22.Nostalgia of Inc Blue
「暗順応」という言葉がある。
人間は暗い場所から明るい場所へ出た時、その順応には1分程度しか掛からないが、逆に明所から暗所に入った際、完全な順応には約1時間ほど掛かる。
これは生体的なものだが訓練は出来る。
しかし問題なのは、その技術を必要としている者の存在だ。一般生活を送るにあたって……否、それどころか、インヘルやパラノイヤなど、普通の生き方をしていない者に関しても、この暗順応訓練をしている者は少ない。
どんな者も暗闇から光の下へ出て行く経験が多いのが普通。何故なら人間は昼に行動する生き物だからだ。
暗順応に慣れているのは、往々にして闇に生きる者。
夜に閉じ込められた生粋の暗殺者たちである。
「(灯りが完全に絶たれてる……そこかしこから使用人たちが混乱している声が聞こえますね。訓練していなければ見え始めまで5分ほど。完全に見えるようになるまではもっと掛かるでしょう)」
屋敷の中は混沌としていた。そしてその混沌をあからさまな狂騒に変えたのは、1人の使用人の甲高い悲鳴だった。
それを皮切りに、どよめくだけで済んでいた屋敷内の者の緊張は最高潮まで高まり、取り急ぎ外へと避難を試みる雑踏が急激に増える。
妙なのは領主の声がしない事。灯りが全て消えたというのに、下女たちに何の指示も出さないことは異常だった。
絶えず匂う、金属と油の仄かな芳香。その僅かな痕跡もハートショットは見逃さない。彼女はまず、悲鳴を上げた使用人の元へと駆け付けた。
「大丈夫ですか!」
「ひッ……!」
「落ち着いて! 狩人連盟です!」
「痛い、熱い、見え……何も見えない……! 嫌、嫌ァァァッ!」
「……!」
「熱い」……どうやら転んだ弾みで淹れたての紅茶を溢しているようだが、火傷と視覚を奪われたパニックでそれどころではないらしい。というより、むしろこれは――
「(この人、耳が……)」
「私です! 指示に従ってランプに細工もしました! だから私は……私は殺さないで下さいッ! お願いします……何も聞こえない……」
「(外傷は火傷以外見当たらない。特に耳が聞こえなくなる要素は……しかしこの怯えようと証言です。何者かに脅されて、利用されていた? 聴力を奪う『敵』の魔法を知っているが故に、自分まで標的にされたんじゃないかとパニックになっているんでしょうか)」
耳の聞こえない使用人が居るという話は聞いていない。そもそも聞こえていないのだったら、ここまで恐慌を起こすようなことは無かっただろう。何か別の要因で、「現在に限って」聴力を失ったと考えるのが合理的だ。
或いは二度と戻らないよう聴力を奪われたか……どちらにせよ、この使用人は、すぐには使いものにならない。突然視覚と聴覚を同時に奪われた人間の反応をハートショットは知っていた。まさにこれだ。騒ぐか、うずくまるかのどちらかに限られる。
「(この時間に淹れたての紅茶……領主に対してのものですか。つまり彼は屋敷内に居る、もしくは居た)」
それでもその気配を感じないのは、既に連れ去られているか、殺されているか、何らかの方法で身動きが取れない状態になっているかだ。
紅茶を淹れさせたということは、所在はきっと領主の自室。それだけで十分だ。この異常事態では、とにかく時間が惜しい。この混乱を鎮める方法を考えるのは後回しにして、ハートショットは領主の部屋へと急ぐ。
「(マズいですね。先手を取られた。この立ち回りは間違いなく人殺しのプロ……おそらく『魔女』の所業)」
単なる猪武者を相手にするのならば、ハートショットに負ける道理は無かった。しかしあの使用人を始末しなかったという事は、きっと何か明確な意図や動機があって、ピンポイントで標的を狙っているという事。
主義のある殺しほど、厄介なものはない。
使用人の誰かを殺すのだとしたら、わざわざ事をここまで大きくする必要はないのだ。十中八九パニックを大きくすることが目的だろう。すなわち狙われているのは使用人ではなく、この屋敷の持ち主……領主ゼビオ。
彼の身に何かあれば、それはもう殆ど「仕事の失敗」を意味することになる。依頼主であること以前に権力者だ。どんなツケが連盟、ひいてはチームに回ってくるかは想像したくもない。
「(ああ、こんな時にインヘル先輩は外出中ですし……! だから残れってあれほど……)」
なんて小言を宣っても、現状は何一つ進展しない。必要なのは冴えた頭と、純粋な解決能力。そこを問われることになった瞬間、ハートショットは終わるのだ。
「(結果です……結果を出さなきゃ、私には何の価値もない。家族に合わせる顔もない!)」
すぐさま領主の部屋に到達したが、内側から鍵が掛けられているようだ。彼女はこれが窓か扉かは分からない。
しかし共通している事もある。
「(窓も扉も……非常時なら蹴破ってよし!)」
一歩退がり、軽く息を整える。そして助走を付けながら軽く跳躍すると、そのまま脚を振り抜いた。木材が軋み、金属の鍵がねじ曲がる音と同時に扉が開かれる。
目の前に居たのは領主と、それこそ馴染みの無い、青みがかった髪をした女。それがゼビオを突き飛ばし、彼は書棚にもたれかかるようにして無言を貫いていた。出血は無く、息もあるようだが、どうやらそれ以外に下女と同じく耳が聞こえていないようで、扉を破壊した音にも気付かず、顔を伏せているだけだ。
一方の女はというと、ぴくりと指先を反応させ、緩慢な動作でハートショットの方を振り返った。
家に虫が出たかのような驚愕を孕んだ反応ではなく、さながら飛び込んでくる者が飛び込んでくるべき場所に突入して来たのを眺めるかのような、どこか他人行儀な様子である。
「お取り込み中のところ申し訳ありませんが……情状酌量の余地もなく、お縄についてもらいますよ」
「……こうしたら、ややもすれば連盟が飛んでくると思ってはいたんだけどさぁ。早過ぎやしないかい? キミ、何者?」
「こっちの台詞です。貴女、こんな襲撃を敢行するなんて普通の魔女じゃないですね」
「まあ、どうやらお互い、薄ら暗い場所に生きる身のようだね。まだ連盟にキミのような魔法使いが居たとは驚きだよ」
「……その口ぶり、狩人連盟の関係者ですか。いえ……しらばっくれる演技は苦手でしたので、単刀直入に聞いた方が良いですね。そう思いませんか、郷愁さん」
その名前を聞いた瞬間、薄く開かれた彼女の目は見開き、その群青色の瞳孔を細く絞った。それはまさに、この闇に溶け込むような、暗い影が差したような顔だった。
「私たちは名も残らぬ影の存在。公的な記録に記されることもない。そんな私たちは存在証明のように、王都の暗がりの、とある壁面に、手慰みでコードネームを書くことが通例としてあります……貴女の名前は、一際目を引きましたよ。暗号名は普通、扱う武器や魔法に沿って付けられますが、その中でただ1人……郷愁の意味を込めた名前を持った人が居た。遂に現場では見たことはありませんでしたが、曰くその魔法使いは群青色の瞳に、深海のような髪を持つと」
魔獣を狩り、魔女を捕らえ、平和に貢献する。
これが狩人連盟の面の顔……「太陽」だとすれば、彼女たちは月も浮かばない暗雲の深夜。
――狩人連盟暗部。
部隊名を「道化師たち」
魔獣や魔女などという枠に囚われず、必要とあらば「一般人」や「他の魔法使い」……とりわけ連盟に仇なす因子を影の隙間から穿つ、歴史に名を残さない暗殺者たち。
特殊な戦闘試験をパスすることで初めて開く門を潜った、選ばれし御前上等の対人戦闘部隊である。
ハートショットの所属は、元はといえばそこだった。しかし彼女はある理由により暗部を辞退し、今は正式にパラノイヤ率いるチームに属している。
「……あまり憶測だけでものを言うのは好きじゃないよ。情報のアドバンテージは捨てるなって教わらなかったのかい。まあでも、そうだねェ……」
その瞬間、彼女は初めてハートショットを見た。
正確にはこれまでも、視線は向けていた。しかし、更にどこか奥を見るような、ぼんやりとした向け方であった。
それが初めて、ハートショット自身にピントが合わせられたような気がした。
瞬間、ハートショットは凄まじい怖気に襲われる。
同じ畑の出身である者から向けられたはずのその視線は、あまりに他人行儀で、身勝手で、おそろしかった。
「正解だよ、後輩。だけどその名前はもう使わない。僕は連盟も、この街も、大嫌いなんだ」
その時、ようやく敵は「何者か」ではなくなった。
本名、クラメル・カラム。
コードネーム、郷愁。
ただの魔女を捕らえるだけの仕事に、膨大なイレギュラーと、悍ましいほどの困難さが発生したことは言うまでもない。
「は……ははっ。随分とネガティブな人だったんですね。お手柔らかに」
「……? それを戦場で言うのかい?」
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