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 少女は純白の死出の衣に身をつつみ、青ざめた顔で瞑目していた。僕が空から降り立つと、カツン、と大理石の床が音を立て、少女はおびえて身を竦めた。

 ゆっくりと祭壇に歩み寄り、顎に手を添えてまだ幼さの残る白い顔を上げさせた。戸惑ったように目を見開く少女の頭の上に、そっと手のひらをかざす。祝福の印として。

 少女は不思議そうな表情を見せる。それは安堵と失望のない交ぜになった顔だった。


 人間は不思議だ。死を恐れているくせに、時折、向こう側に行きたいと切に願う。失意、孤独、愛するものとの別離。少女にそんな表情をさせた原因はなんなのだろう。

 少女は大きな目を見開いて、僕を見上げながら口を開く。


「何をお望みでしょう」


 緊張しきったか細い声だった。語尾が大きく震えた。

 僕の背中で、大きな翼が微かに揺れる。"彼"が身じろぎをしたのだ。"彼"の思考はたやすく読み取ることができる。僕は心の中で、了解、とつぶやく。


「しばらく里に滞在したい」


 目を見開く少女を僕は静かに見つめ返す。望みを口にするのは一度きり。一度口にしたことを翻したり、後で言い加えたりはしない。

 ややあって、少女は頭を下げて答える。


「長老を呼んでまいります。しばらくこの場でお待ちいただけますか?」


 僕が返事をしなかったので、少女は顔を上げて僕の顔をこわごわ覗き込んできた。僕は微笑んで小さく頷いてみせた。

 少女は祭壇から足を下ろし、立ち上がった。祭壇の両端に供えられた蒸留酒のビンがカタカタと揺れる。僕は少女が降りた後の生贄の祭壇に、代わりに腰を下ろした。

 小高い丘の上に位置する神殿には屋根がなく、集落が一望できる。きちんと区画整理された町並み。石を切って敷き詰めた舗道には人っ子一人いない。皆家の中に避難して、息を潜めているにちがいない。

 僕は自分の背中に手を伸ばし、その翼から褐色の羽根を1枚抜き取り、少女の手に持たせた。


「長老に渡すといい」


 少女は驚いた顔でそれを受け取ると、大事そうに両手で抱え込んだ。

 町に向かって階段を下り始めた少女を僕は呼び止めた。振り向く少女に訊ねる。


「名前は?」

「エストーラ」


 一瞬気後れしたような表情を見せた後、少女はそう答えた。


 小走りに立ち去る少女の肩越しに、とある青年の面影が揺れた。少女の記憶の中で青年は哀しげな微笑みを浮かべ、約束を果たせなくてごめん、とつぶやいていた。




 程なく少女に連れられて丘を登ってきた一行は、神殿の中央に座っている僕が人間の姿をしていることに驚いたようだった。

 年かさの男が少女に向かって何か訊ねた。少女は強ばった表情でかぶりを振った。

 ばさり、と僕の背中で翼が大きく羽ばたいた。僕はふわりと宙に浮き、神殿に向かう階段を一足飛びに飛び越えて、驚愕した表情の人々の前に降り立った。人々は畏怖の表情を浮かべその場にひれ伏した。

 小柄な老人が顔を上げて僕に近づいてきた。手には先ほど僕が少女に渡した羽がある。


「贄の娘がお気に召しませんでしたか?」


 老人は心配そうな口調で尋ねた。それでいて、老人の表情には不信と疑念が浮かんでいる。

 禍神がなぜ人の姿をしているのかと。

 僕の背後で"彼"が、その老人の記憶を探りはじめる。老人は"彼"の一部である羽根を手にしていたから、薄皮を剥ぐように、老人の意識の底の底までがたやすく透けて見える。


 この町の神殿に最後に禍神が降り立ったのは、今からちょうど50年前。禍神は通常差し出された生贄を引き裂き食らう。50年前にはこの神殿でも生贄はそうやって屠られた。禍神が舞い降り、飛び去っていったあとの神殿の様子を、老人は鮮明に覚えている。骨の幾片かを残し、生贄は跡形もなく食らいつくされ、血の痕すらもきれいに舐め取られていた。


「この中に我々一族の姿を、これまで一度でも見たことがあるものは?」

「居りませぬ」


 老人は慌てて首を横に振った。


「ですが、図鑑で見たお姿は……」


 と、老人は言葉に詰まらせる。

 僕と"彼"は老人の意識から、鋭い牙と前足を持つグロテスクな猛獣の姿を読み取った。

 そう、それは間違いではない。"彼ら"は実際のところ、そういった姿をしている。僕を貪り食らうときの"彼"もそういった猛獣の姿になる。

 だが、実物はそんなにグロテスクというわけではない。むしろ目を見張るような優美さを持っている。褐色のビロードにしなやかな筋肉をつつんだ、獰猛で美しい生き物……。


 僕の思念を感じ取って、背中の翼が落ちつかなげに揺れる。

 "彼"はいとも簡単に動揺する。とてもではないが残虐で冷酷な禍神の一族とも思えない。だから"彼"は僕と一緒にいる。いや、僕と長く一緒にいることで、彼はますます自分で制御できないぐらいの感情を持ち始めているのかもしれないけれども。

 僕は、目の前の老人に視線を戻し、訊ねた。


「もしも僕が一族でないとすれば、あなたはどうされますか? 僕の望みはしばらくあなた方のもとに留まることですが、それは叶えられるでしょうか?」

「どうぞ私たちのもとに留まりおきください」


 老人は頭を垂れてそう答えた。


 神殿に降り立ったのは、禍神ではなくなにか別の精霊の一族だろうか。しかし、伝説の太古ではあるまいし、今の世にそんなことが起こり得るのか。とにかく都の神官に連絡して指示を仰ごう。

──頭の中で老人がいろいろと考えをめぐらせているのがわかった。




 僕にあてがわれたのは町の中央の、長の館の隣にある大きな屋敷だった。どうやら公邸の一部で、来賓用の建物らしかった。

 都との連絡はすぐについたようだった。屋敷に連れて来られてから二時間ばかりして戻ってきた小柄な老人は、エジームと名乗り、先ほどの非礼を詫びた。都の中央のモニタールームで、監視カメラに写った映像をもう一度確認してもらったらしい。

 嵐の渦巻く西の海原を飛翔し、人の住む陸地を目指す影は、拡大すると確かに翼を持つ人の形をしていた。センサーの数値によってマザーコンピューターが禍神の襲来だと判断したため、人の肉眼でその姿を確認することはおざなりにされていたようだ。


「納得してもらえてなによりです」


 僕がそういうと、エジームは何か言いたげに僕を見あげた。

 都の古代文献には、飢えてないときの禍神は人の姿を取ることがある、と書かれていたようだ。生贄は必要としないがそれ相応のもてなしは必要だということだった。

 資料には具体的なもてなしの方法は書かれてなかったらしい。僕を目の前にしてエジームは 困惑しているようだった。

 だが、"彼"が飢えていないというのは間違っている。そもそも"彼ら"は飢えてなければ好き好んで人の住む場所に現れたりはしない。生贄はやはり必要だ。


「通りを歩き回る許可がいただきたいんですが」


 僕は控えめに、そう申し出た。


「町の人たちに危害は加えないとお約束します」


 "彼"がこの町の人たちに目に見える形での危害を加えずに済むのは、僕という餌があるからに過ぎない。

 けれども飢えに任せて僕を食らい尽くしてしまえば、僕は跡形もなく消え去って2度と再生させることはできなくなる。僕を生かしておくために、"彼"は力の加減をする必要がある。だから飢えを感じた"彼"は、贄を求めて人里に舞い降りてきたのだ。


 エジームは禍神に向かって問いただすという非礼を犯してもよいものかどうか、しばらく内心で葛藤していた様子だったが、意を決して口を開いた。


「我々は、いかようにしてあなたをもてなせばよいのかわからずにおります。あなたは贄の娘をご所望にならなかった。では、何をご所望でしょうか?」

「しばらくここで暮らす許可をいただきたいんです」

「それは望むだけ滞在していただいて構いません。身の回りの世話をするものもおつけします。ですが……」


 エジームはそれだけでは不安らしかった。僕が他に具体的な望みを持っているのかどうかが読み取れず、落ち着かないといった風情だ。


「僕の望みはしばらくの間普通の人間の姿で、町の人たちと交わることです。具体的な日数は今は言えませんが、おそらくはほんの数日か、長くともひと月足らずでここを去ることになると思います。繰り返しますが、決して町の人たちを傷つけたり殺したりしないとお約束します。身の回りのことはできるだけ自分でやりますし、滞在費が必要であるのならば労働でまかないますので、なにか仕事を紹介してください」


 エジームはあっけに取られたような顔で、ぽかんと口を開いて僕を見返した。


「もっとも僕としても、ここに長く留まっていたずらに人々の不安や恐怖心をあおる気はないので、日雇いの仕事しかできないとは思いますが」

「め……めっそうもない」


 エジームは口をぱくぱくと動かし、やっとそれだけの言葉をしぼり出した。


「かっ……禍神をこき使うなどと、そんな前代未聞な……」

「バードといいます」


 僕は、自分のではなく"彼"の名を名乗った。


「もしも無償でもてなしていただけるのなら、ご好意に甘えさせていただきますが」

「それはもう、ぜひとも……」


 即座にエジームは答えた。冷や汗をかいている様子が見て取れた。思わず苦笑が浮かぶ。

 禍神の襲来は町中の、いや、国中の噂になっているはずだ。そんな禍々しいものと一緒に働きたいなどと思うものは、どこを探してもいないだろう。


「それから1つお訊ねしたいんですが……」

「はい、なんなりと」

「先ほど神殿にいた少女のことですが、彼女は罪人ですか?」


 驚いたように顔を上げたエジームに、僕は言った。


「やはりそうなんですね。別の国でも同じシステムをとっているところがあります。秩序を保つために、罪を犯したものを生贄にあてるというのは」


 驚愕の表情が、恐慌に取って代わる。

 老人の内心のつぶやきが聞こえてくる。


……では、禍神が生贄を屠ることなく解放したのは飢えてなかったからではなく、やはり、彼女が気に入らなかったからなのか。ならば、禍神の求める新たな贄を用意せねばなるまい。若く美しく罪を犯したことのない、一片の穢れもなき者を。


「長老」


 僕はそう呼びかけた。エジームと名前を呼びつけにするのははばかられた。見かけだけからすると、僕の方が彼よりもずいぶんと若輩者だからだ。


「誤解しないでください。僕は彼女について聞きたいだけです。彼女はこれからまだ、何かの形で罪を償わなければならないんでしょうか」

「それは……我々人の国の事情です」

「話してください」


 当惑した声でそう答えたエジームに、僕は促した。




 エストーラはいわゆる政治犯だった。強固な中央集権制に反対するレジスタンスのメンバーと通じ、情報を横流ししていた。

 もっとも彼女自身に政治的な意図があったとは思われず、事情もよくわからいままに幼馴染の青年を手伝わされていただけだと判断された。

 青年は処刑されたが彼女自身は処刑は免れ、禁固刑に処されていたのだという。

 今回の禍神への生贄としての白羽の矢が当たったのは、彼女の罪が他の罪人に比べて重かったからではない。彼女がいまだ若く、清らかに美しく、かつ悪辣な犯罪者というわけではなかったためだ。

 禍神は穢れたもの、邪悪なもの、醜いものを嫌う。だから生贄は無垢であらねばならない。間違って穢れたものの肉を食らうと、禍神は怒り狂って大殺戮を始めるのだと言われている。



 エジームの思念を読み取りながら、僕はこっそりと溜息をついた。人の世に流布する情報の、なんてあやふやで的外れなことか。

 禍神の大殺戮の原因は怒りなどではない。激しい飢えだ。飢えて、飢えて、自らの肉を食らいつくすぐらいに飢えたとき、そして自らの肉を食らい肉体の枷から解き放たれて漆黒の闇の塊と化したとき、"彼"は見境なく殺戮を始めるのだ。ただ、飢えを満たしてくれる存在を求めて。自らの新しい器を形成するだけのエネルギーを得るために。


 僕がバードに出会ったのは、21世紀半ばに『日本』と呼ばれていた国で、その頃僕はただの高校生だった。もう、何世紀も前のことになる。


 あのときバードが肉体も魂も失って災厄の塊と化したのは、彼が恋に落ちたある人間の女性のせいだった。修道女だったらしい。彼女の魂に彼は恋焦がれ、彼女に乞われ、できない約束をした。2度と決して、人の肉も魂も食らわぬと。

 修道女は天寿を全うしたが、そのあと何世紀も、彼は彼女との約束を守り続けた。飢えてやせ細り、飢えて飢えて、飢え死ぬことも叶わず、それでも人は食らわぬ、2度と人に悪行をなすことはするまいと、半ば気がふれながら永らえ続け、最後の最後で自分の身を 食らったのだ。

 彼の内奥に渦巻くのはとてつもない負の空洞だ。その深淵を閉じ込めておく器を失って、疫神の本質が解き放たれた。


 災厄はある日突然訪れた。それはほとんど何の前触れもなく、僕が生きた時代に吹き荒れた嵐のような出来事だった。

 超自然の闇がどこからか湧き出して空を覆い、その場にいて運悪く闇に閉じ込められた人々は無残に身体を引き裂かれて命を落とした。

 最初他の大陸で局所的に発生した災厄は、やがて縦横無尽に地上を駆け巡り、日本にも上陸した。


 ある日僕は、当時住んでいた町のはずれの小さな駅周辺で、その災厄に遭遇した。高校からもより駅までの短い通学路で、少し前にその場所を通りがかったクラスの友人の幾人かが、たまたま闇に飲み込まれて落命したのだった。

 闇は空の高みに向けて飛翔し、現場にはまるでハゲタカに食い散らかされたようにズタズタにされた遺体が転がっていた。

 僕は友人たちよりわずかに遅れてその道を通り、変わり果てた友人達の姿を直接目にすることとなった。


 今でも鮮明に思い出す。

 あらぬ方向に捻じ曲がった脚、もぎ取られた両腕、腹部はぱっくりと2つに切り裂かれ、内臓がほぼ食い尽くされ、ピンクの肉片が絡まる肋骨がむき出しになっていた。顔は恐怖にひき歪んで、虚空を睨みあげていた。


 通行人の何人かが、転々と横たわる遺体を見て恐慌をきたしたらしく、大声で叫びながら引き返し始めた。

 人々が引き返す中、僕はその場に佇んでいた。

 あたりを見回して、災厄の主の姿を空の高みに見出した。青い空に浮かぶ、しみのように黒い点。目を凝らしているうちに、それはだんだんと広がっていって、視界を覆った。


 僕の後ろから自転車をこいできたヤツが、急ブレーキをかけて方向転換した。

 遮光カーテンを引いたように日の光は遮られ、視界はどんどん暗くなる。

 500メートルほど向こうで、逃げようとしていた自転車が何かに躓き横転したようだった。


 僕はぼんやりと、あたりを闇が押しつつむのを眺めていた。もうじき僕も、目の前に転がる友人と同じ姿になるのだ。それはとても不思議なことだった。恐怖よりも、恐慌よりも、ただ不思議さが僕の内部を満たし、そして……。


 僕の意識はなぜかそのとき、"彼"が抱え持つ深い慟哭に行き当たったのだった。




 これからエストーラが都の刑務所に戻されることをエジームに聞かされて、僕は彼に質問した。


「彼女をもう一度、ここに連れてきていただくことはできますか? できれば彼女に町の案内を頼みたいと思うんですが」


 バードがエストーラに興味を持っている。"彼"はエストーラの心に揺れる何かに惹きつけられているのだ。

 ひょっとすると、闇雲に町を歩き回って新しく出会う誰かを探し回る手間が省けるかもしれない。


 僕が具体的な望みを口にしたことで、老人は却ってほっとしたらしい。しかも、彼の最初の思惑通りに、他の犠牲者を出さずに済むと考えているようだった。

 彼は肩の荷をおろした安堵の表情を浮かべ、おっしゃるとおりにいたします、と答えた。


「もしもご所望なら、エストーラをここに住まわせて、身辺のお世話をするように取り計らいますが」


 少し考えて、僕はエジームの申し出を受けることにした。

 明らかに彼女は、生贄の祭壇で死を賜り損ねたことに落胆していた。おびえてはいたが、覚悟と決意がその面差しには仄見えた。

 だから他の誰かがこの屋敷にやってくるよりは気が楽かもしれない。少なくとも僕を神殿まで迎えに来た一行の中で、一番おびえていなかったのはエストーラだった。

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