過去の痛みは未だ消えず
ヨイヤミは楽しい日々が続いていた。エリスとは毎日のように会話を交わすようになり、最近では彼女の方からも、話題を提供してくれることが度々あった。ヨイヤミは、やっと友達ごっこではなく、本当の友達ができたような気がして、浮かれていた。いや、ヨイヤミの中では少しずつ友情以上の感情が芽生え始めていた。
これまでに感じたことのないような感情。エリスと会話をしていると、とても楽しく、そして心が躍る。彼女の顔を見るのが楽しみでたまらない。元々彼女は端正な顔立ちをしており、出会いがこんなものでなければ、近づくのも憚れるような美しい女性だった。
その美しい外見に気付いたその日からヨイヤミは既に惹かれていた。その上、彼女と言葉を交わしていく内に、彼女がとても優しく、しかし、ところどころで嫉妬したり、憎まれ口を叩いたりと、ヨイヤミの知る誰よりも人間らしい女性だった。
友達ごっこで周囲の目を気にして、自らを偽っている貴族街の人間よりも、余程人間らしいと感じた。ヨイヤミは本気で、いずれ彼女を奴隷という呪縛から解き放つつもりでいた。そして、いずれはこの気持ちを……。
しかし、その日は突然に訪れた。
その日も、ヨイヤミはいつもと同じようにエリスの部屋へと訪れていた。今日は休日で、両親共に家にはいなかった。その日はなんとなく、スラム街に行くことよりも、エリスとの会話を優先した。
案の定、エリスは開口一番にそのことを口にした。
「今日は、カルマさんたちに、会いに行かなくてもよろしいのですか?」
いつの間にか、両親よりも余程ヨイヤミのことを知るようになった彼女は、こんな休日に自分のところに訪れたヨイヤミに対して、疑問を投げかける。
「まあ、そっちに行こうとも思ったんやけど、今日はなんとなく、エリスに会いたいなって……」
ヨイヤミは少しだけ照れ臭さが混じった表情を浮かべながら、エリスに向かってそう告げる。そんなヨイヤミの様子を見て、エリスは小さく溜め息を吐いて、苦笑を浮かべる。
「私とは毎日のように会っているんですから、時々しか会えないカルマさんたちを優先した方がよろしいのでは?」
まだ陽も頂点に達していない午前中。今からスラム街に向かえば、確かに彼らと遊ぶ時間はまだあるだろう。それでもヨイヤミは、今日はここにいたいと思った。
「なんや、ご主人様の命令が聞けんのか?」
だから照れ隠しをするために、冗談交じりにそんなことを言う。普段なら、命令なんて言葉絶対に使わないのだが……。
「正確に言えば、私はあなたの奴隷ではないのですがね……。まあ、良いでしょう。未来のご主人様ということで、その命令にしたがっておきましょう」
エリスもまんざらでもないといった表情で、ヨイヤミとの会話を承諾する。ヨイヤミは、部屋から持ってきたパンを早速エリスに渡す。
両親がいない時にこの部屋を訪れる時は、これが決まり事みたいになっていた。決してエリスが自ら持ってきて欲しいなどと言ったことはない。しかしヨイヤミは、必ずパンを持参してこの部屋に来るのだ。
最近ではエリスもヨイヤミが持ってくるパンを拒絶することなく、快く受け取るようになった。エリスからすれば、本当に飢えたときは、その手癖の悪さで解消すればいいだけなのだが、最近すっかり仲良くなってしまったヨイヤミの好意を受け取らずにはいられないのだろう。
パンを受け取ったエリスは早速そのパンを齧る。その様子を見ると、ヨイヤミの表情は少しだけ嬉しそうになる。
パンを受け取るのも、受け取ったパンを直ぐに食べるのも、ヨイヤミに対する気遣いなのだ。それでも最近は、ヨイヤミが喜んでくれるのを見て、嬉しくなっている自分が間違いなくここにいる。
少しずつ覚悟が揺らいでいるような気がして少しだけ表情が陰るが、ヨイヤミにそのことを悟られないように、すぐに平坦な表情を貼り付ける。ヨイヤミと会話をしているときだけは、自らの覚悟を心の奥底にしまって、平坦な自分であり続ける。それが、こんな自分に優しさを分け与えてくれる彼への、ほんの少しの恩返し。
「なあなあ、エリスって魔法って信じる?」
ヨイヤミは不意にそんな質問をする。あるときリディアに尋ねられてから、ずっと気になっていた疑問を……。この国でない別のところから来たエリスなら、何か知っているかもしれない、そんなことを思っての質問だった。
「魔法ですか……。信じざる負えない状況を目にした、というのが正直に私が言えることでしょうか」
その答えにヨイヤミは驚きを禁じえず、目を見開いてエリスの顔を覗き込む。
「まあ、昔の話ですし、正直言って記憶はかなり曖昧になっています。ですが、あの日、私の国が戦争に負けた日、魔法という以外に説明のつかない事象を目にしたことだけは事実です」
エリスから驚愕の事実が告げられる。魔法なんて、現実には存在しないおとぎ話の中だけのものかと思っていた。だが、目の前にいる少女は実際にそれを見たというのだ。
「魔法としか思えん事象って、一体どんなんやったんや?」
ヨイヤミの質問に、エリスは少しだけ苦虫を噛みしめたような表情を浮かべる。
ヨイヤミは、しまったと口を手で覆い被せようとした。エリスが戦争に負けた日ということは、エリスの思い出したくもない過去の話をしてくれと言っているようなものだ。
だが、ヨイヤミがそんな行動に出る前に、エリスは何かを思い出すように天井を仰いだ。
「私たちの国を襲ったのは、この国の傘下の国でした。途中まで私たちの国は相手の国にも劣らない戦力で、拮抗した戦いを繰り広げていました。私もその時は、自らの力を買われて、人数の少なかった我が軍の最年少の兵として戦争に参加していました」
エリスはヨイヤミの知らない過去の話を、何処か遠くを見るような目で話し始める。ヨイヤミは申し訳なく思いながらも、せっかく話す覚悟を固めてくれたエリスを止める気にはなれずに、黙ってその言葉に耳を傾ける。
「戦争が始まって両軍の兵の数が半分を切った辺りで、戦況は嵐でも起きたかのように、凄まじい勢いで変わり始めました」
その頃の情景を思い出しているのだろう、エリスの表情に悲痛の色が浮かぶ。
「それまでは、どちらかと言えばこちらの軍が相手を圧していた形でした。しかし、先頭に構えていた部隊の兵の身体がいきなり燃え始めたのです。そこに大砲が撃ち込まれた訳でも、油を流し込まれてそれを燃やされた訳でもなく、本当にいきなり身体が発火したのです」
ヨイヤミは言葉のままに、その光景を想像する。人が燃える姿というのが、はっきりとしたイメージを掴むことができない。そのせいで、彼女と同じ心境に自らを持っていくことができない。
「そんな非現実な事態が起これば、皆が混乱するのも仕方がありません。統率がとれなくなった兵は、相手の兵により次々に殺されていきました。その間も一人、また一人と身体から炎を上げて倒れていきました」
エリスの頬を一粒の汗が滴り落ちる。それ程までに彼女の心を締め付ける光景だったのだろう。思い出すだけで、言葉を飲み込みそうになるほど恐ろしい光景。ヨイヤミもスラム街で味わったが、きっともっとむごい光景が広がっていたのだろう。
「そこからは地獄絵図でした。こちらはみるみる内に攻め込まれ、それまでの拮抗が嘘だったかのように、降参に至るまで追い込まれてしまったのです。我々の戦意を削いだのは、ある一人の男の、たった一撃の攻撃でした」
エリスは息を飲み、喉を鳴らし、自らが見た光景をそのままヨイヤミに告げる。
「彼は何もない掌の上に、巨大な炎の球を作り上げたのです。それを、魔法と言わずに何と呼ぶのか、私にはわかりませんでした。その炎の球は何人もの兵を飲み込んで、燃やし尽くしてしまいました。それを見た我々は負けを確信し、降参を余儀されました」
まるで炎が意志を持ったように、味方の兵を飲み込んで、燃やしていったとエリスは言う。そんなことがあるはずがない、本当は冗談なんだろ、と言ってしまいたい。
だが、目の前のエリスの表情を見れば、それが嘘でないことは想像に難くなかった。それ程までに彼女がこれまでに見せた、どんな表情よりも鬼気迫るものがあった。
「戦争に負けた国がどうなるかは、あなたもお判りでしょうから、それ以上のことは言いません。私も、あまり思い出して気持ちのいいものではないので……。唯一の私の救いは、女だったことと、幼かったこと……。兵でありながら、その理由だけで、奴隷として売るために命だけは救われました。今思えば、あの時に、他の皆と共に殺されていた方が、救われていたのかもしれませんが……」
天井に向けていた視線を足元へと落とす。確かに彼女の表情はそこまで変化していない。他人が見ても、彼女の表情の変化に気付く人は少ないだろう。
だが今のヨイヤミには、はっきりとわかる。彼女は泣きそうな程、悲しい表情をしていた。よく見ればいつもよりも瞼が落ちているし、口許も小さく震えている。
ヨイヤミは掛ける言葉が見つからず、言葉をしなったまま立ち尽くしている。
正直、彼女が述べた全ての事柄を、想像し思い浮かべられた訳ではない。むしろ、最後の方は、あまりにも突拍子過ぎて何を信じていいのかすら、はっきりとしない。
ヨイヤミが黙ったまま、時が止まったかのように、動けないままでいると、先にエリスが口を開く。
「そんなの思い違いだろう、と言いたいのはわかります。私も、思い違いだったらどれだけいいかと思います。でも、実際戦況は一瞬でひっくり返され、私は奴隷としてあなたの前にいるのです。こう言っては何ですが、私自身が魔法の存在の証明です」
そう言われてしまうと、信じるしかない。そもそも、エリスの言葉を疑う気など万に一つも無かったが……。やっとの思いでヨイヤミは言葉を絞り出す。
「魔法を目にしたとき、エリスはどう思った?」
ヨイヤミは魔法を信じてはいなかったが、魔法というものが存在すればいいのに、と思ったことは何度もある。好奇心旺盛なヨイヤミは、おとぎ話を呼んで魔法という存在を知り、自分にもそんな力がないのかと、鏡の前で色々と試してみたことがあった。
おとぎ話に出てくる魔法は、主人公やその仲間たちを救う、とても素敵な力で、ヨイヤミはその力を欲したことだって何度もあった。
だが、実際にその魔法は現実に存在し、しかも、その魔法が味方を救うものでなく、自らに牙を剥くものだとしたら、それはその者にとってどう移るのだろうか。
「一言でいえば、恐怖そのものでした。抗うことを許されない、絶対的な力。恐怖というものが具現化したような、そんな感覚です」
その言葉で、ヨイヤミの幻想は雪崩を起こすように瓦解した。リディアには魔法なんて信じていないと言ったが、それでも夢見ていたのだ。
だが、自らが望んだ力は、誰かを護る素敵な力などではなく、誰かを傷つけ、誰かを襲う、恐怖そのものだったのだ。そんなもの、欲していい訳がない。
「なあ、グランパニアの王が魔法を使えるっていうのは、本当か?」
リディアが言っていた言葉を思い出して、今聞かなければ一生聞けない気がしたヨイヤミは、考えたままに口にしていた。
「それは私にはわかりません。ですが、この国の傘下の国の王が魔法を持っていて、この国の王はその者を従わせているというのなら、魔法を持っていてもおかしくはないと思います」
確かにそうだ。少し考えればわかる話じゃないか。しかし、今のヨイヤミにはそんなことを考える思考すら残っていなかった。
あまりにも衝撃的な事実を聞かされて、ヨイヤミの思考はほぼ停止状態になっていた。
相変わらずヨイヤミは立ち尽くしたまま動かない。そんなヨイヤミをエリスは黙って、優しい視線を送りながら見守っていた。少年の彼には、衝撃的すぎる話である自覚はある。正直話すかどうかも迷ったのだ。
あの日のエリスも、その光景に思考が停止し戦うことを諦めた。今だからあの時の光景を思い出して、落ち着いて考察をすることができるが、戦争に負けたときは、戦争に負けたことや、これから自らが奴隷になること、そして、魔法という非現実なものが存在すること、そんな、現実に押しつぶされそうになって、自らの考えを整理することができたのは、かなり先のことだった。
少しの時間、微動だにしないままだったヨイヤミも、ようやく気持ちの整理ができるようになったらしく、顔色が少しずつ戻っていく。
落ち着きを取り戻し始めたヨイヤミは、ふと一つの疑問を思い浮かべる。
この世界に魔法があり、この国の王もその力を持っている。この国は、多くの傘下の国を持ち、その勢力は大陸の四分の一を占めようとしているほどだ。つまり、この国の王はそれだけの力を持っており、自分たちはその力によって護られているのではないだろうか。自分たちは、エリスの言う恐怖の象徴によって生かされているのではないだろうか……。
だが、こんなことをエリスに聞いたところで仕方がない。それに、学校では傘下の国が多く存在するということは教えられるが、エリスが話してくれたような戦争の話は聞いたことがない。
幼いヨイヤミは、なんとなく話し合いでもして、仲良くなった国が傘下に入ってくれている、などと言う甘すぎる考えをしていた。だが、少し考えたらそんな訳がないことは明白だ。
自分は今まで何を考えて生きてきたのだろう。この命は、何人の犠牲の元で成り立っているのだろう。こんなの、エリスの言う通り、ただ運が良かっただけじゃないか……。
目頭が熱くなり、涙が出そうになったところで、ヨイヤミは思考を強制的に停止し、考えるのを止めた。こんな運に恵まれている自分が、エリスの前で涙を流すことなど許されるはずがないと思ったからだ。
「あまり、思い出したくないことを何度も聞いてごめん。あと一つだけ教えて欲しいことがある」
エリスは小さく首を傾げて「なんですか?」と問うてくる。
「エリスの国を襲った、国王の名は?」
別に、それを聞いてどうしようと思った訳ではない。ただ、何度も思い出させる訳にはいかないと思ったヨイヤミは、今日聞けることを少しでも聞いておこうと思ったのだ。
「私の国を襲った国王の名は、イシュメル・ベオグラードです。あなたも一度や二度は聞いたことがあるのではないですか?今ではかなり大きな国になり、グランパニアの幹部候補にまでなっていると聞きます」
確かに、知らない名ではなかった。最近、勢力を拡大し、グランパニアの王に認められて、幹部候補として名が挙げられている。この国に住んでいれば、一度は名を聞いたことがあるだろう。
「そいつを殺したいと思ったことはあるか?」
その言葉に対して、エリスはヨイヤミに何かを訴えるような眼差しを向ける。
「ええ。そう思ったことは何度もあります。ですが、その度に思うのです。それは相手と同じことを繰り返そうとしているだけなのだと……。やはり、争いは何も生まない。相手を殺したところで、結局この気持ちが晴れることはない。だから……」
そこで、エリスは言葉を切る。その言葉の先を知りたくて仕方がなかったが、自らの問いにはしっかりと答えてくれたので、それ以上の質問は止めることにした。それに、言いたいことはおおよそ予想がついていた。
「そうやな、復讐なんてしても仕方ない。それよりも、未来を見ることの方が大事や。だから僕は君を買って自由にする。復讐なんかより、よっぽど希望のある話やろ」
ヨイヤミはこの沈みきった暗い雰囲気を打ち破ろうと、必死で笑顔を作って見せる。
正直、まだ笑えるほど心の整理が追いついていない。それでも、これだけのことを話してくれた彼女の覚悟に答えない訳にはいかないとそう思った。
だから、こんな話には負けはしないという意味を込めて、笑って見せたのだ。
そのヨイヤミの必死さがバレバレだったのだろう。エリスは苦笑するように、小さな笑みを見せた。ヨイヤミの強がりなど、彼女の目からすれば一目瞭然だ。これでも、毎日のように顔を合わせているのだから。
「そうですね。あなたの言う通り、復讐を果たすよりかは、可能性のある選択かもしれませんね」
少しだけからかうような口調が織り交ぜられたような気がして、ヨイヤミも軽く挑戦的な態度で返す。
「なんや、僕のことが信用できんのか?」
そんなヨイヤミの言葉に、エリスは目を伏せながら答える。
「以前よりは、少しは信頼できるようになりました」
その言葉が、ヨイヤミには何よりも嬉しかった。別に、完全な信用を置いてもらえるとは思っていない。自分はまだまだ子供なのだ。自分で金を稼ぐこともできなければ、働く伝手もありはしない。
そんな自分でも、少しでも信頼してもらえるようになったというのなら、いつか彼女から本当の信頼を寄せられることができる可能性があるということだ。
「今はそれで十分や。これからもよろしくな」
そうやってヨイヤミがエリスに向かってその手を差し伸べようとした瞬間、無残にもその扉は開けられた。