1.Inferno in Hell
――私は「人間」がうまく出来ない。
汝の隣人とやらが何を抱えているのか分からない。
彼らは夜に安眠できるのか、朝は爽快なのか、どんな夢を見ているのか、道すがら何を考えているのか、何を楽しみにメシを食うのか。
とにかく分からない。だから諦めることにした。とりあえず私は人間としては不適合だということを自覚しながら、とりあえず人間っぽい仮面を取り付けて、けらけらと表情を変えながら飄逸なフリをしている。
「兄ちゃん。この辺で女のガキ見なかった?」
「見覚えあると思うんだがなぁ〜……? 飲み物一杯くらい頼んでくれりゃ思い出すかもしんねぇなぁ」
「……チッ。あこぎなジジイだぜ。ほらよ、コーヒーくれ」
決めつけるのも悪いかもしれないが、見るからに環境が悪そうな男たちが三々五々集まってたむろする店のバーカウンターで、そのローブで全身を隠すように振る舞う女は、店主を「兄ちゃん」などと呼ぶ些細な配慮も無意味と悟りながら小さい悪態を吐き、ちょうどコーヒーの一杯分と同じ金額を懐から叩きつけた。
その口調だけで言えばおそらくこの場に似合っているであろう女は、頬杖をついて店内を見回す。
街を包む重油のような匂いは店内まで届き、鼠が出た痕跡すら片付けられておらず、肘を着いたそのカウンターテーブルは油汚れに塗れている。これが"普通"だ。
さも世界の常識のように言ってしまったが、そういった広い意味ではなく、この地下街では普通という意味である。シンプルに金が無い場所というのは日光すら浴びさせてもらえないらしい。
或いはここまで居住区が追われてしまった、という考えもあるが、多分両方だろう。
しかしその陰気な様子など女は歯牙にもかけず、ただ店主の返答を待つばかりであった。
「やっぱ見覚えねェな。はいよコーヒー」
「あぁ? テメェ、私の3分を奪った価値がこの泥水にあると思ってんのか? 蒲公英コーヒーじゃねぇか!」
「お客さん、良くないね。俺は確実に見覚えがあるとは言ってないんだ。それと正規品が欲しかったら10倍は出しな」
「いい度胸してんな。暴利る奴は暴力るって決めてんだ。汚ねぇ厨房からツラ出せやこの――」
女がカウンターから店主に手を伸ばそうとした刹那、ドスン、という音と共に、女の左手には錆びたバターナイフが突き刺さった。
鋭利でもないそのカトラリーが手を貫通するなど、余程の勢いで振り下ろされたのだろう。女が店主の襟首を掴む前に、その動きは硬直する。
「言わんこっちゃない。ほら、最近魔獣とかで色々物騒でしょ? ウチにも用心棒くらい居ますよ。そうでなきゃ店なんかやっていけない」
痛みで俯いたときのはずみで女の被っていたフードが跳ね、今まで隠れていた様相が露わになる。
強引に手で毟って乱雑に整えたかのような黒い短髪に反して、その顔立ちは仙姿玉質の限りなしといった容貌である。
彼女はその爛々とした蒼い瞳をバターナイフの件で歪め、歯を食いしばっていた。しかしそれは苦痛に喘ぐというよりは、激昂を抑えているようにも見える。
そんな事情などつゆ知らず、無慈悲にもその手に金属を突き立てた厳めしい用心棒の男や店主の表情は、嘲笑のものから、もっと醜いような下卑たものを帯びた。
「この街は危ないですよ。色々と、ね……?」
そう店主が告げ、常連らしき集団に目配せをすると、その騒動を我関せずと眺めていた男連中もこれまた下劣な態度で席を立ち、動けない女の背後へと近付いてくる。
しかし唯一、女の手を突き刺した用心棒の男だけが偶然にも彼女の傷口に目をやった。そして身の毛もよだつようなことに気が付いた。
「あ? 血が……出てねェ……?」
人肌を貫いた時の確かな感触を味わっておきながら、その女の手に突き立てられたバターナイフからは血液の一滴も溢れていない。
もう遅かった。とっくに女の琴線に触れてしまっていたようだ。
「……良〜い時間だしよォ」
店主に掴みかかる予定だった女の右手には、一切の煌めきのない黒い魔法陣が浮かび上がる。
瞬きする時間すら与えず、その女は何か動きを見せた……ような気がする。それほどまでに凝縮された時間の中で起こった出来事。
――カウンターテーブルが爆ぜた。そうとしか表現しようのない破壊の痕跡だった。
振り下ろされた女の拳から、辛うじて「テーブルを殴った」というのが分かる。爆薬でも突っ込んだのではないかと見紛うほどに、轟音の後、がらがらと残骸が崩れる音だけが響く。
男たちは絶句していた。瞬時に、自分たちが所謂間違った相手に喧嘩をふっかけてしまったことを理解する。
彼女は右手でそのままバターナイフを強引に左手から引っこ抜き、指の力だけでそれを捻じ曲げ、分断し、床に投げ捨てた。
「シエスタでも取るか? あ?」
「か、かかっ……狩人様……!?」
狩人とは、魔獣を狩る者たちの総称である。
彼らは皆一様に魔法を扱う魔法使いであり、人間を蹂躙するような強大な魔獣を、絶滅せんと闘争し続ける救世主、或いは気狂れ共だ。
彼女、インヘル・カーネイションもその1人。
記憶を失った、血の流れない魔女である。
「く、黒い魔法陣……! お前まさか、葬儀屋インヘル!?」
「そんなに突っ込むのが好きならよォ――テメェらのナニは鼠の寝ぐらにでも突っ込んどけや!!」
インヘルは彼女の心当たりで怯える用心棒の男の頭を片手で鷲掴みにし、馬鹿げた怪力で店の壁に向かってそれを振りかぶった。
かなりの大柄な男のはずだったのに、彼は減速する事もなく一直線に壁面に頭から突っ込んだ。店の壁が脆かったのは救いだろう。ちょうど頭一つぶんほどの穴を空けながら、まるで冗談のように首から上が壁の中にめり込んでいる。
その光景を目の当たりにした未遂犯たちは、もはや皆をして顔面蒼白である。店内では諸手を挙げての全面降伏祭りが開催された。
しかし葬儀屋はそんな連中にも一切の容赦を見せない。
まず店主が、次に常連客の中の未遂犯たちが、最後に何故か「気に食わない」という理由でインヘルをいやらしい目で見ていた(主観含む)連中が。端的に言えば店内の9割がたの男衆が、例に漏れず哀れな壁尻状態へと無残にも導かれた。
彼女は横一列に整列する彼らの惨状を眺めながら、冷静に一息つくと、自分の当初の目的を思い出して真顔になる。
「どうやってアイツ探そう……」
「あっ」
しかしその粗大奔放の中に僅かながら芽生えた心配は、尋ね人当人の登場という理由で直後に幕を下ろす。
おずおずと店の中の様子を確認し、小さい歩幅で入店する子供の姿。どうやら偶然暴力沙汰が巻き起こった瞬間店の近くに居て、騒ぎを聞き付けたので此処を訪問したらしい。
その少女は壁に埋没した彼らに、弱気に「ご、ごめんなさい」と頭を下げると、インヘルの側へと接近する。
「おっ、居た居た。チッ……余計な手間かけさせんなよ」
少女の見た目は10歳に満たないほどだろうか。濃厚な葡萄色の癖毛を肩の近くまで伸ばした女児だ。
彼女の深緑の瞳はどこか臆病そうで、到底1人でこのような地下街をうろつく性分には思えない。その何かに怯えるような猫背は、インヘルの性格とまるで合わなさそうな、根暗な雰囲気を醸している。
「しょっちゅう迷子になりやがるな」
「ま、迷子になってるのはママの方じゃ……」
「ママじゃねぇ。その呼び方は止めろって何回言わせんだ残穢。あと私は迷子になんかなってねェ」
その少女の名はラストラリー。姓を失った幼き者。
一切の魔法も使えず、かといって何処にも属さず、ただ何故かこの見るからに年齢の見合っていないような若いインヘルを「母親」として認識している。
さながら生まれる前に親を失った小鳥の刷り込みのように、血も流れない彼女を母と呼び、ささやかに満足を得ているのだ。
インヘルにとっては迷惑極まりなく、魔獣を狩る旅路の邪魔にしかならない存在ではあるが、ある時、インヘルはその少女の異常な能力を目にした。
――ラストラリーは魔獣を始末できる。
語弊があるかもしれないが、別に彼女に戦闘能力がある訳ではない。魔獣とは輪廻の渦から唯一外れたかのように振る舞い、その肉体の一部は魔獣本体が死んでもなお生き続け、それが新たな魔獣の温床になる。
本来は永遠に終わらぬ殺し合い。
しかしラストラリーは、インヘルが知る限りただ一人、魔獣を跡形もなく消し去る能力を持ち得ているのだ。既存の魔法とは似ても似つかない手法で、円環を断ち切る。
そんな有用性が為だけに、インヘルは少女の、架空の母に対する思いを冷酷に落とし込みながら少女を旅に同行させていた。言うなれば純粋な損得勘定。打算。算盤ずく。どうとでも呼べば良いが、それである。
罪悪感はない。数多の魔獣を駆逐していたら「葬儀屋」と恐れられるまでに至ったインヘルに、そんなものは存在しない。
ただ確信しているのは、自分が母親などという器ではないこと。
インヘルは人間の営みとは何かを全く理解していないのだ。それが母親を理解しろなどと、土台無理も極まれりである。
どれくらい彼女が人間らしくないかというと、まず空腹というものを知らない。
何かを食べなければ死んでしまうというのは至極当然の言説なはずであり、彼女も普通にものを食らうが、彼女にとってその周囲の言葉は、どこか御伽噺の範疇のように思えてならなかった。
この他にも、自分の中の感情を探ってみるという行為を何度も何度も続けてみた。しかし人間らしさというものは終ぞ見つからず、結局は無くしたものを数えるような営みになってしまったのだ。
そうして一つ一つに「無い」と印をつけていき、頭が空っぽになってきた頃合いで、その先最後まで残ったものがあった。
怒りである。
自分が何に憤慨しているのかは分からない。そんな正体不明な怒りの矛先が、気の毒な魔獣たちや自分を害する者に向いているだけ。
別に蒲公英コーヒーを出されようと、手にカトラリーをブチ込まれようと、襲われようと、自分の内面には、ただ憤怒を除いて何も浮かび上がってこない。はた迷惑な八つ当たりを続けているだけであった。
故に、そんなだから自分には血が流れていないのだろうと、毎回結論づける。これは何かの報いでも呪いでもなく、ただの自分らしさの表象だという確信すらしていた。
「合流したならさっさと魔獣殺しに行くぞ。昨晩この街の南東に出たらしい」
「う、うん! がんばる……!」
「テメーは止めだけで良いんだよ。あとは程々に、私の後ろで暇でも潰しとけ」
「ほどほどにがんばる……!」
ラストラリーは、まるで自分だけの神様に褒めてもらえたかのようにくしゃっと笑う。同時に、鼻をふんすと鳴らして張り切った様子を見せた。
――ああ、やっぱ何も分かんねぇな。こういう時の「正解」ってのは何だ?
インヘルは相変わらずの不機嫌な顔つきで、ラストラリーに気遣いなど無いように店から出た。
少女は年柄らしく、インヘルに手を繋いで一緒に行くことを求めようと小さく手を出そうとしてみたが、彼女のつっけんどんな態度や付いていくのに精一杯なほど大きい彼女の歩幅はそれを許してくれそうもなかった。
少女は一瞬だけしゅんとしたような表情を見せて俯くが、既に結構な距離を空けられてしまったことに気付き、また2人が迷ってしまわぬようにと小走りで駆けた。
やはり店から出て行く時も、迷惑をかけた店主たちに申し訳なさそうに会釈する。
「仕事だ仕事。ストレス発散出来るような奴が良いんだがな」
人間とは何かを理解できないインヘルは、今日も生き地獄の如き道を歩み続ける。彼女は此処が地獄だと知っているのだろうか。
――魔女のInfernoは果てしなく。
第二部になります。第一部の時代背景とかがぜーーーーーーーーーーーーーーーーーんぶブッ壊れるくらい後の時代の話です。
「面白そう」「楽しみ」などと感じてくださったらブックマークや、ページ下部の☆☆☆☆☆をタップして作品評価をお願いします。ptが1増えるごとに、僕の履いているスカートが1mm短くなります。
【第一部:ささめく魔女の幸福な恋】https://ncode.syosetu.com/n7570gz/
という最近発見した小説も面白いです。誰が書いてるんだろうな〜。