孤軍奮闘
翌朝、窓から差し込む陽の光を浴びて目を覚ましたヨイヤミは、眠気眼をこすりながらゆっくりと身体を起こす。扉の前には既に朝食が用意されていて、そこから漂ってくる香ばしい匂いが鼻孔をつく。そう言えば、昨日のお昼から何も食べていないことに気が付いたヨイヤミは、急に腹の虫が鳴り始める。
眠気眼でぼやけている視界のまま、はっきりとは見えない朝食に向かって、ヨイヤミは地面を這うように進んでいく。そして、礼儀正しく手のひらを合わせてお辞儀をすると、ガッつくように朝食を胃の中に掻きこんだ。
一週間閉じ込めるといっても、毎日三食ちゃんと運び込まれるのが、このお仕置きの甘いとこだな、とヨイヤミは思っていた。まあ、そんなこと思っても、絶対に口にはしないし、もし一週間もご飯を抜かれたら、下手すれば餓死してしまうかもしれない……。それでも、こういうところに何だかんだ両親の優しさを感じるのだ。
朝食を食べ終えたヨイヤミはふと、扉の向こう側にいる少女ことが気になって、扉の隙間を覗き込む。すると、昨日と一切変わらない場所に佇む少女の姿がそこにはあった。
一歩でも動いたのだろうか、という疑問と共に、もしかして眠っていないのではないかと、その少女のことが気になり始める。とりあえず、挨拶をして少しでも彼女の距離を縮めようと試みる。
「おはよう。え~と……、そう言えば昨日名前聞くの忘れとったな。名前何て言うの?」
ヨイヤミの挨拶とその問いかけに、少女は一切の反応を示さなかった。さすがのヨイヤミもそれには驚きを隠せなかった。完璧な無視などというものを生まれて此の方されたことがない。
驚きと共に少しの苛立ちを感じたが、いきなり怒鳴ったりしても仕方がないので、取り敢えずもう一度だけ先程の挨拶がなかったかのように少女に声を掛ける。
「お、おはよう。なあ、名前教えてよ。どうせこれから一週間暇なんやから、僕の話し相手になってよ……」
それでも少女は一切の口を開こうとはしない。初めての無視に、苛立ちを覚えるよりも先にヨイヤミの心が少しずつ、ボキッという音を立てながら折れていくのを感じる。それでももう一度だけ試みてみる。
「ごほんっ。えっと~、おはようございます。どうかお名前を教えていただけませんか……」
今度はかなり下手に出て挨拶をしてみたが、それでも起きているのか疑うほど、彼女は一切動かなければ、言葉が返ってくることもない。もう、ヨイヤミの心は音を立てて崩れ始めていた。
やがて、昨日父親が言っていたことを思い出す。
『これは道具であって、人ではない。これに無駄な感情を抱くなよ』
父親はそう言い残して、この場を去って行った。つまり、彼女は意志を持つこともなく、話すこともないのか……、と思いはしたものの、昨日扉を開けたときは面と向かって声を掛けてきた。奴隷といえど、自分と同じ人間なのだ。根気よく話しかければ、いずれ心を開いてくれるに違いない。
一度崩れ落ちた心を、何とか立ち直らせるために、一度陽の差し込む窓の方へと近寄り、陽の光を浴びながら、大きく深呼吸をすると「よしっ」と気合を入れ直した。
まだグランパニアの教育に染まり切る前だったヨイヤミは、奴隷の彼女を一人の人間として見ていた。だからこそ、ヨイヤミは、自分の暇を潰すためではなく、一人の友達を作るために、彼女に踏み込んでいこうと決めた。
しかし、ヨイヤミのその企みは難航を極めた。現在、目覚めて声を掛け始めてから無視された回数は、既に三十を超えていた。もうすぐお昼だというのに、今のところ彼女から一切の返答を得られていない。
昨日の件から考えて、扉を開ければ言葉を交わしてくれるかもしれないが、あの無表情で機械的な言葉を返されても、ヨイヤミの企みからは遠ざかるような気がしたので、その手は最後の手段として残してある。
「ああ……、話題を探すのも一苦労や。僕が思いつく話題はあらかた使い終わったしな」
ヨイヤミは部屋のど真ん中で、頭を抱えながら考えに耽っていた。しかし、おかげで暇を持て余すことなく、むしろどんどん楽しくなり始めていた。絶対に会話をしてやるというヨイヤミの決意は強くなるばかりだった。
やがて、母さんが昼食を持ってヨイヤミの部屋の扉を開ける。
「少しは反省したの?……って、何で頭を抱えてごろごろ床を転がっているのよ」
母さんは昼食を乗せたお盆を持ったまま、呆れきった表情でヨイヤミを見下ろしていた。思考を巡らせていたヨイヤミは、母さんの接近に全然気が付くことができなかった。まあ、この姿を見られたところで、ヨイヤミが何をしていたのかを勘ぐられる心配はないだろう。
「また、何かをしようとしても無駄よ。今回は見張りもいるんだし……。大人しくしていてなさい」
そう言って、昼食を床に置くと、腰に手を当ててあまりない胸を軽く張りながら、諭すようにそんなことを言った。その姿は子供が威張っているようで少し可笑しかったが、何とか笑いは堪えることができた。
「じゃあ、また夜に来るわね」
そう言いながら踵を返して後ろ手で扉を閉める。なんとなく、今の自分の企みを両親に知られるのは不味い気がしていた。わざわざこの部屋に入る前に、念を押して奴隷に感情を持つな、などと言ったのだ。そんな彼女と友達になろうという自らの企みがバレたりしたら、どうなるかわかったもんじゃない。
ヨイヤミは一旦、落ち着きを取り戻すと、両親の優しさを大人しく受け取る。自らに渡された昼食に口を付けようとした瞬間、外の少女が食事はどうしているのだろう、という疑問がふと頭を過った。ヨイヤミは、そっと隙間から外を眺める。
すると、ヨイヤミが朝食に食べたのと同じパンを一欠けだけ口に含む少女の姿がそこにはあった。自らの昼食には、パンやスープ、しっかりと焼き目の付いた干し肉や野菜など、しっかりとした料理が並べられていた。なのに、少女に与えられたのはたった一欠けらのパンだけ……。
これでは、どちらが罰を受けているのかわからない。ヨイヤミの心に今まで感じたことのない痛みが込み上げてくる。その痛みがなんなのか、経験の浅いヨイヤミには、はっきりと理解することができない。身に覚えのない感情を持て余していると、ヨイヤミは一つの答えに辿り着く。
「なあ、君ももっとご飯食べたいやろ。僕のご飯、少し分けんか?」
別に同情とか、そんな感情があった訳ではない。なかったというと嘘になるかもしれないが、それでもヨイヤミは、ただの親切心と友達になって欲しいという、ほんのちょっとの下心から、彼女にそんな提案をした。
だが、それすらも空振りに終わってしまった。結局、ヨイヤミの提案は完全に無視され、彼女のことを思っての言葉だった分、今までの無視された言葉の中でも一番のダメージを追うことになった。
心に大きな痛手を負ったヨイヤミは、昼食だけはしっかりと食し、そこからいつも通り部屋の真ん中で寝転がっているだけの時間を過ごした。何も考えずに寝転がっていることを、つまらないと思わなくもなかったが、さすがに先程の無視で再起不能となってしまったらしく、話題を考える気は起きなかった。
結局その日は、昼からずっとごろごろと部屋で寝転ぶだけの生活を送っていた。あまりしつこく話しかけて嫌われても仕方がないし、そもそも今日は話しかける気力が起きそうもなかった。
それでも、何度か彼女がどうしているのかが気になり、話しかけないまでも、扉の隙間から彼女の様子を覗ってはいた。
彼女は相変わらず一歩も動く様子はなく、朝からその立ち位置を一度たりとも変えていない。何もせずに部屋でゴロゴロとしているだけでも、動きたい、遊びたいという欲求が溢れ出してくるのに、一切動くこともなく、自分の見張りをしている彼女は一体どんな気持ちを抱いているのだろうか。
そんなことを考えながら天井を眺めていると、母さんから夕食が届けられる。もうそんな時間か……、と思いながら大人しく夕食を受け取る。母さんは相変わらず、一言二言、小言を残しながら去って行った。
昼食のこともあったので、夕食を分けるか提案するのは憚られた。昼食よりは少し大きめで、申し訳なさげに干し肉も乗っているパンを齧りながら、彼女は相変わらずその場を動かなかった。
ヨイヤミは精神や思考を色々とフル回転させたため、今日はすっかり疲れてしまった。人へどう話しかけるかを考えたのなんて、産まれて此の方初めてだ。その上、その全てを無視されるなど、これから一生ないかもしれない。
ヨイヤミはその疲れを癒し明日に備えるために、その日はまだ外から灯りが差し込んでいる時間に、眠りに就いていた。
次の日も同じように、ヨイヤミの彼女と話をしようという企みは続いていた。
「なあ、名前くらい教えてよ。名前くらい教えてくれんと、君とどうしても話さなあかん時にどうすればいいんや?」
そんな、ヨイヤミの取ってつけたような理由で彼女が動く訳もなく、こちらも相変わらず無視を継続中である。
「今日もいい天気やな。ほら、窓の外見てみ」
ヨイヤミの他愛ない話題にも、一言も返事することなく、窓に目を向けようともしない。
そんなやりとり(?)を続けている内にまた昼食がやってくる。今日は一つ、母さんに言ってやろうと思っていたことがあった。
「なあ、母さん。なんで僕とこの子の食事が違うん?一緒の食事出したってや」
そんな、ヨイヤミの申し出に母さんは困惑した表情を浮かべながら告げる。
「あのね、ヨイヤミ。そろそろあなたも、奴隷というものを理解しなさい。奴隷は私たちとは違うの……。同じものを食べるなんて以ての外よ……」
そう言う母さんは、特に悪意がある訳でもなく、諭すように優しい声音で告げる。
悪意があれば、ヨイヤミはいくらでも言い返すことができただろう。しかし、そうであると信じて止まない母さんの声音に、ヨイヤミは何も言い返すことができなかった。
そして、ヨイヤミの頭を一撫ですると、踵を返してその部屋を去っていく。ヨイヤミは呆けたまま、その場を動くことができなかった。
そんなことを言われた彼女がどんな表情をしているのか気になって、彼女の方を眺めたが、やはりその場から一歩も動いている様子はなく、彼女の表情を見ることは叶わなかった。
嫌われるかもしれない、と思いながらも、母さんが言っていることが納得できなかったヨイヤミは、彼女に向けてもう一度だけ接近を試みる。
「なあ、今日もいらんのか?食べたかったら言うてくれたら、いくらでも分けるで……」
その言葉に、彼女は何の反応も示さない。ただ、いつもと少し違ったのは、扉の隙間から覗く彼女の手が、ヨイヤミから見ても解るくらい力強く握りしめられていたことだけだった。
その日も全て空振りに終わったヨイヤミは、結局次の日も、その次の日も無視をし続けられた。それでも、ヨイヤミは根気強く彼女への声掛けを止めようとはしなかった。
それはただ、何もすることがなかったから続けられたのかもしれない。もし、今外に出てもいいと言われたら、無視を続ける彼女をここまで気に掛けなかったのかもしれない。それでも、ヨイヤミの友達になりたいという思いは嘘ではなかった。
しかし、ここまでくると逆に気になり始めている。それだけ頑なに無視をするのは何故なのかと……。