不器用な思いやり
次の日は学校に行くと言って家を出た。母さんも父さんもヨイヤミに気を遣ってか、昨日のことについて一切触れることなく、いつもと同じように振る舞っていた。
母さんが準備した料理が食卓に並べられ、三人はいつものように向かい合って席に着く。ヨイヤミも、不貞腐れてそれに参加しないなんてことはしない。両親を恨まないというのは、エリスとの最後の約束でもある。
しかし、どうしても会話をする気にはなれなかった。静かな食卓に、陶器の食器に銀のスプーンがぶつかる音だけが響き、誰かの咀嚼の音がたまに雑音となって耳を震わせる。
両親もまた、こんな雰囲気で会話をする気にもならないのだろう。それでも、こうやって三人で並んで食卓を囲うことができていることに安堵しているのか、母親の表情は何処か和らいで見える。
テーブルに出されたものを全てさらえて「ごちそうさま」と食卓を立つ。
結局そんな挨拶以外の言葉を発することなく、ヨイヤミは家を出た。
その日は学校に行く予定だったが、もちろん学校に行く気などにはなれずに、ふらふらと大通りを歩いていた。
受け入れたと言っても、やはりそんな早くに立ち直ることはできない。そんな簡単に割り切れるほどヨイヤミの心は大人ではなかったし、割り切れることが大人だというのなら、大人になどなりたくないと思った。
何の意識もなくただ道なりに歩いていたはずだったのに、ヨイヤミはいつの間にか、貴族街の東側にあるスラム街と貴族街を分かつ城壁の前に佇んでいた。
自分でも、自分がこの場所に何の意識もなく来たことに驚いた。無意識の内に、カルマたちのことを求めていたのだろう。
彼らと関わり合える時間は、ヨイヤミの至福の時間となっていた。彼らと言葉を交わすことで、この胸のしこりがとれるのではないかと思っている自分がいたのは確かだった。
そして彼らは、いつものように壁のこちら側で待っていてくれた。いつもと違ったのは、そこにいたのが一人ではなく、皆揃っていたことで……。
「よっ、ヨイヤミ。どうした?そんな辛気臭そうな顔して」
「俺らがこっち側来たのがそんなに嫌だったか?やっぱり貴族の方々は、俺たちに国を汚されるのが疎ましいようで……」
「だから、なんであんたはそうやってひねくれた考え方しかできないんだよ」
カルマ、ニコル、リディアが次々とこちらに話しかけてくる。彼らの勢いに乗り遅れた三人も、自分たちも挨拶しなければ、というように慌てて口を開く。
「こっちに来るのは久しぶりだなあ。ヨイヤミ君も久しぶりい」
「あ、あの……。こ、こんにちは、ヨイヤミさん……」
「ヨイヤミおにいちゃん。……あ、あれ?どうかしたの?」
ロニー、サラ、レアもヨイヤミに向けて声を掛けてくれる。そんな当たり前のことが、すごく嬉しくて、ヨイヤミは無意識の内に、自らの双眸に涙を浮かべていた。
それを見た、レアが相変わらず小動物のようにとてとてと近寄ってきて、ヨイヤミの服を掴んで引っ張る。
「だいじょうぶ?」
小動物のようなくりくりとした目で上目づかいをして覗き込みながら、ヨイヤミを気遣うような声音で尋ねてくる。
先程軽口を叩いていたニコルも、ヨイヤミが急に泣き出したことに驚いたのか、言葉を失い、呆然とヨイヤミを眺めている。
そんな中でもリディアだけは相変わらず飄々とした態度でニコルに皮肉を言う。
「ほら見ろ。お前が余計なこと言うから、ヨイヤミが泣いちゃったじゃないか」
そう言われたニコルは、あたふたとし始め、自らを指差しながら「俺のせいか?」とリディアに尋ね始める始末である。相変わらず撃たれ弱いのがニコルの可愛いところではある。
「おい、ヨイヤミ……。本当に大丈夫か?」
レアに続いて、カルマがヨイヤミに近寄り心配そうに尋ねる。
自分が泣いたことで、本気で心配して気遣って声を掛けてくれる友達がいる。
急に泣き出しても、いつもと同じような態度で、しかし、どこか気遣うような視線を送ってくれる友達がいる。
少し離れたところから、彼らのように声を掛けることはないが、ジッと心配そうな視線を送ってくれる友達がいる。
そんな彼らにこれ以上涙を見せる訳にはいかない。ヨイヤミは自らの腕で涙を拭い、自らの顔に笑みを無理矢理に貼り付ける。
「ごめん……。ちょっと色々あって……。それにしても、皆なんでこっちにおるん?」
いつも誰か一人はこちら側でヨイヤミを迎えてくれることはあったが、皆勢揃いで貴族街側にいるなんていうのは初めてだった。それに驚いていたヨイヤミがようやく皆に向けて尋ねる。
「最近俺やリディアが、ヨイヤミを迎えに行くためにこっちによく来るようになっただろう。これだけ毎日のようにこっち側に来てるのに、ヨイヤミ以外の貴族街の奴とあったことがない。俺たちがこっちにあまり顔を出さないのは貴族の奴らに見つかって、軍に通報されて殺される危険性があるからだ。その危険性がないなら、俺たちがこっちに来ても問題ない」
カルマが一通りの理由を誰の介入も許さないように、一息で述べる。これで、説明が終わりかと思ったのだが、どうやらまだ何かあるらしい。
「それに、ヨイヤミがいつもこっちに来てくれているから、たまには俺たちがこっちに来るべきじゃないかと思ってな……」
危険性がどうの、という話も嘘ではないのだろうが、本当の理由はこっちだったのだろう。そんなカルマの後ろでニコルが、
「別に俺はお前のために来たんじゃねえぞ。こいつらが皆こっちに行っちまうと、暇になるから来ただけだからな」
とブツブツ言っている。それに対してリディアが「素直じゃないなあ」とからかうように肩をポンポン叩きながら言うと、「うっせえ」とニコルがリディアに噛み付いている。
やはりこの二人は相変わらずで、リディアがニコルをおもちゃにして楽しんでいた。
ヨイヤミがそんな二人を微笑ましげに見ていると、カルマが真剣な眼差しで尋ねてくる。
「で、何があったんだ?何か悩みがあるなら、俺たちに話してくれ。誰かの悩みを皆で分け合えるのが友達だ。お前がそんな悲しそう顔してたら、皆気になるだろ」
話題を変えたつもりだったが、どうやらそうは問屋が卸さないようだ。話したくないという気持ちもあった。決して楽しい話ではないし、皆を暗い気持ちにさせることはあっても、明るい気持ちにさせることはない。
彼らに自らの悲しみを押し付けるようで、話すことを躊躇っていた。しかし、悩みを分かち合うのが友達だと言われれば、それを裏切ることはできない。ヨイヤミはカルマに促されるがまま、昨日会ったことの全てを話した。
長い時間、ヨイヤミの一人語りは続いたが、その間に口を挟む者は誰一人おらず、全員がヨイヤミの話を黙って聞き続けてくれた。
あのニコルでさえ、視線をヨイヤミには向けないものの、耳だけはヨイヤミの言葉を逃さないように、こちらに向けられていた。
ヨイヤミの一人語りが終わり、静まり返った空気を、一番に破ったのは意外な人物だった。
「なんだ、そんなことか……」
それがどうしたと言わんばかりに呆れた口調で、ニコルが言葉を発した。
流石にそれにはヨイヤミも苛立ちを覚え、目を吊り上げて怒りを露わにしようとした。
「そんなの、俺たちはもうとっくの前に経験したぞ。俺だって、お前と同じように目の前で殺された。しかも、両親をや……」
その言葉を聞いて、ヨイヤミの怒りの火が、水を浴びたかのように消えていく。ニコルからしたら、そんなことと言われても仕方がないのかもしれない。
それにしても、彼の言葉の中に一つ気になることがあった。ニコルの両親が、貴族街の者に殺されたのは知っている。だが、先程ニコルは『俺たち』と言ったのだ。
ニコルの次の言葉を待つように、ヨイヤミは唇を噛みしめる。
「ここにいる皆も……、目の前で殺されてないにしても、両親はもうこの世にいない。俺たちから比べたら、お前はまだまだ恵まれてんだよ。確かに友人を失って辛いかもしれねえけど、それでもお前にはまだ、帰る場所があるじゃねえかよ」
知らなかった……。カルマはニコルのことは話してくれたのに、自分の家庭事情は話してくれていなかった。リディアにしてもそうだ。誰も、自分に親がいないなんて言ってくれなかった。
「本当か?」と疑念を乗せた視線をカルマに送ると、カルマは少し俯いて悲しげな表情で答える。
「お前に、余計な気を遣わせたくなかったからな。ニコルの話は成り行きだったから……」
確かにそんなことを知っていても、ヨイヤミにはどうすることもできない。彼らが話さなかった理由も、わからない訳ではない。
でもカルマは先程、自らの口から『誰かの悩みを皆で分け合えるのが友達だ』と言った。それなら自分は何なのだ……、という言葉を寸でのところで飲み込む。そんな言葉は何の解決にもならない。
「でも、そんな俺たちだからこそ、今のお前の気持ちをちゃんとわかってやることだってできる」
ニコルが言いたいことは、どうやらまだ終わってないらしい。
ニコルは初めて、ヨイヤミとしっかり視線を交じえる。
「悲しいときは笑え。笑っていれば、いずれ悲しさなんてどこかに置いてこられる日が来る。別に、お前の友人を忘れろって言ってんじゃねえぞ。忘れるんじゃなくて、それを乗り越えて笑え。そのために、俺たちがいるんだろ」
ニコルの言葉に、ヨイヤミは言葉を失う。あれだけいつも突っ掛かってくるニコルが、初めてヨイヤミに対して優しい言葉を掛けてくれた。
そんな優しさを受けて、ヨイヤミは心の底から込み上げてくる何かを、止めることができなくなりそうになる。
本当に、いつから僕はこんなに泣き虫になったんや……。
しかし、今必要なのは涙なんかじゃない。ニコルが言う通り、笑い飛ばしてやらなければならない。じゃないと、なんだかニコルに負けた気分になる。
ヨイヤミは涙を必死に抑え込んで、無理矢理に笑って見せる。
「ふふ……、あははは……」
無理矢理に笑おうとして、なんだか不気味な笑い方になっている気がする。
そんな不気味な笑い声を聞いて、話を終えじゃれ合っているニコルとリディアが一斉にこちらに視線を向ける。二人だけではない。カルマもレアもロニーもサラも、皆がヨイヤミの方を向いた。
こんな笑い方では終われない。ヨイヤミは腹の底から声を上げて笑う。
「あはははははははははは……」
急に奇怪な行動をし始めたので、逆に心配そうな視線を皆が向けてくる。そんな視線は必要ないと言わんばかりに、ニコルへの皮肉を織り交ぜてやる。
「あははは……。ニコル、お前本当に、素直やないな……」
「んだとっ。この野郎」
ヨイヤミの言葉に、突っ掛かろうとしてきたニコルを静止するように、すぐさま口を開く。
「でも……。ありがとうな……」
素直な感謝の気持ちを聞いて、ニコルの足が止まる。そこで、何か考えるようにヨイヤミをジッと見てから、また視線を逸らす。
「別に、いつまでもウジウジされてても、こっちの気分が悪いだけだからな。勘違いすんじゃねえよ……」
そう言うニコルの言葉には、いつもの棘が含まれていない。ここで皮肉を言えば、また元に戻るのは目に見えていたので、了承の言葉だけを残す。
「そっか……」
それ以上、ニコルも何も言わない。二人の会話が終わるのを待っていたのか、周りから一斉に声を掛けられる。
「そうだ。寂しくなったらいつでもここに来い。寂しいなんて思えないくらい、楽しませてやる」
「面白いことなら私に任せなよ。いつだって笑わしたげるよ。主にこいつで……」
「僕たちはもう友達だからねえ。悩みごとはいつでも相談してよお」
「そ、そうですよ。ひ、一人で抱えこもうなんて、しないで、下さい」
皆気を遣って声を掛けてくれる。リディアだけはニコルの首に腕を回して、ニコルがそこから逃れようと暴れていたが……。
そして、ヨイヤミの服が引っ張られているのに気が付いて、ヨイヤミは視線を下におろす。
「ヨイヤミおにいちゃん。もう大丈夫?泣かない?」
レアが上目づかいでこちらを眺めてくる。ヨイヤミは腰を下ろして、レアと視線の高さを合わせると、レアの頭に手を伸ばして優しく撫でる。
「もう大丈夫や。心配掛けてごめんな」
ヨイヤミの言葉を聞くと、パアッと晴れやかな笑顔を浮かべて、嬉しそうに微笑みかけてくる。
「ならよかった。かなしいときは、レアがいつでもなぐさめてあげるからね」
レアも幼いなりに、ヨイヤミに気を遣おうとしているのだ。それをわざわざ否定する必要も無いので、ヨイヤミは小さく頷く。
「ああ、そん時はよろしくな」
「うん」
レアは元気な声で返事をして、満面の笑みを浮かべる。
ヨイヤミは立ち上がると、もう一度皆へと視線を巡らせる。
エリス……。君がいないのはやっぱり寂しいけど……、僕はもう大丈夫や……。僕には、こんなに優しい友達がおるから……。
心の中で、今はもうこの世の何処にもいない、大切な誰かに語りかける。
そして屋根の隙間から覗く晴れ渡る青空を見上げると、何処かで彼女が微笑んだ気がした。