平和の意味
「資質持ちを以て対峙するって、要はあんたと戦えって意味だったのか?」
平然と街の中を、素顔を晒しながら自分の前を歩くレガリア国王に、呆れた声音でアランは問い掛ける。
街といっても、鉄仮面を被った衛兵たちが闊歩する、軍事施設と言った方がすんなりと飲み込める。周りは太陽の光で鈍色に輝く金属の建物で覆い尽くされていた。
油臭く、黒煙で視界が多少悪くなる。そんな通りを三人は進んでいく。
「まあ、君が戦うって言っていればそうなっただろうね。そうならなくて、心底安心したけど」
含みのある笑みを浮かべながらこちらを覗き見る。なんだか、相手の態度が少しだけ自分と似ているような気がして、軽い自己嫌悪に陥る。
「それはこっちの台詞だっ。四天王相手に勝てるわけがないだろ。こっちは既に負け犬だってのに」
先ほどの自分の判断に心の底からの安堵の吐息を漏らす。戦っていれば、アカネを逃がすどころの騒ぎではない。
それにしても、そんなことを言いながらも、四天王相手にタメ口で話す自分の大胆さというか、非常識さに改めて驚きを覚える。今さら直す気もないが。
「自分が敗者だと、認めているんだね。君が思っていたよりも大人で助かったよ」
きっと彼は何も思っていないのだろう。それだけの強さを持っているのだから。
戦うことになれば、彼は全力を出す必要など無く、自分を亡き者にできるだろう。戦わなければ、戦う手間が省けて楽に終わる、それくらいにしか考えていないのだ。
年齢よりも若く見える彫の深い顔に、短く伸びた顎鬚。少し逆立った群青色の髪を靡かせながら、この薄暗い通りには似つかわしくない爽やかな笑みを浮かべて、髪と同じ透き通るような瞳を時折こちらに向けてくる。
姿勢よく背筋を伸ばして自分たちの前を歩く彼は、どちらかといえば華奢な身体つきをしている。
普通にしていれば、彼が数多くの国の上に君臨する者であるなどと誰が思うだろうか。
出会ったばかりの自分ですら、彼の気安さに親近感を覚えてしまっている。アカネはまだ、一言も言葉を口にしようとはしないが。
「先程から気になっていたんだけど、彼女は?」
アランの心を見透かすように、グレイがアカネについて尋ねてくる。まあ、むしろ今まで尋ねられなかったことに疑問を覚えるくらいだが。
てっきりアカネが自ら自己紹介するのかと、彼女の声が聞こえるのを待っていたのだが、一向にその気配がない。
「おい、アカネ。お前のことを……」
聞かれているんだぞ、と告げようとして、その先は口を噤んだ。アカネはフードを間深く被ったまま、こちらを見るつもりもないらしい。
そう言えば、彼女は多くの人間に追われていたのだ。自分に心を開いてくれているから忘れがちだが、彼女が人間不信であっても何もおかしくはない。
アカネのその行動が幸いしたのか、グレイも彼女についてある程度は察してくれる。
「いいよ。君から説明してくれれば」
「いいか?」とアカネに向けて優しく問い掛けると、フードが縦に小さく揺れた。
「旅の途中で拾ったんだ。俺と同じ目をしていたから、つい……」
「同じ目をしていたねえ……。まあ、旅は道連れ世は情けってね。そういう関係も嫌いじゃあない。彼女がそれを受け入れているなら、こちらから言うことは何もない」
特に驚いた様子もなく、水が喉を通るようにすんなりと受け入れる。何も考えていないのか、それとも器が大きいのか、底が見えない小さな笑みが不意に怖気を感じさせる。
「それ以上は何も聞かないんだな」
自分の素性がある程度知られていることは覚悟していたが、彼女については何も知らないだろう。そんな相手を、大国の国王が懐に入れることを気にしないのだろうか。
「聞かないよ。人の傷を抉るのは趣味じゃないんだ。それに、俺は人と人の繋がりなんて自由でいいと思っているからね。この国に害を為さないのなら、それでいい」
そんな簡単に人を信じられるものなのだろうか。
レガリア領はほとんど戦争のない平和な領土だ。その分、商人同士の争いは他の領を圧倒するらしいが、それでも血が流れることはない。
そんな穏やかな国だからこそ、人を信じられるおおらかさと器の大きさを得られるのだろうか。
血の流れない日を見ないような世界で生きてきた自分たちには到底理解が出来ない。
「それに、彼女が何かしようとしても、君が止めてくれるだろうし」
そう言われて、アランは思わず目を丸くしてグレイに視線を送る。
「君は自分が思っているよりも周りが見えている。君は彼女のことはとても大切だし、二人とも俺に勝つことができないことを理解している。そうだろ?」
前を歩くグレイは、こちらを振り向こうとはしない。背中を見せながら、抑揚のない声音でこちらの心を見透かす。
「どうして、そこまで……?」
平静を装おうとしても、口から漏れる言葉が震えている。
こちらの表情を見られた回数など、片手で数えられるような回数だ。だというのに、一体何が彼に俺の心を語っているというのか。
「そんなに警戒しないでくれよ。別に大したことじゃない。君の様子から予想を立てて、たまたまそれが当たっていただけだよ」
今度は何の含みの無い無邪気な笑顔をこちらに振る舞いて告げる。その表情を見ていると、本当にそうなのだろうと思えてしまう。
「君の視線と声音から予想しただけさ。こんな立場にいると、人の嘘を見破らないといけないことが多いからね。そういう意味では、君は素直で助かるよ」
予想などと言っているが、恐らくほぼ確信に近かったのだと思う。それだけたくさんの人の嘘をこれまで眼にして、耳にしてきたのだろう。
商人の国の頂点に立つ男なのだから、交渉術が上手いのは当然の話だ。たった一瞬の相手の隙を見逃せば、それで人生が終わるかもしれないのだ。
そう考えると、この世界も血が流れないだけで、平和な世界とは言えないのかもしれない。
沢山のパイプを纏った、鈍く光る銀色の城の合間を越えて、三人はようやく軍事施設の外へと出る。
「さあ、ここからが本当のレガリア領だ」
その先に広がっていたのは活気の溢れる街並みだった。多くの商人が客引きをしながら、多くの客が品定めをしている。
それはグランパニア領でも見られる光景だったが、そこにいる人々の表情は明らかに違っていた。
争いに怯えることの無い活気のある笑みを浮かべる人々。
ほんの少しの値下げにも力を抜かないひたむきさは、向こう側では見ることのできない光景だ。
争いのない世界で生きる者たちは、日々の生活や商売に真摯に向き合う。それは、誰の血が流れることもない平和な世界。
「君の目には、この世界が平和に見えるかい?」
アランがその光景に見とれながら呆然と立ち尽くしていると、心の中を見透かしたようにそんなことを尋ねる。
「そりゃ、俺たちみたいに、武器を持つことや暴力を振るうことしか知らねえ奴らからしたら、平和にしか見えねえよ」
「確かに、血が流れないことを平和だと言うのなら、この世界は平和なんだろうね」
どこか含むところがあるような口調でグレイは顎髭を擦る。
「でも、血が流れないだけで、みんな生きることには必死なんだ。レガリア領だって、路頭に迷って苦しむ者は後を断たないんだよ」
グレイの言うとおり、戦わないことだけが平和なわけではない。血は流れずとも、争いはあるのだ。
「じゃあ、あんたは自分が創った世界に後悔してるのか?」
彼がどこか寂しげな表情を浮かべたものだから、そんなことを思わず口にしてしまう。
「後悔はしてないさ。血を流さなくて済むんだから、それは喜ぶべきことだ。ただ、平和ってどこにあるのかな、と思ってね」
争いの世界にそのみを染めてきたアランは、戦争のない世界こそ平和なのだと思っていた。
ただ、人間は欲深い生き物だ。何かひとつの欲が満たされれば、新たな欲が生まれる。
グレイのその悩みは、アランからすればとても贅沢なものだった。
「難しいこと、考えるんだな……」
「まあ、たくさんの命を預かっている訳だからね。指導者として、なるべく多くの人のことを考えなくちゃならないんだよ」
一国の王の自分ですら、その身に余る責任に押し潰されそうになったことがある。
ならば、大国の王とは一体どれだけの重圧に耐えているのだろうか。
目の前の男のどこか飄々としたところは、それを隠すための唯の仮面に過ぎないのかもしれない。
「平和の定義ってなんだろうね?」
「そりゃ、戦争や内乱みたいな争いのないことじゃねえのか」
グレイはアランの言葉を咀嚼するように、口を開くことなくジッと眼下の街並みを眺める。
そして、少しの間をおいて小さく首を横に振った。
「それは、国という大きな単位で物を見たときの話だ。個人という小さな単位で物を見れば、争いが起きていなくても平和だと思えない者も少なくないさ」
「そんなの理想論だろ」
「そうなんだよね。わかってはいるんだけど……。俺はやっぱり欲深いのかなあ……」
キッパリとアランはグレイの悩みを断ち切った。それは、あまりにも危うい考えだと思ったから。
大きな視点で見ているからこそ取れている安寧というものは確かにある。
それを顕微鏡で覗くように細かい視点に目をやれば、突然歪みが生まれてしまう。
その小さな歪みを気にするあまり、やがて小さな歪みは大きな歪みへと姿を変える。
それはあまりにも危うく、王として抱いてはならない迷いだと思った。
「そう簡単に、誰かを切り捨てられないよ……」
グレイが漏らしたその呟きに、アランは何も言葉にすることはできず、固く唇を結んだ。
彼は何故、大国の王になどなれたのだろう。
彼は優しすぎる。王とは切り捨てる冷酷さを孕んでいなければならない。
全てを追うものは、やがてその掌に収まりきらずに溢れ落ちていく。本当に護りたい者までも巻き添えにして。
それは王として、絶対にやってはいけないことだ。自分が王だったからこそ、それだけはわかっているつもりだ。
彼の全てを救おうとする理想論が危ういと思うのは、自らの経験が物語っているのだ。
ただ、何も口にすることができないのは、目の前の男が自分の尺度では測ることのできない強さを持ち合わせているから。
彼は力でそれをなんとかできるのかもしれない。
「ごめんね。しんみりさせちゃった」
照れたように、頬をほんのりと染めながら笑みを浮かべる。そんな表情を見せられると、本当に目の前の男が大国の王なのかと疑いたくもなる。
「今日はこの街の宿に泊まっていきなよ。もちろん俺の奢りで」
それはとても嬉しい申し出だった。早く柔らかく、暖かい布団にその身を埋めたい。
その申し出に、珍しくアカネがその身を小さく震わせて反応を見せる。彼女も余程待ち遠しいようだ。
三人が向かった先は、とても宿とは思えない立派な建物だった。入り口には揃いの制服に身を包んだ正装の男たちが恭しく頭を下げて出迎えてくれる。
「いらっしゃいませ、グレイ様」
どうやら、大国の王が顔を覗かせても、彼らは一切の驚きも、臆することもないらしい。一体この男は、普段からどれだけ辺りをふらついているのだろうか。
「何もこんなに高そうなところじゃなくても……」
流石のアランもその豪奢な内装に気後れしてしまう。大国の王の連れなのだから、当然と言えば当然なのかもしれないが。
「俺にも経済を回すって大事な仕事があるからね。ここで大金を落としていくのは、ある意味で俺の大切な仕事なんだ」
そんな考え方をしたことのなかったアランは、納得することはできなかったけれど、反論する気には毛頭なれなかった。
だから大人しく、為されるがままに、アランは部屋へと案内された。
部屋に入るなり、アカネとアランは小汚ない身ぐるみを剥がされ、小綺麗な衣服に着替えさせられた。
すっかり着なれていた衣服が奪われていくことに心残りを感じながら、新たな衣服に息苦しさを感じた。
「やっぱ慣れねえのはいけねえや」
そんな慣れない自分の姿な目を通していると、コンコンと子気味よいノックの音が聞こえてくる。
返事をする前に開けられた扉の先には、アランと同じように着替えを終えたアカネの姿があった。
「おお、可愛いじゃねえか」
これは愛犬に可愛いと言っているようなもので、それ以上の他意はない。彼女はまだまだ幼いのだから、意識する方がおかしい。
「うるさい」
けれど、言われる方はそうもいかない。頬を紅潮させて視線を逸らす。けれど、口許はどこか歪むのを我慢しているように見える。
アカネは薄紅色のワンピースにクリーム色のポンチョを合わせていた。年相応の可愛らしい身なりだ。
アカネもアランと同じように、着慣れない衣服に身体がむず痒くなり、その不満をどこにぶちまければいいのか困っているようだった。
「で、どうしたんだ?」
アカネは言い辛そうに唇を固く結んだまま、こちらをジッと眺めている。けれど、こちらもわざわざ言葉を掛けてやるほど優しくはない。
こちらが何も言わないことに我慢の限界を迎えたのか、アカネがようやく口を開く。
「あの、広い部屋が落ち着かないし、その……、これからのこととか……」
要は寂しくて話し相手が欲しいらしい。グレイと一緒にいる時はあれだけ口を開こうとはしなかったのに、案外面倒な性格をしている。
まあ、自分勝手でいいと言ったのは自分だし、追い返す理由も特にない。
「べ、別に、アランと一緒にいたいとか、そういうことじゃないから。アランも独りで寂しいかなと思って……」
言い訳がましく、早口でまくしたてる。そんなアカネの姿が愛らしく、思わず笑みを漏らしてしまう。
「わかったよ。好きなだけこっちにいればいい」
「なによ、その顔は。信じてないでしょ……」
血の繋がった家族ではないけれど、死地を乗り越えた二人は、血の繋がりよりももっと固い絆で結ばれている。これからも彼女を護っていきたいと、改めてそう思った。
この後、アランの部屋のベッドを占領したままアカネが眠ってしまい、アランは結局ベッドで眠れなかったせいで、次の朝は珍しく少しだけ怒っていた。