第一章~刻命~/津波の恐怖
少し海沿いが見える位置に付くと綾の足が震え、さっきの恐怖とは違う恐怖が全身を駆け巡った。
全員が綾と同じような感覚に陥っていた。昨日まで見た景色とは違う…どんどんと波が街を飲み込んでいた。今この瞬間も人が、車が家が波に飲み込まれている。
車の警報や人の悲鳴、そして断末魔がいたるところから聞こえる。
担任の吉田先生が叫んだ。
「急げ!!一番高いところまで走れ!!早く!!」
いたるところで火災が起き、水に飲み込まれているのに火が出ていることに矛盾を感じ、綾はどんな感情なのか表現できず、頬をつねれば痛いのに現実を受け入れられず、ただ涙を流していた。
足がすくみ周りの音も何も聞こえず呆然と立ち尽くしていた。
数百人居る生徒全員を数十人の先生が誘導していれば、綾が一人で動けていないことなど誰も気付かなかった。
遠くではゆっくりに流れていた津波は気がつけば目の前まで近づいており、思った以上にスピードが速い。
頭では分かっていても綾は動けなかった。
(私の人生…短かったな)
なんてことをおもっていたその時、
「……!…や!綾!」
と誰かに背中を押された。
それによってふと我に返り後ろを顧みずに高台に一目散に走った。
ある程度の高台まで走ったところで波はもう綾を追ってきていなかった。
背中を押してくれたのは誰だろう…
聞き覚えのある声だったな…と思いつつ健を探す。
健を探しながらふと高台から街の方向を見ると、綾と健が生まれ育った街は全て波に飲み込まれていた。学校の生徒全員がパニックに陥っていた。生徒と同様に教師もみんな同じ方向を向きことの重大さを実感しているのがわかるほど。
綾はすぐに携帯で電話帳からあ行から【お母さん】を選択して電話をする。
………………………一向に鳴らない。
実はこのとき、東北だけではなく関東にも地震の影響が届いており、首都圏も混乱していた。
震源地に近い宮城県は震度7を計測していたが、関東も震度5強を観測しており、東日本の大部分が安否の連絡を取り合っていたことによって電話もメールも繋がらない状況に陥っていた。
綾は電話を何度かけても繋がらず、すぐにメールをした。メールでさえも数十回送信できずに、ようやく30回を超えたあたりで送信することに成功した。
もう後は待つことしか出来ない…生徒全員が同じことを考えていた。
これからどうなるんだろうという恐怖感と不安と戦いながら、ただ遠くにみえる絶望の景色を眺めていた。
そのとき教務主任の声が拡声器から届いた。
「今から避難所に向かいます!担任の先生は生徒の数を確認でき次第、クラス毎に移動してください。」
日本人は冷静だ。
こんな事態になってもみんながバラバラになることなく、列を作り担任が人数を確認する。
各クラス何人か生徒がいないとざわつき始め、私のクラスも数人いなくなっていた。
そしてその中に健の姿も無かった…綾は頭の中が真っ白になりその時の記憶が抜け落ちた。
津波に飲み込まれる寸前で背中を押してくれた人の声…今思えば健の声だと気づいたのは、それからしばらく経ってからのことだった。