幕間三:受け入れるしかない現実
「どうしたんだい?抵抗するのを止めてしまっては、僕が楽しめないじゃないか」
不意に足許にいるレイの抵抗が薄れる。エリアルはレイの頭を捻り潰し続け、容赦なくレイに痛みを刻み込んでいく。
「黙っていたら何もわからないだろ?ほら、痛いかい?苦しいかい?」
恍惚な笑みを浮かべて愉悦に溺れるエリアルの言葉に、不意に冷めた声が返って来る。
「黙れ」
「ん?」
その声音に、エリアルも思わず我に還る。その声音には先程までの焦りや怒りの感情が欠けていた。落ち着き払っていて、まるで諦めてしまったような声音。
ここまでか……、とエリアルが足元を睨み付けて、頭を潰す勢いで足に力を入れようとした。
だがその瞬間、エリアルは突如凄まじい衝撃に吹き飛ばされた。
「がはっ……」
自分がどうなっているのか、それが判然としたときには、エリアルはレイから遠く離れた壁に叩きつけられていた。
「いったい何が?」
慌てて視線をレイへと移す。そこにはゆっくりと立ち上がるレイの姿。
だが、どうにも様子がおかしい。先程の怒りと憎しみに満ちた彼の表情が、まるで別人のように冷めた眼つきをしている。
それに自分に与えられた衝撃を生み出した物はどこにもなく、それではまるで自分と同じ……。
「エリアル・ヴァルドレア。最後に言い残すことはないか?」
突如レイが口にした言葉は、まるで別人が乗り移ったかのように、これまでの彼とは一線を画していた。
「何を言っているんですか?君に勝ち目などあるはずが……」
「黙れ。勝ち目がないのはお前だ」
エリアルの言葉を最後まで耳にすることなく、レイが言葉を挟んで遮断する。
この落ち着き方にはあまりにも違和感がありすぎる。だが、そうなる可能性をエリアルは知っている。何より、違う形ではあるが自らが経験したことがある。
「まさか、君も王の資質に目覚めて……」
「王の資質……、それは俺が根絶やしにする者。俺の敵」
レイが右手をゆっくりと上げると、そこに禍々しく黒い炎が突然燃え上がる。
「やっぱりそうか。でも、君はまだ資質持ちになったばかり。少し力を手に入れたからと言って、僕に勝てる道理などどこにも……」
エリアルは突然言葉を失う。何故なら先程まで離れた所にあったレイの顔が、一瞬で眼と鼻の先の距離に現れたのだ。
「お前らと一緒にするな。俺は資質持ちなんかじゃない。お前たちが神に与えられた力を喰らう、神喰いだ」
黒の炎に包まれたレイの拳が、エリアルの顔面を捉えて吹き飛ばす。いや、そこにあるのはレイの拳であって、レイの拳ではなかった。
レイの拳はいつの間にか、人ならざる者の手に姿を変えていた。
「馬鹿な、資質持ちになったばかりの君が、どうしてそれだけの力を?」
「だから、資質持ちじゃないって言ってんだろ。お前らと一緒にするんじゃねえ」
目の前の男と同類に思われることに心底怒りを覚える。目の前の男を殺すことに、何の躊躇も必要が無さそうで安堵を覚える。
「何を言っている、その力は紛れもなく……」
顔面を殴られた衝撃で身体が言うことを聞かなくなっているエリアルの目の前に立ったレイは、その変わり果てた掌でエリアルの首を掴んで持ち上げる。
「お前の常識の範疇で物を語るな。俺とお前は違う。ただそれを受け入れればいい」
エリアルの首を掴むレイの掌は徐々に力を増していき、エリアルの呼吸が少しずつ遮られていく。
「や、止めてくれ。僕は君の師匠だろ。これからは魔法のことも教えてあげる。君の妹だって、必ずもう一度取り戻してあげるよ。だから……」
「必死だな」
レイの冷たい声音がエリアルの言葉を掻き消す。
「もっと冷静にならないといけないんじゃないのか。相手をよく見て、敵の出方を覗うんだったよな」
「そ、それは……」
レイの言葉がそれ以上続かないことに、レイは呆れて溜め息を吐いた。
「なんだ、所詮口だけか……」
そう言って、レイがエリアルから視線を外した。
その瞬間エリアルの唇が突然歪み、眼は見開かれ、まるで時が戻ったかのように醜悪な表情が突如帰って来る。
「そうだ、そうやって君が油断する瞬間を待って……」
そう叫びながら右手に魔法陣を展開し、レイへの攻撃を企てようとしていたエリアルの肩から先が、赤い飛沫を上げて吹き飛んだ。
「はっ?」
ほぼ出来上がっていた魔法陣も、主を失くして霧散していく。エリアルの右腕は絵具をひっくり返したように地面を赤く染め上げながら、地面を転がっていく。
エリアルの首を掴んでいないレイの腕が振り上げられている。レイは人ならざる者となり鋭く尖ったその爪で、エリアルの肩から先を引き裂いたのだ。
ようやく自らに起こった悲劇を理解したエリアルの脳神経に、痛みが濁流のように襲い掛かる。
「うわあああああああああああ」
エリアルの表情が絶望に伏した悲壮なものへと変わり果てる。肩からは止まることのない鮮血が、次々と溢れ出し地面を濡らす。
「気付いていないとでも思ったのか?」
レイの視線が再びエリアルの視線と交わる。エリアルの余裕はどこにもなく、ただ恐怖に怯える瞳が行き場を失ったように蠢いていた。
「お前の醜悪な瞳が語っているんだよ。奇しくも、お前に教わった事だがな」
相手の眼を見て、先を読め。それはエリアルがレイに教えたこと。
「お前には感謝している。確かに剣術のことで嘘を吐いてはいないんだろ。それは俺でもわかる」
これまでエリアルに教わってきたことには、悔しいことに嘘偽りを感じなかった。そのせいで、彼を信じ込み、妹を失ってしまったのだから。
「そうだろ。感謝しているんだろ。だったら……」
エリアルが残された手で、レイの肩を掴む。そこには一切魔力は込められておらず、ただ恐怖に怯え縋り付いているだけだった。
そんな懇願するエリアルの腕を、レイは手持無沙汰となった手でゆっくりと掴んだ。
そして何の躊躇もなく、エリアルの腕を力づくで引き千切った。
エリアルは最早声にならない悲鳴を上げた。彼をどれほどの痛みが襲っているかなど知らない。
だが、脳で感じられる痛みなど、自分が感じた痛みからしたら比べものにならないほどに生易しい。
「だったら助けてくれか?どの口がほざく」
目の前の男には死すら生易しい。そんな罰しか与えられないことが心底腹立たしい。
だが、そろそろ時間が無くなってきた。これだけ暴れているのだから、他の人たちが集まってくるのも時間の問題だ。あまり面倒には巻き込まれたくない。
「まあいい。お前にも救いを与えてやるよ」
両腕を失い、喉が焼き切れ言葉も失い、抵抗の余地のないエリアルは、その言葉に心底安堵した表情を浮かべる。
その言葉の意味を、こんな状況にも関わらず甘く捉えているのだろう。
最早目の前の男が滑稽ですらある。こんな男に弄ばれていた自分が、あまりにも惨めに感じ、突然の怒りに唇を歪める。
だが、この怒りもここで終わりだ。もう、幕引きとしよう。そして与えてやろう。死という名の救いを。
掴んでいたエリアルの首をレイは突然手放した。エリアルは力無く背後の壁にその身を預け、解放されたことに安堵の溜め息を吐く。
そして次の瞬間、レイが腕を滑らかに横に薙いだ。それと同時にエリアルの首が宙を舞った。
エリアルの首は身体から離れた所に転がり、主を失った身体は力無く地面へと横たわった。
ようやく妹と、そして自らの仇を打ったというのに、湧き上がる感情はほぼ無に等しい。
仇を取れた嬉しさも、悪を倒した喜びも湧き上がることはない。
「虚しいな……」
そんな言葉をぼそりと呟き、レイは生を失ったエリアルの首を持ち上げる。その掌は、いつの間にか見慣れた自分の掌へと戻っていた。
その顔をジッと眺め、放り棄ててこの場を去ろうとしたその時、不意に男の声が耳を過った。
「貴様、何をしている?」
そこにいたのは、この国の黒い軍服を着た軍人たち。そして自分が手にしているのは、彼らの長である騎士隊長の首。
「お前、一体何を持っている?」
声を掛けてきた男は見知った顔だった。この数週間の間に何度か顔を見た覚えがある。
今更言い逃れもできる訳がない。そして何の争いもなくこの場を逃れることは、既に不可能だろう。
「お前たちの、騎士隊長の首だ」
レイは彼らに向かってその首を突き出した。男たちの表情が青ざめ、怒りや悲しみ、恐怖や憎悪など様々な感情が、彼らの表情に表れていた。
「貴様、騎士隊長を師と慕っていたのではないのか?」
目の前で何が起きているのかわからないといった様子で男は尋ねる。それはそうだろう。昨日まで子弟関係だった二人が殺し合いをしたのだから。
「こいつは俺の妹を奪ったんだ。妹の仇を打つのは当然だろ」
レイの冷たい視線は変わらない。彼らもまた、この男を慕っていた人間たちなのだ。
この男をこの地位に祭り上げ権力を与えていたのは、紛れもなくこの男たちなのだ。ならば、彼らもまた同罪だ。
彼らはレイが手にする男の力量を知っている。その男が敗北した者に、自分たちが勝てないというのも十分に理解しているのだろう。
だから、その表情が恐怖に染まっていく。自分たちの死を覚悟しなければならないから。
それでも、自分たちの長の首を取られて黙っていられる者は、軍人でなどいられない。彼らにも、軍人としての誇りがあった。
それが、自分たちを殺す呪いであったとしても。
「レイ・クロスフォード。貴様をこの場で処刑する」
その言葉を合図にするように男たちが一斉に銃を構える。彼らに躊躇いなどはなく、引き金に手を掛け、後はその引き金を引くだけ。
「撃てっ」
その掛け声と共に、彼らの携えていた銃が一斉に火を噴いた。
その弾丸の嵐に向けて、レイは再び人ならざる者の手を翳した。
自分の背後で街が燃えていくのを感じる。黒い煙が空へと昇り、それを伝うようにして空が赤く染められる。
騒ぎを聞いて駆け付けた者たちだろうか。自分の背中に次々と悲鳴が突き刺さってくる。
だが、そんな悲鳴で心に痛みを感じるほど、今のレイの心は人間味を帯びてはいなかった。
路地裏を抜け、騒然とする街中へと顔を出す。騒ぎを聞いて現場に向かう野次馬たちは、レイの手にする物を眼にし、怯えて腰を抜かし悲鳴を上げる。
今更そんな光景をものともしないように、レイは大通りを闊歩し、そしてロンドザナの門へと到達した。
「じゃあな、腐りきった王国」
レイが騒ぎを聞いて閉じられた城門に向けて手を翳すと、城門の前で爆発が起こり、その勢いで城門が崩れ落ちた。
爆炎と砂煙で遮られた視界が、風に吹かれて少しずつ晴れていく。
長きに渡り滞在したこの国での生活も、これでようやく終わりを告げる。
少しだけ感傷に浸りながら、視界が開けるのを待っていた。
その視界の開けた先に彼女がいるなど、誰が予想できただろうか……。
「お、にい、ちゃん……」
ようやく開けた視界の先に、会いたいと待ち焦がれた少女の姿があった。
ようやく出会えたのだ。泣いて喜びたい、彼女を胸の中に抱きしめ怒りたい、謝りたい、笑い合いたい。
だが、自分が手にしている物は何だ……。
「エリアル・ヴァルドレア……」
アカネが不意にその名を口にする。妹もまた、この男の所業を知っているのだ。
彼女と視線を合わすことができずに、自分が手にする物に視線を落としていると、突然意識に直接話しかけるように、べリアルの声が脳に響き渡る。
『目の前の女を殺せ。その女も『資質持ち』だ』
その言葉を聞き、レイは慌てて彼女と視線を交わす。
一体自分はどんな表情をしているのだろうか。アカネはとても心配そうな表情を浮かべながら、言葉を失ったまま、ただこちらを眺めている。
そんなことがあるはずがない。どうしてアカネが『資質持ち』なのだ。そんなの、あんまりではないか。
『何を戸惑っている。目の前の女を殺せ』
『黙れっ!!』
心の中で悪魔の声を無理矢理に遮る。こちらの意図を察したのか、悪魔は執拗に迫ることはなく、大人しく鳴りを潜める。
彼女は自分が恨む神に魅入られたということなのか。そしてそれは、妹が自分の殺さなければならない対照になったというではないのか。
自分の思考が追いつかない。それでも、一つだけわかっていることがある。自分は妹を……。
「どうしてお前がここにいる?」
「えっ……?」
彼女はこの言葉をどう思うだろうか。この声音を聞き、この姿を見て何を思うのだろうか。
願わくは、彼女が自分のことを忘れて、幸せに過ごしていってくれることを……。
「お前がいなくなって、ようやく俺はお前という枷から解放されたというのに、どうして戻ってきた」
本当はこんなことを言いたくはない。それでもこうするしかない。こうすることが一番なのだ。
「俺はお前が大嫌いだ。力もない、知識もない。ならば黙って護られていればいいものを、偉そうに強くならなくていいなどと宣う。何様のつもりだ?」
嫌だ、嫌だ、嫌だ……。
本当は抱きしめたいんだ。本当は謝りたいんだ。
でもこうするしかないじゃないか。だって、彼女が自分と一緒にいれば、自分の中に巣くう悪魔に……。
「お前のような自分勝手な奴が俺は一番嫌いだ。どうせなら、奴隷になって俺の目の前から消えてくれればよかったものを……」
ならばいっそのこと、自分のことを嫌ってくれ。そして、自分のことを忘れてくれ。そうしてくれれば、自分の思いは少しでも救われる。
だってこの力は、彼女の幸せを願って手に入れた物なのだから。
「何、言って……?」
訳がわからないと言うように、アカネが哀しい表情を浮かべて問い掛ける。
当たり前だ。自分だって、自分が何を言っているのかわからない。
そんな表情をしないでくれ。彼女がまだ自分のことを思ってくれているのだと、嫌でも伝わってくる。
こいつがいなければ、こんなことになることはなかったんだ。俺が力を求めて、彼女を殺さなければならない呪いに掛かることは……。
レイは凄まじい怒りを込めて、手に携えていた首を地面に向けて投げつけた。
そして、溢れ出しそうになる涙を必死に堪えて、震えそうになる声を必死に抑えて、妹に向けて言い放つ。
「早く俺の目の前から消えろ。目障りだ」
もう、彼女の姿を見ることができるのも最後になるのだろうか。ならば素直な気持ちを伝えたいな。『大好き』だと『愛している』と伝えたいな。
あんなこと言ってごめん。本当は、お前の気持ちも伝わっているから。そう言いたいな。
想いは溢れて止まらない。優しい言葉ばかりが頭を過る。それでも……。
「そしてもう二度と、俺の目の前に現れるな」
はっきりと拒絶した。ここで、全てを断ち切る為に。
その言葉を最後に、レイはアカネに背を向けて立ち去る。その眼から溢れんばかりの涙を流しながら。
『いずれ、殺すことになるのだぞ』
それから数時間後べリアルはようやく落ち着いたレイに声を掛ける。
「わかっている。それでも、俺はエリアルを殺した。だから、次の資質持ちを殺すまでは時間があるだろ」
彼は六度月が満ちるまでと言った。ならば、あそこで急いで彼女を殺す必要はない。
もし、彼女を殺さなければならないとしても、彼女を殺すのは最後だ。今はまだ、その時ではない。
『無駄なことは考えるな。我が契約は資質持ちを全て殺すこと。それが、妹だったとしても』
「ああ、わかっている」
『わかっているのならそれでいい。レイ・クロスフォードよ』
そうだとしても、先の見えない真っ暗な道だったとしても、その先にある一筋の光を求めて、レイは歩き出す覚悟を決める。
「いや、俺はその名を捨てる」
そう、それはアカネの兄の名だ。彼女を拒絶した自分に、その名を語る資格はない。
それでもこの名を選んだのは、彼女への未練なのかもしれない。自分に残された、彼女との最後の繋がりだから……。
「俺の名は『シロガネ』。悪魔の契約者『神喰い』だ」
その名を捨てて、悪魔に身を売り、それでも彼は修羅の道を行く。