18.Same as Me
視点はビナーです。
私は、ビナー・ハイドラン。
いつだって「理解」することが使命。
だから、私は理解しています。理解していなくてはならない。この街の潮の香りの底に揺蕩う、底知れない毒と金属の匂いを。
そしてその匂いは、私からも……そう。私自身の魂からも漂っているのです。まるで屍臭。獣が死に、腐敗したときのそれ。
私たちが最初に向かったのは「ウエストエンド」という場所。
此処は白の街アーテローヤルの、薄ら暗い罪そのもの。街を走る川を西側に渡り、暫く先に見える光景は、漂白された本街とは対照的な、どんな人が見ても絶望的だと確信するであろう景観です。
屑籠すらマシに思える、生々しい腐敗臭で常に満たされた貧民街。此処はゴミ捨て場です。
魔獣が蔓延る以前……人間の戦争の時代。この場所は、係争地から真逆の海岸にありました。国家同士の泥沼の戦いに一時の安寧を求め、国内外問わず多くの人間が移住。
結果、アーテローヤルの前身となった街はパンクしました。過剰な労働力に、極度の人口過密。割り当てられた単純労働は低所得化を生み、飢餓は恒常化し、人間たちは一切れの麵麭の為だけに、日が昇る前から月が頭の上に来るまで働いたのです。
その地獄の坩堝で、1人の男がとある残酷な決断を選択をしました。それは「生きるべき者」と「生きるべきでない者」の選別。
基準はシンプルです。
金。金貨を背の高さほどまで重ねられた者だけが、東側で生きられました。あの本街の瀟酒で美しい景色は、惨たらしい基盤の上に建っています。
そして西側は……ただのゴミ捨て場になりました。そのゴミとやらに命があるかどうかは別として、「要らないもの」を捨てる場所となったのです。
天女も見返る純白の街並みの裏に眠るのは、悪魔すら尻込みするような所業。潮の香りに揺蕩う毒の匂いとは、まさにこれです。
「うっ、この匂い……ナマモノが腐った匂いですよ。呼吸するたび、喉が麻痺しそうな……あの街にこんな場所が……?」
「ま、ママ……やっぱちょっとしんどいかも……」
「まだ到着してねェぞ」
「おや、インヘル様は慣れているようですね」
「貧民街には何度か足を運んだことがあるからな。古今東西どこもかしこも、酷ぇモンだぜ」
人間たちはこの終わった土地の惨状に、見て見ぬフリをします。
街の西側と廃棄物……荒みきったこの場所に、心無い皮肉と暗示を込め、ここはやがて「ウエストエンド」と呼ばれるようになりました。
腐敗臭も強くなってきて、視界が開けると、そこに広がっているのはゴミに埋もれたどうしようも無い景色です。建物らしい建物は無く、あるのはボロ小屋と呼ぶのも烏滸がましいくらいには倒壊寸前の被造物。
「到着しました、ウエストエンドです。あちらの家屋にこの場所のリーダーのような方が居ますよ」
「家屋というか……廃材を子供が組み立てて遊んだみたいな感じですね」
「帰る場所があるだけで此処では特別なのです。ちなみに、長はあの場所で5人暮らしです。3人の妻と、1人の子供」
「ふぇっ? 多重婚? この国でそれって、領主だけの特権では?」
「ええ。ですから正式な婚姻関係と言うよりも、彼が妻だと言い張っている、と言った方が理解できるかと」
「……無法ですね」
「目を向けてはいけない場所、という認識ですので」
そう答えると、ハートショット様は頭を掻くような仕草をしながら、何やら複雑な顔をしました。この場所に初めて来た者は、大抵そんな感じの反応をするのです。
根本的に「まとも」であるが故でしょう。他人事だが助けたい。しかし助けられない巨大な現実を目の当たりにして、歯痒さに耽る。
それが例え傲慢から生まれるものであったとしても。
しかしそれも、ある程度アーテローヤルに居を構えていればすぐに消え去るもの。結局は他人事。本街に住んでいれば不便することはないし、この街のことを気にする必要もないのですから。
「理解」せずとも生きていられるのです。
忘却の本質とは、すなわち不理解。
――ふと、私たちの周りに子供が寄り集まっていることに気が付きました。
彼らの瞳に色は無く、生傷だらけの痩せた体を揺らし、汚れと風化で伸び切った薄手の服を纏い、両手を皿のようにしたりズタズタの椀を差し向けたりしてきます。
面の皮が厚いなどとは思いません。これは生きる為に必要な、子供たちの義務。その中には点々と、ラストラリー様を虚ろな眼差しで見つめるものもありました。
この瞳は嫉妬でも羨望でもなく、ただの虚空。自分たちと同じくらいの子供が、自分たちとはまるで違う、おそらくは気苦労もない身の上であることを認識しながらも、この虚無です。もう、羨むとか夢見るとか、そういう話ではないのでしょう。
ただ、例えようのない感情に任せて、ラストラリー様の方に向けられた視線は、当の本人からすると哀しく、恐ろしいものであったようです。少女は目を合わせないよう、ゴミだらけの地面に視線を向け、インヘル様のローブの裾をきゅっと握りしめていました。
耐え難い街の臭気に吐き気を催していることを、ひた隠しているようにも見えます。
「物乞い、ですか」
「はい。長が、子供たちにはスリをさせないよう命じています」
「……意外です。余所者を傷付けないルールがあるんですね」
「それは相違があるかと。スリがバレたら痛めつけられるか、最悪殺されるからですね。子供は抵抗の術を持ちませんが、貴重な労働力でもある。無為にそれを減らさない工夫と言った方が適切でしょう。大人は普通にやって来ますから、警戒は怠らぬよう」
「随分この場所に詳しいな」
「ええまあ、此処には――」
と、その続きを言いかけて、辞めました。
この先は別に言うこともない。私の事情だからです。狩人たちが詮索される事を良しとしないのと同じように、これは私だけの問題であり、事情であり、現実であるべきです。
私が言葉を引っ込めたのを見ると、インヘル様は肩を竦めて物乞いの間を掻き分けるように進み始めました。
私たちもそれに続こうとすると、ハートショット様がその布面積の狭い服のポケットらしき場所を探っているのが分かりました。功名心からかは分かりませんが、何かを1人の子供に渡そうとしているようです。
彼女の視線の先にあったのは、片腕のない子供の物乞いでした。
「ハートショット。やめろ」
私が止めるよりも先に彼女を制止したのはインヘル様でした。やはりインヘル様はこういう街の事情に詳しいようです。
「……せめてこの子には」
「腕が無くて可哀想だから、か? 贔屓するんだな」
「インヘル先輩……それでも、ハンデのある者を無視するのは違うと思います」
「オイ単細胞。もし餓鬼に銅貨一枚渡すんなら、他の奴全員にも同じだけ渡せよ。くれぐれも、だ」
「そんな手持ち今は――」
「だったら与えるな」
「ど、どうしてですか!?」
「あの腕だよ。自分でか、もしくはソイツの親が切断してるんだよ。『可哀想』と思われる為にな。そしてその思惑通り与えちまえば、何が起こるか分かるか?」
「……」
「今度は別の餓鬼の腕がスッ飛ぶぞ」
よくある事です。同情を誘い、成功してしまえば、その成功体験にこの場所の住民が食い付かない訳がない。同じことをする者は増えるでしょう。
銅貨一枚で子供1人の人生すら捻じ曲げてしまう。そんな場所なのです。
「むぅ、分かりましたよ〜。あんまり私の価値観で動くべき場所じゃないみたいですね……ってラストラリーちゃん!? 大丈夫ですか!?」
「うぇ……ゔん、だ、だだっ、だいびょぶふ……」
「お前は結構鼻が利くからな。……チッ、此処まで案内してもらった手前悪いが、一旦引き返してもらえるか?」
「はい。構いませんよ」
ラストラリー様……否、ラストラリー。
――今はそんな名前なのですか。
私はこの少女を知っています。というより、これと同じ気配を知っています。今はまだ確信が持てませんが、おそらく彼女は――いや、憶測だけで物を言うのは好きではありません。それは「理解」ではない。
記憶が無いのか、或いは断片的になっているのか、私のことを思い出せていない様子です。何故これほど精神的に幼くなり、インヘル様を母と呼んでいるのでしょう。
彼女はどこまで覚えている?
私がこの人畜無害そうな幼い姿を、どれほど怖れたか……それを知っているのでしょうか?
私が早急にすべきことは……そんなラストラリーが母と慕う、インヘル・カーネイションという人物の理解。それまで、私のことは話さない方が得策でしょう。
……この人からは、何か特別なものを感じます。もしかしたら私と同じ――
ビナー・ハイドランは何者か。それは彼女自身にも分からないのです。




