屍を乗り越えて
敵兵が攻めてきたのは、それから間もなくした頃だった。ルブルニアに有利な点といえば、住み慣れた森のなかでの戦闘、ということくらいだった。
しかし、その希望は一瞬にして焼き払われた。そう、言葉通り、敵はまず森に火をつけたのだ。
ロイズたちが森の中へと進軍を始めたとき、焦げたような香ばしい匂いが風に乗って鼻孔を刺激する。そして、徐々に周囲の空気が熱を帯び始め、少し先が夕焼け空のように赤みを帯びていく。
「奴ら……、やりやがった……」
ロイズたちは一旦森の外へと引き換えし、森が燃え尽きるのを見守ることしかできなかった。森に火を付けられたとなれば、まずは避難している国民たちを国の中に呼び戻さなければならない。何故なら、いずれ炎は森全体に広がり彼らに襲いかかるだろうから。
「隠れている奴らを、国に呼び戻せ。森が燃えている間は、相手もこちらに手を出せないはずだ。今なら多少そちらに人員を割いたところで問題あるまい。早く行け」
兵の中から十人ほどが、他の国民たちが隠れる森の中へと向かった。黒煙がもくもくと上がり、それが着々とルブルニアへと近づいてくる中、避難していた者たちがなんとか国の中へと戻ってきた。その一団の中からアリスがロイズの元へと走って向かってくる。
「ロイズ様。これは一体……」
「奴ら森に火を付けやがった。考えていなかった訳ではないが、まさかそんな手に出ないだろうと、勝手に高をくくっていた。くそっ……。とりあえず、今は国の中の方が安全だ。アリスは皆を連れて幹部棟の地下に隠れていてくれ。地下なら直接攻め込まれない限り大丈夫だ」
アリスは頷くと、国民たちの元へと走って戻り、皆を誘導しながら幹部棟へと向かった。
アリスの国民たちを一つにまとめ、誘導している姿を見ると、アリスの成長を感じることが出来る。今はそんなことに感動している場合ではないのだが……。
幹部棟の地下は、こういう時のために相当大きく作られている。千もの鎧などを保管しておく武器庫もあるため、鎧が全て外に出ている今、詰め込めば千は優に超える数の人を収容することができる。
全ての国民が入ったのを確認したアリスは、最後にロイズを一瞥すると、力強く頷いて幹部棟の中へと入っていった。
燃え上がる炎に囲まれながら、ロイズはかなり不安な面持ちで周囲を眺めていた。森が燃えている間、こちらからも攻撃を仕掛けることはできない。だがこれは時間稼ぎにはなる。森が燃えていてくれる間は、お互いが手出しできないからだ。
森と密接している国を覆う木造の壁に火が回り始めた。そのうちに壁は焼け落ちたが、国そのものは森に密接していなかったために、火が回ることは無さそうだ。
ロイズたちが見据える視線の先は完全に真っ赤な炎で覆われてしまった。
乾燥した空気により凄まじい勢いで燃え広がる炎は、まるでロイズたちを嘲笑うかのように揺らめきながら燃え広がる。
ロイズたちはそれをただただ眺めることしかできず、この炎が消えたときには、最早地の利は一切無くなっているだろうということは容易に想像ができた。
木々を燃やす炎が消えるのを、ただひたすらに待っていると、奇妙な出来事が起こった。空は晴れ渡っているにも関わらず、一滴、また一滴と水が少しずつ勢いを増して降り注ぎ始める。晴天の空から、局所的にまるで豪雨のように強い雨が降り始めたのだ。
その雨は、勢いよく燃え上っていた炎を、赤子を扱うかのようにいとも容易く沈めていく。まだ当分時間が稼げると思っていたロイズの計画は、この時点で崩れ去っていた。
そして、こんな晴天の中雨が降る訳も無く、これが資質持ちの力であることは明白だった。
ロイズの頬を雨が滴り落ちていく。ロイズの焦りから来る冷や汗は、雨によって流されていき、他の者たちにその焦りを悟られることはない。
だが、この中にも相手に資質持ちがいることに気が付いている者は大勢いるだろう。それが自分たちにとって、どれだけ大きな存在になるのかも……。
炎を消した雨により霧が掛かり、それが少しずつ晴れていくことで焼け野原の先に構える軍勢がぼんやりと視認できるようになり始める。
敵の数は目で数えられるようなものではない。ただはっきりしているのは、自分たちの兵の倍以上の兵が存在している。その上、恐らく資質持ちがどこかにいる。
木を燃やしていた炎が完全に静まり、黒煙と共に霧も晴れ、その向こう側がはっきりと確認できるようになる。その先に見えたのは明確な絶望だった。
倍以上の兵が馬に又借り自分達を見据えてそれぞれの武器を構えていた。数は既に聞いていたものの、その姿をはっきりと視認することでロイズの中の恐怖感は更に高まりを見せていく。
だが、今自分達にできることは覚悟を決めて立ち向かうことしかない。逃げるという選択肢は、ロイズたちには残されていないのだ。
ロイズの手綱を握り締める手が湿り気を帯び、少しだけ震える。しかし彼らを指揮する者として、その怯えを国民たちに見せる訳にはいかない。恐怖は伝染し、いとも容易く内側からの崩壊を招き入れる。
だから、ロイズは皮膚が破けるほど強く手綱を握りしめ、その震えを誤魔化す。
「掛かれええええええええええ!!」
敵の軍勢が中央に構える兵の号令で一斉に動き始めた。しかし、ロイズたちはまだ動かない。二百人近い銃器を持った者たちが、ロイズの前に出る。
ルブルニアにも、多少ではあるが銃器を確保することが出来た。相手が馬鹿正直に向かってくるなら、減らせるだけの数を減らさせてもらう。
ロイズは敵の騎兵たちがルブルニア軍の射程に入ったことを確認すると、重火器部隊に号令をかける。
「放てええええええええええ!!」
その号令によって、ルブルニア軍の銃器が一斉に火を噴く。この戦争において、敵を殺さないなどという気は更々ない。だから、なりふり構わず銃器を使って敵の兵を減らしていく。
ルブルニア軍の銃器が火を噴いたのと同時に、敵国の兵が百人程度が倒れていく。実際の戦闘で銃器を使うのは初めてなのだが、半分近い者が、敵の急所を突くことが出来たのは予想外だった。ただ、二千の中のたった百人だけである……。
敵の軍はそれぐらいでは勢いが収まることも無く、ほぼ減ることのなかった約二千の兵がそのまま突撃してくる。元々、捨て身の覚悟でこちらに向かってきているようだ。数人が倒れたところで、一切気にする様子もない。
ロイズは覚悟を決めて、ルブルニア軍の騎兵隊に号令をかける。
「何としてでも生き残れ。全員、突撃っ!!」
ロイズの号令を受けてルブルニア軍の騎兵隊が、咆哮を上げて敵への突撃を開始した。
ロイズは先頭に立って敵軍へと突っ込んでいき、何人かの兵と早くも相対する。敵兵から伸びてくる剣を難なく交わし、自分の持つ細剣を鮮やかに振り回し、早くも三人の首や腕を切り裂いた。ロイズに迷いはない。敵の首を切り落とすことに何も感じなかった自分に少しだけ安堵した。
本人たちには言えないが、アカツキたちの生温い考えのせいで、自分の中の殺気が消え失せているのではないかと心配していた。
しかし、いざ戦場に出れば敵の首を落とすことに大した感情の揺るぎはなかった。それを確認したロイズは覚悟を新たに、更なる敵と刃を交える。
ロイズに続いてアリーナやハリーも敵の兵を落としていく。ここまでは予定通りだ。まるで、ノックスサンの頃を思い出すかのように、三人は隊列を崩さずに突き進んでいく。
その後ろを、腕の立つ男たちが固める。この一年近い鍛練のお陰で、十分に戦えるだけの力を手に入れていた。ロイズの厳しい鍛練にも音を上げずに食らいついてきた数百人の兵士は、敵味方入り交じるこの戦況の中、しっかりと地に足を着いて戦っている。
それでも、こちら側も既に数人は堕とされていた。なにしろ、数百人はこれまで戦争にも参加してこなかった者たちだ。それでも、数が多い方が相手への牽制にもなるし、少しでも戦力にはなると踏んで、この戦いに参加してもらった。
「くっ……、済まない……」
ロイズは小さな声で自分の背後の、倒れゆく兵たちを一瞥しながら、謝罪の言葉を口にする。
敵もこれまでに戦争を繰り返してきた、戦い慣れた兵士たちだ。これまで、訓練も受けず、戦争もしてこなかった者たちが、どうこうできる相手ではないのだ。
それに、人を殺すことになれていない彼らは、やはり躊躇する。必死で敵の元に刃を突き立てても、最後の一振りが届かない。敵の首許で自らの刃を止めてしまうのだ。
そして、その隙に相手に殺される。ロイズが恐れていた光景が目の前に広がっていた。
焦っていたロイズは味方の数を増やすことしか考えておらず、そのために彼らを無為な犠牲にしてしまった。少し考えれば、彼らが簡単に犠牲になることなどわかったはずなのに……。
「味方が倒れても怯むな。アカツキたちのいないこの状況で、誰も死なずに戦い抜くなどということはできる訳がない。これまでと同じだとは思うな。自分が生き残るために、自分ができる最大限の努力をしろ」
ロイズが声を張って皆を奮い立たせるが、背後の反応は芳しくない。既に百を超える兵がやられている。やはり、アカツキたちのいないこの状況では、戦い慣れしていない国民たちを連れて戦うのはかなり厳しい。
それでも、ロイズは既に何十人もの敵兵を堕としていた。アリーナやハリーもロイズの後に続いて、相当数の敵を堕としていた。
普段ロイズが指導をしている、正規の軍の者たちも、敵国の数に圧倒されることなく戦い続けている。一人一人の力はこちらの方に分がありそうだ。
金属のぶつかり合う音や銃撃音が、焼野原に鳴り響く。どちらも一歩も引かない混戦状態となっている。しかし、少なくとも相手はまだ奥の手を隠している。どこかに必ず存在するはずの資質持ち……。
これだけの兵がやられているにも関わらず何故すぐに出てこない。私たちに無駄な希望を持たせようとしているのか……。そして、その希望が崩れ去った時の絶望に満ちた顔を見たいなどという、下種な考えでも持っているのか……。
ロイズは、敵の資質持ちが兵の半分以上をやられてもなお出てこないという状況を訝しみ、辺りを見回すが資質持ちらしき者は一向に見当たらない。
ロイズが少し別のところに気を向けていると、後ろから敵兵が襲い掛かってきた。不意を突かれたロイズは、それでも何とか振り下ろされた相手の剣を自らの剣で防ぐ。だが、相手はそのまま力ずくで、押し切ろうと力を込めてくるので、ロイズも負けじと抵抗する。
そんなロイズの耳に、銃声が飛び込んできた。その銃声が鳴り終えたのと同時に、ロイズに掛かっていた力が、スッと抜けていき目の前の敵兵が力なく馬から落ちていく。
「隊長、大丈夫ですか?気を抜かないで、近くの敵に集中して下さいよ」
アリーナは煙が吹く少し小さめの銃を持ちながら、ロイズに向けてそんなことを言う。どうやら、アリーナがロイズを助けるために、発砲したらしい。ロイズはアリーナに向けて、小さな笑みを浮かべながら答える。
「手間を掛けさせて悪かったな。少し先のことを考えてしまっていた。それよりも、現状を打破しないとな……」
ロイズは敵兵がいる場所へと方向転換し、苦戦している仲間を助けに馬を駆る。その後ろを、相も変わらずアリーナとハリーが固めていた。この時すでに、ルブルニア軍は残り五百まで減っていた。だが相手の数も、残り八百近くになっており、少しずつこの戦争に活路が見え始めていた。
だがそれも、あくまでも相手の資質持ちが出てきていないからであって、資質持ちが出てくれば、生身の人間がどれだけいようがあまり関係はない……。
ロイズは戦場を駆ける。一人、二人と確実に敵の数を減らしていく。確かに戦場では、アカツキやガリアスがほとんどの敵を倒してしまっていたが、修業においてはその二人を相手取っていたため、自分の戦闘能力は自分が思うよりも格段に上がっていた。
戦場を駆る彼女の姿はまるで修羅だ。近くの敵の首を剣で切り落としたかと思えば、その手で少し離れた敵を腰に携えた拳銃で撃ち抜く。次々と敵を薙ぎ払い、自ら先頭に立って活路を開いていく。
この戦場においてそんな彼女を超える者はいないだろう。あくまでも普通の人間ならば……。
いつの間にか戦場に立つ人の数が減っていた。こちらの残りの兵四百に対し、あちらの残りの兵は二百。最早、ルブルニアの勝利が目に見えていた。敵の数が、今見えているだけならば…。