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沼のほとり

作者: かとうとか

第一章 わたしたち


1.Nyssa sylvatica


 ねえさんは綺麗だ。


 まるで水面に浮かぶ白波が輝くように、不確かさと規則正しさをあわせ持ち、沼のほとりをはずむ足取りは軽やかで、着地はふわりと音もなく、やわらかな風だけが吹き抜ける。


 わたしは、ねえさんの歌声を聞きながら育った。

 森のなかで風の匂いを嗅ぎ、暮れ行く天候の予想をしながら。


 日が長くなるころ、湿った土には無数の虫が這いまわり、腐った切り株で菌類が目を覚ます。小川は精錬な流れを繰り返し、風が吹くたび先のとがった葉が揺れ、太陽が一番高い位置にあるとき、そこにはおだやかさだけが君臨していた。


 葉の隙間から降りそそぐ光から逃げるように、水の精の名が付いたニッサ・シルバチカの下で、沼に浮かぶ花を見ていた。


 水のある場所なのに、どうして生きものの気配がないんだろう。


 森の奥から聞こえてくるねえさんの歌声は、子守唄ではないし、童謡とも違う。わたしたちが使う言葉ではないから、意味がわからない。


 日が落ちると、ちょうど沼をはさんだ先の、木の葉が作る青い壁に、人の形をした影が踊り出る。影は、両手を広げ、飛んで、跳ねて、ほんの一瞬姿を隠しても、再び現れたときにはもうずっと遠くにいる。


 沼は動かない。音も立てない。わたしの手が与えた振動で、ほんの一部が震えるだけだ。


 体を乗り出し沼を覗きこむと、わたしの顔のあるべき場所はぼやけていた。


 灰色の影がにじむ。


 急に眠くなる。


 昨日、夜遅くまで父の部屋で本を読んでいたからだ。父の部屋には図鑑も多く、わたしは、植物の図鑑を見ていた。腕が痺れるほど重い。ニッサ・シルバチカも載っていた。冬になれば葉が真っ赤に染まるのが特徴だ。


 ねえさんの歌声がだんだん近付いてくる。


 沼のふちに座って足をつけていたので、生ぬるい水が肌を覆い、ズブズブと引きずるように飲み込んでいく。足の裏にむずがゆさが起こる。爪の隙間に小さな魚が入り込んでくるようだ。


 わたしの体は今、雑草の影に隠れている。


 ねえさんには見えないだろう。


 そのとき、わたしはあることを思いついた。


 そうだ、ねえさんを驚かせよう。


 突然、草の間から顔を出せばびっくりするだろう。


 ねえさんの驚いた顔が見たい。


 でも、それより眠たくて仕方がなかった。


 目を開くのがこれほど大変かと思う。



2.Benthamidia japonica



 できれば、ずっと夢を見ていたかった。


 父が亡くなるまで、わたしたちは、ねえさんとわたしと父との三人で生活をしていて、あのころは、毎日わけもわからず笑っていたし、とりわけ不都合もなく、目の前に差し出された幸福を蜜のように吸って、体だけがぶくぶくと成長していた。わたしは背が伸びたけれど、ねえさんはそんなに変わらなかった。父は白髪が増え、背中が丸まっていった。


 ずっと暮らしていると、家のすみずみに小さなほつれが出てきて、家具も父が一人で作っていた。工房は自分の部屋で、昼夜の別なく木槌の立てる音が家中に響いていた。父は昔、なにかものを作る職業に就いていたのかもしれない。職業というものをわたしはよく知らないけれど、自分でしたくないことをお金を払って他人にしてもらうことだ。


父はなんでも作った。靴べらを作ったことがあったけれど、誰も使わないので、玄関の飾りになっていた。父の作業を手伝うことがあったが、せいぜい組み立てられたものに色を塗るくらい。基礎に手を出すことは許されなかった。生活に必要なものはなんでも作った。その代わり、料理は下手だった。食事自体に興味がないみたいで、作業に没頭しているときは、なにも食べないことも多かった。父を心配したねえさんが食事を持ってきても全然手を付けずに、水だけ飲んでいた。今まで、父が台所に立っている姿を見たことは一度もない。父の部屋からは、いつも道具の立てる音以外になんの音もしなかった。


 生まれたときから、わたしたちはこの青い森に住んでいて、すぐそばにあの暗い沼があった。季節によって、木や花が見せる大きな変化を追いかけながら、毎日のように沼のそばへ行って、木の実を採ったり、食べられる草を摘んで、持ち帰って食べた。森のなかでとれるものに頼り、冷えた空気を吸って暮らしてきた。


 わたしにとって、生活というのは、ねえさんと父とわたしが行うこと、森の色と空気がすべてで、森の外のことはなにも知らない。


ずいぶん前に、父から森の外には町があると聞いたことがある。高い家が建ち並び、たくさんの人が生活しているらしい。わたしにとって、いちばん背が高いのは、沼の近くに生えている針葉樹で、それよりも高い位置にあるものは空しか知らない。周りには、ねえさんと父以外にだれもいないし、あとは、本のなかに登場する人物くらいだ。


 ある日、ねえさんがわたしに言った。


 父が亡くなってから三日後の朝だった。


「さあ、わたしたちの生活をしましょう」


 死んだ父が横たわるベッドのふちで顔をふせたまま動かなかったねえさんは、突然、ネジを回されたように顔を上げると、にっこり笑った。


 ねえさんは、死んだ父をどうするかを悩んでいたようだ。小さなわたしにとって、父が亡くなったという意味がうまく飲み込めず、ベッドで大人しく眠り続ける父の顔は生きていたころとたいして違いがないように思えた。目を閉じて動かないだけ。だから、そのままベッドに置いておけばいいんじゃないかと思ったけれど、ねえさんは自分の考えを行動に移した。いつも、ねえさんは考えたことをすぐさま行動に移す。


 結局、ねえさんの言った通り、わたしたちはふたりの生活をはじめた。といっても、ほとんど今までとなにも変わらない。ただ、テーブルを囲む人数が減って、家が静かになったくらいだ。もう、父の立てる木槌の音はしない。


 その代わり、ねえさんが料理を作るときの音が、二階にあるわたしの部屋にもはっきりと届くようになった。


 今日の夕飯はなんだろう。


 おなかがすいた。



3.Lilium maculatum Thunb



 毎月火曜日に、男はやってくる。


 それは、ずっと前から続いていることで、わたしが生まれるよりも前からの習慣だった。わたしは、毎日カレンダーの日付に丸を打っている。男はいつも同じ間隔でやってくる。


 家には、わたしとねえさんの部屋がそれぞれあって、土間から続く台所と、風呂場と、あと二部屋は空いている。


 部屋へ入ると、まず、湿気った臭いが鼻の奥を刺激して、けむたくてせきが出る。光は、床の上を走り、本たちを照らす。なぜか、板机の上に椅子のおもちゃが置かれていた。たぶん、家具を作るときに余った材料で作ったんだと思う。手の平に収まるほど小さく、背もたれのある椅子だ。父はこういう椅子を作るつもりだったんだろうか。


 男は、緑色の車に乗ってやってくる。大きな車は、ものすごい音を立てながら白い煙を吐いて、ごうんごうんと車体を揺らして森のなかを走ってくる。そして、家の前で停まると、飛び上がるほど激しく揺れる。


 わたしは自分の部屋から眺めている。


 家の前は開けていて、その周りに姉さんが育てている花が囲う。今の時期は、ヒメユリだ。


 わたしたちの住む家の周りには、大きさも形も異なる木が無数に生えていて、家だってもちろん木でできているから、わたしたちの周りはみんな木だ。木に囲まれている。それが当たり前で、ずっとそうだったから、男の乗ってくる車はなんだか不気味だ。木ではなく、もっと硬い素材でできている。


 男は、家には入ってこない。いつも黙って車にもたれてわたしたちの家をじっと見ている。太い腕にはさまれた丸々とした腹のなかには、いったいなにが詰まっているんだろう。浅黒い顔には、硬そうなヒゲが草のように生えていた。口が見えないので、目が鋭く見える。


 やがて、男が来たことをトラックの音で気がついたねえさんが玄関から出ていく。決まって急いで。


 男は、いかにも待ちくたびれたようにねえさんを迎える。二人は二、三、言葉を交わすとすぐに離れる。あまり近づかない。ねえさんは何度もうなずいていた。


 すると、男は車から箱を取り出す。重そうに荷物を地面に降ろすと、足みたいな腕で、箱を家のなかへ運びはじめる。箱は全部で五つあった。


 男の顔はヒゲに覆われているので見えにくいけれど、とても面倒そうだった。ゴミのように箱を放り投げている。動きが乱暴だ。そして、箱をぜんぶ運び終えても車にはもどらなかった。家の陰に隠れてしまう。いったい、どこへ行くんだろう。


 男が箱を運ぶ間、姉さんはずっと祈るように手を合わせている。



4.Lycium chinense



 男が来た日の夕飯はとても豪華だ。


 男は、朝にやってきて夕方にはどこかへ帰る。男の車がどういう仕組みで動いているのかはわからないけれど、森のなかにあるものでは絶対に作れない。


 わたしは、町というものが森の外にあって、父がそこからやってきたことを知っている。でも、見たことはない。聞いた話ばかりだ。人がたくさんいるとケンカしたときがこわいと思う。


 ある日、わたしが眠ったあとに、下の階から怒鳴り声が聞こえてきた。すごくこわかったけれど、音を立てないように注意しながら階段を下りて、父の部屋を覗いた。廊下は真っ暗で、部屋の光が目に痛い。ふたりは部屋の真ん中に立っていた。父はふだんと全然違う、とてもこわい顔をしていた。ねえさんもずっと眉をひそめていた。


そして、ぽつりとなにか言った。聞き取れない小さな声だった。


すると次の瞬間、父はねえさんの顔をぶった。乾いた音が夜に響いた。ねえさんの体が床に落ちる。わたしは目をつむる。すぐに自分の部屋へ逃げ帰った。ねえさんは泣いていた。


朝になってから、またいつものように三人でごはんを食べた。わたしは、その日、ねえさんの腫れた目を見ないようにした。


 男が、車から箱を運んだあとどこにいるのかも、実際よくわからない。朝から夕方までの長い時間なにをしているんだろう。その間、男の車は庭に置かれたままなので、きっと遠くへは行けないだろう。手ぶらで歩いて進めるほど森は優しくない。


 そして、それよりももっと気にかかるのは、男がいない間にねえさんもいなくなってしまうことだ。


 男がきてからしばらく経った昼過ぎに、ねえさんが台所へ肉の仕込みに帰ってくる。かなり疲れた様子で、片手で髪をまとめながら勝手口から入ってくる。材料はもちろん男が持ってきたものだ。そうでなければ、わたしたちが肉を食べることはない。


切った肉を沸かした鍋に入れると、ねえさんはまた勝手口から外へ出て行く。火は付けたままだ。


 夕方ごろになると、またねえさんは帰ってくる。いつもの何倍も豪華な食材を使って、夕飯の準備をはじめる。男がくる日は、テーブルに必ず肉が並ぶ。台所からこうばしい香りがただよい、私は眠気を振り払って起き上がる。すると、外からまたあのものすごい音が聞こえる。鍋の湯が煮えるよりも大きな音。おそるおそる窓の外を見ると、森の奥へ走り去る車が見えた。


 台所のテーブルの食器から湯気が立ち上っている。ちょうど真ん中に、真っ赤なクコの実が添えられていた。


 わたしとねえさんは、向かい合って座り、まず神さまへ祈ってから食事をはじめる。このとき祈る神さまのことを、わたしは知らない。どうして、食事するたびにお祈りしないといけないのか。食事を作ってくれたのはねえさんで、神さまがどうして偉いのかもわからない。神さまがいる場所が、どこかもわからない。


 まだ子どものころ、ねえさんに神さまの話をしてもらったことがある。


 確か、いつものように沼のほとりで涼んでいたときだった。


 わたしたちはそろって沼に足をつけて座った。すると、ねえさんがそっと自分の方へ引き寄せたので、勢いに任せてわたしはねえさんの膝に頭をのせた。やわらかい。目を閉じると頭の上から声が降ってくる。


 ねえさんによると、神さまというのは、わたしたちよりも上にいるらしい。このときの上というのは、別に、空のことではなく、もっと近いところ。父の部屋の本のすきまや、普段開けない戸棚の影に隠れて、そして、ふとんをかぶり目をつむるとき、ようやくそばまできてくれると言う。神さまのいる場所をさししめす言葉でいちばん近いのは、目の上だとねえさんは言う。


 「わたしたちの生活のそこかしこで神さまは目のない顔を出す」そう言ったとき、ねえさんはなにかをひどく悩んでいた。うなり声をあげて、頭を抱える。すると、突然、自分の顔を爪で何度もかきむしりながら、「こんな口はいらない!」と叫んだわたしはなにも言っていないのに、違う!と言って首を振る。わたしはねえさんの膝の上で横になりながら、おびえていた。言葉の意味も分からない。怖かった。だって、ねえさんがこんなに険しい顔をすることなんて今までなかったし、叫ぶなんて。ねえさんは自分だけの言葉を話しているように見えた。自分以外の人に伝えようとしていない。自分だけに分かる言葉で、魔法を唱えるように叫んでいた。


 神さまがいるなら見せて、と幼いわたしは紙に書いて伝えた。


神さまという聞き慣れないものへの好奇心が沸いた。神さまは、どんな顔をしているんだろう。そうだ、手はあるんだろうか。飢えた人たちのために石をパンに変えたときも、手を使ったとねえさんは言っていた。その他にもたくさん、神さまがわたしたちにしたということをねえさんは教えてくれた。


 でも、それは、神さまをおとしめることだとも聞いた。引きずり落としてしまう。わたしたちのもとへ。


そんなの、全然だめだと思った。


 もっと、強いものを想像していたからだ。


 わたしがすごいと思ったくらいで、動くなんてだめだ。


 神さまがいるなら見せて、と幼いわたしは言った。


 よく晴れた午後だった。


 水鳥が水面に羽ばたき青空のむこうに消えた。


 「ちょっとその手を貸して」とねえさんはこわい顔で言った。



5.Nymphaea



 男が去ったある日、長い雨が降った。


 そんな日でも、ねえさんは散歩しに行くと言って家を出た。わたしは、自分の部屋にこもってベッドの上から外を見ていた。


 沼の水は、動くことがない。一度足をつければ肌を包みこみ、ものを投げれば、なにもなかったかように同じ顔をする。はじめからなにもなかったように。


 例えあそこへ落ちても、きっとあの水は、わたしに音を立てることを許さないだろう。体のふちから水に取り込まれ、ズブズブと沈んでいくのを想像する。


 背筋が冷える。カタツムリが落ちても、わたしが落ちても、水面に現れる白い波の大きさは変わらない。


 わたしたちは、そんな不気味な水をバケツに汲んで家に持ち帰っていろいろなことに使っている。掃除をしたり、料理をしたり、風呂釜へ湯を張ったり。ずっとそうしている。あの沼がなければわたしたちは生活を送ることができない。


 大切なものなのに、わたしはあの沼を好きになれない。尊いものだと思っても、膝を抱えて覗き込むと、寒気がした。苦しい。足を踏ん張るように意識しないと。


この沼に底はあるんだろうか。たくさんのものが沈んだ。でも、浮かんできたのは見たことがない。沼のなかへものを投げ続けたら、いつかいっぱいになってしまう。そんなのは当たり前なのに、わたしが当たり前だと思っていることが根底から覆されるような気がする。


 毎年、沼にはスイレンが咲く。


 葉は丸く、花は薄い桃色で、花弁がいくつも重なっている。


 ここは、どうしてこんなに静かなんだろう。


 雨は降り止まない。


 すっぽりと森を包み込む。


 このまま、もし雨が降り続けたら。


 沼の水が溢れてくれるだろうか。


 もしそうなったら。


わたしたちの家はあっという間に飲みこまれてしまう。



6.Marchantia polymorpha



 毎週日曜日になると、必ずねえさんがわたしの部屋へやってきて、出かける準備をさせる。神さまへ祈るためだと言う。わたしは眠たいのであまり気乗りしないのだけど、そんなことを言うとまた怒られるので渋々その手に付いていく。服を着替え、顔を洗い、用意された朝食を食べる。


 家を出て、車一台分空いた庭を横切り、しばらく道なりに進むと、沼のほとりに暗い小径がある。左側は小川の水面で、右側には広葉樹が枝を広げている。二人で進むには少しせまい道をねえさんの後を追うように歩く。地面は水気が多く泥のようにぬかるんでいる。道の先には、木立が朝の光に当たって青く輝いている。その影を受けた水面も吸い込まれるくらいきれいだった。しばらく歩いて、肌に汗がにじむと、木と木の間に青い屋根の小屋を見つける。


壁ははがれて基礎がむきだしになっている。四つの柱も薄緑色に腐って、虫に喰われて汚れている。壁に窓はひとつもなく、板と板を組み合わせただけで作っている。小屋の周りに転がる石にはコケがおおっている。


 小屋の扉には、なぜか立派な南京錠がぶら下がっている。壊れかけの扉に似合わない。カギはかかっていない。たぶん、父がどこかへ隠したんだろう。在り処を教える前に死んでしまったんだ。わたしたちは立て付けの悪い扉を押して開き、叫び声のようなきしむ音を聞く。


 中へ入ると、真っ先に動物のフンの臭いがする。きっとネズミだろう。わたしはこの臭いがわりと好きだ。香ばしくていい匂いだなと思う。でも、ねえさんは苦しいと言う。ここにずっといると息苦しいと。実際、ねえさんは口元をずっと手で抑えていた。


 足元に床はなく、そこにはむき出しの地面があり、天井から外の光が漏れている。壁の隙間からも細い光が入りこんでくる。灯りはない。小屋にはなにもなかった。ひとつ机があるだけた。なんのへんてつもない机で、わずかに地面を盛り上げて高くなったところに置かれていた。これも廃材で作ったようで、木の表面は変色して、ツヤがなく、切り口は雑だった。机の上にはなにも置かれていない。


「さあ」というねえさんの声を合図に、わたしたちは机の前の地面にひざをつけて祈りはじめる。


 ねえさんなんて、ほとんどはいつくばるようにして祈っている。わたしは格好だけだ。膝を曲げて、両手を胸の前で重ねる。そして、なにを祈ればいいのだろうと悩む。なんせ、ほしいものなんてないし、行きたい場所もない。会いたいと思える誰かもわたしは知らなかった。できれば、父に生きていてほしかったなとは思う。父がいてくれれば、ねえさんの笑顔が増える。よく三人で祈っていたころは、わたしは父の背におぶらされたまま眠っていた。


 父のこと以外に、わたしには祈ることはない。


 父とねえさんさえいればいい。


 神さまとかいうものへ伝えることがなにもない。


 ねえさんはなにをそんなに必死で祈っているのだろう。


 今の生活に気に食わないことでもあるんだろうか。


 もし、その原因がわたしにあったら悲しいなと思う。


 かといって、なにを祈っているのかなんて、怖くてとても聞けない。


「もっと集中しなさい」とねえさんが怒る。


 わたしは謝って、一生懸命頭を下げる。しっかりと目をつむって。


 祈るふりばかりうまくなっていく。


 ねえさんはなにを祈っているんだろう。



7.Juglans



 父は、あまり話さない人だった。


 必要なこと以外なにも言わない。いつも部屋に引きこもって家具を作っていた。たくさんの工具を使って、板を切り、杭を打ち込み、形を整え、わたしたちの生活に必要なあらゆるものを組み立ててくれた。


 ねえさんは、そんな父の様子に敏感になっていたようで、夜食を作る手もぎこちなかった。ただ、父の部屋へ夜食を運び終えると、決まってうれしそうだった。なにか父に言われたのかもしれない。ねえさんは父になにかするときは笑顔だ。


 そんな父が、唯一わたしにくれたものがある。


 小さな机だ。


 今も部屋のすみに置いてある。ひざを曲げて座るとちょうどいい高さで、幅は手先から肘までしかない。引き出しも付いていない。廃材を組み合わせただけみたいで、表面はすすけて灰色だった。


 机をもらったのは、今ぐらいの時期だった。父が、突然わたしの部屋へやってきて、この机を置いた。そして、なにも言わずに部屋を出て行こうとしたので、わたしは急いで、手近にあった紙に「これはなに?」と書く。


「机だ」と父はすぐに答えた。


 いくら子どもでも、そんなわかりきったことを真面目な顔で答えられて腹が立った。


「もう、わたしは机を持ってるよ」と紙に書いた。それは、ねえさんのおさがりだったけれど、材質もいいし、木目も美しい、椅子も付いている。


「いらなければ捨てろ」と言って部屋を出ていった。そして、もう顔を出すことはなかった。


 よくわからない。


 別にほしいと言った覚えもないのに、どうして突然こんなものを作ったんだろう。もしかして、本当はなにか別のことに使うつもりだったけれど、失敗してわたしに押し付けたんだろうか。


 その机は、今もわたしの部屋のすみでほこりをかぶっている。


 花を置いたこともあったけれど、ベッドの影に隠れてしまうし、高さが微妙なので役に立たなかった。あの机でずっと文字を書いていると疲れてしまう。


 その机は、クルミの木でできていた。



8.Trifolium repens



 わたしは夏が嫌いだ。


 汗をかいた体にへばりつく服も、無神経に熱を発する太陽も。


 身支度を整えて外へ出ると、案の定、逃げ場のない気分の悪さが続く。わたしはいつも通り沼へ行く。足元の草は伸びている。そのなかにシロツメクサがあった。


 そういえば、昔、ねえさんに花の冠を作ってもらったことがある。ねえさんは細かい作業が好きなので、料理はもちろん、その他にも、刺繍や、編みものなど、手先を使うものがうまい。


「さあ、できた」と言って、ねえさんはわたしの頭に白い冠をのせる。編みこんだ部分も頑丈で、形も整っている。とてもきれいな円だった。


 わたしは少し困りながら、自分の頭にのったものを触ろうとする。


「この世界でいちばんそれが似合うのはあなたよ」ねえさんは晴れやかな笑顔で言う。


 わたしは照れ臭くなって、どんな表情をすればいいのかわからない。第一、わたしはこの世界のことを、ねえさんと父と、そして、沼とその周りの木々や草花のことしか知らない。いちばん似合うなんて言われても、目の前には少なくとも自分より美しい人がいるのだから、からかわれているような気持ちになる。


 わたしは笑って礼をした。でも、似合っていることを認めたように思われただろう。そんなことを気にしていた。


 森の奥からはねえさんの歌声が聞こえる。


 わたしは、木の影に座って、沼に足をつける。両手を地面につけて体を支える。上を向けば、太陽の光が空を照らしていた。雲はゆっくりと動いている。形はどれも異なり、大きなものはとにかく大きいし、細かい雲の切れ端が、他の雲に吸い込まれ、光に消える。空は青々としているが、その色が水面に映ることはない。


 わたしは、摘んだばかりのシロツメクサを膝の上に載せ、自分で編みはじめる。茎を爪で引っかくと青い汁が出てきた。シロツメクサの茎は扱いづらい。


 作り上げた冠は、不格好でほとんど花も落ちていた。


 ねえさんのようにはうまくいかないと思う。


 そうして 、わたしは自分で作った花の冠を頭の上にかかげ、沼へ放り投げた。


なんの音もしなかった。



9.Iris laevigata



 夏は深まり、日に日に暑さは増していた。寝苦しい夜が続く。何度も寝返りをうち、夜中に目を覚ました。


 すると、知らない間に、右手の指先に発疹ができていた。起きがけにあまりにかゆくてたまらないのでなんだろうと思ったら、指先が赤茶けて腫れていた。ついかきむしってしまい、中指から血が出た。水に手をつけて、冷えるのを待つ。タイルの上を赤く濁った水が流れ排水溝に吸い込まれていく。冷やすと少しだけかゆみはおさまった。目を閉じて、ため息をつく。できればこのままずっと水につけていたいと思う。


 すると、土間の方からねえさんがこちらへ顔を出した。どうしたのと聞かれたので、なんでもないという意味で首を振る。この程度の痛みを伝えて心配させてはいけないと思う。血の止まらない指を引っ込めて、たまたま手近にあった皿を洗うふりをする。ねえさんは首を傾げながら、わたしの後ろで朝食の準備をはじめる。こちらをうかがう目を気にしながら、しばらく皿を洗うふりを続け、わたしは土間へ逃げた。


 外へ出て、さあ、どこへ行こうと思う。沼へ行ったら、ねえさんが来るかもしれない。


 かといって、あの青い小屋へ行くのも気が引けた。外にいるよりも暑いだろう。


 やがて少しひらけたところに出た。そこは、一際光の注ぐ場所で、太い樹木が枝を広げている。


 光のあふれるちょうど真ん中に、切り株があった。


 雑草に包まれ木目のはじにはキノコが生えている。


 切り口は新しく、せいぜい二、三年前だろう。こんな森の奥へ人が来るとも思えないので、たぶん、父が切ったのだと思う。それにしても、こんな太い木を一人で切れるんだろうか。


 わたしは、そんな切り株に触ろうとして、自分の指が怪我をしていることを思い出す。血は止まっていなかった。


 切り株のそばには、花が咲いている。


 カキツバタだ。


 あたりは朝に向けて動き出している。


 東の空がぼんやりと明るい。



10.Mimollet



 夏が過ぎると、秋がきて、すぐ冬になった。その間も、毎月男がくるたびに豪勢な食事が作られ、毎週日曜日には森の陰の小屋で祈った。幸い指先の湿疹はなくなったが、今度は偏頭痛がした。


 わたしは子どもで、まだなんの仕事も請け負っていない。ただ、寝て起きて、ねえさんの作ったごはんを食べる。ときどき散歩へ出かけて、花を見て、大きな木の下で涼み、沼の水に足をつけて少しだけ眠る。雨が降ればなにもしない。


 この毎日は永遠に続くものだとわたしは考えていた。わたしの体は小さく、骨ばかりで肉がない。風呂に入って体を洗うとき、骨の浮き上がったところをこすると痛い。だから垢がたまって汚くなる。それを丁寧に落とそうとすると時間がかかる。


 こうやってなにかを諦めるのは、いけないことだと思う。どうしていけないのか。きっと、ねえさんなら説明できると思うけれど、わたしにはわからない。でも、なんとなく、面倒だといって色々なことをやらないでいると、だんだん体が腐っていく。別に、やらなくても済むことだけど、やらないと、どんどん汚れていく。汚れたからといって死ぬわけではない。でも、死なないだけだ。


 わたしは、きれいなふとんの中で死ぬことを考える。死ぬ、というのはどんな感じだろう。死んだことのある父さんに聞いてみたいけれど、死んでしまったので聞くことはできない。わたしが想像する死ぬというのは、すごく寒くて静かな場所へ行くこと。腹の立つことも、悲しいことも、こうやって考えていること自体が、ふわふわぐるぐるまわって消えてしまう。ものがふっと消えてなくなるなんてことは起こらないので、それは頭のなかのできごとだ。


 でも、たとえば庭の花だって、冬になったら枯れて、土の上に落ちている。決して消えない。


 そういえば、ねえさんが窓際に飾ったバラもすっかり枯れてしまった。葉も花も区別がつかないほど茶色になって、触れば形が崩れてしまいそうだ。


 庭の花たちも、すっかり首を落としてどれがどの花なのかわからない。


 あれは死んでいるのかな。

 でも、春になれば同じ花が咲く。


 もしかして、死ぬというのはふつうのことなんだろうか。


 父さんが死んだのも、ふつうのことなんだろうか。


 春になっても同じものが生まれないというだけで。



11.Favismo



 ねえさんが風邪をひいた。外は雪が降っている。


 わたしはねえさんのおでこを、ぬらしたタオルで冷やそうとしたけれどすぐにぬるくなってしまうので、雪を集めてこようと思った。外は、綿のような雪が降り続け、白一色でものの輪郭を鈍らせる。


 ぶ厚い毛布をかぶって玄関から出ると、冷たい風が胸のあたりへ吹きこんできた。髪の毛に真っ白な粒がくっつく。身をちぢめて、せまい歩幅で前進する。ざくざくと雪を踏む音だけが鳴る。すこし家から離れると、わたしは持ってきたバケツで雪をかき集める。生身の手は、雪に触れると冷たいし、爪の間が痛い。雪は上の方はやわらかくても下の方は氷のように固くなっていた。


 バケツの半分くらいまで雪をつめて家へ運ぶ。重たくてふらふらしてしまう。玄関の前でいったんバケツを置いて、体で扉を支えながら中へ入る。風が吹き込むのを遮って、扉の内側で息をついた。


 ストーブが音を立てる部屋で、ベッドに横たわるねえさんのおでこにハンカチでくるんだ雪を置く。マキは秋のうちに用意していた。ねえさんが、ううんとうなって頭を動かすので、落ちないようにおさえる。ねえさんの顔は真っ赤になって、閉じたまぶたにくっきりと刻まれた二重のシワ、紫がかった唇がかすかに動くたび、わたしは心配になった。


 もしも、このままねえさんが死んでしまったらどうしよう。わたしはひとりぼっちになってしまう。こんな深い森の奥でいったいどうやって生きていけばいいのだろう。ごはんなんて作れないし、家具も作れない、裁縫もできないし、こうやって、人が病気になったときにもどうすればいいのかわからない。こんな状態で生きていくなんてきっと無理だ。今までわたしが生きてこられたのはねえさんの力だとあらためて思う。


わたしはなにもできない子どもで、ひとりでは死ぬことしかできない。


 すこしだけいやな気持ちがよぎった。浮かんだ瞬間にかき消すように胸をかきむしった。手首が変な風に曲がる。そんなことを考えてはいけない、と強く思う。そんなことを考えてどうする。


 ふいにわたしはあることを思い出した。急いで台所へ行って鍋に水を張り火にかけた。背の届く範囲の戸棚をひっかき回して、手当り次第に袋をあさる。なかには白い粉や、パン粉が入っていた。そのなかでようやく見つけたのは緑色の豆だった。わたしはそれを手でつかみ入れると、がさっと鍋にぶちこむ。湯がはねて顔に当たった。ぐつぐつと煮えたぎる湯のなかで、豆は踊るように跳ねていた。


 ずいぶん前、父がひどい熱を出した時、ねえさんがこうやって豆を煮たものを食べさせていた記憶があった。わたしもねえさんに同じことをしよう。ねえさんは、父が死ぬ間際にもよくこうしていた。父のために料理をしているときのねえさんは、こわくて近づけなかった。


 煮えたぎる湯のなかで、豆はずっと動き続けていた。顔に蒸気が当たる。体の他の部分は寒いけれど、顔だけは熱かった。


 わたしはその時はじめて、神さまへ祈ることを思いついた。


 ああ、神さま。


 早くねえさんをよくしてください。


 そのためならわたしはどうなってもいいです。



12.Phragmites australis



 ねえさんはいっこうによくならなかった。むしろ、悪くなっているようだ。わたしは毎日、おでこのタオルをかえ、緑色の豆を煮て、それをねえさんへ食べさせた。手際がよくなると、豆は確実に減っていく。なくなってしまうのがこわかった。


 それから、わたしは日曜日以外もあの青色の小屋へ行くようになった。毛布を頭からかぶって、雪を踏みしめ、家のふちをなぞって裏へむかう。一度、足をすべらせて転んだことがあった。幸い、雪のおかげで大きな怪我はせずに済んだけれど、地面から飛び出していたアシの茎に足首をひっかかれて、まっすぐな傷ができた。血が雪の上に落ちてきれいな染みをつくる。それを靴で踏みしめて小屋へ入ったが、けがのせいでひざを折るのが痛かった。何時間も頭を地面につけて同じ姿勢で祈っていた。


 神さま早くねえさんをよくしてください。


 祈ることはそれだけ。今までの生活を返してほしい。雪が降り積もって、廃材でできた小屋の屋根はきしんでいる。


 外が真っ暗になったころ、ズキズキと痛む足を引きずるようにして家へ帰った。肌が青色になっていた。祈っている間はぜんぜん感じなかったのに、急に悪寒を感じて歯が音を立てた。


 ねえさんの部屋へたどり着いたときにはすっかり疲れきっていた。ねえさんは細い体をベッドに横たえて、薄く口を開けて呼吸をしている。目は半分しか閉じていないし、まるっきり父が死んでいるときと同じ顔だった。


 咳をするたびに、ベッドが叫び声を出す。そのベッドももちろん父が作ったものだ。寝転がるねえさんの身長をはかって、このくらいは伸びてほしいと言って父が作った。父の予想は当たらなかった。


 赤ん坊のような格好でねえさんは眠っている。吐息がつまって苦しそうになる。わたしはひざを抱えて、そばで座っていた。


 ふと、ねえさんが目を覚ます。薄く目を開いて、こちらを見た。わたしは祈りが通じたと思い、跳びはねるほど嬉しくなった。声をかけ、そばへ駆け寄る。足の痛みもおかまいなしに。


 すると、ねえさんは頭を前後に揺らし、荒い呼吸を繰り返し、とろけるような目でわたしの全身をくまなく眺めおろして言った。


「ねえ、けがしてるわ」



13.Cattleya



 まったく神さまなんて信用ならない!


 わたしは怒りのままむちゃくちゃに家のものを壊した。父の作った家具を引き倒し、毛布を投げ捨てた。


 ねえさんはいっこうによくならなかった。悪くなる一方だ。この前、とうとう血を吐いた。いつも以上に激しい咳をして、口のはしから血がたれていた。わたしはどうしたらいいのかわからずぐちゃぐちゃの髪で小屋へ急いだ。神さま神さま神さま。どうかどうかどうか。口が裂けるほど開いて祈った。ひざを折って、両手をつなぎ合わせ、頭を地面にすりつけて、何度も何度も祈った。神さま神さま神さま。どうかどうかどうか。祈り続ける。


 そのとき、開かないはずの小屋の扉が開いた。振りかえると、男が立っていた。足のような腕を胸の前で組んでいる。殺した動物をそのまま羽織っているような上着を着ていた。


「家のなかはむちゃくちゃ、ボロ布みたいな女は倒れて、おまえはこんなところでなにをしてるんだ」


 男の声は野太く、土の底から響くようだった。わたしは口を開き目を見開いて男をしっかりと見た。口のなかが乾く。男の大きな腹を見ながら、何を食べたらこんなにふくれるんだろうと思う。


「約束のものは持ってきた。ところが女は死にかけている。はるばるやってきたおれはいったいどうすればいい」


 男は眉をひそめて腕で扉を叩きつけた。腐りかけた扉をあんな風にあつかったら壊れてしまう。


「汚いボロ小屋だ」


 男はわたしに近づいて片方の眉だけをつり上げた。顎は毛むくじゃらで熊みたいだ。ねえさんは病気だと、わたしは男に右手を引っ張りあげられながら伝える。腕がちぎれそう。すごい力だ。抵抗できなかった。


 その時、男はニヤリと笑った。こわいと思った。


「病気だって、そいつぁ気の毒だ。こんな森の奥で、病気なんかになっちまったら進む道はひとつ。決まりきった順序がある。せっかく約束のものを持ってきてやったのに残念だが、もうおしまいだ」


 男はおおげさに両手を振りあげてニコニコと声を張り上げた。まるで地獄の番人のように笑いながら、体を大きく揺らす。わたしは男に放り投げられるかたちで地面に体を倒す。おしまいだ、という言葉が何度も頭のなかをよぎった。


「小さなおまえ、おい、いいことを教えてやろう。大事なことだからしっかり聞け。病気は治る。ぜんぶじゃないが、治る病気がある。決まりきった順序を壊すんだ。教えてやろうか。知りたいだろう」


 男は心の底から楽しそうだった。わたしは地面に顔をつけながら男の歯茎を下から眺めていた。男はわたしに顔を近づけてきた。息に熱がある。上の歯と下の歯との間に唾液が糸を引く。


「薬がある」と男は言った。


 わたしは聞こえてくる声を遮ることができなかった。


「薬があれば、死にかけの女もすっかりよくなる。そうすりゃおれも肉を運んできたかいがある。女がよくなり、小さなおまえは大喜び。肉でも焼いてお祝いでもするといい。みんなしやわせになれる」


 男の口にした「しやわせ」という言葉がおかしかった。知らない間にわたしは笑っていて、それを男は承諾だととったようで、楽しそうに笑った。


「おれは心が広い。大きくなくてもかまいやしない」


 そういうと、男は服を脱ぎはじめた。


 こんなに寒いのにおかしいなと思う。


どうして服を脱ぐんだろう。



14.Circumcision



 ねえさんはよく歌をうたっていた。その歌は、本当はもっとたくさんの人間で歌うもののようで、ひとりだと音が足らない部分が多くあった。わたしはそれをよく沼のそばで聞いていた。ナラの木の下で膝を抱えて、木陰は涼しく、風がそよぐたびに安心できた。


 ねえさんの歌声はきれいだ。


 わたしは歌うことができない。


 小さいころ、わたしはねえさんにひとつ尋ねたことがある。紙とペンを使って。わたしはそれらをいつも持ち歩いていた。


「神さまは笑うの」わたしの質問をねえさんが声に出す。


 白いワンピースに身を包んだうつくしいねえさんは、わたしのそばへ腰を下ろすと、妖精のように首をかしげた。身長が高く、手足が長くしなやかで、肌は透き通り、同じものでできた体とは思えない。ねえさんはいつも微笑んでいた。その表情のまま生まれてきたようだった。


「どうしてそんなこと思うの?」ねえさんは低い声で、わたしの顔をのぞきこむ。前に、顔を洗っていないことをからかわれたことがある。


「だって、神さまは、目が、ないん、でしょう」とねえさんはわたしの書いた言葉を、とぎれとぎれに読み上げる。なんだかとても苦しそうだった。肺がつまったように、顔中の皮膚を引き寄せるようにして顔を歪ませる。そうして、ねえさんはまたこわいねえさんになってしまった。


「神さまが笑うか、ですって!」声が張り上げられる。その声量は甚大で、森中に響き渡るようだった。「困った子! まるで悪魔のようなことをきくのね。神さまが笑うかですって。ああ、こわい。父さんが聞いたらなんて言うかしら。きっと悲しむに違いないわ!」


 ねえさんは残念そうな顔で眉をしかめて何度も首を振った。口は苦いものでも吐き出すように変形している。わたしは申し訳ない気持ちがあふれた。でも、一体なにを謝ればいいのか検討もつかず、困って下を向いた。


「あなたに教えなければいけないことがあるわ。とても大事なことよ」


 ねえさんの迫力はすさまじく、逃げ出したくなるほどこわかった。わたしはもしかしてとんでもないことを言ったのかもしれない。わたしにはそういう無神経なところがある。無礼で、人のことを思いやらないところがある。ねえさんがそう言ったのだから、間違いない。


「ああ、きっと、わたしがきちんと教えなかったからいけないのね。わたしも罰せられるべきだわ。このままでは父さんに申し訳が立たない」


 ねえさんはあせっているようだった。感情の昂りに急き立てられるように首を振る。長い髪がそのたびに揺れ動き、絹のようにうやうやしく揺れていた。


「さあ、ちょっと、こっちへ来てちょうだい。あなたに大事な仕事があるわ。さあ、早く!」


 ねえさんは細い腕のどこにそんな力を隠していたのか、わたしを引きずりあげるように歩き出す。


 その足は、あの青い屋根の小屋へ向かっていた。


 途中、ねえさんは家からちいさなナイフを持ってきた。


 わたしはなにかいやなことが起こるような気がして、胸がどきどきしていた。



15.Planting a cutting



 男が帰ってから、また体が痛くなった。涙が出る。


 でも、こんなものはねえさんの痛みにくらべればたいしたことはない。布団のなかで血を吐いて苦しむねえさんの横顔は青白く、つらそうだ。


 台所にあった緑色の豆はとうとう切れてしまった。からっぽになった紙袋を手であさる。がさがさと音だけが鳴る。他の戸棚もくまなく探したが、なにも出てこなかった。


 そうして、わたしがすがることができるのは男が残していった薬だけになった。それは、透明なビンに入った青色に近い紫色の液体で、かたむけるとハチミツみたいにゆっくり動く。はじめはこんなものをねえさんに飲ませるのは気がひけたけれど、緑色の豆をなくしたわたしにできることは、おでこのタオルをかえることと、それだけだった。


 透明なビンに入った紫色の液体をねえさんの口にそっとたらす。それはクモのように糸を引く。液体はしばらく口のなかにわだかまる。ねえさんは顔をしかめてのどを動かす。ゲホゲホとむせるので、背中をなでた。口づけをしたらねえさんの苦しみがわたしへ移ればいいのにとまるで夢のようなことを思う。なんとか、わたしへ痛みをわけてほしいと思う。どうかよくなりますように。


 そうだまたあそこへ行こう。


 祈るんだ。


 そうすれば、神さまが きっとよくしてくれる。


 でも、と思う。


 父は?


 ねえさんがあんなに祈ったのに、父がよくなることはついになかった。おかしいじゃないか。神さまがいるのであれば、どうして顔を出さない。目のない顔。ねえさんの言葉を思い出す。どうして神さまには目がないんだろう。だれかにとられてしまったのか、それとももともと目がないのか。それでは世界を作ることなんてできないじゃないか。目のない顔に見つめられることを考えるとこわい。ないものがある、というのは、薄気味悪い。


 一瞬、父の顔がよぎる。わたしが生まれてから会ったことのある男の人はふたりしかいない。ひとりは父、もう一人は車でやってくる毛むくじゃらの男だ。あとは、本で読んだ想像上の人間ばかり。


 神さまはどんな顔をしているんだろう。


 人間のように怒ったり、泣いたり、笑ったりはしないのかな。


 もしそうなら、楽しくないだろうなと思う。


 きっと、こんなことをねえさんに言ったら、また怒られてしまうだろう。わたしは、わたしがまだ小さかったころにねえさんにしてもらったことを思い出しかけて、急いでやめた。


 お腹をおさえて、顔をふせる。


 ちっとも眠くならなかった。



16.Flour



 やがて、ねえさんは毎日うめき声をあげるようになった。それは決まって夜で、昼は静かに眠っていても、夜になると声をあげる。うう、という細切れの音と、短く息を吸う音が交互に聞こえてくる。長い間ベッドに横になっているので、床ずれもするようになった。背中をさすろうにも、ひどく赤切れていて、触るに触れない。黒ずんだ顔をあたたかいタオルで拭いても、やせ細った体までは拭くことができない。


 ねえさんがうめき声をあげるときは、なるべくそばにいるようにした。でも、ずっと耳元で声を聞いているのはつらいと感じることがある。あんなにきれいだった髪も抜け落ちて、薄くなった頭をそっとなぜる。ごめんなさい、と口を動かす。


 なにもできなくてごめんなさい。


 神さま、ねえさんが元気になることを望めないのであれば、せめて今日だけはいい夢を。父とねえさんとわたしで暮らしていた春のようなあのころの。


 でも、わたしの神さまへの不信感は日増しに強くなるばかりだった。神さまは本当にいるんだろうか。いや、いてもいなくてもどうでもいい。わたしにとって、神さまは願いを叶えてくれるとても都合のよい存在であって、実際に人間のように生きていようが、化け物であろうが、どうだっていい。ねえさんを救ってさえくれればそれでいい。


 わたしはいつものように小屋でひざまずいて必死で祈りながら、もう目のない顔におびえることはないと強く思った。


 次の日に、また男は来るだろう。薬を持ってきてやるとは言っていたけれど、持ってくるとは思えない。なんだって男の気分次第だ。


 地面は冷たく、体重をかけるとひざに小石が当たって痛い。かまうものかとわたしは祈り続けた。両手を握りしめて。


 知らない間に、わたしの腕もねえさんのようにやせ細り、枝のようになっていた。手の甲にすり傷があるけれど、どこで付けたのか記憶にない。かさぶたが剥がれて血がにじんでいた。肌はガサガサで、木の皮みたいだった。


 急に自分の体が不気味に思えたので、目を固く閉じて、ねえさんの元気な姿を思い描く。


 今、ねえさんは、髪が抜け、肌はガサガサで、手足は枝のようにやせ細り、瞳は濁っている。これが病気の力だ。


 それでも、頭のかたすみで声がする。


 何度眠ったかもうわからない夜を過ごして、わたしは下を向いたまま家路をたどった。台所に、前に男が置いていった食べもののカスがほんの少しだけ残っている。それは固くなったパンで、そのままでは食べられないほど乾燥していた。わたしは鍋でお湯を沸かし、立ちのぼる蒸気にパンをかざした。骨に皮が張り付いたような指が熱で赤くなっていく。こんなに筋肉がなくなっても、血が通っているのだな、と思う。


 ねえさんの部屋へ行き、蒸気で少しだけやわらかくなったパンのかけらをねえさんの口へ運んだ。ねえさんはなかなかパンを食べようとはしなかった。薄く開いた口からよだれが垂れ、かすれるような息がもれる。


 わたしは、パンを自分の口へふくんだ。わたしの口は渇いている。しかし、口にふくんでしばらくするとパンの形は崩れて、やわらくなった。わたしはそれをねえさんの口へ運び入れる。木の皮のようになった唇の隙間へパンを差し込む。少しだけ隙間が開くと、ようやく、ねえさんののどが上下するのを見届けた。


 そのあと、沸かしたお湯が人肌になるまで待って、ねえさんの口へ流し入れた。


 夜はふけて、窓は黒く染みいる。冬の夜はなんの音も聞こえない。生きものはみんな死んだようでいて、息をひそめて月から隠れている。


 長かった冬も過ぎ、やがて春がくる。


 ねえさんのいない春が。



17.Candy



 わたしはあることを思いついて、車の音を待った。ねえさんの部屋のすみで丸くなり、窓から入る光に目を細めながらじっと庭を見ていた。


 雪が降り、枯れた枝木に春の予兆が現れる。庭の花たちもそのうちつぼみを付けるだろう。


 その時、待ちかまえていた音がした。耳をつんざくように激しい、普段の生活のなかで決して聞くことのない、どんな動物の鳴き声よりも一方的な音。


 男が車のドアを開けて出てきた。こちらを見上げたような気がした。熊のように大きな体はよりいっそう大きくなっているように錯覚する。一体、あのお腹の中にはなにがおさまっているんだろう。子どもなら、簡単にひとりくらい入ることができそうだ。毛むくじゃらの顔に隠れた鋭い目が、わたしたちの家をにらんでいた。そこにいるのはわかっている、とうったえるように。


 わたしはねえさんの体をなぜて、部屋を出る。ねえさんは静かだった。前のようにうめき声をあげることもなくなった。ただ、寝返りもうたずに浅い息を繰り返している。閉じられたままのまぶたのはしに、たくさん目やにがついていた。


「遅いぞ」と男が低い声を出す。


 わたしは毛布をかぶって玄関の前に立った。ぼうっと男を見つめる。なんだか、頭が痛いし目の前の景色がみんなかすんで見える。


 背中を丸めたまま男へ近づく。男は汚いものを見るように顔をゆがめていた。その通り、わたしの体は臭いを発していた。


 すがりつくようにわたしは男の体へ飛びこむ。声の出ないのどをふるわせて、薬と繰り返した。男の革のベストを両手でつかみ、口を大きく開けはなって息を吐き出す。男はひるむようにあとずさりしたが、わたしは逃さなかった。


「えっちらおっちら森の奥まできたのに、くたびれもうけだ。あっちへいけ汚らしい。早く死んじまえ。おまえのねえさんは日を置かずに死ぬだろう。必ず死ぬ。おれが渡したのは、ただの水だ。薬なんかじゃない」


 男の言葉を聞いたとき、わたしはむしろ、ほっとした。あれは薬じゃなかった。どうりでねえさんはいっこうによくならなかったのだ。わたしの祈りが足らなかったわけではなかった。神さまにそっぽをむかれたわけでもなさそうだ。


 安心すると同時に、とてつもない怒りが体中をめぐった。目が回るほどの強い怒りで、わたしが声を出せたら、きっと森中に聞こえるような叫び声をあげていただろう。わたしは、男の体に噛みつき、長い爪でひっかいた。男は動物のような声をあげて後ろに飛びのく。わたしは攻撃をくり返した。男が車に乗って逃げようとするだろうと考えていたので、車のドアからはなれるように引き寄せた。


「いいかげんにしろ。おれは荷物を運んでやっただけだ。感謝されても、どうしてこんな仕打ちを受けなければならない。おれはなんにも悪くない。なんにも得しない。なんにもなしだ。まったくなしだ。いったい、どういうことだよ、なあ、神さま」


 そのとき、わたしは耳の内側でキンという高い音が鳴るのを聞いた。


 息をするのも忘れてしまう。


 ああ、そうか。


 男にも神さまがいるんだ。


 神さまはわたしたちだけのものではない。


 そうしてわたしは、目を見開いて男の体にむかって倒れこんだ。男は身を縮めてよけた。わたしの体をはね飛ばして、車に飛び乗った。間髪いれずにエンジンをかけると、音を立てて走り去った。

わたしの足を踏んで。


 痛くてわたしは体を反らせて声を上げようとした。でも、声は出ない。火のような息だけが漏れる。足からも火が出ているようだった。痛み、というのはすべての意識を引き寄せるようだ。体が痙攣し、なんとかこの痛みから逃げようともがいた。


 けれど、二本の腕で地面をかきまわしても、進む距離はたかが知れていて。虫のように土の上を這いずることしかできない。口のなかに小石が入る。両手をバタつかせる。


 家の扉が、空に浮かぶ月に思えた。


18.Risotto


 わたしはたぶん死ぬんだろうな、と思った。


 男が去ってから、いつものように夜はやってきて、森を暗くかすませ、見慣れたものの実態をつかめないものに変化させる。


 わたしは、這いずったまま両腕で進むのも疲れて、じんじんと響くように痛む足から他のものへ気をそらせようと必死だった。はじめは目に見えるものに集中しようとしたけれど、暗くなるとそれも叶わなかった。


 まだ小さかったころ、なにも知らなかったころ、ねえさんといっしょに森のなかへ散歩に出かけたことがある。父は工房にこもってずっとなにか作っていた。わたしたちはふたりで手をつなぎ、花を摘んでうちへ帰った。なんのことはない日常だった。花は、テーブルの上に飾られ、翌日にはみすぼらしく枯れていた。枯れてしまった花を、ねえさんは表情ひとつ変えずに捨てていた。摘んでしまった花の寿命は驚くほど短い。地面に生えている間は、あんなに色鮮やかで生き生きとしているのに。土から離れれば死ぬだけだ。


 どれくらいの時間が過ぎただろう。足の痛みはまったく引かず、むしろ鋭くなっていて、わたしは息をするだけで精一杯だった。思い出せる記憶の数も限られている。


 そういえば、こんな気持ちになったのは、はじめてじゃない。それは、そう。わたしがねえさんの神さまをおとしめた日だ。


 神さまは笑うのか。そう問いかけたあの日、わたしはねえさんを怒らせて、引きずられるように小屋へ連れていかれた。そこであったことを思い出すのはいやだ。海に叩き落とされるような薄気味悪さがある。わたしは海を知らない。わたしの知っている海は、ただ、物語のなかにたたずむ巨大な沼だ。


 あのとてもこわかった日から、わたしはじっと痛みに耐えて、何日も眠れなかった。でも、あのときはよかった。すぐそばでねえさんが看病をしてくれたから。温かいおかゆを炊いて、息を吹きかけ口に運んでくれた。そう、今、わたしがねえさんへしているようなことをねえさんがしてくれた。あのときは緑色の豆はなかったけれど。たぶん、あれは病気にだけ効くものなんだ。怪我の痛みには通じない。看病してくれるねえさんの顔はやさしかった。


「この痛みを忘れないでね」とねえさんは言った。


 どうして? と尋ねることはできなかった。疑問が浮かんだ。いったい、なんのためにこんな痛い思いをしなければならないのか。その説明をまるでせずに、忘れないでなんて身勝手だと思えた。


「ほら」


 ねえさんはおだやかな口調で言う。わたしは、何が?


と思う。のどが使い物になれば口にしていた。


なんのために? ねえさんの言っていることはまるで分からない!


結局、わたしはあんな痛みを負ったのに、今、またそれよりも大きな痛みに耐えなければならない。


だったら、あの最初の痛みなんてなければよかったじゃないか。神さまとやらがいるのであれば、説明してほしい。わたしがいったいなにをしたというんだ。ただ、一生懸命祈ったのに。


 足が痛くてたまらない。このままずっと痛いのであれば、いっそ切り落としてやろうか。でも、切り落としたって、痛みが消えるわけではない。それは、あのこわかった日に学んでいる。


 痛みは、痛みのまま体に留まり続け、時間と比例して、疲労をうながす。痛みを切り離せばもっとすさまじい痛みが待っているだけだ。涙ばかり出て、嫌でも思い知らされる。


 痛い。


助けての意味を知らない。



19.See



 わたしはねえさんのベッドの下で、うずくまって床のにおいをかいでいた。自分の吐き出した息がすぐにはね返ってくるけれど、わたしはよけることもできず、呼吸だけが許されていた。体を震わせるだけでもすさまじい痛みに襲われた。ようやくたどりついたねえさんのベッドの下で息をひそめることにした。


 お腹が減ったとか、そういった感覚は、ぜんぶ痛みに持っていかれたようで、まるで痛みに遠慮するように呼吸していた。ねえさんからはなんの音もしなかった。ひょっとして、もう死んでしまったのか。けれど、確かめられない。腕の力だけで起き上がろうとしても、その場に倒れこんでしまう。あごをしたたかに打って、 なにもかもあきらめる。


 自分の呼吸だけが響く部屋で、差し込む昼の日を受けて家具がそびえたつ。夜がくるのを待っても、男はもうこないだろう。神さまだって降りてきやしない。


 わたしの声の出ない口は、それでもずっと動いていた。


 「どうか」


 その先に、どんな言葉をつむぐか考えず、ひたすら、どうか、と唱え続けた。今では痛みのなかったときがどんな風なのか思い出せない。


 もし痛みが消えて、再び歩き回ることができても、いったいなにをすればいいんだろう。わからない。ねえさんを治すことだろうか。でも、一番大きな願いはそうだ。帰りたい。父が生きていたころに。当たり前だったころに帰りたい。


 ひとつ、ひとつ、なんでもなかったことが、今では遠い光のなかにかすんで見える。自分の周りに当たり前のように存在したもの。わたしの幸せは、日に日に目減りしていくように思えた。だって、こんなにも足が痛く、ものを食べることさえできず、臭くなっていく体に鼻をゆがめて、息をするのも苦しい。ねえさんの顔を見ることもできない。時間が経ったら、そういった不満のうちのひとつでもなくなるだろうか。


さて、そうだとして、いったいわたしは、どこへいけばいいんだろう。泥だらけになって、気の遠くなるほど長い日々の果てに、礼拝所へ向かい、ずるむけになった腕で、さて、なにを祈ろう。


 わたしはなにを祈ればいいんだろう。


 歩けるようにしてください。昔のように、沼のふちを歩けるように、雨をよける足がほしい。でも、どこへ行けばいいのだろう。わたしはそれまでどうやって過ごしていたんだろう。あの輝かしい日々のなかに、おもしろいことはなかったはずだ。


「求めてはいけない」とねえさんは言った。


 神さまに求めてはいけない、という意味だ。


 では、神さまとやらは、なにをしているんだろう。


 見ているのかな。わたしたちを。


 口にしてもいけないって?


 歌だってうたってくれないくせに。



20.The dirtiest spring



 かすんでいく記憶のなかで、まるで春のような日を夢見ていた。


 悲しいとか、苦しいとか、痛いとか、そういった気持ちはなかった。むしろ落ち着いていて、目を開くのが億劫なくらいだった。やせ細った体が、床にこすりつけられて腐っていく。このまま床の下の地面まで、液体のようにとろけ落ちることを考える。わたしは地面に落ち、時間をかけてあの沼へそそぎこまれる。


「おいおまえ。死んでしまった小さなおまえ。腐った臭いを放ちながら、腹の液で床の色が変わっているぞ。抜けた髪が壁のすきまにつまっているぞ。なんて薄汚いんだ。その哀れみを乞う目をやめろ。どれほど飢えようと、足がちぎれたって、おれには関係がないんだ。苦しいのならひとりで苦しんでくれ。おれは約束のものをいただきにきただけ。約束は果たされるべきだからな。どうだ、なんにも間違っちゃいない。間違いがあるなら、どうか教えておくれ。おいおまえ、死んだら神さまに会えるぞ。おい、おまえ……」


 男は、わたしが死んだと思ったようだけれど、わたしはまだ生きていた。骨と皮の怪物みたいに、床にべったりくっついて、こんなに生きられるとは思っていなかったので驚きだ。また、見捨てられたと思った毛むくじゃらの男が、帰ってくるとも思わなかった。どうやら、男は何かを取りにきたようだったけれど、それがなにかはわからない。


「おい、おまえ。約束のものはもらったぞ。おれはここを去る。おれはおまえの父親に頼まれて今までせっせと食べ物を運んだだけだ。約束は果たした。しかし、おまえたちの方で、ひとつ約束をやぶられた。それはおまえ自身が一番よくわかっているはずだ。だから、おれは、おまえらからおれに役立つものをもらう。じゃあな、ちいさなおまえ。死んでも、なにもならないおまえ」


 床にはいつくばりながら、男の口から言葉が落ちてくるのをじっと聞いていた。カマキリのような忍耐強さで、わたしは男から吐き出されるありとあらゆる言葉に感情を持たないようにしていた。このままじっとしていよう。そうすれば、男は諦めて帰るだろう。このまま、この臭い部屋にいたって、男には一銭の得もない。案の定、バタンと扉が閉じて、家の外からあの大きな音が聞こえてくる。しばらくすると、部屋はまた静かになった。


 男が持って行ったものは、ねえさんの体だった。


 なんだか大きな布を開いてねえさんをすっぽり包むと、脇に抱えて出て行った。


 男が欲しがっていたものは、ねえさんの体だったのか。焦って、男を追いかけようとも思った。でも、もちろん体は動かないし、伐採した木を運ぶのと同じような手つきだった。生きた人間ではありえないほど体も曲がっていた。


 ねえさんは死んでしまったのだ、と思う。


 今まで確認できなかったけれど、今日、ねえさんが死んでしまったことを納得した。意外とすんなり受け入れられることができたのは、時間が経ったからだと思う。もう、ねえさんが話すことはないし、微笑むことも、歌うこともない。二度と動かなくなってしまった。父さんと同じように。


 そのとき、はじめてわたしは焦りを感じた。


 そうだ、ねえさんを父さんと同じようにしないと。


 あんな毛むくじゃらの男に連れていかれるのはかわいそうだ。たとえ死んでいても。


 ねえさんのいなくなった床は、冷たく静かで、自分以外のだれがいなくなっても、窓から入る光だけは信じられる、そう思えた。


 なんだか、急にねむくなってきた。


 ねえさんを取り返そう。



第二章 ほかのひと



1.Camellia japonica



「大きくなったらなにになりたい?」


 ある日、ねえさんが不思議なことを言った。


 ちょうど父が亡くなってから半年経ったころだった。


 父のいない生活にも慣れてきて、夜に泣くことも少なくなった。わたしが困って首をかしげると、目の前の顔はふわりと微笑み、もともと大きな瞳をもっと大きく丸くして、もう一度微笑んだ。


 大きくなったらなにになりたい?


 どういう意味だろう。どうしてその質問をわたしにするのだろう。どうして笑ったんだろう。たくさん疑問が浮かんだ。ねえさんは口元の笑みを壊すことなく、まばたきを二回する。


 わたしは、大きくなったって、この森のこの家に住んでいるだけで、森から出ることはないだろう。わたしにとって、ねえさんは唯一の人間で、わたしを知るのもねえさんだけ。だから、質問の意味がわからなかった。大きくなったって、わたしはねえさんの家族でしかない。

わたしがものごころついたころにはねえさんは台所でスープを作っていた。好きなように作るのではなく、きちんとわたしの好みも聞いてくれるので、なるべくたくさん野菜を使ってと言った。その通り、料理を器に盛る時は、必ず自分よりも多くの野菜を入れるようにしてくれた。


 思い出す限り、ねえさんが家のことをしていない姿なんて浮かばない。雨の日でも、雪の日でも、ねえさんはいつだって台所に立っていた。


 一度だけ、ねえさんがナイフで指を切ったことがある。夜中にふと目が覚めて水をとりにいったとき、ねえさんが水場で自分の左指を右手でおおって下を向いていた。声をかけると、左手の指の隙間から赤い血が出ていた。真っ赤な血は右手を伝い、水場のタイルに落ちる。わたしは入口に突っ立ってその様子を見ていたのだけど、力が抜けて持っていたコップを床に落としてしまった。


 高い音が響く。ねえさんはびくりと顔を上げると、こっちを見て表情を固めた。両手はそのままだ。


 「なにをしているの」ときかれた。わたしは声が出せないので、落ちたコップを指さす。その瞬間、コップを割ってしまったことを思い出す。すぐにしゃがんで割れた破片をつまんで拾いはじめる。その瞬間、ねえさんがすごい勢いで「やめなさい」と大声をあげた。わたしは固まる。指に破片のひとつが刺さっていた。ねえさんは自分の怪我を差し置いて、こちらへやってくると、わたしの指をつかんで自分の口に付けた。


「あとはやるからもう寝なさい」


 すっと立ち上がるとねえさんは水場へ戻った。そして、新しいコップに水をくむとわたしに渡してくれた。すぐにでも部屋へ帰らなければいけない。その場にい続けることはねえさんに失礼だと思った。もらった水はガラスを伝って、怪我の部分を冷やしてくれた。ねえさんは、自分の傷ついた手には見向きもせずに、後片付けをしていた。


 真っ暗な部屋へもどったわたしは、立ったままコップの水を飲みほした。


「大きくなったらなにになりたい?」


 そのとき、ねえさんの質問を思い出した。


 そうだ、大きくなったらお医者さんになろう。そうしたら、ねえさんの怪我を治すことができる。もしも、父のように病気になってしまっても、わたしがお医者さんであればたちまち治すことができるだろう。


 でも、と不安が浮かぶ


 いったい、どうやったらお医者さんになれるんだろう。


 検討もつかない。



2.Dianthus caryophyllus



 週に一度、祈りを終えるとわたしたちはそろって裏庭へ向かう。先のとがった葉がいろいろな方向へ茂っていて、当たると痛い。ねえさんが少し前を歩き、わたしはその長い黒髪が揺れるのを追いかける。一歩進むたびに距離は開く。それがわたしたちの足の長さの違いだ。


 やがて、森に切れ目が見える。足元はことごとく緑、太い木肌に手を付けて呼吸を整える。ねえさんが私に合わせて歩いても、体力がない。ねえさんは、何度も後ろを振り返って私の方を確認していた。


 突然、足元の草がなくなり土の地面が現れる。草はなく、目の荒い石が転がっている。


 木と、土と、石しかなかった。


 ひとつだけおかしなものがあった。倒れた木の上に置いてあった。椅子だ。雨風にさらされ背もたれがはげている。脚も安定せず、斜めに傾いている。


「汚いわ」


 ねえさんはそう言いながら椅子へ近づいて葉を落とす。丁寧な動きだった。なでるように払い落とす。葉は椅子の周りに放射状に広がる。ねえさんは持ってきた白い花を載せる。そっと。カーネーションだ。


 しばらくその場に立って、時間が経つのを待った。ねえさんはぼろぼろの椅子を見つめていた。父が死ぬ前に作った最後の椅子だ。父は、最後になるなんて思っていなかった。


 椅子の下に、椅子を作るために切られた木がある。切ったのはもちろん父だ。


「見て、こんなに大きい」とねえさんは木の前に立って言った。「こんなの切れないわ」


 その通りだと思う。わたしたちの非力な腕ではとても無理だ。父の使っていた道具が残っていても、たぶん無理だろう。


 木の周りに雑草が生えている。わたしたちが雑草と呼ぶ植物にも名前があることを教えてくれたのは父だ。


 まだ小さかったころ、父とねえさんと三人で沼のふもとを散歩したことがあった。父は両手を腰の後ろにすえて、ゆっくりと歩く。ときどき沼を覗いていた。わたしがもっぱら興味を持つのは、花やツタなど形のはっきりしたもので、見た目がきれいなものが多い。ねえさんは、キノコや薬草など食べられるものが気になるようで、たびたび持ってきたカゴに摘んでいた。そして、父が好むのはいつも雑草だった。葉の尖ったギョウギシバや、黄色い種をつけるオオバコ。どちらもちっともきれいではない。それでも、父は、そういった雑草を抜いたり切ったりするわけでもなく、慈しむように触っていた。


「こういったやつらは、どこまでがひとつなのかわからない」


 父は、沼のふちで成長するセイタカアワダチソウを振り仰ぎながら笑った。


「おれたちが一本だと思っているのを切っても、土の下には根がはびこり隣と繋がっている。その隣も、別のものと繋がり、時間をかけても一本を見極めることはできないだろう。火をつけても、こいつらの方が早い。5キロ先で花を付けるだろう。そうなると、一本、二本、なんていう、おれたちの使うみじめな数は役に立たない」珍しく父はたくさん話した。


 ずっと草を見ながら口だけを動かす父を、わたしはねえさんといっしょに黙って見つめる。父の声は低く、ゆっくりと、落ち着いている。息つぎもせず、まるで物語を読み聞かされているような気分になる。父が何を言いたいのかはよくわからなかった。雑草は数えられない、と言っているのかな。


「父さんは、花が好きじゃないの?」


 しばらく沼のほとりを三人で歩きながらねえさんが尋ねた。空は徐々に暮れはじめ、夕焼けが遠く見えた。


 父は、前を向いたまま答えた。


「大嫌いだね」


 躊躇のない返事だった。父は笑っていた。腰にすえた指には、いくつも切り傷がついている。古いものから、最近ついたものまで。


「どうして?」ねえさんは父に追いつこうとするように小走りをする。


「下品だ」


 答える父は沼の方を見ていた。私たちへ顔を向けようとしない。話を聞かせる気がないんじゃないかと思う。


 そんな父の剣幕に押されたのか、ねえさんはそれ以上質問することなく、下を向いてついていく。


 わたしはというと、二人の背中を見ながら、シロツメクサで冠を作っていた。前に、ねえさんに作ってもらったものを真似した。結ぼうとするときに、力を込め過ぎて緑色の汁が出た。上手にできない。不恰好になってしまう。汚い。


 それにしても、下品ってなんだろうと思う。どうして花が下品なのか。わたしは気になった。紙もペンもないのでわたしが人にものを尋ねる術はないので、できるだけ早く冠を作ろうと思った。上手に作れたら、父の気も変わるかもしれない。


 花はきれいだ。


 それを知ってほしい。



3.Dead or Alive



 父が亡くなる数週間前に、ねえさんも部屋に閉じこもることがいくらかあった。朝に顔を見せたと思ったら、ずっと部屋に閉じこもって姿を見せない。ただ、料理も洗濯も掃除も、すべて完璧にされている。朝食用と、昼食や夕食がそれぞれ用意されている。


 父はずっと眠っていたので、ねえさんがいないときは、わたしはひとりぼっちで一日を過ごした。沼の近くへ遊びに行ったりしたけれど、外は寒く、あまり長い時間はいられなかった。家に帰って、部屋のベッドで膝を抱えても、さみしくなる一方だった。わたしは、仕方がないので家のなかをうろついた。わけもなく扉を開けたり閉めて、廊下を飛びはねてみたり、子どものように遊んだ。動物でも飼っていれば、その世話をすればいい。でも、あいにくねえさんは動物が好きではなかった。


 家の中をうろつくのに飽きてしまったわたしは、ねえさんの部屋の前に近寄って、扉に耳をつけた。


 聞こえてきたのは泣き声だ。


 その時、わたしはなんだかとても申し訳なくなって、その場を去った。


 ねえさんは、今どんな気持ちなんだろう。わたしは、だんだん慣れてきていた。もちろん、三人で散歩をしたり、食事をしたことをときどき思い出すけれど、悲しい気持ちは特にない。ねえさんと二人だけの生活が続くだけだ。これから死ぬ父の服を洗濯するのは、死ぬ準備をしているようでもある。わたしは、もう諦めている。納得することと、受け入れることは別物だ。でも、諦めることをねえさんへ提案する気にはなれなかった。それに、わたしは人が死ぬのを本のなかでしか読んだことがない。


 わたしは子どもだ。


 ねえさんは、大人。


 そして父が好きだ。


 そう考えると、口のなかに山のような綿を詰め込まれる苦しさが湧く。


 ねえさんは父のことが好きなんだ。


 わたしがねえさんのことを好きなように。いや、もっと。もっとだ。


 どんどん苦しくなる。呼吸がしづらい。


 どうしてこんなに苦しいんだろう。


 わたしには、ねえさんを悲しませる父が憎いと思えた。正確には、父をあんな状態にさせる病気のことが。あれさえなければ、ねえさんは今日も台所で野菜を切っているだろう。二人で夕食を食べられたはずだ。


 ねえさんの笑顔が見たい。


 父には、できれば、早くはっきりしてほしい。



4.Hot water



 ある日、父が死んだ。


 苦しむ声をあげることもなく、ベッドの上で目をつむったまま、もう一度開くことはなかった。わたしは、ねえさんに言われて父が死んだことを知った。いつものように部屋で膝を抱えていたわたしを、ねえさんが呼んだので付いて行くと、父の口元に耳をつけて、顔をほとんど床と平行になるくらい傾けて、なにか確かめ、そして、はじめは大きく目を開け、磁石にくっつく砂鉄のように、硬く目を閉じた。眉を寄せて、頬にはシワが寄り、体がふらついたので心配になったけれど、なんとか持ちこたえて、ねえさんはそのままその場に座り込んだ。両手で顔を覆って下を向き、父の頭がある場所にうずくまるようにして声を上げた。これまでに聞いたことのない声だった。叫び声だった。


 わたしは、扉に背中を預けて突っ立っていた。なにをすればいいかわからなかった。ただ、ねえさんを慰めたかった。でも、あんなに泣いているのに、「泣かないで」と言うのはバカみたいだし、「元気を出して」なんて乱暴だ。


 そういえば、「いつもあなたは下を向いている」とねえさんに笑われたことがある。意識したことがなかったので、ねえさんに指摘されて気づいた。わたしは、よく言葉に詰まると下を向く。そうすると、他人事のように自分のことを考えられて、楽になれる。嫌なことは考えたくないし、見たくないし、考えても仕方がない。子どものわたしが悩んで解決するような問題なら初めから起こったりはしない。「下を向くと気持ちが暗くなる」と言っていたけれど、楽しくないのだとしたら、上を向いていようと下を向いていようと変わらない。むしろ、上を向いた方が見たくないものを見なければならず、つらくなってしまう。考えても仕方のないことであれば、いっそないことのようにしてしまえば。たとえ、そうしたことでさらに事態が悪化しても。


 ねえさんはずっと泣いていた。空気を小分けに吸うようにして、苦しそうに体を小刻みに震わせていた。


 父が死んだのは、朝方。知らない間に空は暗くなり、冷えた風が窓の隙間から入ってきた。月明かりもなにもない。ただ、窓は黒い穴のようで、光を吸い尽くすように控えている。父の部屋にはたくさん本がある、そのどれもが素知らぬ顔で上品に棚に収まっている。


 結局、ねえさんは一度も顔をあげなかった。わたしもその場から動けなかった。足が疲れたので膝を折って座りこむ。前にも後ろにも進めなかった。体に鉛をすり込まれたように、重たくて仕方がない。ああ、ああ、とねえさんは顔をふせて泣いていた。きっと、シーツはびしょ濡れだろうなとどうでもいいことを考える。


 ふと、ねえさんの体から水がなくなってしまうと思ったわたしは立ち上がった。なるべく音を立てないように。恐る恐る台所から水をくんできて、ねえさんに差し出す。しかし、ねえさんは顔をあげなかった。声も出さない。たぶん、こちらに気づいていても、力なくベッドに張り付いていた。


 わたしはずっと水を持ったまま立っていた。


 いつかねえさんは顔をあげてくれるはずだ。


 水をこぼさないようにすることが、わたしの目標だった。



5.Dove



 父が亡くなった三日後に、父の体をねえさんと二人で運んだ。二日間、まるでねえさんまで死んでしまったように動かなかったので、部屋のすみで膝を抱えていた。なんとなく動くことが悪いことのように思えた。かといって、体を動かさなくてもお腹は減ってしまう。わたしとねえさんのお腹が鳴るたびに、わたしたちは生きているんだと当たり前のことを思う。そして、父のお腹が鳴ることが二度とないことも。父の立てる木槌の音も、父の歩く姿も、父がごはんを食べる姿も、愛おしそうに雑草を眺める目も、父の言葉も、どこにもない。なくなってしまった。目をつむると立ち姿が浮かぶ。ほんの一瞬。薄い。消えてなくなる。降り終わった雨みたいに。


 三日目の朝。目を覚ますとわたしの前にねえさんが立っていた。幽霊のように表情のない顔で、首をかしげてこちらを見ていた。口元が少しだけ開いている。目は真っ黒な玉みたいだった。


「さあ、わたしたちの生活をしましょう」


 ようやく動いたねえさんの口から、そんな言葉が落ちてきた。ねえさんは微笑んでいる。わたしは膝を抱えたまま、顔を上げて、ねえさんが差し伸べる手を見つめた。


 その時、またお腹が鳴った。すると、引き金を引いたように、ねえさんは急に元のねえさんになった。表情が変わる。目には力が戻り、顔色も明るくなった。体に光が注ぎ込まれたようだった。


「なにが食べたい?」


 絶対に自分もお腹が減っているはずなのにねえさんはわたしに尋ねる。わたしはめいいっぱい考えたあと、立ち上がって父の机から紙とペンを持ってきた。そこに、自分の望みを書きつける。


「ねえさんの、たべたいもの?」


 紙に書かれた文を読み上げたねえさんは、まぶしいように目を細めた。そして、なにも言わずに部屋を出た。やがて台所から包丁がまな板を叩く音が聞こえてくる。死んだ父と二人きりになった部屋で、わたしはまたお腹を鳴らした。


 ねえさんの作ってくれたごはんを食べたあと、部屋へ戻ろうとしたところを止められる。


「父さんを運びましょう」とねえさんは笑った。


 なにを言っているんだろう、と思う。人が死ぬのを見るのははじめてだったので、人が死んだあとのことがわからない。わたしの読んだ物語のなかでは、人が死ぬと周りの人たちは悲しみ、葬式というものをしていた。死んだ人を棺に入れて、土に埋めるのだ。ジャガイモみたいに。人を埋めるという発想がすごい。


 わたしは父さんに理科を教えてもらっていたので、焼いたりしない限り、ものが消えてなくなるなんて起こらないことを知っている。焼いたって、灰は残るし、消えることはない。人の体だってそうだろう。埋めたからといって、土に溶けるわけじゃない。


 理科を教えてくれた父さんが死んだので、教えてもらうことはできない。


 わたしは想像する。たとえば、森の動物ならどうだろう。そういえば、前に、沼のほとりでハトの死骸を見つけたことがある。羽を怪我していて、白い体には泥がこびりつき灰色に汚れていた。いつものように沼のそばを散歩していたら、気づかずに踏んでしまいそうだった。ハトの白かった頭には、ビー玉のような目があった。


 その日は、手を出さず、父さんやねえさんにも知らせずに眠った。自分だけの秘密にしておきたかった。翌日、ハトは変わらずそこにあった。その次の日も、ハトの体に目に見える変化はなかった。ただ、周りに小さな黒い虫が大量に飛んでいた。


 そのあとも、わたしは毎日ハトを見に行った。一月くらいだろうか。ハトは、日が経つごとに黒ずんで、飛び交う虫の量も増えて、臭いはきつくなった。もとの形を失って行く。花みたいに色を失くして枯れるわけではなく。


 そうか。


 たぶん父もそうなるんだ。


 徐々に汚くなって、虫が飛び交い、臭いを発する。


 もとの形を失くしてしまう。


 そうなると、もうわたしたちの生活がおぼつかない。きっと、ハトよりも体の大きな父は、より一層臭いを発するだろう。怖い。つい数日前まで、必死で息をしていたのに、冷たくなった身体から臭いが放たれる。


 父は、今のところ変化がない。眠っているように見える。でも、もうまるっきり違うものなのだ。


「さあ、わたしたちの生活をしましょう」


 父の肩に手を差し入れたねえさんは、もう一度力を込めてそう言った。


 わたしはねえさんとは反対側へ行って、父の足を持つ。


 それは今まで持ったどんなものよりも重かった。



6.Solidago canadensis



 床の色が変わりはじめていると男は言った。


 実際、わたしの体はもう骨のようになっていて、皮が床に張り付いていた。眠気がなくても、体がだるくなる。足が痛い。腰が痛い。肩が痛い。腕が痛い。痛い。痛い。痛い。お腹は減るし、めまいがする。つらい。苦しい。そういった不満が、怒りのように押し寄せては、すごすごと引いていった。眠っているときだけは気持ちがいい。


 ある日見た夢では、わたしは小さな子どもになっていて、父の背中におぶされていた。父が歩くたびに、わたしの体は大きく揺れる。父の背中は硬く、首はわたしの足くらい太かった。この背中に抱きついていれば、なにも怖くないと思えた。ねえさんが微笑みながら父の横を歩いている。わたしたちの足元にはたくさんの花が咲き乱れ、春のように心地よい光に照らされる。わたしは力を込めて父さんの背中にしがみつく。きっと痛いのに、父はなにも言わなかった。ただ、少しだけ後ろを向いて、笑った。


 できればこのままずっとこの背中の上にいたいと思った。やがてわたしたちは歌をうたう。夢の中のわたしは声が出せた。ねえさんよりも高い声が。食事以外でのどを動かすのはこんな風なんだ。でも、自分で歌いながらなにを言っているのかはわからない。ねえさんは美しい声でわたしたち二人の歌を導きながら、ずっと笑っていた。夢は続く。わたしたちは沼のふちまでやってきた。セイタカアワダチソウが背丈を伸ばし、足元にはコケが生えている。


 わたしは背中にしがみつく力を強くして、硬く目を閉じた。不安になる。そのうち、父は歌いながら、沼の水へ足をつけはじめる。足は、水面へついた途端にズブリと沈む。まるで泥に食べられたようだ。


 ずっと二人は笑っていた。


 夢のなかでもわたしはどうして笑っているのかわからなか った。


 膝が沈み、体の半分まで水に隠れた父はそれでも笑っている。


 わたしは自分の足についた水を払うのに精一杯だ。


 隣でねえさんが顔だけを水面から出して笑っていた。


 気がつくと、わたしはやっぱり床の上にいる。それは父の背中よりも硬く冷たい。しがみつくこともできない。


 わたしは這うようにして、ねえさんのベッドを目指した。吐いた息を二倍取り込むように口も閉じられない。足が痛いので腕の力で自分の体を引きずった。


 そして、ようやくわたしは見た。ねえさんを。


 それは夢のなかとは比べものにならないほど青白く、暗かった。


 黒ずんだ頬とシワだらけのおでこに挟まれた目がこちらを見ている。


 ハトと同じ色をしていた。



7.Solanum tuberosum



 わたしは這って台所へ向かった。とりあえず、なにかお腹に入れるものを探した。戸棚を開け、箱をあさり、血走った目でかきまわす。でも、なにもなかった。考えてみれば当たり前だ。男が来なくなってからずいぶん長い時間が過ぎた。芽を出したジャガイモが、黒い塊になって落ちていた。


 わたしは目に入ったものを口に入れた。真っ黒いジャガイモは、口に入れた途端に潰れて唾液があふれる。


 わたしは水を求めた。腕の力だけで、水場のタイルにすがりついて、蛇口をひねる。回らなかった。水場の下の戸を開けて、細い管を握る。びくともしなかったので、すぐ近くにあった包丁を管に突き立てた。もう水場を使うことはできない。染み出るように管から透明な液体が丸く現れる。わたしはそこに吸い付く。そのとき、喉を通った水を死ぬまで忘れないだろう。ほこりと錆びの混じった水の味は、なによりもおいしかった。


 そのまましばらく管にしがみついていた。


 ようやく離れたときには夜になっていた。管から水が出なくなった。飲み干してしまったわけではなく、水を汲み出すところが壊れてしまったんだろう。わたしは、力が抜けて寝転んだ。あんなに水を飲んだのに、すこしもお腹が満たされることはなかった。


 ふと、ねえさんが作ってくれた料理を思い出す。なかでも、前日から煮込んだスープはおいしかった。ねえさんの作ってくれたごはんでお腹がいっぱいになった夜は、眠るのも楽しみだった。


 わたしは自分の足を引きずって一日がかりで玄関へ向かった。その場に倒れる。このままだと眠ってしまいそうだ。それでもいいかなと少し思う。夢ばかり見ていたい。


 そうだ、歌をうたおう。明るい歌を。ねえさんが聞かせてくれた歌を。でも、わたしには声がない。皮一枚の喉からもれるのは空気の音だけ。笛のように喉が鳴る。いくら息を吐いても声は出ない。口を開けても声は出ない。


 ああ、わたしは歌うことができない。そう思うと、扉はもっと大きく高くなるようだった。


 夢のようにはうまくいかない。



第三章 わたし



1.now on



 わたしがはじめて目を開けたとき、ねえさんがすぐそばにいた。少し顔を傾けると、父もいた。


 わたしの体は布にくるまれ暖かかった。安心して、目を閉じればすぐにでも眠ることができそうだった。


「こんにちは」とねえさんが言う。


 真っ白な肌の上で、唇がきれいな形をしていた。ねえさんの手がわたしの体に載せられる。雲を叩くようにやさしい力が加えられた。ねえさんの隣にいた父は、向こう見ずな感じで天井の方へ視線を向けている。


 ねえさんはやんわりと微笑むと、やがて歌をうたいはじめる。考えてみると、それがねえさんの歌をはじめて聞いたときだった。まだ言葉のわからないわたしにとって、疑いもなく心地よかった。


 鼻をひくつかせて 、呼吸をする。洗いたてのタオルのいい香りがした。ねえさんからせっけんの香りがする。


「わたし」


 ねえさんは細長い指を一本立てると、わたしの鼻の頭につけた。わたしは短い手足をばたつかせて息を吐く。声を出そうとしても、むずかしかった。かすれるばかりだ。


「わたし」


 ねえさんは、何度も同じことを繰り返した。「わたし」と言って、わたしを指差す。今思えば、あれはなにを示していたのかなと思う。おだやかな日が入る部屋のなかは、暖かくも寒くもなかった。


「あなたはわたし」


 ねえさんはいっそう笑みを濃くすると、言葉を追加した。


 でも、私は声が出せない。口を開けても、 声は出ず、やっぱり息がもれるだけだった。


 隣にいる父は相変わらず天井を見ている。そこになにかあるわけでもないのに。


 すると、突然大きな手がわたしの視界をすべておおった。怖くて顔をそむけようとしたけれど、大人の力にはかなわなかった。顔をおさえられ、口を覆われる。息をしようと鼻をひくつかせたら、すぐに鼻も抑えられた。顔に血が登るのを感じた。熱くなる。苦しい。まだ言葉を知らなかったわたしは、ただひたすらその状態から逃げようとすることで精一杯だった。目から涙が出る。もがくほどに、こちらを抑える腕の力は強くなるようで、頭がぼうっとしてくる。


 そんなわたしを見るふたつの顔は、おだやかだった。


 ねえさんは相変わらず微笑んでいるし、父は遠くを見ている。


 気が遠くなる。


 その時、手が離された。


「あいさつもできないなんて悪魔ね」とねえさんが言った。


 私は一生懸命声を出そうとする。


 すると、右の頬をはたかれた。


「家族の前で泣くのも悪魔の子に違いない」


 私は泣くのをやめて、今度は笑う。


「薄気味悪いわ!」


 目をつむる。まったくわけもわからずに嵐が過ぎるのを待つ。すると、頭をつかまれた。


「家族を無視して眠ろうとするの」


 私はもうどうすればよいかわからず、父の方を見た。


 父は、首をかしげる。


 再び、ねえさんの顔を見ると、そこにはこれ以上ないほど深いシワが刻まれていた。


「ああ、神さま! どうかこの子を救ってください」


 やがて、ねえさんはわたしの体を両手で抱えて天へのばすようにして叫んだ。


「この子を決して見捨てないでください」


 わたしはその手が離されませんようにと願っていた。


2.Circle


 庭に寝転がったわたしは、大の字になって両手をのばして息を吸っていた。体が重たくて、背中が痛くなっていく。背骨が土に食い込むようだ。肌は燃えるように熱く、その内側は冷えている。見上げた先に広がるものを見て、空はこんなに近かったかなと思う。


 生きているというのは、動いていることなんだろうか。死んだものは、動かなくなる。息をしないし、まばたきもしない。動かなくなる。でも、風に吹かれて舞い飛ぶ葉は、もう生きていない。アリに運ばれるセミの死骸も生きていない。私たちに運ばれる父も生きていなかった。自分で動けることが生きていることだとすれば、植物は生きていないことになる。


 父は、病気になってからはずっと眠っていて、知らない間に死んでいた。痛みを訴える声もあげず、とても静かに。眠っているときと死んだあとで、実際のところ、見た目に大きな変化はない。突然、黒焦げになるわけでも、青色や、紫色にもならない。肌は肌の色のまま、髪は黒いままだ。父は目を閉じている。眠っているときと同じように。死んでいるとわかるのは、呼吸をしないことと、体が冷たくなっていること。そして、お腹がもう鳴らないことだ。死んでしまうと、音を立てなくなる。静かになる。ねえさんもそうだった。


 たとえば生きものがみんな死んでしまった世界のことを考える。鳥の鳴き声は枯れ果て、花はしおれ、干からびた大地の上で、木々は次々と倒れていく。そんななかを強い風が吹きすさぶ様を考えると、なんだかさみしい。空の色だけがやけに青々として。


 わたしは今、これっぽっちの力もなくなった体で地面に寝転がっているけれど、もう全然動けないし、はなから声は出せない。これは、死んでいるのと何が違うんだろう。生きていると言えるんだろうか。


 だんだん眠くなってくる。


 空は、湿気って、薄暗い。


 もうすぐ雨が降るだろう。



3.Null



 目をつむる。なにか見える。


 吹きすさぶ風のなか、一本の真っ白い枝が立っていた。フラフラと左右に振れながら、重心を失って今にも倒れそうだ。


 そこは、砂漠のように輝くわけでもなく、地面はどこか鈍い色をしていて、足元に灰を敷き詰めたような場所だった。たぶん、これは砂だろうと手を差し入れてみても、持ち上げたとたん、まるでお湯が蒸発するように消えてしまった。空気に溶けたようだ。砂なら、手の平でもすくえるのに、この灰色はそれを許してくれない。重みもまるでなく、ただ、さらりとした感触だけがかすかに残る。雪なら、触れたとたんに肌を芯から冷やすのに、なんの情緒もなく消えてしまう。


 いったい、この灰色の大地はなんだろう。地平のかなたはほんのりと白く輝いてはいるが、どこにも太陽は見当たらなかった。平坦な地面が見渡す限り続き、山もなく、谷もなく、ひたすらまっすぐに伸びていた。膨大な広さを誇る土の上を、風だけが自由に行き来している。吹いては戻り、吹いては戻り。通り抜けて行く。


 そして、わたしは、よく見ると裸だった。なにも身につけないまま、体をみんな外へさらけ出して、風に当たっている。体と髪の毛が抵抗して、時々、バランスを崩して倒れそうになる。あの真っ白い枝と同じように、風に勝つことはできず、なんとか二本の足で立っている。


 ふと、うつむくと、足が沈み始めていた。重さも、温度も、感触もほとんどない灰色の粒子は、わたしの小さな足を包みこみ、内側へ引きずりこんでいく。あわてて右足を引き抜く。すると、勢いをつけたせいで、左足に重心が偏り、さっきの二倍くらいの早さで沈み続ける。わたしはしばらく、右足と左足を交互に抜き差ししていた。


 足はどんどん沈んでいく。ついに、わたしは腰まで灰色に浸かってしまった。もう、体を動かすことは全然できないので、腕を伸ばしたり、首を回してみる。周りを埋め尽くす灰色が、体を渦の中心へどんどん引き寄せて行く。小さいころに見た、宇宙の星のようだ。


 灰色は渦を巻きながら、わたしの体を取り込んでいく。やがて、灰の表面が胸の高さまできたとき、もう腕を動かすことはできなくなった。なんだか、生ぬるい塊に塗り込まれたようだ。硬いふとんにはさまれたみたい。息が苦しい。沈んでいく。このままだと首まで埋れてしまう。そうしたら、死んでしまう。ようやく、わたしは危機感を持った。このままではいけない。


 体はどんどん沈んでいく。さらさらとした質感に包み込まれながら、身動きをとれないようにする。体の内側で、肺が縮むのを感じた。


 その時。はるか先の地面に立つまっ白い棒が、左右に大きくしなった。まるで、神さまがくしゃみでもしたように、猛烈な風がふく。灰色の粒を舞いあげ、霧のように視界がかすむ。倒れた木々が灰に埋れていく。空は雲に覆われて光は見えない。嵐のような風のなか、揺れる白い棒は、一度大きく右へ傾き、次の瞬間、パタリと倒れた。


 そうして、外に出ていたわたしの体の最後の部分も、灰に覆い尽くされてしまった。




4.beautiful?




 鳥は冬の間に巣作りにはげみ春には二、三個卵を産む。それが孵化して鳴き声をあげるころにはチューリップが色をつけはじめ、女王へ届ける蜜を集めるミツバチが飛び交う。


 空は晴れ上がり、雲の形もはっきりとわかる。


 もう、あの灰色の大地はどこにもなかった。死んだ海はどこにもない。


 私は、自分に問いかける。


 あの灰色の大地はきれいだったか。


 なにもなく、ただ、まっさらで、無邪気でもなく、邪悪さのかけらもない。


 風と音だけが吹きすさぶ。


 暴力も、嘘も、死体もなにもない。


 でも、そんなことを考えたって、なににもならないのだ。


 ここにあるのは動きを失った沼だけ。


 沼はいつでも、波を立てることもなくただ黙ってそこにあり続ける。色はどす黒く、泥を何度も煮詰めたようなすさまじい色をしている。降り続ける葉が沼を覆っても、変わらない。


 これは、きれいかな。




5.Happy life




 森の木々が風に揺さぶられ羽を休めた鳥が飛び立つと同時に、周りで風がまき起こるのを予感する。


 暑くも寒くもない、ふわりと風のある午後。体が軽い。


 幸せだ。


 でも、と思う。遠い銀河の果てに脈々と受け継がれる星の色、指をさして名前を呼ぶ、その声、目に見えるものを同じくしてあの人が、名前を呼ぶ。花にも植物にもおおよそわたしたちの周りにあるものには名前がある。膨大な種類のひとつひとつを区別するために、赤い花には赤くても花弁の尖ったものと、黄色の蕾でも葉の丸いものと鋭いものがある。それらは赤いという名前の上にすっくと立っている。ものには似たものがいくらでもある。赤い花、赤い果実、赤い光、赤い頬、赤い唇、赤い血。しかし、ひとつとして同じ色はない。赤と聞いて浮かぶその四角い残像は、間近で見たものによってすり替わる。昨日の赤と今日の赤は違う。


 父は雑草が好きだと言った。花は下品だと言った。では、花をよりどころにしている虫も下品なんだろうか! その虫を食べる鳥も! 鳥が羽を休める木の枝は! 枝の先の葉は! 葉が落ちた地面は! どうだろう。自分が散々作った家具だって、下品な花の成る木から作られたんじゃないか。あの人は、どうして何にも使えない机をくれたんだ。礼拝堂に置かれた机は何を置くためのものなんだ。せっかくゆるやかだった気分もむずがゆさに、硬く目をつむる。下品なのは一体誰だ。生きていることそのものが下品なら、まるごと死ねというのか。


 その時、もう一度私はあの灰色の大地を見た。


 ああ、わたしに声があれば。それはいったいどんな風なのだろう。高いんだろうか、低いんだろうか。どちらにしても、ねえさんのように歌をうたえただろう。


 ねえさんはどうして歌っていたのだろう。誰もいない森の奥で、意味をはねのけた異国の言葉を。わたしに聞かせたいとか、そんな小さな理由ではなかったように思える。もし、わたしに聞かせたいのであれば、ずっと耳元で、それこそ、私の頭を膝に載せてでも聞かせればいい。でも、そうしなかったのは、きっとねえさんには別に歌う理由があったから。


 それはわたしの知らないねえさんの話?


 父のため?


 意味がわからない。


 目のない顔はどんな風に笑うんだろう。




6.Open and Close




 気がつくとわたしは光のなかにいた。


 暑くも寒くもなく、目をつむればすぐにでも眠れるほど穏やかな光のなかにいた。


 わたしは、もう苦しくなかった。上を向いて寝転がっている。はるか先には、青い空がある。吸い込まれそうなくらい、鮮やかな。


 そして、起き上がるとそこに沼があった。


 どうやらわたしは、いつのまにか沼のほとりへ来たようだ。這ってきたのか足の膝が痛い。見ると、土がへばりついていた。


 沼は今日も静かで、動きを見せない。じっとしている。


 変化のない水面が、鏡のように停止している。


 今日は一段と光が差し込み、なんだか、少しくらい沼の底が見えるような気がした。


 心なしか沼の水も普段の泥だらけの濁った色ではなく、井戸の水のように澄んでいる。


 森に漂う空気はひんやりとして、沈みこむようにおだやかだ。


 音はなく、鳥もその他の動物もいなくなってしまった。


 父もねえさんもすっかり死んでしまった。


 わたしも、どうやら死ぬみたいだ。もう体に力は残っていないので、空を見るか、地面を見るかしか選べない。


 なんて無様なんだろう。


 でも、もう大丈夫。


 その思いつきは、わたしの胸をざわつかせた。


 ずっとそうしたかったような気がする。


 なんだかうれしい。


 わたしはそっと、沼のほとりへ顔をかたむける。


 体が転がる。


 あとは、そのまま。

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