そして暁は天を穿つ
再び目の前で大切な命が消えていった。
何もできなかった。ただ見ていることしかできなかった。
あの日、全てを護るためにもう一度歩き出すと決めたはずなのに、その道を指し示してくれた人でさえも護れなかった。
どうして自分は何もできないのだ。後悔と絶望に押し潰されて、このまま自らの心臓にこの刀を突き刺したくなる。
そうすれば、もう一度、一年前のあの日に戻れるような気がしたから。本当なら、あの日にこの命は失われていたはずだから。
けれど、それは眼前で死んでいった彼への冒涜だ。彼が何の為に自分を生かしたのか、そして彼が最後に何と言ってこの世を去ったのか。
まだ、先程までの彼の声が耳にこびりついて離れない。
『俺の代わりに、こいつのこと頼んだぞ』
最悪の殺し文句だと思った。絶対に断ることなどできないし、自分を殺す選択肢など問答無用で切り落とされてしまった。
アカネを護るために、これから先自分は死ぬことなど許されない。男と男の最後の約束を破ることなど許されない。
彼はそれをわかっていてあの言葉を残したのだ。自分も彼女も救うために、最後の最後まで彼は人のために生きたのだ。
何が自分勝手だ。どこまでもおせっかいで、どこまでも思いやりに溢れているではないか。
だというのに、今の自分は自らの力を引き出すことすら叶わない。たった一本の刀で、目の前の二人を相手にどう戦えと言うのだ。
「アカネ……、アランを置いて、レオナさんを連れて逃げろ」
冷たい声で、突き放すようにアカツキは告げる。
非道だと思われるだろうか。非情だと思われるだろうか。
それでも、彼が願った願いを裏切る訳にはいかない。彼の亡骸を捨てでも、彼女が生きながらえる確率が高い道を選ばなければならない。
「嫌だ……」
おもちゃを奪われまいと駄々をこねる子供のように、アランの亡骸を抱えたままその場を動こうとしない。
「アカネっ!!」
自然と語調が圧を増し、焦りが言葉に滲み出る。それでも、アカネは頑なに動こうとはしない。
「もういいよ。アランがいないんだったら……」
「いいわけあるか。アランの最後の言葉を忘れたのか。アランはお前に……」
「もうアランはいないのよ。だったら、そんな約束守る必要なんてない」
アカネはアランの亡骸を更に強く抱きしめながら震えている。ここから動く気はない。アランが死んだこの場所で自分も死ぬのだと言わんばかりに。
「この分からず屋がっ!!」
その言葉と共に、アカツキは敵対する二人に向かって接近する。なるべくアカネと距離を取るためには自分から敵に近づいていく他にない。
「はあああああ!!」
退魔の刀を右手に携え、その切っ先を一歩前にいたレイに向けて突き立てる。だが、その切っ先がレイへと届くことはない。
後ろにいたはずの龍仮面の女が、その大槍でアカツキの刀を受け止めた。
「誰だ、お前は……?」
突然現れたその龍仮面は、その長い髪と鎧を身に纏った華奢な身体つきから女であるということしかわからない。ただ一つ言えるのは、彼女が味方ではないということ。
女は無言のまま、大槍でアカツキの刀を軽々と弾き返す。
どうやらアカツキの問いに応える気はないようだ。だが、その行動で彼女がレイ側の人間であることだけはわかった。
「どうして、アイツを殺さなくちゃならなかったんだ……?」
そんなことを聞いてもどうしようもないことはわかっていた。それでも聞かずにはいられない。だって、アランが意味もなく殺されていい訳がないから。
その問いに答えたのは、女ではなく彼女の後ろに構えていたレイだった。
「どうしてだと?そんなの決まっているだろ。お前たちはこの世界のゴミだ。お前たち資質持ちは、例外なく排除されるべきなんだ」
そう、彼は出会った時からずっとその理由を述べていた。アカツキとレイの意志は決して交わらない平行線を辿り、二人の言葉は押し問答にしかならない。
「そうだよな……。正しい一つの答えがあるのなら、俺たちが戦う必要なんてないんだ。戦うことでしか、答えが見つけられないのなら、戦うしかないじゃないか」
そう、これは何度もぶつかった大きな壁。一つの正しい答えがあるのなら、人間はそれに向かって歩むことができる。だが、それが無いからこそ、自分はあちら側の世界でグランパニアと戦争し負けたのだ。
今目の前で起こっていることと、自分が起こしたことは一体何が違うと言うのだ。
「俺は、アランのように甘くはない」
戦う決心など、とうの昔に出来ている。そして自分の無力さも、とうの昔に自覚している。
「俺は、敵を護れる程強くはないからな」
再びアカツキはレイの前に立つ女に向かって刀を振り下ろす。女は巨大な大槍を軽々と振り回して、アカツキの攻撃を受け流していく。
何度か二人が撃ち合いを演じていると、女がアカツキの刀を再び大きく弾き、アカツキに向けて掌を翳す。その掌には魔法陣が刻まれており、そこから水の弾丸が勢いよく飛び出してくる。
アカツキは地面を蹴って跳躍して後退する。アカツキが元いた場所には、直径十センチほどの穴が五つほど空いていた。
「そう言えばお前、本当に生きていたんだな」
突然レイから告げられた言葉の意味を噛み砕くことができず、アカツキは思わず表情を歪める。
「お前は、既に死んだことになっている。あのグランパニアとの大戦は誰もが知る大事件だ。お前はそこで死んだことになっていたはずだ」
アカツキも、アランにグランパニアの瓦版を見せられて、自分があちら側の世界では死んだ人間になっていたことは知っている。だが彼の言い方は、自分が生きているということは知っていたような言い方ではなかったか。
「どうしてお前は、俺が生きていたことを知っていた」
「どうしてって、あのお方から聞いたからだよ」
「あのお方?」
「それが誰かなんて、今のお前には関係ないだろ」
彼との会話で少しだけわかったことがある。
彼は『神喰い』と名乗った。そして、彼と目の前の彼女はどうやら仲間内の関係らしい。更に、彼が呼ぶ『あのお方』と言う人物は、恐らく彼らのリーダー的な存在だろう。
だとすれば、『神喰い』と言うのは一つの組織のようなもの。そして、その目的は『資質持ち』の排除。
「そこの女も、資質持ちを殺す為にここにいるのか?」
彼女は何も答えない。まるで、声を出すことを嫌がっているかのように、一言も言葉を口にしようとはしない。
だが、その問い掛けの答えだと言わんばかりに、女は掌を前に翳し魔法陣を展開する。
そこから蛇のようにグニャグニャと曲がりくねった水の鞭がアカツキに向けて襲い掛かる。
アカツキは次々に襲い掛かる水の鞭を刀で断ち切り、相手の魔法を亡き者にする。
「噂は本当の様だな」
まるで通訳者のように、レイが彼女の後ろから言葉を投げかける。どうやら、今のレイに魔法を使う程の魔力や精神力は残されていないらしい。
「退魔の刀を持つ者。その刀に触れた魔法は否応なく掻き消される」
どうやらこの力の秘密を知る者は最早少なくないらしい。イシュメルとの戦争ですら、既にこの力の存在が露見し、その対策を打たれていた。
「だが、その存在を知っていれば、その力はそれ程脅威にはなり得ない」
アカツキの頭上に、群青色の巨大な魔法陣が形成される。その大きさからして、自分が逃げられるような範囲ではない。最悪、アランを抱えて蹲っているアカネですら巻き込まれる。
アカツキは自分が魔法を出せないことも忘れて、条件反射で魔法に向かって魔法を放とうとする。だが、その瞬間視界が深紅に染まり、御しきれない眩暈と嗚咽がアカツキの身体を一瞬で走り抜ける。
アカツキは思わず膝を付き、展開しかけた魔法陣は形を成すことなく消え去っていく。
「アカネ、逃げろっ!!」
そんな自分すらも危うい状況にも関わらず、アカツキはアカネへ向けて叫ぶ。だが、アカツキの言葉がまるで聞こえていないように、アカネは微動だにもしなかった。
アカツキが叫んだのとほぼ同時に、群青色の魔法陣が輝きを増し、空から大きな水の針が雨のように降り注ぐ。
水の針の群れがアカツキに襲い掛かる。身体中に突き刺さり、アカツキの身体に穴を穿ち、必死に護りぬいた頭部以外は、ほとんどが深紅に染まっていた。
深紅の視界の先で、アカネもまた小さくない傷を負っている光景が見えた。逃げる気が失せた彼女を護る為には、戦う他に道はないのだ。
大切な者を目の前で失った時の喪失感はアカツキも十分に理解している。だから、今の彼女を責めることはできない。それでも、アランとの約束は絶対に果たさなければならないのだ。
魔法が使えれば、こんな攻撃を相殺することは容易だっただろう。魔法がないことがどれだけ無力なのか思い知らされる。魔法を使えない者は、魔法使える者にとって蟻同然で、その力によって蹂躙される他ないのだ。
今初めて、自分がこれまでどれだけ恐ろしい存在だったかを理解することができた。
資質持ちでない者からしたら、この力を扱う者たちは恐怖の対象でしかないのだ。だって、どれだけ努力したところでこの力だけで簡単に戦況を覆されてしまうのだから。
レイの言う通り、力を持たない人々からすれば、資質持ちは害悪でしかないのかもしれない。
『それでも……』
アカツキは心の中で希う。例え、自分が害悪だったとしても、今はこの力が欲しい。戦う為の力を、護る為の力をもう一度この手に……。
『何が、もう一度だ……』
嘲笑うかのような口調で、アカツキの心の中に語り掛ける者がいる。それはどこか懐かしく、ぐちゃぐちゃと心を掻き回すような声音だった。
いつの間にか深紅の視界は暗闇へと落ち、その先に十六の赤く光る眼球。
『お前は……』
姿は見えない。だが、そこにいるのが自分の契約者であることだけは、水が喉を通るようにすんなりと理解することができた。
『汝はまさか、我が力を奪ったとでも思っておるのか?』
『それくらいしか考えられないだろ。この力は、元々お前から……』
地面を揺らす呻き声のような低い笑い声で嘲笑を浮かべると、目の前の化け物はこう言った。
『片腹痛いわ。貴様の心の弱さを我に押し付けるな。貴様が自ら我が力を押し殺しただけであろう』
そんな覚えはない。俺は何度も力を使いたいと願った。けれど、その度に視界が深紅に染まり、眩暈と嗚咽に襲われる。
『俺が、力を使うことに怯えているって言うのか?』
『そう言ったはずだが、聞こえなかったのか』
『ふざけるなっ!!俺は、もうあの時の俺じゃない。確かにアリスを護れなかった。そのことに、後悔もしたし絶望もした。でも、俺は変わったんだ。アランのお陰で変わることができたんだ』
『何が変わったというのだ。貴様は何も変わりなどしていない。貴様は自らの殻に閉じこもったまま、殻を破ることに怯え、殻の中の平和な世界に甘んじているだけではないか』
『お前に何がわかる!!ただ、俺の心の中に居座って、何もせずに傍観しているだけのお前が、俺を語るな』
『なら貴様の好きにしろ。端から我は貴様の力を抑えてなどおらん。力も使えぬまま、蹂躙されて死んでゆけ』
暗闇が解け、深紅の視界が戻ってくる。アカツキは刀を杖にするように身体を支えながら、ふら付く身体を何とか立たせる。
女が再び、アカツキに向けて掌を翳す。女の背後に多数の魔法陣が展開され、そこから巨大な散弾銃のように水の弾丸が襲い掛かる。
アカツキも再び掌を翳し、防御魔法を繰り出そうとするが、魔法陣を展開することも敵わず、無抵抗に水の弾丸に蹂躙される。
「どうして、お前は魔法を使わない?」
レイが怪訝そうな表情を浮かべながらこちらに尋ねる。当たり前だ、資質持ちの癖に魔法を使わないということは、相手のことを舐めていると捉えられてもおかしくは無いのだから。
「うるせえ……。お前らなんかに、魔法なんて……」
アカツキが言葉を最後まで言い終える前に、瞬間移動したようにレイがアカツキの前に現れた。
そして、レイはアカツキの頬を拳で殴りつけ、立っているのもやっとだったアカツキは、その勢いのままに吹き飛ばされ地面を転がっていく。
「がは……」
口の中に鉄の塊を詰め込まれたような気持ち悪さを覚えながら、朦朧とする意識を必死に手繰り寄せる。
ぼやけはじめた視界が、再び暗闇に包まれていく。
『見ろ、今の貴様に何ができると言うのだ。我の力を希え。さすれば、あの日のようにもう一度貴様に力を与えてやろうぞ』
その言葉と共に、あの日の記憶が蘇る。この化け物に身体を明け渡し、自らの意志に関係なく敵をズタズタに蹂躙したあの日の記憶が。
『ダメだ……。お前にこれ以上俺の身体は貸せない』
『ならば、このまま蹂躙されて死を受け入れるのか?』
『死ぬ訳にはいかない。俺はアランと約束したんだ。アカネを護るって』
『まだわからぬようだな。全てを手に入れることなどできはせん。護りたいものがあるのならば、それ以外の全てを失う覚悟をしなければならんのだ』
『ああ……、お前の言うことは正しいよ。それくらいの覚悟がなければ、誰も護れやしない。でもな、護りたいものに優先順位なんてないんだよ。俺は出来るならどちらも護りたい。例え、それが無茶で、無理で、無謀だったとしても』
『ならば、貴様は全てを失うだけだぞ』
『そうならない為に、この命があるんだろ。俺は我が儘なんだよ。全部手に入れなければ気が済まない。それが贅沢だって言うなら、何か切り捨てろって言うなら、俺はこの命を切り捨てる』
『それが、貴様の覚悟か?』
『ああ、それが俺の覚悟だ。それで、この命が尽きるって言うなら、俺はそこまでの男だってことだ。それでも、この先にまだ道があるというのなら俺は……』
暗闇の中でアカツキが輝きを増していく。その輝きはまるでアカツキの生命力の様で、アカツキの表情が少しずつ力強さを増していく。その姿を十六の眼はただジッと、一切の身動きを取ることなく眺めていた。
『面白い……。よもや、我が貴様の背を押すことになろうとは……』
『どういうことだ?』
『ふっ、ならば貴様の好きにするがよい。この身体は未だ貴様の身体。この力は未だ貴様の力。ならば、貴様の好きにするのが道理。その覚悟があれば、心の闇はいずれ取り払われる。今だけは、興が乗った故にその助力をしてやろう』
『助力?』
『我も貴様に死なれるのは本意ではない。まあ、我に身体を明け渡せばよい話だが、どうやらそうもいかんのだろ』
『ああ、お前にこの身体を貸す気は毛頭ない』
『まあ良い。だが忘れるな。これは唯の気まぐれ、いつでも貴様に力を貸すと思うな。我が契約を忘れるな、いずれその時は来る……』
『礼は言わないからな』
いつの間にか笑みを零していたアカツキは、いつの間にかぼやけた視界に戻っていた。
目の前には、これまで魔法を使わなかったレイが、アカツキに向けて魔法陣を展開していた。
「魔法を使わないお前一人を殺すくらいの魔力は、まだ俺にも残っている。何の見栄かは知らないが、使わないというのなら、お前の好きにするがいい。だが、俺はそういう奴が一番嫌いだ。俺の最後の魔力で、お前の息の根を止めてやる」
レイの深紅の魔法陣は輝きを増し、魔力の解放を待ち侘びている。
「そいつを塵一つ残さずに焼き尽くせ。モロク!!」
獄炎の猛獣が再びレイの魔法陣から放たれる。その巨大な炎の魔法はアカツキに覆いかぶさるように放たれ、アカツキの視界は灼熱の獄炎で埋め尽くされる。
レイは勝利を確信した。理由は知らないが、目の前の敵は魔法を使わない。ならば、自らの絞りカスですらも相手の身を焼き尽くすには十分な力だった。
だが瞬間、感じたことのない魔力の波が辺り一辺を覆いつくし、周囲が突然にざわついた。
「何だ……!?」
突然の出来事に、レイは思わず辺りを見回すが何もない。
異変が起こったのは自らが放った巨大な獄炎の猛獣。その、異常な魔力の波が押し寄せた瞬間、モロクの動きが自らの意志と反して止まったのだ。
そして、レイが次の言葉を紡ぐよりも先に、モロクの巨体が弾け飛んだ。地面を焼き焦がし、辺りの草木を灰に変えた獄炎の猛獣は、自らの身体すらも塵に変えてしまったというのか。
いや、違う。飛び散った猛獣の向こう側に、一人の男が立っていた。
その男の姿形は確かに変わりない。だが、そこから溢れ出る何かが、今までの彼と著しく異なっているのだ。まるで、別人が立っているかのように。
アカツキの周囲を黒い炎が纏わり付くように揺らめいている。そして、その両手には、二振りの退魔の刀。
「何だそれは……。黒い炎だと……」
その刀の内の一振りの切っ先をゆっくりとレイに向けると、アカツキは自らの存在を誇示するように、彼に向けて宣言した。
「覚悟しろよ、レイ。俺はもう、アイツに喰われたりしない。俺は俺だ。アカツキ・リヴェルだ」