叫びは空へと
「ヨイヤミ、何をやっている」
鬼気迫った怒声を浴びせかけるのは、自らの父、リナルドだ。エリスとの会話に夢中になって、時間のことをすっかり忘れていた。確かに普段よりかは幾時か早い。それでも、帰って来た音に全く気付かなかったのは、自らの意識の全てがエリスに向かっていたからだろう。
「お前か……。お前がヨイヤミをたぶらかしたのか」
リナルドが何を言っているのか理解することができなかった。自分はただ、彼女と会話をしていただけだ。たぶらかされるようなことをした覚えはない。
「ヨイヤミ、こっちに来なさい」
父さんが呼ぶ声が聞こえる。何か目の前に危険な者がいるかのように、焦りが混じる口調で父さんが自分を呼んでいる。母さんは、父さんのより少し離れたところで、怯えたようにこちらを見ている。
「な、何でそんなに焦っとるの。僕は、ただ……」
そう言いながら、彼女と会話をしていることがバレれば、こうなることは何処かでわかっていた。だからこそ、父さんたちの前で彼女と会話することを避けていたのだ。
「何をやっている、早くこっちに来なさい」
リナルドのその怒声にはこれまでに見たことがない憤怒の感情が込められている。
今は彼女から離れてはいけないと思う気持ちと、これまでに見たことのない父親の怒気を孕んだ表情に、ヨイヤミの視線が左右に目まぐるしく泳ぐ。
「あ……、あ、あ……」
言葉が出てこない。身体も動かない。思考が追いつかない。
ヨイヤミが動く気配がないことを察したリナルドは、地団駄踏み鳴らすように、激しく足音を立てながら、ヨイヤミの元へと近づき、腕を引っ張って手繰り寄せると、もう片方の手で腰に備え付けられていたホルスターから拳銃を引き抜いてエリスに向けた。
それを見た瞬間、身体が勝手に動いていた。リナルドの腕にしがみつき、拳銃をリナルドの手から退けようともがいていた。
「大人しくしろ。あいつはここで始末する。奴は奴隷として、やってはいけないことをやったのだ」
違う、彼女に近づいたのは自分だ。自分から彼女にたのだ。むしろ彼女は拒絶した。近づいた僕を拒絶した。彼女は何も悪くない。悪いのは全て自分だ。
そう言ってやりたいのに、もがくのに必死で口から言葉が出てこない。腕の中でもがくヨイヤミが鬱陶しくなったのか、リナルドは拳銃を振り上げて、ヨイヤミの後頭部を殴りつけた。
感じたことのない痛みが全身を走る。痛みを感じたはずなのに、その痛みが知覚できない。そのまま、意識が朦朧としていく。
リナルドに体重を預けるようにして、ヨイヤミは倒れ込む。そして、リナルドはヨイヤミを床に横たえると、もう一度拳銃をエリスに向けてこう言った。
「やはり、今日は殺さない。お前は自分の犯した罪を悔いながら、刑に処せられるべきだ。その方がこの子の教育にもなる。それに家を、その汚らわしい血で汚したくはない。異論はないな」
その言葉にエリスは小さく頷く。そして、彼女はリナルドに指示されるがまま、別の部屋へと移動する。
去り際にヨイヤミの耳に、エリスの囁き声のような小さな声が響き渡った。
「これで、ようやくか……」
その言葉を残して、彼女はこの部屋を出て行った。それと同じくして、ヨイヤミの意識も完全に暗闇の中へと落ちて行った。
ヨイヤミが目を覚ました時には既に日が昇っていた。あれから一体何日が経ったのだろうか……。しかし、そんなことはどうでもよかった。
目を覚ました、ヨイヤミはまず最初にこの部屋を出ようとしたが、いつの間にかこの部屋に施錠がされていた。
これまでどれだけ怒りながらこの部屋に閉じ込めても、施錠などされたことがなかったのに、この部屋に施錠がされているのだ。ヨイヤミがこの状況を飲み込むのに、それほどの時間は掛からなかった。
自分は取り返しのつかない罪を犯してしまった。彼女を殺したのは、いや、これから殺すのは自分のようなものではないか……。
施錠された部屋から出ることは叶わない。彼女を救う手だてはもう、どこにもない。後は、彼女の死に際の姿を見ることだけしかできない。
「あ、あ……、あ、うわああああああああああああああああああああ」
ヨイヤミは頭を抱えて叫んだ。そんなことしたって、何も変わらないのはわかっている。それでも、そうせずにはいられなかった。
爪が皮膚にめり込みそうになるほど力強くこめかみのあたりを押さえつける。痛みが欲しかった。自分を責め立てる何かが欲しかった。そうでなければ、責任に押し潰されそうになる。
ヨイヤミの叫び声を聞いても、誰もこの部屋に来ようとはしない。食事すら与えられない。明らかにこれまでとは訳が違った。処刑当日まで、この部屋から一切出さないつもりだ。
爪が食い込み、血が流れ出る。ヨイヤミは力なく項垂れ、床に額を押し付ける。
「うう……、うっ、ううう……」
嗚咽が止まらず、唾液が床に垂れる。それに追従するように、顎の先に到達した血液が、ポトリと床に垂れる。
それ以上、自らを傷つけることを、自らが許してくれなかった。どれだけ力を入れようとしても、それに抗うように力が入らない。脳は正直に、その行動を抑制する。
どれだけ自分が自分を傷つけようとしても、身体が許してくれないのだ。もう、どうすることもできなかった。今のヨイヤミにできることは、涙を流して、泣き叫ぶことだけだった。
その日は赤子のように一日中泣いて、泣き疲れて、涙も枯れ、ただ呆然と寝転んで床をながめていた。
結局この日は食事を与えられることもなく、空腹がヨイヤミを襲う。腹の虫が鳴り始め、こんな時でも空腹を感じる自分に苛立ちを感じて、腹部を殴りつける。
「くそっ、くそっ、くそっ……」
怒りの矛先は自分しかない。意味がないとわかっていても、何かがあると自傷行為を行いたくなってしまう。
そんなことをしていると、またしても涙が双眸から垂れ落ち地面を濡らす。またしても、静かな部屋に嗚咽が響き渡る。
ヨイヤミはいつの間にか涙を流しながら眠りに落ちていた。
翌日、扉が開けられる音で目を覚ます。自らの視線の先にいるのは、父リナルドと、軍の兵士と思われる服装に身を包んだ二人の男だった。
「ヨイヤミ、これから処刑台に向かう。奴の最後だ。悪いが、暴れられても困るのでな。罪人ではないが、お前にも手錠を掛けさせてもらう」
リナルドの指示で、隣にいた二人の兵士がヨイヤミの左右に立ち、腕を背中の後ろで組んで手錠を掛ける。最早、ヨイヤミに抵抗する気力など残っていなかった。
兵士がヨイヤミの脇に手を潜らせ、無理矢理に立ち上がらせる。
「お前は、自らが貴族であるということを自覚し、奴隷の扱いについて、正しく理解せねばならん。今回はその勉強だ。これから起こることをその眼に焼き付け、自らの過ちを反省しなさい」
リナルドの言葉に、ヨイヤミは一切の反応を示さない。だがそれを咎めることもなく、リナルドは兵士二人に顎で突いてくるように指示する。
二人の兵士に支えられ、ヨイヤミは何日かぶりにその部屋を出た。
家を出たヨイヤミが連れて行かれたのは、王都にある処刑台だった。広場の真ん中には十字の台座が鎮座している。
生物でないにも拘らず、その台座が放つオーラはとても禍々しく感じられた。その台座は所々が赤く染まっており、この一帯を覆うのはこれまでの先人たちが残した死の匂いそのものだ。
この台座には今は誰もいない。だが、いずれこの台座には彼女が繋がれる。それを考えた途端、その台座に赤く染まった彼女の幻影がヨイヤミの脳裏に浮かび上がる。
「ひっ……」
あまりの恐怖につい声が漏れてしまう。だがそれも、もう少しすれば幻影ではなく現実になるのだ。ヨイヤミは兵士二人に抑えつけられたまま、その場で身を震わせる。
肩を抑えつけられ、手錠を腕に掛けられていると、まるで自分がこれからあの台座に繋がれるのではないかと思えてくる。
ヨイヤミとしてはそちらの方がどれだけ良いかと思うが、そうでない現実に絶望する。
エリスがこの場に来るのを待つのが永遠にも感じられる。ここに連れて来られてからの時間感覚が一切ない。しかし、顔を上げると焦らしているかのように、太陽の動きに変化がない。
リナルドも一切口を開こうとしない。今何を言われても耳に入ってはこなかっただろうから、ヨイヤミとしてはどちらでもよかったが……。
リナルドがエリスの到着が遅れていることに苛立ちはじめ、足を執拗にゆすり始めたころ、この広場の入口にある金属の門が、ギシギシと重厚で錆びついた音を発てながら開き始めた。
ヨイヤミにはその音が地獄への門が開かれたように聞こえた。そこから、暗闇が吐き出され自らを飲み込んでいくかのような幻想に囚われる。
しかし、実際にそこから現れたのは暗闇などではなく、こんな時でも美しくあり続ける少女だった。これから死への階段を昇るというのに、彼女は何に臆することもなく、ただ真っ直ぐな眼差しをヨイヤミに向けてきた。
それがヨイヤミには一番辛かった。非難の目を浴びせられた方が、余程気持ちが楽になっただろう。ヨイヤミの心の奥底から、溢れんばかりの罪の意識が込み上げてくる。それが熱に変わり、身体中を駆け巡り、やがて目頭を燃やす。
だが、ヨイヤミはそこで必死に涙を堪えた。彼女の前で泣くことだけは許されない。それは、何があってもしてはいけない。そう、心に誓っていた。幸い、昨日でほとんど涙は枯れ果てており、涙を抑えることは可能だった。
ヨイヤミと同じように、腰の後ろで手錠を掛けられており、その上彼女には、足にも錠が掛けられている。そして、前に四人、左右に一人ずつ、後ろに二人の兵士に囲まれて、彼女はこの広場に入ってくる。
手錠の鎖が、エリスが一歩踏み出すごとに、擦れてジャラジャラと音を発てる。その音が静寂に包まれたこの広場に鳴り響く。
エリスは最初こそヨイヤミに視線を向けたが、その後は自分がこれから向かう場所を、ただただ見つめていた。ヨイヤミの横を通る時も、決して視線を合わせようとはしなかった。
ヨイヤミも掛ける言葉などあるはずもなく、通り過ぎる彼女をただ見つめていた。
やがて、台座に辿り着いた彼女は、十字架にその手と足と首を、鎖で巻きつけられて固定されていく。その様子をヨイヤミはただ見ることしかできなかった。
できることなら、この二人の兵士を振り解いて、彼女を助けに行きたかった。しかし、彼女を囲うのは、八人の兵士だ。自分にどれだけ力があったところで、凶器を携えた十人の大人に敵うわけがない。
願ってはいけないとわかっていた。それでも今だけは、エリスが話してくれた魔法が欲しかった。恐怖の象徴だろうとなんだろうと、彼女を救えるのであれば何でもいいと……。
だが、そんな都合よく、自分に魔法が使えるようになる訳もなく、目の前の少女が十字架に縛り付けられるのを、黙って見ることしかできなかった。
彼女を十字架に縛り付けた兵士たちは、皆一様に離れ、彼女を中心として、半円状に広がるようにして銃を構えた。
彼ら一人一人が撃鉄を引く音が、静まり返った広場にカチリ、カチリと鳴り響く。
兵士の皆が撃鉄を引き終えたのを確認したリナルドは、彼らの少し前に出て「まだ撃つなよ」と暗に示すように手を挙げる。
「最後に言い残したことがあれば聞いてやろう」
これから死を迎えるものに対する、常套句のような言葉を吐き捨てる。ヨイヤミは、エリスの口許へと視線を向けた。ヨイヤミが注視していたエリスの口元ゆっくりと動き始める。
「私の思いの全ては、あなたとの思い出の場所に残してきました。だから、私に悔いはありません」
それだけ言うと、エリスはもう話すことはないという様に口を閉じる。エリスの視線はヨイヤミへと向けられることはない。
彼女は天を仰ぐように、誰もいない虚空の空間に向けてその言葉を紡いだ。しかし、それがヨイヤミに向けられた言葉であることは明白だった。
もっと話してくれ。少しでも長くエリスの声が聴いていたい。少しでも長くエリスの瞳を眺めていたい。少しでも長くエリスの鼓動を感じていたい。
口を閉じたということは、死を受け入れ覚悟をしたということ。エリスは目を閉じその時を待った。リナルドもそこで焦らすような悪趣味な感性は持ち合わせていない。
彼女が口を閉じたのを確認すると、兵士たちの後ろへと下がる。
リナルドが下がったのを確認した兵士たちは揃って、エリスに向けて銃口を向けて構えた。
もう後戻りすることはできない。これが彼女を見ることができる最後の機会だ。彼女が撃たれて死ぬところなど本当は見たくない。でも、彼女の死を見届けることが、ヨイヤミが彼女にできる最後の罪滅ぼしだと思った。
だから、その視線をエリスから外さないように、自分の心を律する。
そして、リナルドが立ち止まり、その重たい口を開いた。
「やれ……」
ヨイヤミでも聞いたことがないような、重く冷たく凍えきったリナルドの声がヨイヤミの鼓膜を刺激し、これが本当の最後だと理解すると、エリスに自らの意識の全てを注ぎこむ。
そして次の瞬間、鼓膜を破るような大気を震わせた銃声が、風を切り劈くような叫喚となってヨイヤミの耳に届いた時には、既に彼女の腹部を八発の銃弾が襲いかかり、その身体に風穴を空け赤い鮮血を辺りにまき散らしていた。
「ひっ……」
抑えられない感情と共に、嘔吐するかのように悲鳴が口から漏れ出る。それでも、彼女の最後をこの目でしっかり焼き付けなければという、その意志が彼女から視線を外すことを拒んだ。
彼女とお互いの視線が交差する。
その眼が何を語りかけているのか、必死に見つめる。
彼女の眼が、彼女の口許が、自らの最後を悟って小刻みに震える。
そして、最後まで彼女の顔から視線を逸らさなかったヨイヤミに向けて、エリスが必死の思いで声にならない最後の言葉を届けた。
「ありがとう」
本当に何と言ったのかはわからない。
エリスが発したその言葉が空気を震わせることはなく、ヨイヤミの耳には届かなかった。
それでもヨイヤミの目にははっきりと「ありがとう」と言ったように見えたのだ。
ヨイヤミも何かを返そうとする。
しかし、返す言葉が見当たらない。
ただ、彼女の最後を見続けることしかできない。
そんなヨイヤミに向けて、エリスは最後にこれまでにない笑みを浮かべた。
見惚れるほどに美しかった。
あの表情の乏しかったエリスが、誰が見ても解るような笑みを浮かべたのだ。
これから死ぬというにもかかわらず……。
その笑顔を見た瞬間、ヨイヤミは全ての感覚を失い、彼女に見蕩れてしまった。
言葉を発することも、泣くことも、笑い返すことも、今のヨイヤミにはできなかった。
全ての意識が吸い込まれるようにエリスに向けられていたから……。
一瞬しかなかったその時間が永遠のように感じられた。
この場には彼女と自分しかいないようなそんな感覚に陥っていた。
そして、その幻想の崩壊と共に、エリスは項垂れるようにして命を絶った。
その瞬間、全ての感情がヨイヤミの元へと逆流する。
怒り、悲しみ、憎しみ、苦しみ、全ての負の感情がヨイヤミの心の中で激しく渦巻き、暴れまわり、ヨイヤミの心を痛めつける。
「うわあああああああああああああああああああああああああああ」
感情と共に言葉や涙もまた、ヨイヤミの元へと戻っていく。
泣かないと決めていた。受け入れようと決めていた。
しかし、枷であった彼女は、もうこの世の何処にもいない。ヨイヤミを抑えつけていた枷は、全て取り払われ、その感情が暴発する。
ヨイヤミは二人の兵士を押し除けて、広場の出口へ向けて走り出す。二人の兵士は追いかけようとしたが、それをリナルドが止める。
「構わない。好きにさせてやれ」
兵士は追うのを止め、泣き叫びながら走り去るヨイヤミの後ろ姿をただ眺めていた。
ただ走った。今何処にいるかもわからないまま、何処を目指しているかもわからないまま、ただ感情の赴くままに走った。その足を止めれば、また感情の渦にのみ込まれる。だから、襲い来る感情の渦から逃げるようにして、宛てもなく走り続けた。
どれだけの時間走っただろうか。既に太陽が東の地平線に沈みかけていた。この三日間何も食べておらず、もう何の気力も残ってない。空腹と酸素不足のお陰で少しは感情の渦が和らいだ。
絶え絶えの上がり切った息で、必死に酸素を取り込もうと息を吸う。
「はあ、はあ、はあ……」
その苦しみがどこか心地よかった。誰かに責められているような気がして心が安心する。
結局行く宛などなく、息も絶え絶えに辿り着いた場所は家だった。
宛てもなく走る中で、ヨイヤミは彼女の最後の言葉を思い出していた。
『私の思いの全ては、あなたとの思い出の場所に残してきました』
もしかしたら、あの部屋にエリスは何かを残してくれているのかもしれない。それなら、父親がそれに気が付く前に、それを回収しなければならない。
家の玄関の扉に手を掛ける。いつも開いている扉と同じはずなのに、その扉がものすごく重たく感じられる。
ヨイヤミの意識はあの部屋にしかない。あの部屋までどうやって辿り着いたのかも記憶にない。
それでもヨイヤミはあの部屋の扉の前に立っていた。
彼女と毎日のように言葉を交わしたあの部屋。彼女と初めて会ったあの部屋。彼女のことを美しいと感じたあの部屋。
ヨイヤミは静かにその扉に手を掛けて、ゆっくりと扉を開ける。
扉を開けば、彼女がいつものぶっきらぼうで平坦な顔で迎え入れてくれるかもしれない。「今日は何の用でしょうか?」と尋ねてくれるかもしれない。
そんな幻想は空しく、扉の先には何もない寂寞とした空間が広がるだけだった。
また目頭が熱くなる。今日はこれで何度目だろうか……。
ヨイヤミはその部屋に足を踏み入れる。
この部屋は、本当に何もないのだ。こんな場所の何処に、ものを隠すことができるのだろうか。
ヨイヤミは震えた小さな声で、今はもういない誰かに向かって小言を漏らす。
「何もないやないか……」
やはり勘違いか、と肩を落として俯いたその時、床の木目のひび割れがヨイヤミの目に映った。ヨイヤミはそこを剥がすようにめくると、そこに一枚の白い羊皮紙が挟まっていた。
ヨイヤミはそれを乱暴に掴みとり、勢いよく紙を開いていく。そこには彼女が書いたであろう文字が所狭しと並んでいた。
先に謝らせて下さい。ごめんなさい。
私は最初にあなたと言葉を交わしたあの日、死ぬことを決意しました。
それがあなたを苦しめることになるとわかっていて、私はあなたに近づきました。
主人の子供に近づいたとなれば、奴隷である私が殺されることはわかっていましたから。
私は奴隷である自分を受け入れることができなくて、早く死にたいと思っていました。
しかし、私は自分から命を絶つ勇気がなかった。
そんなとき、あなたは私に近づいてきた。
私がどれだけ拒んでも、あなたは離れて行こうとはしなかった。
だから、それをいいことに私はあなたを利用しようと思いました。自分が死ぬための道具として。
自分で死ぬ勇気のなかった私はあなたにその責任を擦り付けたのです。
しかし、私はあなたに触れるにつれて、少しずつこの生活を嫌と思わなくなってしまった。
今では、心の何処かで死にたくないと思っている自分がいます。
あなたは心の優しい人だ。自分のせいで私が死んでしまったと悔やんでいることでしょう。
ですが、悔やむ必要はありません。私は死ぬべくして死ぬのです。
奴隷になっていいことなど一つもありませんでしたが、あなたと出会えたことだけが唯一の私の思い出です。
未来のご主人様になるという話、とても嬉しかった。
結局、約束を破ってしまったのは私の方でしたけど。それでも、本当に感謝しています。
それと、恐れながら一つだけ。
両親のことを恨んではいけませんよ。奴隷と貴族は相いれない存在です。
ここに住んでいる以上、あなたの為にも、両親はこうする他ないのです。
ですからこれからは、しっかりと肝に銘じておいてください。あなたのために。
こんなことを私が言うのはとても我が儘なことだとわかっていますが、言わせて下さい。
私のことは忘れて下さい。私のために、あなたの大切な時間を費やさないで下さい。
それが私の最後の願いです。
では、さようなら。
短い間でしたが、楽しい時間をありがとうございました。
最後に一つ、紙やペンは勝手にお借りしました。私、手癖が悪いので。
エリス
紙の上に涙の雫がポタリ、ポタリと落ちていく。今日はあれだけ泣いたにも関わらず涙が止まらない。これまで渦巻いていた負の感情が、スッと消えていくように、ヨイヤミの身体が軽くなる。
負の感情が消えて空っぽになったヨイヤミの心の中を、暖かな気持ちが満たしていく。
ヨイヤミのその手紙を胸に押し付けて、声を上げて泣いた。
それはこれまでの自らを責め立てるための涙ではなく、出会って経った数ヶ月会話を交わしただけのヨイヤミのことを、こんなにも思っていてくれていたというエリスへの、感動と感謝の涙だった。
彼女はいつも感情表現が乏しく、平坦な表情をしていた。だから、いつも話を聞いてくれていたが、何処かそれを仕事のように感じていたのではないかと思っていた。
しかし、彼女からの手紙を受け取り、そのもやもやは霧散していく。彼女も、ヨイヤミと会話を交わすことを楽しいと思っていてくれていたのだと……。
どれだけ後悔しても、もう取り返しはつかない。
彼女も言っていた。『復讐は何も生まない』と。だから、この件について、自分を含めて誰かを恨むようなことがあってはいけない。それはエリスへの冒涜になるから……。
手紙を押し付けた部分に、まるでエリスがそこにいるかのように、熱が込み上げ暖かな気持ちに包まれる。
彼女の死を受け入れよう。両親のことを恨むのもなしだ。自分を責め立てるのも止めだ。
ただ一つだけ、この手紙の中で受け入れることができない部分がある。
『私のことは忘れて下さい』
そんなことできるはずがなかった。彼女の遺言だったとしても、それだけは聞き入れる訳にはいかなかった。
彼女のことを一生忘れる訳がない。今まで彼女に抱いていた自らの気持ちも、一生忘れる訳がない。
僕はその手紙を胸に抱き、涙を流しながら、走り疲れた身体で睡魔に抗うことはできずに、眠りに落ちていった。深い海に沈んでいくように、意識は少しずつ暗闇に溶けていく。
その日は、初めてエリスと会った日の夢を見た。今日までの楽しいエリスとの会話の日々を、まるで走馬灯のように駆け巡る夢を見た。
現実と少し違ったのは、彼女が無邪気な笑顔で笑っていたことだった……。
※あとがきに裏設定あり
誰かの死には必ず意味がなければならないと考えています。何の意味もなく殺すだけというのは、あまり好きではありません。彼女はこれからもヨイヤミの心に残り続けていくことでしょう。ヨイヤミがロイズのことを好きなのには、少なからずエリスが関係しています。ヨイヤミはエリスから受けた影響で、凛々しい年上の女性がタイプになっています。まあ、これは裏設定で本編では特に記述していませんが…。だから、特に何の脈略もなくロイズのことが気になる、というヨイヤミの描写が出てきた訳です。このことが気になっていた読者の方は、これで少しはすっきりするのではないかと思います。