「君の名は。」 感想
今になって、映画「君の名は。」を最後まできちんと見た。その感想を書こうと思う。
…さて、今、「感想を書こうと思う」と書いたけれど、実を言うと、感想を言いたい気持ちというのはそれほど湧いてこない。というのは、「君の名は。」という作品は、通俗的な作品で、既視感の連続であり、別に言いたい事もないし、言うべき事もないと感じる。
今の十代は知らないと思うが、「世界の中心で、愛をさけぶ」という小説が流行った事があった。映画化され、ドラマ化もされ、本はよく売れた。しかし、今、「セカチュー」の事を言う人はほとんど見ない。あれだけヒットした作品は今は忘れられているようだ。
調べると、「セカチュー」は十五年も前の作品だ。「君の名は。」はそれから十五年も経っている。なのに、何も変わっていない、という印象を受ける。主人公が持っているものが携帯からスマートフォンに変わっただけで、根底の部分は何も変わっていない。商業的な世界はいつも、「新しい」「これまでになかった!」「今まで一番泣ける!」とか、そういう言葉を常に発するが、実際には何も変わっていないと感じる。「恋空」なんて小説もあった。「セカチュー」があり、「恋空」があり、「君の名は。」がある。でも、だからどうだというのだろう。
嫌厭ばかり吐き出しても仕方ないので、まともに作品を考えていく事にしよう。
まず、褒めるべきは確かに映像が綺麗だという事だ。自分もああした自然風景の場面は好きなので、ああいうものをあのようなグラフィックで見れたという事は個人的には好きなポイントだ。また、作品全体の雰囲気も嫌いではない。生ぬるい作風なのだが、自分は生ぬるい人間なので、ああしたものは好きである。しかし、これはあくまでも個人的好悪の部分だ。もしAmazonで星をつけるとすると、本来的には星三つだが、自分の好みもくわえて星四つにしたと思う。
それはさておき、もっと根本的な部分について考えていく事にする。「君の名は。」はいわゆる恋愛ものである。それで、恋愛を基礎にシナリオを作る場合、制作者の観点からは、単純な方法が見えてくる。
まず、お互いに好き同士のAとBを作る。これは男女関係だ。で、このA、Bはお互い好き同士なのだが、何かの理由で、一緒になれない。つまり、AとBの間に障害があって、この障害を乗り越えて、AとBは一緒になる。その道筋が物語の構造となる。
この障害は人間である事もあるが、「君の名は。」の場合、過去に隕石が落ちて、人が死んでしまうという所にポイントがある。また、田舎⇔都会という差異も、障害を生み出す起因となっている。
「君の名は。」という作品では、いくつかの設定がこしらえられている。主人公の男と女が、定期的に体が入れ替わってしまう事。女は三年前の世界にいて、男は三年後の世界にいる。その三年を繋ぐのは伝統的な「紐」で、男は隕石の落下で死んでしまう女を救う為に、三年前に戻って奔走する。
自分で書いていてもよくわからないプロットだが、こうしたプロットは適当に見ていっても何の問題もない。というのは、こうした大掛かりな仕掛けは結局、男と女の「好き!」という気持ちを盛り上げるために作られた設定にすぎないからだ。だから、至る所、都合の良い場面が出てくるが、視聴者は主人公達の「好き!」を素直に信頼する限りで、そうした場面をスキップする事ができる。あるいは、そうした場面が気にならない。
僕はそもそもこうした「純愛」そのものが信じられないので、素直に見る事ができない。「それはお前が濁っているからだ!」という人もいるだろうが、ここには個人的なだけではない、色々な問題がある。これに関しては今は触れない。
さて、「君の名は。」という作品を通して見た時、まず、僕達は、そこにある色々な場面を素直に信じなければ普通に見られない。頑張って走っているヒロインが途中でこけて「う、うう…」となる場面だとか、お互いの手が触れあいそうになって、人混みに巻き込まれて、ついに手が触れ合えない場面だとか。
最近読んだ小説に、主人公の彼女が「ねえ、海に行きたいな」みたいな事を言う場面があったが、僕としては「勝手に行けば」なんて思ってしまう。もちろん、「君の名は。」とかこうした小説では、こういうセリフや場面は、普通に見なければ、鑑賞する事ができない。
青山七恵の「ひとり日和」でも、主人公が失恋して髪を切る場面があったが、「君の名は。」でも似たような場面があった。何が言いたいかと言うと、これらの作品は極めて類型的な場面が頻出するという事だ。キャラクターもそうで、「君の名は。」でサブキャラクターに位置づけられている田舎のカップルは、正にサブキャラクターたる事を運命づけられていて、その領域を一ミリもはみださない。また、主人公達が自分を疑う事もなく、自分について(属性としての自己以上に)考える事もほとんどない。制作者は世界を類型的に見ており、その視点は作品に投入され、それが多くの人に受け入れられるという事は、僕達が世界を類型的に見ているか、少なくとも、それを望んでいるという事を意味する。
「君の名は。」が大ヒットした事が何を証明したかというと、「何も変わっていない」事だと思う。「セカチュー」にあった通俗的恋愛観念は二千十年代の現在も見事に通用し、かつての十代は二十代に、二十代は三十代になったとしても、何も変わらなかった。世界は驚くほど変わっていない。相変わらず、作品世界内部では、「就活」「受験」「恋愛」といった所与の概念が幅を利かせており、これに対してまるで疑わず、それらを基礎としてプロットを作るのが普通であるし、それによって大きな利益を得る事が未だに可能である事が証明された。
「君の名は。」という極めてクオリティの高い映像作品、物語をうまく二時間の尺に収める技術、それらの高いレベルが到達する先は、最終的には「○○君、好き!」という感情だ。似たような構成をこれもヒット作である「アバター」という映画で見た事がある。「アバター」の向かう先は「自然は大切」というこれもどこかで見た事のある概念だ。
「シン・ゴジラ」も構成的には同じで、問題が起こった時の内閣の動きや、ビルの倒壊する場面などが緻密に描かれているが、その先にあるゴジラをやっつける観念は単純なものとなっている。また、これらの作品ではどれも、善悪が綺麗に別れている事も特徴的と言っても良いかもしれない。(「君の名は。」では、悪人はいないので、「意地悪」VS「いい人」という構成になっている)
こうして考えていくと、現在のヒット作の主流は「極めて高い細部の技術」を「僕らが一般的に持っている通俗的正義感、恋愛観、社会感情」に収束させていく事にあると思う。僕は世間まるごとを含め、ヒット作のあり方そのものに疑問を持っているので、こうしたものを積極的に評価しない。もっと言えば、これらの作品に「心の底から感動した」という感動のあり方に疑問を持っている。遠藤周作の「沈黙」という作品は丁度「君の名は。」と同じように「泣ける作品」だが、その涙は果たしてどんなものか。僕としてはその涙そのものに疑問を持っているし、そういう涙を素直に信じられるという感性そのものに疑問を感じている。
…もっとも、次のように考える方が妥当かもしれない。つまり、「君の名は。」をカップルで見に行って「良かったね、また見ようよ」と、素直に言える人間であったら、僕はこのように苦しんだり考えたりする必要はなかっただろう、という事だ。多分、そちらの方が真実だろう。しかし、これらの事はそう簡単には決定できない。人生において、何も疑わないという事がどんな悲劇・喜劇を招くのか、また、果たして幸福な人生が「良い」人生なのか、というのはそれほど簡単には決定できない。ただ、はっきりしているのは「君の名は。」に心から涙できる人は僕よりも幸福な人間だという事だ。しかし、その幸福を計る基準が、この世界のどこかにあっても良いのではないかと自分は考える。