第一章~刻命~/日常
少し都心から離れた小さな産婦人科で今、小さな命が生まれようとしている。
「はい!いきんでー!はい!しっかり呼吸してー!」
「んんんんん…っ!ヒッヒッフーッ………」
助産師さんと妊婦さんの息を合わせて出産が続いている。
時刻は深夜1時
意識を失いそうになりながら必死に呼吸といきみを繰り返す。
そして30分後…
大きな泣き声と共に赤ちゃんが助産師の手によって取り出された。
2842gの元気な女の子。
その瞬間、全てを思い出した。
走馬灯のように綾の頭を駆け巡る…
綾の人生は17歳のときに激変した。
それから数年間色々なことがあった。そんなことを考えて子供の誕生も相重なって涙が流れ、そのまま視界が少しずつ暗くなっていく。
「意識レベル低下!急いで処置室に運んで!過去の傷の部分が炎症を起してる!」
「はい!」
出産した直後に医師と看護師がバタバタと慌しく動き始めた。
人生は何があるかわからない。
でも大変なことを経験したけど、それなりに幸せだった…そんなことを考えている最中に綾の意識はなくなった。
人間の人生というのは一人一人違う。
しっかりと勉強して良い会社に勤めて結婚して子供が生まれて幸せな人生。
勉強せずに仕事もせずにニートやアルバイトで生計を立て続ける人生。
どこで間違ったのか、どこが正解だったのか、その答えは誰にもわからない。
そしてどんな人でも日々あらゆることを考え、辛くても幸せでも生きていく。
しかし、みんな違うがただ1つだけ共通するのは、生きていれば一度は恋をする。
この話は辛い人生経験をした、かつて想い合った2人が思い切り遠回りをする切なく甘い恋の物語。
「お母さんっ!なんで起こしてくんないのっ!」
あわてて飛び起きた。4月から高校3年になる綾は自分で起きられないことを棚に上げて母親に向けて怒鳴った。
「5回起こしたんだけど…でも返事はしてたわよ?」
「えー…行ってきますっ!あっご飯いらないからっ!」
朝ご飯の用意をしているのを横目でみて母親が何かを言いそうになる前に家を飛び出した。
家の前で同じく遅刻しそうな幼馴染の健と鉢合わせて一緒に学校まで走った。
いつもの朝、いつもの通学路、いつもの学校、いつもの授業…思い切り走ったせいか、2限目で既に眠くなり教科書の文字を必死に追いながらも瞼が落ちた。
「いてっ!」
瞼が重力に逆らわずに落ちていくのと同時にいたずらにしては大きめの消しゴムが机にうつ伏せになりそうな私のこめかみを直撃した。
一瞬、別世界にいた私は今どこにいるのかがわからずに声を出して立ち上がって周りを見渡す。
沢山の同級生から注目を浴び先生と目が合った瞬間に授業中だと気付く。理系の綾にとって眠いときの国語の授業は地獄だ…そのまま申し訳なさそうに席に着き同時に健を睨み付けた。
目が覚めて冷静に考えるとこんなことをするのは健しかいない。健は…
いつも通り私を小さく指差しながら声を殺して笑っていた。
休み時間になりすぐに
「健。」
と綾は低い声でそういいながら健に近づく…それに気付いた健は走って逃げる。それを追いかけて、最初は本気で怒っていた綾も追いかける内に面白くなってきて笑顔で追いかけ、それを見て健は謝ってくる。笑顔になれば許してくれると思っているのだろう…その通りだ。
「マジごめん!でも起こしてあげたんだから感謝して。そもそも俺が謝る前に寝てたことを反省すべきじゃないかな?」
「ぬっ…うるさいっ!」
いつもこの調子だ。健は口が上手い…それで絶対に自分が100%悪いという状況を打破する。今回に限っては綾が寝たことで分が悪いのだが、仮に健が分が悪くても口の上手さで丸め込まれてしまう。
1週間に1回…いや3日に1回のペースでこういう追いかけっこをしている。これを綾も健も意外と楽しんでいた。
「とりあえず次やったらキレるから。起こしてくれるならもっと優しく起こして!」
「わかったー」
綾の目なんて見ずに、なんとも適当な返事。これは次もやりますよという意思表示に違いない。もう一度釘をさす。
「マジだからな…おいっ」
「はいっ!」
「よろしいっ♪」
もちろん、数日後には同じ光景を体験しているだろうという確信をもって許したフリをする。
授業も終わり、チャイムが鳴ったと同時に校庭に走り出す男子。もちろんスポーツ万能でクラスの中心人物である健も校庭に走りだした。私は仲の良い恵美と優香と一緒に教室でおしゃべりをして過ごす。
毎日毎日話をしても尽きないのがこの青春時代のいいところでもあるのだが、やっぱり話は恋の話になってくる。
「やっぱり綾は健のことが好きなんでしょ?もう毎回のアレは完全にカップルのやることでしょ」
「そんなことないよっ!腐れ縁というかなんというか…家が多少近いだけの関係!」
「いいよーもうバレてるから!学校中に!(笑)」
「どういうこと!?」
「いつも追いかけてるから付き合ってるって噂だよ。なんか健を好きな子たちもみんな諦めてるみたい」
「どっちにしても健は間違いなく綾のこと好きだよねーそれに気付いてない綾はさすがに鈍感っ!」
「それはどうなのかな…私は嫌いじゃないけど…どうなんだろう。わかんないっ!」
「あーやっぱり好きなんだ♪」
「やめてーっ」
いつも、一回はこの綾と健の恋の行方の話が出る。綾は実際にまんざらでもない雰囲気を出すから周りも冷やかし混じりに聞いている。
そうこうしている内に、チャイムがなりいつも不思議に思っている謎の音楽が流れる。
「お掃除の時間になりました。各自、掃除をしましょう。」
音楽に合わせて放送委員のアナウンスが流れた。
「もう昼休み終わりか…」
楽しい時間というのは早い。時間は午後13時30分。これから15分の掃除の時間が始まる。
この掃除の時間も厄介だ…
思春期の男子というのは難しい。大人っぽさや男っぽさを見せる反面、真面目にすることがカッコ悪いと思っている。もちろん思春期の女子もそんな男子を好きになってしまう。
非常に難しい年頃なのだが綾はいつも、雑巾を投げあうのだけはやめてほしいと思っていた。
「やめてー」
委員長の柏原さんが叫ぶがもともと大きな声じゃないので聞こえていない。
「やめろーっ!」
綾は柏原さんの代わりに一言発してすぐに箒で男子もろとも掃き始めた。
こういう自分の男っぽい性格は嫌いじゃないといつも思っていた。
そもそも5限目が古文という昼休憩の後に持ってくると確実に眠気を誘う授業があるという時点で苛立っていたので、そのことに対するストレス解消にもなった。
『キーンコーンカーンコーン』
ようやく全国で毎日繰り広げられている戦争という名の掃除の時間が終わった。
古文という憂鬱な時間が少しずつ近づいていくに連れて理系の綾はテンションが下がっていた…実は古文は綾の一番二番を争うほど苦手な授業。
これだけ科学の進んだ現代に、もう現代語に訳されている昔の文章を掘り下げて勉強するという意味が理解できなかった。
ちなみに、もう一つの苦手な授業はもちろん…漢文だ。
午後14時00分。
チャイムと共に同じクラスの生徒が一斉に席につく。学校に来る不良でも、この秩序だけは守っているというのにいつも驚かされる。多分動きたくないだけなのだが…
「席についたかー。始めるぞー。」
古文の教師は担任の吉田先生。担任が嫌いな教科の先生というなんとも皮肉なクラス替えに神様を呪ったが、とにかくもうすぐ高校2年が終わるから後少し頑張ろう。…と思った瞬間、綾は眠気に襲われる。
10分…25分…半分まできた。後半分…35分…このあたりから長い。1分が10分くらいに感じてしまう学生あるあるに突入する。
「長い…眠い…長い…」
必死にこらえてふと視線を健の方に向けた。健は窓の外を見てぼーっとして頬杖をつきながら勉強のことは頭に入っていないようだ。そして健はなぜか、頬杖をつくとそのついた手の小指で唇を触る癖がある。いつもこれは何をしているんだろうと疑問に思う。
そんなことを考えていたら眠気も覚めてきて前を向いた。しかし変な視線を感じ、健の方向をみると午前中の消しゴムより、さらに大きめの消しゴムを持って確実に私に狙いを定めていた。まさかボーっとしてこのいたずらを考えていたんじゃ…と思いなぜか一人で笑いそうになった。
でもすかさず表情を変えて健を睨んで手を膝の上に置いたのを確認して元の方向を向きなおした。
時計を見ると14時42分…後8分耐えれば私の勝利だという理解できない勝敗を頭に思いうかべつつ、授業はそっちのけで秒針を追った。