佐藤
池崎君は、俺の憧れだ。同じ男から見てもあの人はかっこいい。すらりとした身長にふんわりと笑う表情。スポーツをしている姿は、確かに人の目を引くものがある。おまけに勉強も得意ときた。しかも皆からの信頼は厚い。やはり男として憧れる。
俺はといえば、どこか突出した個性や特技もなく、争いとは無縁に生きてきた。女の奪い合いも男同士の友情をはかる喧嘩も、これからもきっと起こることはないだろう。ただただ平凡に、特に注目されることもなく今を生きている。
こんな毎日を俺は退屈に感じていた。池崎君のように何か特別なものが欲しかった。
「ねえ、佐藤君」
池崎君のことを考えていたら本人が来た。いつもならこんなこと、ほとんどありえない。池崎君から話しかけてくれるなんて。見上げてみれば、彼は数多の女の子たちの心を射抜いてきたであろう笑顔を作った。眩しい。
彼は、俺が委員会に代わりで出たことのお礼をわざわざ言いにきてくれた。友達との話を中断してまで話しかけてくれたところに、彼の優しさを感じる。
というより、俺は知っている。池崎君が委員会に出れなかったのは、若い女の先生が重そうな教材を運んでいるのを手伝ったからだ。すぐに委員会に来れなかったのは、その後先生から何か雑用でも頼まれたからだろう。俺は、池崎君が委員会があることを友達にこぼしていたのをたまたま聞いていたため、忙しい彼の代わりに委員会に出席したのだった。そして、委員会は案外すぐに終わったのだが、終わった直後に池崎君が来た。教室の中をそっと覗いて、委員会がちょうど終わったことを察した彼は、気まずそうにその場を去ったのだ。
それを彼は「委員会があること忘れてて」なんて言ってきた。本当は忘れてなんかないくせに、俺をたたせようとこんな嘘をついたのだ。これだから池崎君はかっこいい。俺もこんなことをスマートにやってみたい。
彼が要件だけ伝えてここを去ろうとする。俺は立ち上がって彼を呼び止めていた。驚いたように振り向いた彼は「どうしたの?」とこちらに向き直ってくれる。
池崎君の周りにはいつも誰かがいるから、話しかけたくてもなかなか話しかけられない。今なら何か話をふれるかと思ったが、特に何もないことを思い出した。
「……ごめん、やっぱり何でもない」
「そっか。何かあれば、遠慮しないで言って」
なぜか彼は残念そうに笑って、結局友達の元へ行ってしまった。席に座る時、窓の外を頬杖をついて眺める西岡さんが目に入った。彼女の顔はどこか退屈そうだ。
俺と西岡さんは、なんとなく似てる気がする。お互い何か「特別」があるようには見えない。誰かの「特別」になっているようなそんな雰囲気もない。彼女はこの平凡な毎日の中に、いつもああやって何を感じているのだろうか。俺と目が合う前、一体何を見ていたのだろうか。俺はいつも、彼女をわからないでいる。
俺は教室の掃除だ。今日も黙々とほうきを動かす。池崎君もまたイケメンぶりを発揮していた。すると突然、池崎君がぽつりとこう呟いた。
「……ねえ、西岡さんってさ、彼氏とかいるのかな」
急に池崎君が西岡さんのことを口に出したから、俺も女の子たちも驚いてしまった。彼は俯いたまま動かない。独り言のようでもあったけれど、彼女たちは食いついたのだった。その中に、もっと驚くことがあった。
「あっ、でも、佐藤君のことずっと見てるよね」
思わず「えっ」と声を出してしまった。誰にも聞かれていないようなので、とりあえず安心する。俺は、盗み聞きをせざるを得ないと、掃除するふりをして少し彼らに近づいた。でも、俺と西岡さんの話はすぐに終わってしまい、池崎君もこれ以上何も言わなかった。
ああ、全然知らなかったと俺はまた彼女のことを考えるのだった。
放課後になって、俺は山田先生を探していた。職員室にいなければ、部室か教室にいるのだろうが、結局会えずにいた。イラついて疲れてきた気持ちを、俺の好きなバンドの音楽が紛らわせてくれる。最近人気みたいだから試しに聞いてみたけれど、流行る理由がよくわかる。
やっぱり職員室に戻ってきて、もう一度見渡してみる。ああ、やっぱりいない。尋ねてみる方が早いと思って、俺は山田先生の行方を近くにいた先生に聞いてみた。
「ああ、山田先生?山田先生って数学担当だよね?今日は数学の先生だけの会議があるから、しばらくは戻って来ないと思うよ」
やっぱり誰かに尋ねて正解だった。もし俺と同じように、この事実を知らないで数学の先生を探してる人がいれば、その人はきっと苦労するだろう。もはや他人事。今日はさっさと帰って、明日山田先生に会いに行こう。
その次の日から、俺たちの普通は突如壊された。池崎君が積極的に西岡さんに話しかけるようになったのだ。どういう心情の変化かはわからない。けれど、いくつかわかったことはある。
「西岡さん、昨日上野先生とは会えた?」
「あっ……いや……ずっと探してたんだけど、全然見つからなかったから、会えなかった……。あの、それより池崎君……あの子たちがすごいこっち見てるし、向こう行ってきてあげたら?」
「そうだね。でも僕は、君と話したい」
池崎君が、西岡さんに急に興味を持ち始めたこと。西岡さんがこれから退屈しなくなるだろうということ。そして、俺の心がどこかもやもやすること。
池崎君と西岡さんの「普通」は壊された。これからまた新しい「普通」が作られるだろう。だけど、普通の「普通」とは違うはずだ。普通だった彼女が変わってしまったことに、俺はどこかで置いてきぼりを感じている。
俺はいつもみたいにぼんやりと池崎君を眺める。その隣には、いなかったはずの彼女がいて。
俺は今日も彼女をわからないでいた。