湯煙に包まれて
そんな感じで寄り道しながら買い物を続けていると、だんだんと雲行きが怪しくなってくる。この土地はあまり雨が降らないので、アカツキたちは雨の対策などしていないのだが、どうもいつもよりも厚い雲が空を覆い始めている。予期せぬ曇天に一度は困惑する。
「これはやばいな……。雨何て本当に何時振りや?まだ買い物も終わってへんのにな。そもそも、雨なんか降られたら帰れんくなるぞ……」
ヨイヤミが頭を掻きながら顔を渋らせる。普段から準備を怠ることのないヨイヤミだが、流石にこの雨までは見越していなかったようで、一人唸り声を上げ始める。
「雨か……」
ロイズがまるで何かを思い出すかのように、天を仰ぎながらそんな一言を漏らした。
自分を覚醒に導いたあの戦争の中で、森に広がった炎を消すために降り注いだ雨。その雨を降らした張本人はロイズに何も語ることなく、何も語ることのできない者となってしまった。
彼女は何のためにあの戦場いたのだろうか?彼女は何を抱えて戦っていたのだろうか?ロイズがそれを知ることは、これから先一生ないのだろう。だからこそ、ロイズの心の中に彼女のことが引っ掛かって判然としない。この不鮮明な思いがロイズの心をかき回す。
「何を神妙な顔しとんねん……。せっかくみんなで楽しく買い物しとるっちゅうのに、何を一人で物思いに耽っとんねん」
もう戻ることのできない過去に、思いを巡らせていたロイズはすっかり呆けて、上の空になっていた。そんなところに割と力強く背中を叩かれたため、不意に襲った衝撃に「ひゃっ」と、ロイズらしからぬ可愛い悲鳴を上げてしまった。それを聞いたヨイヤミが一瞬で吹き出し、大爆笑し始めた。そして、まさかのアリスまでもが口を抑えて必死で笑いを堪えていた。
「なっ、お前が急に背中を叩くから……」
顔を真っ赤に染め上げて必死に抗議するが、今のロイズがどれだけ怒気を見せたところで誰もそれをまともに受け入れることはないだろう。やはり、最近のロイズはキャラが崩れ始めている。ヨイヤミたちが出会った頃は威厳に満ち溢れていた気もするが……。
しかし、それだけ彼女がアカツキたちに打ち解けた証しだろう。やがて、反抗するのも馬鹿らしくなったロイズは、眉を下ろしながら微笑みを浮かべる。
「それにしても、本当によく見ているのだな。なんだかんだ言って、一番周りのことを気に掛けているのは、やはりこいつなのだろうな……」
ロイズはヨイヤミには聞こえないように、ボソッと呟く。しかし、そんなロイズの呟きを耳ざとく聞いていたヨイヤミは、何を言ったかまでは聞き取れなかったらしく、ロイズに向けて尋ねてくる。
「ん?何か言うたか?」
笑われた原因でもあるヨイヤミを褒めるのはロイズとしても不本意だったので、本当のことは言わずに軽くあしらう。
「本当に、人のあら捜しが得意だな、と言ったんだよ……」
「そんな褒めんでええて」と何故か上機嫌のヨイヤミに、また少し苛立ちを覚えて、やはりさっきのは無しだな、とロイズは心の中で自己完結させる。
そうこうしている内に、ロイズの髪を一筋の雨が濡らす。それに気が付いたロイズが天を仰ぐと、一粒、また一粒と、ロイズの額や頬へと滴り落ちてくる。やがて雨は本格的に振りはじめ、石畳に激しく打ち付け、音を立てながらレイドールの国に水という名の恵みを与えていく。
「やばいて……。こんな本格的に降ってくるとは思っとらんだ。とにかく、どっかで雨宿りするで」
そう言って全力疾走で走り始めたヨイヤミの後ろを三人が追っていく。アリスがはぐれないようにと気を使ったアカツキが、アリスの掌をギュッと握りしめていたのは二人だけの秘密だった。
そこから少し走ったところで、急にヨイヤミが先を指してアカツキたちに声を掛ける。
「あそこの店がやっとるみたいや。とにかく、あそこに逃げ込むで」
先頭を走るヨイヤミが、灯りが付いており入口が開いている場所を見つけ、一目散にそこへと入り込む。それに続いて、ロイズ、アカツキ、アリスも滑り込むように入り込む。
店を見回すと、何か商品が置いてあるということはなく、少し息を落ち着かせるために入口で立ち止まっていると、一人の女性が拭くものを持ってこちらに向かってくる。
「大丈夫ですか?どうぞ、こちらで濡れた頭をお拭きください」
どうやらここは店ではなく温泉宿のようだ。たまたま入り込んだ場所が温泉宿というのは、あまりにも都合がいい気がするが、ここは冷えた身体を暖めるしかない。
「せっかくだし、温泉入って行かないか?雨で濡れたせいで、さっきから少し寒いんだよ」
アカツキの提案に、ロイズとアリスも、ウンウンと頷いて同意を示した後、ヨイヤミの方を見る。三人に一斉に視線を向けられて、少し狼狽するヨイヤミだったが、やがて溜め息を吐いて口を開く。
「まあ、こんな雨の中やと買い物もできやんし、国の皆には悪いけど、今日はゆっくりしていくか……」
全員の賛同も得られ、今日一日はゆっくりと身体を休めることが決まった。最近は国の復興に忙しくて、あの戦争からゆっくりとすることはほとんどなかったため、ゆっくりとできるというだけで、少々心踊るものがある。
アカツキは同じように喜んでいるアリスにふと視線を巡らせると、その異変に気付く。滝のような強い雨に打たれた衣服はびしょびしょに濡れており、肌にぴったりとくっついている。その上、濡れた衣服は少し透けて、下から覗く肌が艶かしく浮き出ている。
それに気付いたアカツキは咄嗟にアリスから視線を外す。急に自分の元から遠ざけられた視線に違和感を覚えたアリスが、首をかしげてこちらを覗き込んでくる。そんな格好のまま接近されたアカツキが、目を逸らす以外に何の行動もできないで、頬を真っ赤に紅潮させているのを見て、アリスもやっと自らの異変に気がつく。
首許から頭上までを一気に染めたアリスは咄嗟に胸を両の腕で隠し、アカツキに背を向け俯く。しかし、その背中もまた、軽く透けた衣服が肌に纏わり付いて艶かしさを増している。どの方向だろうと、アカツキに今のアリスを見ることはできなかった。
「何をそんなに恥ずかしがることがある?もう、それくらいのことを恥ずかしがる間柄でもあるまい」
ロイズは何も気にすることはないように、立ち上がる。恥じらうどころか、むしろ胸を張っている気さえする。もちろん、ロイズも雨に濡れているので、アリスと大差ない格好をしているのだが……。
「ロイズは女として、もうちょい恥じらいってもんを……」
そこまで言ったところで、ヨイヤミの頬に激痛が走る。ロイズがヨイヤミの両頬を、これでもかと言うほどに引っ張っていた。ヨイヤミの頬はそのまま形が変わってしまうのではないか、と思われるほど引き延ばされ、その上で鬼気迫る視線を目の前から浴びせられている。
こんなヨイヤミとロイズのやりとりも、もうすっかりお馴染みとなっている。最早、ヨイヤミはわざとロイズを煽っているのではないかと思うほど、何度も見てきた。なんか、最近はロイズも少し楽しそうにやっている気もするし……。
それにしても、こんな宿の入り口で、男女数人が暴れていれば注目を集めない訳もなく、アカツキはだんだんと周囲から向けられる視線が痛くなってくる。我慢の限界に達したアカツキは、恥ずかしがりながらも二人に視線を向けて静止を求める。
「二人ともそろそろ止めろって……。大人しく部屋に荷物置いてお風呂行くぞ。それと……、ロイズはもう少し羞恥心ってものを身につけてくれ。見てるこっちが恥ずかしいから……」
アカツキの声は尻すぼみしていき、最後はなんと言ったのか聞き取るのがやっとなほど、小さな声で紡がれた。アカツキの言葉に、じゃれあっていた?二人も大人しくなり、ロイズがヨイヤミの頬から手を離す。
「まあ、国王様に言われては仕方がないか……」
少し含みのある笑みを浮かべながら、ロイズは自らの部屋に向かって歩を進める。それを追うようにして、ヨイヤミも同じような笑みを浮かべながらアカツキに告げる。
「ちゃんとアリスちゃんを、他の男たちの視線から守ったるんやで……」
そう言って楽しそうに去っていく。そんな二人に向けて、ため息を吐きながらアカツキは小言を漏らす。
「あと、二人ともだけど……、俺をからかうの、もう少し自重してくれ……」
ただし、あながちヨイヤミの指摘も間違っていないので、アカツキは自分の頭を拭いた布を、アリスに手渡す。
「ちょっと濡れているけど、これで少しは隠せるだろ。後は俺の後ろに隠れときなよ」
アカツキから受け取った布を頭から掛けて顔を隠し、自分の布を肩から掛けて、アカツキの後ろにピタリとくっつく。アリスの吐息がアカツキの背中を優しく撫でていき、とてもむず痒く感じるが、アリスに気を使わせないために、ここは気にしない振りをしてアリスの歩幅に合わせて進んでいく。
四人部屋はなかったため、ヨイヤミとアカツキ、アリスとロイズ、といった風に別れてとりあえずお互いの荷物を部屋に置くと、すぐさまお風呂へと向かった。足を延ばして入れるお風呂など何時振りだろうか。
そんな感じで、見た目は大人しく振る舞っていたアカツキも、心の中では胸を弾ませながら楽しみにしていた。脱衣所に入るなり、すぐさま着ていたものを脱ぎ捨てて、浴場へと足を踏み入れる。
浴場は岩を敷き詰められたような浴場で、竹の柱に藁の屋根がついた露天風呂のようで、雨によって冷えた風が、露になった肌を撫でていく。外の冷気との温度差からか、湯船の湯気が霧のように濃く、中の様子がハッキリと見ることができない。
滑らないようにゆっくりと歩を進めると、沸き上がる湯気の中から一人の影が揺らめくように浮き上がる。今日は先客がいるのか、とゆっくりとその影の方向に近づいていく。その瞬間、少し強い風がその空間に吹き付け、湯気をさらっていく。そして、湯気のベールに包まれていた人影の正体が露になる。
そこにいたのは、予想だにしない人間だった。…というか、いるはずの無い人間だった。そして、視線が合った瞬間、お互いに時が止まったかのように無言で見つめ合った後、鼓膜を破るかのようなけたたましい叫び声を上げた。
「ぎゃああああああああ……」
湯船に肩を浸からせていたのは、男湯にいるはずのないロイズだった。そして、その叫び声の主はもちろんロイズ、ではなくアカツキ……。
「ちょ、ちょっと、何やってんですか……?だってここは、男湯じゃ……」
慌てふためくアカツキに対し、至って平然としたままのロイズは、自らに非はないことを告げる。
「何を言っている?アカツキこそ、ここは女湯だぞ。さすがに女を捨てたと言っても、男湯に入るような真似はしない」
「でも……、だって……」
思考が追い付かないアカツキは、あたふたとしたままその場に立ち竦んで、足元を釘で打たれたかのように動けなくなってしまっている。そして、先程のアカツキの悲鳴を聞き付けてか、湯気の向こうから誰かがこちらに走り寄ってくる。
「どうしました?大丈夫ですか?」
聞き慣れたその声は、アカツキの制止の言葉が発せられる前に、湯気のベールを掻き分け、その姿がハッキリと見えるところまで到達してしまった。最早、逃げ場はない。その前に、逃げるという選択肢が思い浮かばないほど、アカツキの頭は混乱していた。
先程と同じようにお互いの目が合い硬直し、声の主は顔をこれでもかと言うほどに紅潮させ、先程のアカツキの悲鳴を越えるのではないかというほどの、甲高い悲鳴をあげた。
「きゃああああああああああ……」
パシンっ。と、柔肌への打撃音が、その空間中にこだました。アリスはアカツキのことを認識はしたものの、気付いたときには最早手が出ていた。初めてアリスがアカツキに手を上げた瞬間だった。
意外と勢いよく繰り出されたそのビンタによって、アカツキはそのまま地面に倒れこんだ。
別にどちらに非がある訳でもない。アカツキは意図せぬ形で、アリスの一糸纏わぬ姿を目撃してしまい、そんな姿を目撃されれば、見られた方だって自然と手が出るのは当然のことだ。
さすがのロイズも、その場面を唖然とした表情で見ていたが、やがて押さえきれないほどの笑いが込み上げてきて吹き出す。
ビンタした張本人は、自分が行った行為を再認識したのか、これ以上ないほどオロオロと動揺し始め、アカツキから微妙な距離を保ったまま、謝罪の言葉を述べる。
「ご、ご、ご、ご、ごめんなさい……。ま、まさか、アカツキ君がこんなところにいると思わなくて、あの、その……」
まるでアカツキの困惑が乗り移ったかのように、今度はアリスが少し前のアカツキと同じ状態になる。……というか、涙目になっている分、アカツキよりも酷い。ビンタされたアカツキは、ビンタによって我に還ったのか、先程までの様子から少しは落ち着いたようだ。
「大丈夫だよ、アリス……。アリスが悪くないことはわかってるから。落ち着いて。それよりも、もしかしてここって混浴だったの?」
アリスの動揺を和らげるために、アカツキは落ち着いた声音で、アリスに語りかける。そして、少し落ち着いた頭でようやくここが混浴であるという答えを導き出す。三人とも、久しぶりの大きなお風呂に心を躍らせ、注意書きなどを一切見ずに入ってきてしまっていた。
ロイズは未だに笑いが収まらないようで、まるで無邪気な少年のように腹を抱えて笑っている。
やがて、ヨイヤミが男子の脱衣所の方から顔を出し、そして、三人の様子をぐるっと見回すと、何かを理解したように頷きながらこう言った。
「あれ?ここ、混浴って知らんかったん?」