親の心子知らず
いつもと同じように、陽が落ち切る前に帰宅したヨイヤミは、荷物を自らの部屋に置いて溜め息を吐く。
どれだけ両親を恨んではいけないとエリスに言われても、すぐにこれまで通りに接することはできない。だから、家に帰ってくると、息が詰まりそうになるのだ。
それでも、なるべくいつものように振る舞おうと、帰宅の挨拶をするためにリビングへと向かう。既に日が落ち始めて、空が朱色を内包した藍色へと変わり始めた頃、リビングは既に電灯がついており、扉から灯りが漏れだしていた。
その扉が少しだけ隙間風を通しており、その風に乗って来るかのように中から二人の声が聞こえてくる。どうやら今日は父さんも帰ってきているらしい。二人がどんな話をしているのか気になったので、ヨイヤミは帰宅の挨拶をする前に、そっと扉に耳を近づけて中から漏れだす会話に耳を傾ける。
「あそこまでする必要があったのですか?あれでは、ヨイヤミが可哀想です」
母さんが名前を口にする。どうやら、自分のことについての会話のようだ。その声がとても悲しげなのが気掛かりだったが、ヨイヤミはそのまま耳を傾ける。
「仕方がなかろう……。これは教育だ。私だって、好きで人を殺したりはせん」
父さんが溜め息と共に、何かを悩みの色が混じった声音でそんなことを言う。その言葉を聞いた時点で、これが先日のエリスについての話だということに気が付いた。
「確かにそうですけど……。別に殺さずとも、やりようはあったと思いますが」
母さんも父さんと同じく悩みの色が見られ、言葉を選びながら、探り探り話しかける。
「わかっている……。だが、あれが最善だったのだ。これから先、ヨイヤミも貴族の一人として、この街で暮らしていくんだ。それなのに、奴隷を一人の人間として見ていたなどと周りに知られたら、これから先のヨイヤミの立場がなくなる」
少しだけ父さんの声が荒れる。ヨイヤミとエリスが会話しているのを発見した時は、勢いで殺してやるといったものの、その後それが正しいのかどうか、父さんなりに熟考したのだ。
正しいかどうかなど、結局わからないままだった。それでも、これから自分の息子が、この世界で平和に暮らしていくためには、こうするのが一番いいと、そう思ったのだ。
「そうですね……。私は、正直あまり奴隷や貴族の違いというものがわかりません。だから、奴隷の扱いについては、あなたの言われた通りにやっているつもりです」
母さんはこの国とは違う国から父さんの元に嫁いできたため、あまり奴隷という文化にあまり馴染みがない。おそらく、自分には母さんの血が色濃く残っているのだと思う。
ヨイヤミと同い年の子供でも、既に奴隷と貴族という線引きをはっきりして、奴隷を道具として扱っている者もいる。この世界ではそれが当たり前なのである。
「私だって、自分に彼女を殺す権利があるとは思っていないさ。だが、この世界で生きていくためには、こうする他ない。だからと言って、この国を出ようなどとは思わない。この国程、平和な国はないのだから……」
自分の安定した生活のためなら、誰かの命を犠牲にしても仕方がない、父さんはそう言っているのだ。それに対して、今すぐ扉を開けて、何かを言ってやりたい激情に苛まれたが、グッと我慢して、二人の会話を聞き続ける。
「そうですね……。ヨイヤミにも、戦争など知らないまま、この国で平和に暮らしてほしいものです」
母さんの声音にこれまでと比べて少しだけ優しさが混じったような気がした。
「戦争を積極的にしている国が、この世で一番平和だというのも皮肉な話だが、ヨイヤミにも私の後を継いで、貴族として平和に暮らして欲しいものだ」
釣られるように父親の声音にも優しさの色が混じる。結局、父親もヨイヤミを思っての選択だったのだ。
誰かを犠牲にしてでも、ヨイヤミの平和を、未来を護りたい。この国に抵抗する力など持ち合わせていないから、この国の流れに身を任せ、偽りの平和に身を委ねる。それが、父親が選び抜いた答えだったのだ。
だから、奴隷と貴族が相いれないという事実をヨイヤミに教えるために、ヨイヤミの目の前で彼女を処刑することに決めたのだ。それが父親としての、息子への教育であり、務めだったのだ。
そんな選択を、ヨイヤミが責めることはできなかった。歪んでいたとしても、これは間違いなく、息子に対する父親の愛に他ならない。それを理解してしまったヨイヤミは、もう誰も恨むことができなかった。
「あなたの思いは、きっとヨイヤミにも伝わりますよ。まだまだこれから先は長いのです。ゆっくり、解り合えるように努力していきましょう」
母さんの優しさが、自分から父親へと方向を変える。父親は今どんな顔をしているのだろうか。
「そうだな。でも、今は嫌われているだろうな……」
自らが行った行為が、善悪は別としてヨイヤミをひどく傷つける行為であったことは言うまでもない。だから嫌われても仕方がないと思っていた。嫌われてでも、息子の未来を護りたいと思っていた。
それでも、その息子がずっと死んだような目をして、顔を合わせても話すことがなく、家にいる時部屋に籠りきりなっていると、自分が間違ったことをしたのではないかと、疑わざるを得なくなってくるのだ。
「それは、時間が解決してくれると思いますよ。少しずつでいいんですよ。大丈夫、あなたの息子は賢い子です。ちゃんとわかってくれる時が来ますよ」
母さんは父さんに優しく話しかける。やがて、父親の嗚咽が聞こえ始める。あの父親が泣いている。それも自分のことを思って……。
自分は父親のことをこれ程までに思ったことがあるだろうか。そもそも、父親のことを知ろうとしたことが一度もない。少し苦手だったから、いつも少しだけ距離を取っていた。
その行為が、どれだけ父親を傷つけていたのだろうか。
それに何より、自分はどれだけ愛されていたのだろうか。
今は父親に合わせる顔がない。
これだけ自分のことを愛してくれていたのに、自分は一方的に父親を悪者だと決めつけ、勝手に恨みをぶつけて……。
そんな自分が後ろめたくて、その扉から耳を遠ざける。
今はリビングに入る気にはなれない。ヨイヤミはリビングから漏れる光を背に、すっかり陽も落ちて、真っ暗になった廊下をゆっくりと自らの部屋に向かって歩いて行った。
次の日からのヨイヤミは、なるべく明るい顔でリビングに向かう様に努めた。盗み聞きしたことをバラしたくなかったため、いきなり和気藹々と、とまではいかなかったが、それでもヨイヤミも少しずつ親子の仲を戻していこうと考えていた。
エリスがいなくなって、普段は学校へ行くだけの退屈な日々に戻ってしまったが、それでも週に一度はカルマたちの待つスラム街へと足を運んでいた。
スラム街のことは未だに両親に言っていないし、これから先も言う気はない。
エリスのことがあってから、両親が外面をとても気にしていることがわかったので、スラム街に行っているなどと言えば、非難されることは目に見えている。
だから、スラム街のことは貴族街の誰一人として話したことはない。それが、スラム街のことを蔑んでいるようで、たまに心にシコりを感じることはあったが、それでも、彼らの会えなくなることを思えば、これくらいのことは我慢できた。
週に一度のこの時間のために日々を過ごしている、と言っても過言ではない生活を送っていたが、ヨイヤミはそれで十分に楽しかった。
「それにしても、お前もすっかりこっち側に慣れたな」
迎えに来ていたカルマと共に、ゴミ山の道を歩いていく。そこには相変わらず、カラスに啄ばまれた死体や、生きているかどうかも分からないような状態で寝転んでいる人など、異様な光景が広がっていたが、ヨイヤミはそんな光景に慣れ始めていた。
ただ、友達のためとはいえ、こんな状況に慣れ始めている自分を少し気持ち悪くも思いはじめていた。
「まあな……。さすがにこんだけ何度も来れば慣れるわ。まあ、平気って訳でもないけど、吐くほどって訳でもないな」
だから、彼の質問にどう答えるか、一瞬迷ってしまった。
人の死に慣れ始めている自分が、間違いなくここにいる。だが、それは慣れていいものなのだろうか……。自分はいつの間にか、踏み込んではいけない世界に踏み込み始めているのではないだろうか。そんな迷いがヨイヤミの中で渦巻いていた。
「なんか、今日はリディアがどっかに行ったみたいで、何処さがしてもいないんだ。まあ、リディアにはよくあることだから、心配もしてないけど……」
そう言いながらも、カルマの表情には多少の不安の色が見て取れた。それにしても、このスラム街はそんなに広い場所でもないし、わざわざ何処かへ行かなければならないような、特別な場所は無いように思えるが……。
「よくあるのか?この街にどっか行くような場所があるとは思えんけど?」
「まあな。でも、リディアに聞くと、いっつもはぐらかされるんだ。どうも言いたくないらしくて……。血の繋がった家族でもないから、俺もあんまり強く言えないし、深くは聞けないんだ」
カルマは少しもどかしそうに、溜め息を吐いて苦笑を漏らす。確かに、普段一緒にいると言っても、あくまでも友達であって家族ではない。家族のような付き合いをしていても、本当の家族にはなれない。
そんな現実に、カルマは自分を抑えながら彼ら彼女らと生活を共にしているのだ。それは恐らく、彼ら彼女ら皆に言えることだろう。誰もがどこかで自分を殺しながら、我慢をして生きている。そうでなければ、共生することなど不可能だ。
誰かと共に生きるためにある程度の許容は必要不可欠なのだ。
「まあ、いつもちゃんと戻ってきて来てくれるから、心配はしてない。俺も、信じてないみたいになるから、あんまり詮索はしたくないんだ」
自分よりも長く付き合ってきたカルマが言うのなら、自分が出る幕はないだろう。
そうこうしている内に、いつもの遺跡擬きに到着する。
「ヨイヤミおにいちゃん」
レアがいつも通り小走りに近寄ってくる。ヨイヤミの服を掴んで、ヨイヤミに視線を合わせるとぱあっと太陽のような笑みを浮かべる。
ヨイヤミはそんなレアの頭を優しく撫でて、その笑顔に釣られるように自らも笑顔になる。
「今日はうるさいのがいねえから気楽だぜ。毎日こうだと、気が楽でいいんだけどな……」
いつも通りニコルは軽口を叩いている。そんなニコルを茶化すリディアがいないので、そう言いながらも、どこか張り合いの無さを感じているようだ。
「り、リディアちゃんが、いないと、わ、私は、寂しい、けど……」
サラはおどおどしながらニコルに向かって口を開く。それに対してニコルが「あんっ」と鋭い眼つきで睨み返すと、サラが「ひっ」と怖がってニコルから顔を背ける。
そんなやり取りをしている二人の間に、ニコルの視線からサラを遮るように、ロニーが割って入る。
「まあまあ、二人ともお。ニコル君もそんなに、イライラしないのお。リディアちゃんがいなくて、寂しいんだよね……。……あっ」
ロニーは慌てて止めに入ったせいで、言う気のなかった言葉を口にしてしまったようだ。急いで口抑えるが、時すでに遅し……。それに知らない人が見たら、全然慌てているようには見えないだろう。
もちろんその言葉がニコルの心の起爆スイッチを押したのは言うまでもなく、ニコルが顔を真っ赤にして、ロニーに喰ってかかる。
「てっ、てめえ。何言ってやがんだ、ロニー。俺はちっとも寂しくなんかねえし、あんな奴いねえ方がせいせいするんだよ。今度言ったらぶっ殺すぞ」
そんなに真っ赤になって反論したら、寂しいと自白しているようなものだ、とヨイヤミは心の中で苦笑していた。
「ご、ごめんよお。本当に言うつもりはなかったんだよお……」
「要は、心の中ではずっと思っていたってことか、この野郎。やっぱり、一発殴らねえと気が済まねえ」
ロニーが口を開くたびに墓穴を掘っていく。サラは、ロニーの後ろでブルブルと震えたまんまだし……。
リディアがいないと、どうやら制御する役がいないため、収まりがつかなくなるようだ。どうやらいつものことのようで、カルマは「またか……」と溜め息を吐きながらその様子を眺めていた。
そのまま、ニコルは地面を蹴ってロニーに殴りかかる。さすがにこれは止めなければまずいだろ、と思ったヨイヤミがカルマに視線を向けるが、カルマが動く様子がない。
カルマに視線を向けたせいで、自分がそれを止める時間はもうなかった。そして、遺跡擬きの中に、パシンッ、と肌を捉える甲高い音が響き渡る。
確かニコルは拳を握りしめて、ロニーに殴りかかっていたはずだ。なのに、聞こえてきたのは、人を殴るような鈍い音ではなく、むしろ頬を平手で叩いたような……。
ヨイヤミが二人の元に視線を向けると倒れていたのはロニー、ではなくニコルだった。
ロニーが自らの振り切った手と、目の前で目を回しているニコルを交互に眺めて「あっ」ととぼけたような声を上げている。
どうやら、ヨイヤミの聞き違いではなく、実際ニコルの頬をロニーが平手で叩いたのだ。
そしてその衝撃で、ニコルが失神していた。この前カルマから聞いたことがあったが、そう言えばロニーは力が強いんだったか……。
「あ~、またやっちゃったなあ」
ロニーが頭を掻きながら、本当に反省しているのか疑わしい口ぶりで、そんなことを漏らす。
カルマが再度溜め息を吐いているのを見て、ニコルが失神するところまでが、いつもの流れなのだろう察した。
「いつものことだ。気にするな」
「だねえ。ニコル君が起きたらまた謝っとくよお」
「いや……。それは、面倒なことになるから止めておけ……」
「ん……?まあ、カルマ君が言うならあ」
カルマが心底疲れた表情で頭を抑えながらロニーと会話をしていた。会話をしているロニーは首を傾げながら何かを考えている様子だったが、すぐに諦めたのか平然とした表情に戻っていた。
それにしても、なんだかおもしろいものを見た気がした。誰か一人がいないだけで、ロニーとニコルが喧嘩を始めたり、ロニーがニコルを叩いたり、普段なら見ることのできない、皆の一面を見ることができた。まあ、主にその二人だけだけど……。
なんとなく、ここにはいないリディアに感謝しながら、カルマと共にニコルの元に駆け寄った。
自分がいない時は皆どんな感じなのだろう、と久しぶりにヨイヤミの好奇心が膨らみ始めていた。
「ニコルって案外弱いんだな……」
ヨイヤミは苦笑交じりにニコルに話しかける。
「まあ、あいつは口だけで強がっているところがあるからな。それでも、心の芯は誰よりも強い奴だよ」
それはなんとなくわかる。少し前に、皆で壁の向こう側で話していた時を思い出しながら、そんなことを思う。
「もっと素直になればええのにな。そうすれば、あいつももっと、笑って過ごせるやろうに……」
ここにいない共通の友達のことを話すことが本当に楽しい。少し前までは自分のこんな姿、想像もできなかった。
今は陽も傾き始めて、貴族街へと向かう帰り道。カルマと二人で談笑しながら歩いている。
「それができたら、あいつはあんなに苦労してないさ。まあ、リディアの言う通り、あいつは少しねじ曲がってるんだよ」
カルマも苦笑交じりにニコルのことを話す。
「まあでも、ニコルが素直だったら、それはそれで気持ち悪いけどな……」
「そうだな」と言って二人揃って吹き出す。二人の会話には笑みが絶えない。
エリスはいなくなってしまった。でもだからこそ、この彼らと過ごす時間を本当に大切にしようと思っていた。
だが、そんなヨイヤミの思いを嘲笑うかのように、またしても悲劇の歯車が動き始める。
死神が彼の背後から寝首をかこうとするかのように、彼の後を追って災厄は繰り返される。
エリスがいなくなってから一ヶ月も経たない内に、ヨイヤミの世界は崩壊した。