亡霊との決別
ハリーの応酬は止まらない。確かにアカツキに攻撃の意思はほとんどない。だが、そんなアカツキの事情とは関係なく、防御に徹さなければハリーの攻撃を防ぎ切ることはできないのだ。
「あの時一緒に戦えていたら、少しは違ったのかもな……」
襲い掛かる風の刃に生傷を増やしながら。思わずそんな言葉が漏れてしまう。それほどに、ハリーは王の資質を使いこなし、それを戦闘力へと還元していた。
「俺のせいだと、そう言いたいのか!?」
「そうじゃない。ただ、お前はそれだけ強くなれる素質を持っていたのに、俺はそれを引き出してやることができなかったんだなって、そう思っただけだ」
彼のその潜在能力を引き出したのは、グランパニアに大切な者たちを奪われた、怒りや憎しみだった。自分に引き出せなかったものを、そんな負の感情に引き出されてしまったことが悔しくて仕方がない。
「あんたに、そんな力がある訳がないだろ。あんたにあるのは、無意味に人を殺す無能な脳味噌だけだ」
「本当に、酷いこと言うなあ……」
小さな微笑と共に、寂しげな声音が漏れる。
それだけ罵られても怒りは湧いてこない。ハリーはただ自分だけを責めている。それ以外の、自分が大切に思っていた人たちのことは決して貶したりしないから。彼は誰かを感情的に貶めることを良しとはしない。ただアカツキの愚行を客観的に断罪しているだけなのだ。
「そうやって余裕な表情を見せて、俺を馬鹿にして……。あんたに俺の何がわかるって言うんだ!?」
それはまるで嗚咽を漏らすかのように、喉から搾り出すような掠れた叫び。今のハリーには、自分の中に渦巻く感情が一体何なのか、それすらも判然としていない。
それでもなお、ハリーの攻撃の勢いは止まず、ただひたすらに自らの精神力が枯れるまで魔法を放ち続ける。
「お前は、俺の亡霊だな……」
アカツキの悲しげな瞳が何を映すのだろうか。不意にアカツキから漏れたのはそんな言葉だった。
風刃の嵐が吹き荒れるこの場で、その声はハリーには届かない。
「お前は、アカネやアランと会えなかった頃の俺だ。俺があの頃のまま、ただ怒りや後悔に任せて突き進んでいたら、俺もお前のようになっていたんだろうな」
その瞳に映るのは、戦火から生き延びてしまった後悔に呑み込まれた自分。怒りや憎しみに呑まれた者が行き着く先はきっと誰も同じなのだろう。だからこそ、彼の痛みも苦しみも一度は味わったことがあるアカツキには理解ができる。
その瞳に光は宿らず、その表情に明かりは灯らない。暗く闇に落ちた心が、奥底に眠る光を包み込み、深い暗闇の海に沈んでいく。
自分も同じ海の底に沈んでいた時期がある。けれど、そこから引っ張り上げてくれる仲間がいた。だから自分は、同じ海の底に沈んだハリーの前にこうやって立っている。
「俺は、ただの幸せ者だな」
自分と同じような苦しみを抱えながら、それを分け合える仲間がいなかった。眼の前でボロボロに崩れかけている仲間を見て、自分が如何に幸せだったのかを改めて思い直す。自分だって、一歩間違えれば同じ姿になっていたのだろう。
「でも、俺は知っている。どれだけ深い海の底に沈んでしまっても、もう一度太陽の光を浴びることができるんだってことを。誰だって、息もできない海の底から、もう一度大地を踏み締める権利は持っているんだってことを」
そう、いつまでも彼の攻撃をかわしている訳にはいかない。自分がここに何をしにきたのか、どれだけ彼の攻撃を受け続けても、彼の怒りの全てを受け止めることはできないだろう。
でも、それでいい。彼が全てを払い切れなかったとしても、これからは自分や、そして彼を大切に思う人たちが分け合っていけばいいのだ。
一人で抱え込むから、自らの器に入りきらなくなった怒りが溢れ出して、自分を制御できなくしてしまうのだ。ならば、それを分け合える誰かが近くにいれば……。
「お前を一人になんかさせない」
その言葉を合図にするようにアカツキは左手に携えた退魔の刀を大きく振り切った。その衝撃はハリーが生み出していた魔法陣を一斉に切り裂き、一時の静寂が訪れる。
「なにっ!?」
停滞を許さないアカツキは、ハリーが次の攻撃に移る間も与えずに、地面を蹴って接近する。
「どうして急にっ!!」
ハリーも気づいていたのだろう。アカツキに攻撃の意思がないことに。そんなアカツキが突然自分に刃を向けてくれば驚くのも無理はない。そこに敵意がなかったとしても。
「お前の怒りや悲しみ、憎しみの全てをわかるとは言わない。お前がどれだけ苦しんで、今の力を手に入れたのか、そこには俺にも想像できないほどの痛みを伴ってきたのかもしれない」
わかるはずもない。アカツキはハリーではないし、ハリーはアカツキではない。アカツキがハリーの痛みや苦しみをわからないように、ハリーだってアカツキが自らに背負わせた罪の重さをわからない。人の心など、形のあるものでもなければ、見えるものでもない。
「だから、わかるなんて偉そうなことは言わない。だけど、わかる努力はさせてくれ。俺に、お前の痛みを教えてくれ。その痛みを分け与えてくれ。俺にできるのはそれくらいだから」
「黙れっ!!」
ハリーは腰の剣を鞘から抜き出し、アカツキとの鍔迫り合いを繰り広げる。
「俺も眼の前が真っ暗になって、未来なんて何も見えなくて、光なんてどこにもなくて、ただひたすらに足元も見えない道を歩き続けていたことがあった」
アカツキとハリーは額をぶつけ合いながら、魔法ではなく言葉を投げ掛ける。
魔法は、分かり合うための道具では決してない。これはあくまでも戦うために与えられた力。だから、今はその力を使うべきではない。
「だけど俺には、そんな暗闇の中から引っ張り出してくれた仲間がいたんだ」
「それがどうした!?そのせいで、そんな腑抜けた面をするようになったんだろ。だったら、俺はそんな仲間は要らない。あんたを殺して、グランパニアを滅ぼす」
「そんなことをして何の意味がある。そんなことをしても、アリーナは帰って来ない。罪の意識に溺れて、さらに苦しくなるのはお前だろうが!!」
「黙れええええええええええ!!」
それは最早人間の声をも超越する絶叫。断末魔のような苦しみの叫び。接敵していたアカツキの身の毛がよだつ程の、悲しみと憎しみと苦しみと怒りが内包した叫び。
「お前だけは、その名を口にするなああああああああ!!」
やはり彼が思い続けていたのはその人だ。その人のために、ハリーはこれだけ強くなることができたのだ。そうやって、人を思うことのできる心をハリーはまだ捨ててはいないのだ。でも、今のハリーの前に彼女を立たせることはできない。
「アリーナのことはお前が一番良く知っているはずだ。そんなお前が、彼女の優しさを知らないはずがない。彼女が、お前がこんなことをしていることを、黙って見ていられるはずがない」
そんなこと、本当はわかっている。親を失っても、ただひたすらに前を見続けていた彼女が、自分がしていることを望んでなどいないことなどとうに気付いているのだ。
「お前が、アリーナのことを、口にするんじゃねええええぇぇぇぇ!!」
いつからこうなってしまった。彼女の為だと、最初はそう思っていた。けれど、それがいつの日か、自分の為でしかなかったことに気付いてしまった。
けれど、止めることはできなかった。自分の後ろには既に多くの命が崖に脚を踏み入れていたから。自分が立ち止まれば、ここにいる多くの者たちはその脚場を失い崖から崩れ落ちる。
「お前は、アリーナのせいにして、そうやって自分を正当化していただけだ」
「違うっ!!俺は、俺はただ……」
「俺を責めるのは、どれだけ責めたって構わない。俺だって、どれだけ責められても、贖い尽くせない罪を背負っている自覚はある」
ハリーの瞳が潤み、唇は震え、手元は覚束なくなる。ハリーの心が間違いなく揺れ動いている。自分が、何故こんなことをしていたのか、どうしてこうなってしまったのか、それを自ら噛み締めている。
「だけど、アリーナやロイズを、お前の憎しみや苦しみの理由にはさせない。俺はあいつらを信じている。あいつらが、こんなことを望むような弱い人間じゃないことをっ!!」
アカツキは初めて全力で、鍔迫り合いをしていたハリーの剣をなぎ払った。
戸惑いと迷いで、力のやり場を失ったハリーは容易に砂の上を吹き飛び転がっていく。
力なくうつ伏せに倒れたハリーは、すぐには動こうとはしない。
「知っているさ……。お前なんかより、よほど知っている」
ザラザラとした触感が口の中を埋め尽くす。どれだけ吐き出しても、後悔や憎悪と同じように口の中からは無くなってくれはしない。
「あいつが、俺なんかよりもずっと強いんだってこと。あいつなら、きっと俺みたいにはならなかったんだろうな。いや、そもそもその強さが、あいつをあの場に踏みとどまらせたんだ」
あの戦火に残った彼女の後姿が脳裏に過ぎる。いつまでも消えてくれない、彼女の最後の笑顔が心の奥底に刃となって突き刺さる。抜けることないその刃は、結局自分で突き刺したものでしかない。
切っ先を地面に埋めながら、剣を支えにしてゆっくりと立ち上がる。きっとその身体以上にハリーの心はボロボロなのだろう。アカツキはそんな彼の姿をその目に焼き付けるように、ただジッと見つめていた。
「俺は弱かったから、あの場であいつを置いていった」
懺悔の言葉が彼の口から漏れ出す。だから、これ以上何も失わないために強くなったのだと、言外に言っている。その決意は、道は違えどアカツキと同じ終着点のはずだ。
両足で立ち上がったハリーは、どこか遠くを見るように青く澄み渡る空を見上げる。
「ああ、お前の言う通りだ。俺は、あいつやロイズさんを理由にして、俺の負の感情の捌け口を正当化していたんだ。そうすることで、自分が自分ではなくなっていく恐怖から逃げていたんだ」
ただ怖かった。自らの国を、自らの大切な人たちを、自らの生きる意味を失い、自分が何者であるのかすらも定かでなくなっていくことが。
「でも、今更立ち止まれないんだよ。あんたにもわかるだろう?進んできたはずの道が崩れ落ちて、前にしか道がないその感覚を」
わからないはずがない。自分もその崖っぷちに立たされたのだ。けれど、そこにあるのはたった一本の道などではなく……。
「だったら、俺が一緒に別の道を探してやる。お前の進む道は、決して一本じゃないって教えてやる。それは先の見えない獣道かもしれない。それでも、お前の進む道は一つなんかじゃないんだ」
空を見上げるハリーの口元が一瞬だけ緩んだ。そんなハリーの口から告げられたのは……。
「あんたにだけは頼らないさ。あいつやロイズさんを理由にしなかったとしても、あんたへの怒りは本物だ。そんなあんたに、俺はもう頼らない」
全てを理解してなお、それでもアカツキとの敵対を選ぶ。それが、ハリーが下した決断なのだ。それならば、自分も全力で相対するべきなのだ。それが、彼へのせめてもの責任の果たし方のはずだから。
「俺は『自由の風』頭首、ハリー・カルレニウス。元ルブルニア国王アカツキ・リヴェル、あんたが俺の前に立ちはだかると言うのなら、俺は全力であんたを討つ」
先ほどまで支えにしていた剣の切っ先を、アカツキに向けて突き立てる。彼の目に迷いはない。先程まで目の前に立っていた彼とは違う色の光をその瞳に宿し、それでも彼は自分に刃を向ける。
「過去のことは忘れよう。ただ俺はあんたの敵として、あんたの屍を踏み越えていく」
ハリーの背後に巨大な若草色の魔方陣が形成されていく。これまで大量の魔法を放ってきたハリーに、そこまでの魔力が残されているとは思えない。だとすれば、これが彼の最後の攻撃。
アリーナやロイズへの後悔でも、アカツキへの怒りや憎しみでもなく、今は『自由の風』頭首として、アカツキへ全力の魔法を放つと宣言した。
「なら、俺も負けてはいられないよな」
アカツキは両手に携えた二振りの刀を勢い欲砂の大地に突き刺した。アカツキのその目は何処か楽しげに笑っているように見えた。絶望の中に一筋の希望を見つけたように。
これがアカツキなりのハリーに対する答え。
「お前は俺には勝てない。ここでお前を倒し、俺はあの日の俺の亡霊と、ここで完全に決別する。あの日俺がこの道を選んだことが正しかったことを、今ここで証明してやる」
ハリーの全力の攻撃をその刀で往なすのではなく、自らの全力を持って応えようと。
アカツキの背後にも、ハリーの魔方陣をも上回る巨大な紅緋色の魔方陣がくみ上げられていく。
「確かに、これはけじめだな」
そんな静寂の時が流れる中、ふとハリーがそんなことを呟いた。
そんなことを口にするハリーの唇は、明らかに自分よりも巨大な魔方陣を目の前にしながらも、どこか綻んでいるようにも見えた。
「さらばだ、我が愚王よ。その愚かなる罪を、この俺が断罪してやろう」
若草色の魔方陣はさらにその光を強め、魔力の波がアカツキへと襲い掛かる。
「荒れ狂う暴風の刃をその身に纏いし大いなる龍よ。全てを切り裂け、青龍!!」
ハリーの背後に形成された魔方陣から放たれたのは、同じ風の刃が収束し形を成した龍。まるで、その龍の咆哮のように、アカツキに向けて暴風が巻き起こる。
暴風は砂を巻き上げ、立っているどころか目を開けていることすらままならない。それでも……。
「お前は確かに強くなった。でも、俺を超えることはできない」
その魔力の波を押し返すように、アカツキの紅緋色の魔方陣もまた激しく光を放つ。青龍が放つ暴風も、巻き上がる砂嵐も全てを押し返しながら。
「全てを焼き尽くす紅蓮の龍神。灼熱の不動明王、倶利伽羅!!」
灼熱の焔龍と爆風の刃龍が激突する。魔力の渦は砂を巻き上げ、大地を喰い荒らす。青く澄み渡った空は砂の霧に淀み、あたり一面には突如として多数の砂嵐が巻き起こる。
刃龍の尖鋭な牙と、焔龍の強靭な牙がうねり声のような轟音をなびかせながら激突する。互いに一歩も退かない攻防が繰り広げられる。後は、資質持ちの魔力勝負。ならば、この勝負の結末は……。
「ぐっ……。がああああ……」
突如、ハリーが膝から崩れ落ち、それでも魔力を止めてはならないと、二つの化け物が激突する戦場に向けて、ただひたすらに掌をかざし続けた。
だが、その魔力も最早限界。ハリーの崩落を合図にして、刃龍の牙が焔龍の牙によって噛み砕かれた。
そうなれば、後はただ自らの龍が、敵の龍に蹂躙される姿を見ていることしかできなかった。
焔龍は刃龍の首元に噛み付き、身体と頭を真っ二つにするように噛み千切った。
そして、まるで断末魔のような暴風を辺りに撒き散らしながら、刃龍は姿を消した。
それと時を同じくして、ハリーは魔力の限界と共に力なく地面に倒れこんだ。ただ、アカツキに向けて腕を伸ばし続けたまま。