ねェ……)」
領主邸晩餐室。
豪奢だったその場所は、たった10分のうちに豹変していた。
部屋全体に夜の帳が下りたかのように、壁面や床は液体のような黒で満たされ、波打つように蠢いている。
インヘルは既にまともな思考能力などほとんど働いていない頭の中でそう呟きながら、対面で座る、巨大な節足動物の脚が生えた怪物のような女の姿を見ようとした。
――ゴボッ、ビチャッ
しかしその寸前、彼女は口から大量の液体を吐き出し、白いテーブルクロスを染める。
無論、血液ではない。それは部屋を覆っているものと同じ、光も飲み込む黒色の液体だった。
「(馬鹿、言うなよ……骨も残ンねェぜ……)」
「やはり凄いですね。まともに食らわせて、痛がられたのは初めてです」
それは、生きたまま全身が腐るような感覚だった。
『細菌』の魔力。インヘルと同じ、黒い魔法陣から放たれる特殊な魔力の正体は、殺意で以って強制的に進化させられた殺人バクテリアである。
その講釈は受けた。性質も理解していた。
しかし、『細菌』の魔力の恐ろしさは、食らってみて初めて分かる恐ろしさがあった。その伝播速度だ。
感染力はそれほど無い。空気感染はせず、「直接触れる」ことでしか感染力を発揮しない類のもの。
その反面、一度触れてしまった時の侵食のスピードは異常だった。
実際は細菌自体が高速で動いている訳ではない。
食い破った箇所を栄養化し、インヘルの細胞そのものを遺伝子レベルで「細菌」に書き換えていた。こうなれば再生能力は裏目だ。立ちどころに再生したとしても、再び侵食され、細菌の数は指数的に増殖していく。
普通であれば不可視の、ごく小さな生物群であるはずのそれは、然してその常軌を逸した濃度から、まるで液体のように振る舞っていた。
インヘルは座した状態から全く動かない。否、動けなかった。
全身を覆う細菌の猛烈な増殖速度のせいで、指の一本すら動かせない。
再生した箇所が、それ以上の速度で食われていくという、無間地獄の苦しみだった。
気が付けば彼女の手指の爪は全て剥がれ、臓腑が蝕まれ、おそらく存在するであろうインヘルの血管は、血液の代わりに細菌で充填され始めていた。
嘔吐感が際限なく押し寄せて来ようと、その度に自分の身体から溢れ出るのは、ただのドス黒い流体。
「っぐ……フゥッ……フゥッ……!」
「死んでもらっては困りますよインヘル様。私は……まだ貴女のことを何も理解していない」
そんなインヘルの姿を見ていた、彼女の対面に座る怪物は、冷徹に言い放つ。
「貴女も……よく夢を見るでしょう? 走馬灯のような夢を。私はアレを見るたび、胸の奥で、人間のように何かが疼く……あの幻には、必ず私たちのルーツが隠されているのです。私はそんな貴女のルーツを知りたい。私たちが見る夢の『共通項』にこそ、全ての答えがあるのです」
インヘルに沸き立ったのは未経験の感覚。
「死」……本来であれば狩人の誰もが恐れ、忌避すべき対象。
インヘルはこれまで、「死」の待っている地雷原を全速力で突っ走ってきた。何故ならそれでも生き残れるという保証があったからだ。
しかし今は違う。死がそこまで迫って来ている。
「インヘル様が今感じているものの正体をお教えしましょう」
ビナーの台詞は、もう聞こえていなかったのかもしれない。
「『恐怖』……死にたくないという、恐怖ですよ」
しかしその言葉は、インヘルの鼓膜ではなく魂を揺さぶった。
怖かった。そう、怖かったのだ。
生物が皆抱く「死への恐怖」を初めて経験するインヘルの肉体は、その感情を忘れても、心は確かに覚えていた。
「(嫌だ……)」
「私もその恐怖を味わったことがあります。遥か昔……貴女がラストラリーと呼ぶあの少女と、同じ外見をした者に出会った時です。魔獣が囚われている、永遠の輪廻の円環を、切り離してしまうような力を前に……私は恐れました。その瞬間、私は初めて走馬灯のような夢を見たのです」
インヘルはとうとう自分の頭を真っ直ぐ持ち上げる力すら失い、項垂れるようにして脱力した。
「貴女はどこまで追い詰めれば、夢を見てくれるんでしょうかね」
「(クソ……死にたく、ねェな……何でだろうな……あれほど、私の命なんて、どうなっても良いと……思ってたのに……)」
徐々に枯死してゆくインヘルに、ようやくその自覚が芽生えてきたとき、彼女は既に意識を失いかけていた。
ただ、自分が書き換えられて失くなってしまうような感覚と、死んでしまえば楽になれるほどの地獄の苦痛と、それらを上回る「生きたい」という意志だけが残っていた。
そしてそれは、インヘルの何かを、少しだけ変化させた。
『……おい』
通信魔法とはまた違った声がした。
頭ではなく、体の芯から聞こえる声だった。
自分の母親らしいそれではなく、それは夢の傍らに居た、もう1人の「何者か」のもの。ただ、いつか聞いたようなひどく冷徹なものではなく、優しく微笑みかけるような、過去ではなく現在に響いているような。
そんな気がした。
『私が貴様に与えた魔法は、そんなに脆くはないぞ』
インヘルの身体が、ふらりと前方へ倒れるように動いた。
体を起こしておくことすら出来なくなったのではなく、まるで誰かに背中を押されたかのような感覚だった。
インヘルは一瞬だけ後ろを振り向く。
そして彼女は、初めて声の主の姿を捉えた。
黄金の長髪。黄金の瞳。
アクセサリーなど付けていないというのに、全身が煌めきで包まれているような女性だった。
『その力の使い方を教えてやる』
グシャッという音と共に、インヘルは吐き出した細菌にまみれたテーブルの上に腕をつく。それは倒れる為ではなく、前傾姿勢で、ビナーを睨み付ける為であった。
「限界……ではないようですね」
その爛々と輝く鋭い眼光に貫かれたビナーは、細菌からのフィードバックを受けてすぐに異常を察知する。
バクテリアの侵食が異様に遅くなっていた。インヘルの再生スピードが桁違いに上がったのだ。
インヘルは細胞の再構築と同時に、ビナーの放った「魔力の菌」に対する免疫を生成していた。
再生能力を緻密に操作しない限り、そんな芸当は不可能だ。
何故突然そんな変化が起きたのか――ビナーには何となく、心当たりがあった。
「ふふッ……あはははッ! 見たのですね! 貴女の過去に眠る何かを! 素晴らしいッ……! やはり貴女は私と同じです! そうでなくては……もっと……もっと自らの過去に身を委ねて下さい! 私に教えて下さい! 貴女が紡いできた闘争の歴史を!」
ビナーはインヘルのことを、単純な力押しで敵を撃滅するタイプだと思っていた。彼女は粗暴かつ大雑把な気分屋で、周りのことや、果ては自分にすら興味が無い奴だと、接してきた中で勝手にイメージしていたからだ。
しかしその認識は改めなければならないだろう。
彼女は何かに興味がないのではなく、その感情すら忘れてしまい、ただ人形のように空っぽだっただけなのだ。
インヘルは今、何かを取り戻した。
ビナーはもはや余裕ではなくなった訳だが、それでも対面に座るインヘルに、悦びの表情を向けた。
アーテローヤル編、最後の戦闘です。




