内に秘めた涙
アカツキがバルコニーから顔を覗かせると、四百人を超える国民たちから歓声が揚がった。その歓声を聞いたアカツキの表情は一気に強張り、冷や汗を垂らしながら、国民たちを見下ろしていた。
大勢の人間に見上げられるなど、これまで経験したこともないが、征服感や優越感なんてものは一切湧き上がってこない。緊張感だけが、アカツキを満たしていた。
アカツキの足取りは重く、バルコニーの端に辿り着くまでにかなりの時間を要した。
その姿を後ろから見ていたヨイヤミやロイズは、溜め息を吐きながらアカツキの後ろ姿を見守っていた。アカツキの後ろを付いて歩くアリスは、なかなか進まないアカツキの歩幅に合わせるのに精一杯で、足元ばかりに視線が向いていた。
やっとの思いでバルコニーの端へと到着したアカツキを見た国民達は、もう一度わっと盛り上がりを見せた。
アカツキが足を止めたのを見て、甲冑を着たロイズが踵を鳴らしながら、おどおどしたアカツキとは比べものにならないぐらい優雅な態度でアカツキの隣へと進んだ。そして、腰に掛けていた剣を引き抜くと天高くそれを突き上げる。
「静粛に。これより、新生ルブルニア国、アカツキ・リヴェル王の戴冠式を行う」
普段のロイズから呼ばれ慣れていない、アカツキ様という言葉を受けて、アカツキは何故だか心の底からむず痒さが湧き上がってくるのを感じた。しかし、何とかそれを心の中に抑え込んで表情に出さずに、凛とした姿を崩さないように努める。
「では、アカツキ様より、御言葉を頂く」
ロイズが腰を低くし、拳を胸に当てながらお辞儀をすると、それを合図にアカツキはもう一歩先へと進み出る。ただ練習通りにやり切ればいいだけ。そう自分に言い聞かせながら、軽く深呼吸すると、意を決したように口を開く。
「皆、今日は集まってくれて、ありがとう。この二ヵ月、皆のおかげでこの国もやっと形を成してきた。皆が力を合わせて作り上げてくれたこの国を、我々はルブルニア王国と名付けた。これから我々は、この国をさらに繁栄させ、いずれは四大大国に引けを取らない、王国を作り上げたいと思っている」
アカツキはそこで一度言葉を切り、国民たち全員を端から端まで眺めた。そして、一度目をつむると、強い意志の込もった眼差しでもう一度口を開く。
「ここにいる者たちは皆、一度身分の底辺を経験した者たちだ。だが、身分の底辺を経験したからこそ分かるものがあるはずだ。これ以上、自分たちと同じような者を作らない。これ以上誰にも同じ思いをさせない。我々が作るのは、皆が平等な国だ。国王など、ただの飾りでしかない。この言葉に皆が身分の差を感じる必要はない。この国では、皆が同じように、格差無く暮らせるようにしたい。それには、皆の協力が不可欠だ。皆の力をどうか私に貸してもらえはしないだろうか?」
そう述べたアカツキはおもむろに頭を下げる。その様子を見た国民たちは唖然として、一度場の空気が止まった。
だが、隣にいたアリスがパチパチと手を打ち、拍手を始めたのを皮切りに、国民たちからも少しずつ、少しずつ、拍手が湧き上がり、そして遂には国民全員の拍手が、国全体に響き渡った。
アカツキはゆっくりと顔を上げ、アリスの方を向く。そして、お互いに口許を綻ばせる。
アカツキは表情を固め直して、もう一度国民たちに向き合うと、大きな声で叫ぶように宣言した。
「皆、ありがとう。アカツキ・リヴェルが、ルブルニア王国の誕生をここに宣言する」
その言葉に、もう一度国民たちの歓声が湧き上がる。アカツキを支配していた緊張感は、国民の歓声の波によって流されていた。そして、無事何のミスもなく、この場を終わらせることができたという安心感に包まれていた。
だが、ヨイヤミが後ろで何やらこそこそしているのが目に入り、アカツキに何故だか嫌な予感が込み上げてくる。
ヨイヤミが王冠を持って、アカツキたちの元へと歩み寄る。それをアリスに渡すと、一言二言アリスに耳打ちする。するとアリスは、赤らめた顔でアカツキにの方に向き直った。ヨイヤミはそそくさと奥へと戻って行き、再び二人だけがバルコニーに残された。
アカツキはどうしたのかわからないままアリスの顔を眺めていると、王冠を持ったアリスが少しずつこちらに向かってきた。すると、急にロイズが佇まいを直し始め、国民たちに向けてこう告げた。
「これより、戴冠の儀を行う」
アカツキは予定されていなかった事柄に、パニックに陥る。アカツキは、今日やることは、先ほどの宣誓だけだと聞いていた。というか、その練習しかしていない。なのに、どうやらそれだけでは終わりそうにない。
確かに、戴冠式と言えば、前君主や高位貴族が新君主に王冠を授ける風景がよく見られる。しかし、この国には前君主も貴族も存在しない。だから、戴冠式と言っても、アカツキの宣誓だけで終わると思っていた。そもそも、あの王冠はどこから持って来たのだ……。どうやら、形だけでもそれを行うらしい。
アカツキは予定していなかった事態に逃げ出したくなるが、国民たちの手前そんなことができるはずもなく、大人しくその場に踏みとどまった。そして、目前まで来たアリスが頬を染めながら、立ち止まったのを確認すると、アカツキは膝をついて頭を垂れ、胸に拳を押し当て、ゆっくりと口を開いた。
「私はこの国のために、全身全霊を尽くし、王として戦い抜くことを誓います」
アカツキの宣言が終わったのを確認すると、アリスがアカツキの頭に王冠をかぶせる。
その瞬間、周囲は拍手と歓声に包まれた。ロイズやヨイヤミも惜しげなく拍手を送っている。アカツキは照れ臭そうに、ゆっくりとアリスの顔を見上げると、アリスは口許を綻ばせて、アカツキに向かって微笑みかけた。そうして、アカツキの戴冠式は無事に幕を閉じた。
「相変わらずやってくれたなヨイヤミ。こんな大事な日に、俺で遊ぶなよ。なんかあったらどうするつもりだ、この野郎」
アカツキがヨイヤミの頬を引っ張りながら、我慢していた怒りを発散させていた。ヨイヤミは「痛い、痛い。勘弁、勘弁……」と床を叩きながら、半泣き状態で、アカツキに制止を求める。そんないつも通りの二人を、アリスとロイズは微笑ましげに見ていた。
立派に戴冠式を務めたアカツキだったが、国民たちの前から離れた今は、張っていた気も抜けていつものアカツキに戻っている。実際、予定されていなかった戴冠の儀に、早期に対応したアカツキのことを、ロイズもヨイヤミも買っていた。
これからは、色々な予期せぬ事態が起こるであろうというヨイヤミの危惧から、ロイズとヨイヤミで相談して、わざとアカツキには伝えないままでいたのだ。
アカツキはそれを見事にやりきって見せた。ヨイヤミは軽く驚くと共に満足げにその様子を眺めていた。そんなヨイヤミの考えを、アカツキが見抜けるはずも無く、現状に至る訳である。
ある程度ヨイヤミの頬を引っ張った後、疲労が一気にアカツキを襲う。げっそりとした顔になると、ヨイヤミの頬から手を離し、アカツキはおぼつかない足取りでリビングの扉へと向かう。ヨイヤミへの怒りを発散し終え、アカツキは凄まじい虚無感と疲労感に苛まれる。
「ああ、やっと終わった。疲れた。もう無理。早くこんな堅苦しい服は脱ぎたい。着替えてくる」
アカツキは、生気の失った声で箇条書きのように思ったことを口にすると、だらんとした肩を左右に揺らしながら、リビングを出て行った。
アカツキが出て行ったのを確認したヨイヤミは先程までとは声音を変えて、落ち着いた大人びた声音で話し始めた。
「それにしても、アカツキも大分成長したな。出会った頃は何も知らん、ただの田舎者やったのに。まあ、出会ってかれこれ半年か……」
ヨイヤミが懐かしむように天を仰ぐ。その言葉が誰に向けられたものでもないことは明白だったが、ロイズは敢えて言及する。
「たったの半年で、何も知らなかった奴があそこまで成長するとは思えないが……。確かに、まだまだ政治や情勢のような難しいことは全然だが、それでもあいつは、あいつなりに考えて生きている。あいつがものを知らないようには見えないんだが……」
ヨイヤミは、ロイズの話している途中でおもむろに立ち上がると、バルコニーの方へと歩いていく。バルコニーに設けられた柵に肘を付きながら、ヨイヤミはもう一度天を仰ぐ。
ロイズもそれに続いてバルコニーへと出る。アリスは聞きたそうに、こちらに顔を向けていたが、椅子に座ったままバルコニーに出てくることは無かった。
「まあ、半年っていっても、俺らが過ごした半年は相当大変な半年やったからな。たった半年で、アカツキが王の座に就くとは思ってへんだけど……。それでも、あいつなりに色々考えてやってきたのは認めるわ」
森に囲まれたこの土地を、少し強く冷たい風が吹き抜ける。それらは木々を揺らしながら突き進み、北の方から順にざわざわと音を立てていく。まるで、ヨイヤミの記憶に反応して、大地が鳴いているかのような印象を受ける。
「私たちの国に、子供二人が乗り込んできたときは本当に驚いたものだ。まさか、私がその二人が建てた国の騎士長になるなんて思っても見なかったけどな……」
ロイズは吹き出すように笑う。その笑顔を見るとヨイヤミは少し救われる。一国の、しかもある程度の地位をもっている騎士、という身分をかなぐり捨てて、彼女は自分たちについてきてくれた。ヨイヤミは彼女が自分たちについてきたことを後悔しているのではないかと、ずっと心配していた。だが、彼女は自分の隣で屈託の無い笑顔を自分に見せてくれている。
「ロイズも、ありがとうな。こんな名も無い国に付いて来てくれて。何もお礼とかできんけど、感謝の言葉くらいは掛けさせてくれ」
ロイズはそんなことを言いだすヨイヤミに少し驚いたような表情を見せる。
「どうした、急に。なんか気持ち悪いな。お前みたいな奴が、そんな真面目な顔でお礼を言ってくるなんて。これから槍でも降ってくるのか……」
ヨイヤミの、急な感謝の言葉にロイズはおどけてみせる。ロイズもまだ、こういったヨイヤミの真面目な面には慣れておらず、いつもとはあまりにも異なる大人びた風貌に苦笑する。
この若さで自分を隠す術を身につけなければならない彼の過去とは、一体どういったものだったのか、どうしても勘ぐりたくなる。しかし、あの飄々とした笑みでいつも誤魔化されてしまう。あまり何度も聞くのも気持ちのいいものではないので、最近は尋ねることも無くなったが……。
「アカツキも、この半年で辛い思いもいっぱいしてきとる」
思考に耽っていたロイズは、急に掛けられたヨイヤミの言葉に、少し驚いて肩を震わせる。
「それでもあいつは、ああやって笑って過ごしとるんや。何だかんだで、あいつの心は相当強い。大切な人を目の前で殺されたり、戦争の実状をいきなり突きつけられたり、死ぬ直前まで戦ったり……。僕はあいつに辛い思いさせるだけで何も返せてへん。僕は本当にあいつにとって必要なんやろか?」
その声は哀しげで寂しく、ヨイヤミのこんな顔、こんな声音をロイズは初めて見る。そんな表情を見ていると、少しは自分に心を開いてくれているような気がして、不謹慎ではあるが少し嬉しくなる。すると、自然と笑みが溢れてくる。
「なっ……、僕何かおかしいこと言うたか?」
ロイズの反応に少し困惑の表情を浮かべながらヨイヤミは尋ねる。
「いや、お前でもそんな顔するのだなと思ってな。心配はいらない。あいつはお前のことを本当に大切に思っている。一度そういう話をしたことがあってな……。あいつはお前のことを必要としていて、それをちゃんと自分でわかっている。だから、そんな心配は要らないさ」
戴冠式の前にもアカツキから感謝の言葉を告げられたが、それは自分に気を使ってのことかもしれないと疑ってしまった。しかし、自分のいないところで、そう言ってくれていたのなら本当にそうなのだろう。
ヨイヤミの瞳が一瞬潤んだ気がしたが、ヨイヤミがすぐにロイズから視線を外し天を仰いだため、その表情をちゃんと確認することはできなかった。でも、ヨイヤミの枯れてしまいそうで、心の奥から絞り出したような声を聞けばその表情など見るまでもなかった。
「そっか……。よかった……」
その言葉はきっと彼の心の奥底から自然と漏れだしたものだったのだろう。ロイズはゆっくりとバルコニーから部屋へと戻る。今はきっと一人にさせておいてやるべきだろう。
ずっとこちらを眺めていたアリスの頭を軽く撫でて、ロイズもその部屋を後にした。アリスもそれに続いて、部屋を出る。
部屋に一人だけ残ったヨイヤミは、ゆっくりと腕の中に顔を埋める。今まで押さえ込んでいたものを少しずつ放出するように、ゆっくりとゆっくりと柵にこぼれ落ちた滴が流れ落ちていった。